吾を殺した責任?
「店が多いな」
ノイシュを引き連れて路上を歩きながら、スカーサハは立ち並ぶ店を見やって言った。
大勢の人が往来し、各々がそれぞれに目的を持って歩いている。
「ここはちょうど空路の境目にある島だからな。必然、人が多く行き交う場所になり、こうして店が立ち並ぶようになる」
「何故人が多く行き交うと店が増えるのだ?」
と、不思議そうなスカーサハ。
「商売というのは、人がいる場所でなければ成り立たないだろう?」
ノイシュのその言葉でぴんと来たようで、スカーサハは納得したように頷く。
「そういうことか。人が多ければ多いほど商機が増え、こうして商人が大挙して店を出すようになるのだな」
その言葉に、思わずノイシュは苦笑してしまう。
商機という言葉を知っているのに、人の多い場所に店が多くある理由がなぜわからなかったのだろうか。
スカーサハには、こういう所がある。
人間の社会から離れた世界で一人生きてきたからだろうか、人間の一般的な常識をほとんど知らない。
その癖、妙に語彙はあるのだ。それがなにやらおかしく、そして微笑ましく思う。
そんなスカーサハの妙ちきりんなアンバランスさが、ノイシュは嫌いではなかった。
「さて、本屋はどこにあるのだろうか」
雑踏の中、並んだ店の看板を一つ一つ確認していくノイシュ。
「これだけ大きな町だ。無いほうがおかしいだろう」
そう言いながら、スカーサハも店の看板を一つ一つ確認する。
「本屋に行く。伴をせよ」
と、スカーサハが言い出したのがグランサイファーが休憩のため停泊してすぐの事だった。
談話室でヘルエスとセルエルと共に座って紅茶を飲みながら、ノイシュは不思議に思った。
本屋?何でまた、急に。
「なんだ、欲しい本でもあるのか?」
「これと言った当てはない。が、新しい本が欲しい」
「新しい本?」
スカーサハの言葉がどうにも芯に入らず、ノイシュは言葉をオウム返しにする。
本とスカーサハというのが、ノイシュの中で結びつかない。彼女が読書をしている姿など見たことがない。
「ノイシュ、スカーサハ様の趣味は読書なのですよ」
優雅な仕草で紅茶を飲んでいたヘルエスが口を挟んだ。
「え?」
素の口調で聞き返すノイシュ。
「なんだ、知らなかったのか?」
全く知らなかった。
「……初耳だ」
「私も初めて知りました。意外と知的な趣味がお有りだったのですね」
ヘルエスに負けず劣らずの優雅な仕草で紅茶を飲んでいたセルエルが言った。
「失礼な奴だな」
セルエルの皮肉を軽く流して、
「そういう事だ。さあ、ついて参れ」
そう言ってスカーサハは背中を向け、さっさと歩いていってしまった。
「あ、待て、スカーサハ。全く」
そう言ってノイシュは席を立った。
が、ヘルエスとセルエルは座ったまま、優雅にカップに口をつけている。
「ただの買い物ならば、同伴する者は一人で十分でしょう」
と、ヘルエス。
「そうですね。この島は治安も良いとのことですし、問題も起こらないでしょう」
と、セルエル。
「は、はあ」
そういう事で、ノイシュは一人でスカーサハを追いかけることになった。
(スカーサハの趣味をヘルエス様は知っていたのか)
どんどん先に行くスカーサハを追いかけながら、ノイシュはなんとなくそんな事を思った。
(……私は知らなかったが)
「む、スカーサハ。あれだ」
しばらく歩いた所で、ノイシュは本が開かれたデザインの看板を掲げている店を見つけた。
一般的な本屋の看板である。それを指さして場所を示すと、
「おお、あれか」
スカーサハはそれを見るやいなや、ノイシュを置いてさっさと歩いていってしまう。
「待て、スカーサハ」
人が大勢歩く雑踏の合間を縫うようにして、ノイシュもそれを追いかける。
ノイシュがスカーサハに追いついた頃には、既に彼女は店の中にいた。
それなりに規模の大きい本屋だった。混雑という程ではないが、客もかなり入っている。
小奇麗に清掃された床を、二人で並んで歩く。
多くの本が陳列された棚がいくつも並んでいる。それらを横目に眺めながら、
