「ん……」
机の上で読んでいた革表紙の本を閉じ、椅子に座ったまま、僕は軽く伸びをした。
ふう、と息をつき、読書で疲れた目を軽くこすっていると、
「ぐがー、ぐがー……」
後ろから、何やらいびきが聞こえる。
振り向いてベッドの方を見てみれば、ビィが丸まって、気持ちよさそうに寝息を立てていた。
「なんだ、寝ちゃったのか」
全然気が付かなかった。
アルタイルから借りた本に夢中になっていたら、いつの間にか就寝の時間になっていたのだろうか。
と、思って時計を見れば、
(あれ、まだこんな時間か)
それなりに遅い時間だけど、まだ寝るには早い。
そんな時間だった。
「ぐあー、ぐあー……」
まぁ、こいつはぐっすり眠っているけど。
僕の方は、読書の後で少々目が疲れてはいるけど、眠いというわけではない。
(……なにしようかな?)
この本はとても面白かったけど、たった今読み終えてしまった。
これは明日アルタイルに返すとして、次は、何か自前の本でも読もうかな?
そう言えば、前に買ったけど読まないまま本棚にしまっていた本があったはずだ。
と、椅子から立ち上がろうとして。
ふと、
(……あ)
本当に、ふと、
(ルリア、今どうしてるかな)
そう思った。
「……」
立ち上がるのをやめて、僕はそのまま少し、ぼんやりと天井を見上げる。
どうして、いきなりルリアのことが気になったのだろう。
少し考えてみようとして、
(……いいか、理由なんて)
その思考にあまり意味がない事に気付き、ちら、ともう一度時計を確認してみる。
それなりに遅い時間だけど、まだ寝るには早い。
そんな時間。
(まだ、起きてるかな?)
なんだか、顔を見たくなった。
とは言え、ルリアとは夕食が終わるまで、今日はほぼずっと一緒にいた。
それに、明日にも明後日にも、この先もずっと、一緒にいるんだけど。
でも。今、僕はルリアに会いに行きたい。
理由はない。ただ、会いたい。
そう思った。
「ぐー、ぐー……」
相変わらずいびきをかいているビィを起こさないように、僕は静かに椅子を引いて立ち上がる。
ランプの灯りを消して部屋を真っ暗にして、そろそろとドアの前まで行くと、
「むにゃむにゃ、もう食べられないぜぇ……」
何やら後方のベッドから、よく耳にするけど実際は全然聞かない寝言が聞こえてきた。
「ほんとにこんな寝言いう奴は初めて見たなぁ……」
小声で突っ込んで、僕は静かにドアを開け、廊下に出た。
◆
ルリアの部屋は、僕とビィの部屋からそれほど離れているわけではない。
グランサイファーの廊下を少し歩いて、すぐに辿り着いた。
その部屋のドアの隙間からは灯りが漏れていて、どうやら寝ているわけではなさそうだった。
良かった、と思いつつも、
(き、緊張する……)
慣れない行為に、胸がドキドキする。
(し、仕方ないじゃないか。慣れていないんだから。こういうことに)
……なんて、僕は誰に言い訳しているのか。
しかし、いつまでも部屋の前に突っ立っているわけにも行かない。
僕は緊張を胸に、
――コンコン
控えめに二回、ドアを叩いた。
すぐに、
「はーい?」
ドア越しに、ルリアの声が聞こえる。
よく通る、透き通るような声。
「あ……ルリア?僕だけど、今、大丈夫かな?」
ドア越しに、僕であることを伝える。
「あ、グラン?どうしました?」
「ん……いや、特に用ってわけじゃないんだけど」
心臓がまた高鳴り、なんとか緊張を声に出さないようにして、
「その、ルリアの顔が、ちょっと見たくなって」
来た理由を、僕はそのまま言った。
「えっ……」
驚いたような声。
「あ、その」
嫌だったかな?ダメだったかな?
