魔ガ散ロウトモ散ラズトモ
その日、俺の病は特に酷かった。
惨憺たる有様となった部屋で、俺は傷だらけのベッドに横になっていた。
「……ごめんなさい、師匠。また、めいわくを……」
師匠に拾ってもらってまだ間もない頃、俺が年端も行かぬ子供だった時の事である。
後に魔暴症という名前が判明したこの病は、物心ついたときから俺の体を蝕み、そしてこの日は最悪だったと言っていい。
日も昇らぬ内から獣のような叫び声を上げ、部屋中をのたうち回り、床という床、壁という壁、家具という家具に引っかき傷を付けまくった。
爪が裂け、血が吹き出てもそれをやめることはできなかった。
慌てて部屋に入ってきた師匠が暴れる俺の体を押さえつけようとして、俺はそれを跳ね除けるばかりか、俺は苦痛に悶えるままわけもわからず師匠の顔にも引っかき傷を付けた。
「ゼヘクの癖に生意気な事を言う。お主がこのわらわに迷惑をかけられる程の身分にあると思っているのか?」
俺の横でこれまた傷だらけになった椅子に座って、師匠が言った。
師匠がなんとか落ち着かせようと薬草を投与するも効果はなく、俺はまたのたうちまわる。
非常手段で師匠が俺を気絶させようと軽い魔力を放ち、一旦は意識が途切れるも、また痛みですぐに目が覚める。
この日はそれの繰り返しだった。
そんな不毛な時間を繰り返し、俺がやっと落ち着いたと言える状態になったのは、もう日付が変わろうかという時間だった。
「でも、師匠の顔が」
師匠の頬にある生々しい引っかき傷を見て、俺は言った。
師匠は美に拘る。
俺には用途もわからぬ妙な匂いのする化粧品だとか、その手の美容品を大量に集めている。
そんな美を求めて止まない師匠の顔に、俺は醜い傷を付けたのだ。
「ゼヘク、わらわを舐めておるのか?お主がつける程度の傷が、この大魔法使いマイシェラに治せぬとでも?」
師匠はこう言ったが、その傷はしばらく残った。
恐らく、引っ掻いた爪に暴走した俺の魔力が迸っていて、そのせいで癒えるのが遅れたのだろう。
今、その傷は跡形もない。完全に癒えたのか、それともまだ傷痕は残っており、例の化粧品で隠しているのか。
申し訳無さと怖さで、そのどちらなのかを未だに俺は聞く事ができない。
俺は昔から、師匠に迷惑をかけっぱなしだった。
「次は、別の薬草を試してみよう。焦ることはない」
師匠は話題を変えた。
まだ師匠も俺の病への対処がわかりかねていた頃なのだろう。
あの時は、今師匠が作ってくれているような、いくらか症状を和らげるような薬草もなかった。
「……ごめんなさい」
俺は再び師匠に謝った。
当時の俺には、ただ謝るくらいの事しかできなかった。
「弟子は師匠に迷惑をかけるものだ。と言っても、この程度迷惑の域にはないがな」
爪痕だらけの部屋で、赤い引っかき傷を頬に付けて、師匠はいつものからかうような口調で言う。
俺は師匠を見ることができず、傷だらけのベッドで布団を頭まで深く被った。
そして布団を被ったまま、俺は言った。
それは言ったというよりも、言葉をぶつけたという表現の方が正しいだろう。
「どうして、おれはこんな体なのですか?」
ちょっとした事で発作が起き、まともな生活もままならない。
不満、嘆き、憤り……俺の内に溜まりに溜まった負の感情が、抑え切れなかった。
それは、内に溜まった魔力を抑えきれずに悶え苦しむ醜い姿よりも、ある意味ではよっぽど醜い姿だったろう。
「今日も、おれは師匠にめいわくをかけました。どうして、おれは師匠の役に立てないのですか?」
「……」
布団を被っていた俺には、師匠がこの時どんな表情をしていたのかはわからない。
多分、悲しい顔をしていたと思う。申し訳ないことをしてしまった、と思う。
「おれはずっとこのままなのですか?」
「おれはずっとふつうの生活ができないのですか?」
「元気そうに外を走り回る男の子を見たことがあります」
「おれと同じくらいでした」
「どうして、おれはあんな風に走り回ることができないのですか?」
そういった呪詛を、俺は延々と師匠にぶつけた。
師匠はただ黙っていた。
そして、その最後に俺は言った。
「師匠。どうして、おれだけがこんなに」
苦しまなければならないのですか?
そう続けようとした言葉は、声にならなかった。
素早い動きで俺の顔を覆う布団をめくった師匠が、俺の口を塞いだからだ。
「ゼヘク。それ以上は言ってはならぬ」
普段何があろうと意地悪くからかうような口調を絶やさない師匠が、初めて俺に真剣な声で言った。
俺は師匠の顔を見た。頬には引っかき傷があった。
「今、確かにお主は地獄の中にいる。その病がもたらす苦しみは、わらわには想像しかできぬ」
師匠の手がゆっくりと離れた。
俺は黙って、師匠の言葉の続きを待った。
「だがな、ゼヘク。病があろうとなかろうと、そもそも生きるとは、地獄なのだ」
今思えば、まだ年端もいかぬ子供だった俺に何ということを言うのだ、と思わないでもない。
「お主が羨んだ走り回る少年も、このわらわも、地獄の中にいる」
「……師匠もですか?」
奔放に生きている師匠もそうなのか。
とてもそうは見えないというのに。
「そうだ。生きとし生けるもの、皆苦しみ、皆地獄の中にいる。例外はない」
……本当に、あの自由気ままな師匠も地獄の中にいるのだろうか。
少々疑問はあったが、俺はそのまま黙っていた。
「とは言え、ゼヘク。お主がいる地獄は、確かに常人がいる地獄とは比べ物にならぬ地獄だろう」
だが、と師匠は続けた。
「自分だけが苦しんでいる。自分だけが地獄にいる。そう思うのはやめてくれ」
師匠の琥珀色の瞳が、俺をじっと見る。
「その思考の行き着く先にあるのは、世界を憎み、呪う道だけ」
俺も師匠の顔をじっと見る。
「それは地獄だ。それこそが、本当の地獄だ。今お主がいる地獄とは比べ物にならぬ地獄だ」
当時の俺に理解できたのは、
「……おれだけが、苦しんでいるわけではないのですね」
その位だった。
「ああ。それがわかれば良い」
そう言って、師匠は俺の頭を優しく撫でた。
なんだか心地よくなって、そのまま俺は眠った。
師匠からは正直ろくな目に合わされない事の方が多かった気がするが、この日の事はよく覚えている。
東方の地での旅を終えて、結局、俺の病は完治には至らなかった。
だが、俺は生きる。死なない限りは生き続ける。そして、この病と戦い続ける。
アイツが最後に見せてくれた夢ではない、本当に、草原を静かに歩く日を夢見て。