「で、何が良いんだ?特に当てはないとの事だったが」
「そうだな、小説が良い」
「ああ、なら、ちょうどここだ」
小説、と書かれたプレートが側面に貼られた棚を指差す。
「おお」
感嘆のため息を漏らすスカーサハ。
棚の前に行こうとするスカーサハに、ノイシュは言った。
「スカーサハ。私も、少し本を見ていてもいいだろうか」
「ん?ああ、勝手にしろ」
「ああ。その辺りにいるから、何にするか決まったら声をかけてくれ」
「うむ。さて、少なく見積もっても二百は欲しいな」
二百というのがどうやら買う本の予定数らしい事に気づき、
「……三冊までだ」
スカーサハは心底驚いたような顔をする。
「何故だ」
「そんなに買えるお金は持ち合わせていない」
「お主、そんなに困窮しているのか?」
「……かなりの額を、団長から貰ってはいる」
「なら良いではないか」
「今そんなには持っていないし、そもそも、それとこれとは別だ。だいいち、二百冊など私一人ではとても持ちきれない」
「なんとかしろ」
「ダメだ」
「では、せめて十冊までにしてくれ」
「三冊までだ」
「何でだ」
「何でもだ」
「理不尽だぞ」
「人の世界とは理不尽なのだ。この世界で生きるのなら、そういうことも学ばなければならない」
「答えになっていないぞ」
「あのな、スカーサハ……ん?」
ふと、周りを見れば何やら自分たちを見ている人が大勢いる。
いつのまにやら声が大きくなっていたらしく、注目を集めてしまったようだ。
「……」
「おい、どうした。話はまだ終わっていないぞ」
スカーサハは周りの視線に気づいていない様子である。
はあ、とノイシュはため息をついた。これ以上目立つような事はしたくない。
「……五冊までだ」
「まだ五冊足りん」
「これ以上は譲らない。まだわがままを言うのなら、一冊も買ってやらないぞ」
「……ふん」
渋々、と言った様子でスカーサハは鼻を鳴らし、すたすたと小説の棚の前へと向かっていった。
まったく、と思い、ノイシュもその場を離れた。
遠巻きに自分たちを見ていた人々も、それぞれまた各々の本を探す日常へと戻っていった。
(さて)
自分も本を見たいとは言ったが、考えてみればさして読みたい本の当てがあるわけでもなかった。
それぞれ異なるプレートが貼られたいくつもの棚を、横目に眺めながらなんとなく店の中を歩く。
そしてふと、絵本と書かれたプレートが貼られた棚が目に入り、ノイシュは立ち止まった。
(……)
その棚の前へと足を踏み入れる。
棚には各地の伝承や実話を子供向けにアレンジし、おとぎ話にして絵本という形にした本が並んでいる。
ここに来るのは子供か、子供を持つ親と言った所だろう。
そのどちらでもないノイシュには、普段ならば縁のない棚である。
だが、ふと思い立った。
(あのおとぎ話はあるだろうか)
少し探してみると、目当ての本はあっさりと見つかった。それも何冊か同じ本が並んでいる。
その中から、一冊を手に取った。
表紙には子供向けの絵本らしく、可愛らしい絵が乗っている。
目を細めてそれを眺め、そのままその小さな絵本を手に持ってその場を後にした。
先程スカーサハと一悶着があった小説の棚の横に行くと、スカーサハが本を手に抱えて待っていた。
「遅い」
わざわざここで待っていたのだろうか。
「その辺りにいるから声をかけてくれと言っただろう」
「その辺りとはどの辺りだったのだ。居場所がわからなければ声のかけようがない」
「……それもそうだな」
すまない、と言いながら、ノイシュはスカーサハが抱えている本に目をやり、
「……スカーサハ」
「な、なんだ?」
詰問するような口調のノイシュと、珍しく目を泳がせるスカーサハ。
「私は五冊までと言ったはずだが」
スカーサハの手には明らかに七冊の本があった。
「こ、これは違うぞ」
「なにが違うんだ」
ぐぐ、とうつむくスカーサハ。
「……二冊くらい増えても良いではないか」
「ダメだ」
「固い事を言うな。かつて血で血を洗った仲だろう?」