と、不安を感じる前に、
「……ふふっ」
嬉しそうな笑い声が聞こえて、
「わかりました。今、あけますね」
かちゃ、と静かにドアが開く。
部屋の内側に、遮っていたものが移動する。
そして、
「……あ」
綺麗で可愛い小さな顔。
蒼く長く美しい髪。
白く透き通るワンピース。
いつも見ているはずのその姿が、いつも見ているはずの姿ではないように見えた。
本当に、綺麗だった。
胸が、さっきとは比較にならないほど高鳴って、
「……こ、こんばんは、ルリア」
何やら僕はよくわからないことを口走っていた。
いや、確かに挨拶は大事だけど、それよりもっと他に何かあるだろう。
でも、
「こんばんは、グラン」
ルリアが微笑んで、そう返してくれた。
その頬は、ほのかに染まっているように見えた。
見えただけで、僕の気のせいかもしれない。
でも、僕の頬も染まっていただろうから、多分気のせいではないんじゃないかな、と思った。
「ええと、その」
「はい?」
「お、お邪魔しても、いいかな?」
なんとも情けなく赤くなりながらそう言うと、くす、とルリアが笑って、
「グランは、お邪魔なんかじゃないですよ?」
そう言ってくれた。
◆
やわらかい、ルリアのベッドの上。
部屋に入れてもらった僕は、ルリアと並んで腰かけている。
特に示し合わせたわけではなく、自然とこうなっていた。
「でも、びっくりしました」
と、ルリアが僕の顔を覗くようにして見ながら言う。
「私の顔を見たくなった、って。急にどうしちゃったんですか?」
ご飯の後、おやすみなさい、って言って別れたのに。
と、からかうようにルリアが笑う。
「あ、ご、ごめん。ほんとに、全然理由はなくてさ」
その、と僕は口ごもりながら、
「ただ、ルリアに会いたくなったんだ。……それだけ、なんだけど」
「それだけですか?」
「うん」
「今日も夕ごはんまで、私たちはずっと一緒にいたんですよ?」
「うん、そうだったね」
「それに、明日も、明後日も、この先も、私たちはずっと一緒にいるんですよ?」
「……そうだね。でも」
「でも?」
「でも、会いたいって思ったんだ」
「いま?」
「うん、今。本当にそれだけで、他の理由はないんだけど……」
我ながら、妙なことを言っている気がするけど。
でも、本当にそうなんだから仕方がない。
理由なんて、何もない。
ただ、一緒にいたいと思った。それだけだった。
「ふふ」
と、ルリアが笑う。
「……ごめん。ダメ、だったかな?」
「ううん」
ルリアが、僕の体に肩を寄せて、
「うれしい。すごく」
そう言ってくれた。
触れ合った肩から、ルリアの温もりを感じる。
「そっか。良かった」
ほっとして、僕はため息をつく。
「よかった?」
何がですか?とルリア。
「嬉しいって言ってくれて。……安心した」
もし拒まれたら、もし嫌だと言われたらどうしようかと、実の所は思っていた。
そんな人を傷つけるようなこと、ルリアはしないって信じてるけど。
「……グラン」
「……ん?」
「私、本当にうれしいんです」
ルリアが、肩を寄せたまま目をつぶって、
「グランが、なんの用も理由もなく、私に会いたいって思ってくれたのが……」
優しく微笑んで、
「それに、さっき言ったじゃないですか。グランは、お邪魔なんかじゃない、って」
そう、言ってくれた。
「ルリア……」
ありがとう。
と、その華奢な肩を、少しだけ、左手で抱いた。
暖かい。
触れた箇所が、心が、総てが暖かい。
(……裏切らない)
僕は、そう思った。
(何があっても、僕は絶対に、この子を裏切らない)
小さな肩を抱きながら、僕はそう誓った。
「グラン?どうしました?」
ルリアが少し首をかしげて、僕を見る。
今誓ったことは、いつかちゃんと言う。
けど、今言うことではない気がする。
「ん……なんでもないよ」
なのでそう言うと、
「ふふふっ」
と、ルリアが突然おかしそうに笑い始める。
それはとても面白いことがあった時にするような笑いで、
「ど、どうしたの?」
そんなに笑うような面白いことは言ってないと思うんだけど。
「今の、ん……ってやつ。エッセルさんみたいでした」
すると唐突に、彼女の名前が出てきた。
「エッセル……?あ、ああ」
エッセル。
十天衆の一人。
たしかに、彼女はよく、
「ん……」
って、言葉の最初に言うけど。
「そ、そうだった?」
別に彼女を意識してそう言ったわけではないんだけど。
あと、そこまで笑うほど面白いことでもない気がするんだけど。
でも、
「そうでしたよ。そっくりでした」
くすくす、とまだルリアは笑っている。
「そ、そんなに面白い?」
「はい」
そう言ったルリアの笑顔は、本当に楽しそうだった。
楽しそうなのはいいんだけど、
「ん……よくわからないなぁ」
と、正直なことを言うと、
「あ。ほら、また」
「あ」
言われて気づいた。
今しがた笑われたばかりだというのに、またエッセルみたいな事を言ってしまった。
……わざとじゃないんだけど。本当に。
「ふふふ、そっくり」
そしてまた笑われてしまう。
そっくりって、まぁたしかに彼女の口癖だけどさ。
でも、僕がエッセルにそっくりだなんて、もし弟のカトルが聞いたらなんて思うだろう。
何となくそう考えて、
(……殺されるかもしれない)
すぐさまその恐ろしい仮定を考えるのをやめた。
「ねえ、グラン」
僕の戦慄を癒やしてくれるかのように、
「私、お話したいです」
ルリアが、穏やかにそう言った。
「ん……いいよ」
拒む理由なんて、何一つない。
……って、
「……あ」
またやってしまった。
気づいたときにはもう遅く、
「あははっ」
またルリアに笑われてしまう。
「うう……」
顔が赤くなる。
さんざん笑われた後なのに、またエッセルみたいなことを言ってしまった。
本当に、本当にわざとじゃないんだけど。
だってなんか、こういう時ってこういう事を言っちゃうんだよ。
「ふふっ」
おかしくてたまらない、と言わんばかりにルリアが笑う。
「そ、そんなにおかしい?」
僕のなんとも言えない気恥ずかしさをよそに、
「……ね、グラン。この前……」
ひとしきり笑った後、ルリアが別の話を始めた。
◆
そうして、少し、色々と話をした。
最近の依頼。最近仲間になった団員。最近行った島。最近あったこと。
これからどこに行くか。明日は何をするか。その先は何をするか。
最近涼しくなってきたこと。今年の夏は短かったこと。
ローアインたちが作る夕食がいつも通りおいしかったこと。
アルタイルから借りた本のこと。
ルリアもアルタイルから本を借りていて、ついさっきまで読んでいたこと。
ビィが、よく耳にするけど実際は全然聞かない寝言を言っていたこと。
多分明日には、今日何を話していたかなんて、ほとんど忘れているだろう。
そのくらい、他愛もなくてどうでもいい会話だったけど。
でも、とても大事で尊い、そんな会話だったと思う。
だって、ルリアは笑っていたし、僕も笑っていたから。
◆
そんな、尊く穏やかな時間が、しばらく流れた。
そして、ある瞬間に、
「……」
「……」
ふ、と会話が途切れた。
お互いに、無言になる。
そして別の話題を出すでもなく、なんとなく、見つめ合う。
「……」
じっと、ルリアが僕を見つめている。
いや、僕が先にルリアを見つめたから、ルリアが僕を見つめ返しているのだろうか。
どっちが先なのかよくわからないけど、とにかく僕らは見つめ合っていた。
(綺麗だな……)
ルリアの顔を見て、そんなことを思っていると、
「グラン」
と、ルリア。
「ん?」
どうしたの?
と、僕が言うか言わないかの内に、
――ぽふ
「……あ」
暖かい。
柔らかい。
甘い匂い。
「……」
きゅ、とルリアが、僕の胸に顔を埋める。
「……い、いきなりだね」
突然のことに少し驚きながら、僕はルリアの背中に、自分の腕をそっと回す。
「だ、だめでしたか……?」
僕の胸の中で、ルリアが不安げに顔を上げる。
「……ごめん。全然、そんなことない」
回した腕に、少し力を込める。
小さく、華奢で、柔らかく、暖かい。
「よかった」
安心したように、ルリアがまた僕の胸に顔を埋める。
すこしくすぐったく、とても心地よかった。
でも、ふと、疑問というか、少し不安な想いが、胸に浮かんだ。
今、ルリアの方から抱きついてきてくれたけど、
(こんな受け身でいいのかな)
と。
言うべきかどうか少し迷ったけど、
「……こういうことってさ」
思ったことは伝えるべきかな、と思った。
「僕の方から、するべきなのかな?」
なにせ、僕はルリア以外の女の子とこういう事の経験がないから。
よく、わからない。
「ん……」
エッセルみたいなことを言ったルリアが、少し考える素振りをして、
「でも、今日はグランの方から来てくれたから」
と言った。
「まあ、一応そうだったけど」
「一応じゃなくて、そうなんです」
「……関係あるかな?それって」
「関係あります。……それに」
と、ルリアは目を細めて、
「私は今、とってもあったかいです。だから、グランはなんにも気にしなくて大丈夫なんです」
僕の腕の中で、そう言った。
「ん……そっか」
またエッセルみたいなことを言ってしまったけど。
今度は、ルリアは笑わなかった。
「ありがとう。僕も、暖かいよ」
そう言って、いつの間にか緩んでいた腕に、また少し力を込める。
「グラン」
「ん?」
「もう一度、言ってくれませんか?」
「さっきの?」
「はい」
「ん……暖かいよ、ルリア」
「ふふ、またエッセルさんだ」
と、ルリアは笑って、
「私も、あったかいです。グラン……」
僕の腕の中。
幸せそうに、ルリアがそう言ってくれた。
僕も同じ幸福を噛み締めながら、
(今度は、僕の方から抱きしめてあげたいな)
そう思った。
そして、もう一つ。
(ずっと、こうしていたいな……)
この、僕を助けてくれた優しい女の子と。
何があろうと、どうなろうと、ずっと、僕はルリアとこうありたい。
ルリアの温もりを感じながら、僕は、そう思った。
「ほんとに、あったかいです……」
「ん……僕も、本当に暖かいよ……」
「……あ。またエッセルさん」
「う、あ、その。……しまった」
「ふふふっ。こりないですね」
「い、いいじゃん。ていうか、ルリアもさっきエッセルになってたよ」
「え?そうでしたか?」
「そうだったよ」
「……ふふっ。覚えてません」
「ず、ずるい」
「ふふふっ」