「かつての私達の関係と、今貴女が約束を違える事に何の関係があるのだ」
「うぐ……」
その中から二冊選んで戻してくるんだ、とノイシュ。
とぼとぼとスカーサハは棚の前に戻っていった。
(まったく)
こうしていると、本当に見た目相応の少女でしかない。
だが、違う。スカーサハは真龍であり、人間とは異なる時間を生き、人間を遥かに超えた力を持つ存在なのだ。
それをよく忘れてしまいがちになるのが、ありがたくもあり、
(あれで、アイルストを護っている真龍なのだからな……)
そして少々恐ろしくもある。
今度はちゃんと五冊の本を抱えて、スカーサハは戻ってきた。
「その五冊でいいんだな?」
「本当は三十冊はあったのだ。それをなんとか絞って七冊にしたというのに」
とても不機嫌そうにぶつぶつと文句を言うスカーサハ。
ふう、とノイシュはため息をつく。
「今度、また機会があったら買いに行こう。今回はそれで我慢するんだ」
「ふん、次の機会などいつになるか……」
ふと、スカーサハの目がノイシュが持っている本に止まった。
今その存在に気づいた様子で、
「なんだ、ノイシュも何か買うのか?」
「ん?ああ」
ちら、とその本を見て、スカーサハは笑った。
「なんだ、子供向けの絵本ではないか」
表紙の可愛らしい絵だけが目に入ったのだろう。
からかうように笑うスカーサハ。
「吾を子供のように扱う癖に、お主こそ子供ではないか」
「……別にいいだろう、私が何を買おうと」
「どれ、子供のノイシュはどんな絵本を買うのだ?」
片手を伸ばして絵本を取ろうとするスカーサハ。
「む……」
思わずノイシュはその手から絵本を遠ざけたが、
(……まあ、良いか)
ノイシュはぴょんぴょんと跳ねて絵本を奪おうとするスカーサハに、その絵本を手渡した。
スカーサハはタイトルを見て、
「……」
表情を変えた。
それは、ノイシュが見たことのないスカーサハの表情だった。
慈しむような、愛おしむような、優しい顔だった。
「……」
スカーサハは何も言わない。
じっと、絵本の表紙を見ている。
「……スカーサハ?」
少々面食らいながら声をかけると、
「ノイシュ」
「な、なんだ?」
「この本はまだあるのか?」
「あ、ああ。もう何冊かあったが」
「どこにある?」
「……この先の、絵本と書かれたプレートが貼ってある棚に……」
「そうか」
そう言うと、スカーサハはノイシュが示した方向に歩いたかと思うと、すぐに振り返って
「ああ、そうだ。これを元の場所に戻しておけ」
手に抱えていた五冊の本をノイシュに渡し、件の絵本は手に持ったまま、すたすたと歩いていった。
あとには、本を五冊抱えたノイシュのみが残された。
帰り道、スカーサハは何も言わなかった。
紙袋に詰められた二冊の本を、ただ大事そうに胸に抱えて歩いていた。
結局、スカーサハが買った本はノイシュが買った絵本と同じ絵本一冊のみだった。
つまり、同じ絵本を二冊買ったことになる。
「同じ本を買うならどちらかだけでいいのではないか?」
とノイシュは言ったが、スカーサハは首を横に振った。
そして、
「一冊だけでいいのか?」
と言うと、スカーサハは静かに頷いた。
最初は二百冊は欲しいと言っていたというのに。五冊までという約束だから、あと四冊は買ってもいいというのに。
いつのまにか、日は沈みかけ町は夕暮れに包まれている。
赤い空の下、そろそろ人通りが少なくなり始めた路上を、二人は艇に向かって歩いた。
艇に戻ると、スカーサハは紙袋を持っていったまま、何も言わずに自分の部屋に籠もってしまった。
夕食の時間には食堂に顔を出したが、その時もあまり喋ることはなかった。
席を共にしていたヘルエスやセルエルが話しかけても、
「ああ」
とか
「うむ」
などと適当な相槌を打つだけだった。
そして足早に食事を済ませると、すぐに席を立ってしまった。
「どうしたのでしょうか」
心配そうにヘルエスが言う。
「ええ、何やらぼんやりしていましたね。珍しいことに」
こちらはあまり心配していない様子でセルエル。
「あのようなスカーサハ様は見たことがありません」
頬に手を当てて考え込むヘルエス。
「……出かけた際に、何かあったのですか?ノイシュ」
セルエルが同席しているノイシュに訊く。
「……いえ、普通に本屋に行って買い物をしただけなのですが」
ノイシュは嘘をついた。
本当はもちろん心当たりがある。
スカーサハの様子が変わったのはあの絵本を見てからだ。
だが、それを言うのは憚られた。
なんとなくだが、それを誰かに言ってはいけないような気がした。
自分の主である、ヘルエスとセルエルに対しても。
「そうですか。とは言え、スカーサハ様も気まぐれなお方。また我々をからかっているおつもりなのかもしれません」
「……明日になっても同じご様子なら、何かあったのか訊いてみましょう」
「そうですね、姉上」
二人の会話を聞きながら、スカーサハがあの紙袋を食堂に持ってきていなかったことにノイシュは気づいた。
夕食が終わり、各々自室に戻る流れになった。
ノイシュもその流れにあわせる形で自室に戻ると、
「遅い」
スカーサハがいた。ベッドに腰掛けている。
その胸に、あの絵本を大事そうに抱えている。
紙袋には入っておらず、その可愛らしい絵の表紙とタイトルが、スカーサハの腕の隙間からわずかに見える。
そして、スカーサハが持っているのは一冊だけだった。
「……鍵はかけておいたはずなんだが」
「合鍵を持っているからな」
「……初耳だぞ」
「団長から貰ったのだ」
「どうなっているのだこの艇の保安は」
「細かいことを気にするな」
それより、とスカーサハ。
「こっちに来い。やってもらいたい事がある」
手招きするスカーサハ。
言われるまま、ノイシュはスカーサハの隣りに座った。
ぎし、とベッドのスプリングがきしむ音がした。
「……スカーサハ、その」
「この絵本を吾に読み聞かせよ」
ノイシュが何か言う前に、スカーサハが言った。
胸に抱えた絵本を手に持って、ノイシュに差し出してくる。
「なんだって?」
「二度も言わせるな。この絵本を吾に読み聞かせよ」
ずい、と今度は絵本を押し付けるようにしてくるスカーサハ。
それに押される形でノイシュは絵本を受け取り、
「読み聞かせ?」
「ああ」
「この位、いくらなんでも自分で読めるだろう」
「馬鹿にするな。この程度読めぬ訳がないだろう」
「それなら」
「ノイシュの声で聞きたいのだ」
「え?」
「吾はこの物語を知らぬ」
「……」
「そして、まだ吾はこの絵本を読んでいない。頁を開いてもいない」
「……」
「吾はこの物語を知りたい。悲劇だろうが喜劇だろうが、どんな物語でも構わない。だが」
スカーサハの琥珀色の瞳が、じっとノイシュを見つめた。
「これを一番最初に吾に聞かせるのは、ノイシュでなくては駄目なのだ」
「……スカー、サハ……」
無意識に、ノイシュは絵本の表紙を撫でた。つるつるした感触が指に伝わる。
「それはお主の物だ」
「……ああ」
「もう一冊は吾の部屋にある」
「……スカーサハ」
「精々、大事にしてやる。ありがたく思え」
「……」
「どうした?」
「……スカーサハ」
「なんだ?」
「もう一度、言ってくれないか……?」
「大事にする。ずっと、ずっとな」
「……ありがとう……」
「ふん」
「どうして……?」
「ん?」
「……私は……ディアドラを……貴女を……」
「そんな事より、いつまで待たせるつもりだ?」
ほとんどくっつくような距離まで、スカーサハがノイシュの横ににじりよる。
ちょうど、子供が親に本を読んでもらう時にするような体勢だ。
暫くの間、静寂があった。
そして、ノイシュが言った。
「……スカーサハ。言っておくが、私は読み聞かせなどしたことがない」
「だろうな」
「下手だの何だの、言うのは無しだぞ」
「わかっている」
すぐ横に在るスカーサハが、覗き込むようにじっとノイシュの手元の絵本を見つめる。
軽く咳払いをして、ノイシュは一ページ目をゆっくりと開いた。
「……ここではないどこか。かげの国とよばれる国に、ひとりの女王がいました」