くゆる煙が蒼空に溶けていくのを、ラカムはのんびりと眺めていた。
指先に挟んだ細い紙巻き煙草の先端で、灰を被った穂先が小さく燃えている。
昼間の明るい空の下では、この小さな炎はあまり目立たない。
だが、夜の暗い空の下では、この燃える穂先は赤く輝き、夜闇をほんの僅かに照らす。
(そいつが、また奇麗なんだよな)
と、ラカムは陽光が穏やかに差すグランサイファーの甲板で、縁に背中を預けながら、なんとなくそんなことを思う。
春先である。気候は快晴、かつ安定。
立て込んでいた物資輸送の依頼がようやく全て片付いたのが、昨日の夕方の事。
明日は物資の補給とグランサイファーの整備のため近場の島に停泊して、その後はそのまま出航せずに一日お休みにしよう、と決まったのが昨日の夜。
件の島に到着し、物資の補給と艇の整備が終わったのが今日の午前中。
そして甲板でラカムが煙草をふかし始めたのが、昼食を終えて午後を回ったついさっきの事である。
今日はもう艇を出す予定はないので、整備を終えたラカムにはこの後の仕事はない。
なので、彼は最愛の艇の上で、一人憩いのひとときを過ごしていた。
甲板には、今の所ラカムの他には誰もいない。
仲間と過ごす時間も良いものだが、
(こうして、一人でのんびり一服するのも悪くねぇな)
そんな風に、彼は思った。
そうして、咥えた煙草が半分ほどの短さになった頃、
「あれ」
と、よく聞き覚えのある声が甲板に響いた。
あどけなく、だが一人の人間としての自信にも満ちているような、そんな少年の声。
「ラカム、ここにいたんだ」
そして、その少年は一人ではなく、
「お疲れさまです、ラカム。お部屋で休んでるのかと思ってました。この所ずっと、輸送のお仕事がずいぶん忙しかったから」
蒼い髪を美しく伸ばした少女と、
「一番がんばってたのは操舵士のラカムだったよなぁ。大丈夫か?疲れてねぇか?」
トカゲのような、赤い小さな生き物と一緒にいる。
「おう、お前らか」
片手を軽く上げて、こちらにむかって歩いてくる三人に会釈するラカム。
「別に疲れちゃいねぇよ。この程度で疲れたなんて言ってたら、操舵士なんざ勤まらねえさ」
と、微風が心地よく吹く甲板の上で、ラカムは答える。
「ほんと?」
と、心配そうにグランが言う。
輸送の仕事が忙しかったとルリアは言ったが、その仕事にかかった日数はおよそ十日程。
その間、ラカムは寝ている時間以外は、ほとんど常にグランサイファーの舵を握っていた。
物資輸送の依頼がここまで立て込むことは通常ないのだが、急を要するという依頼がいくつも重なり、またその案件が長距離航空をしなければならないものばかりだったので、こんな状況になってしまった。
今回一番無理をしたのはラカムで、そしてその無理をさせたのは、安易に依頼を受けた自分だった。
と、グランは気にしていたのだ。
「心配すんな、本当に疲れちゃいねぇよ。それに、俺にとっちゃこの艇を動かすのはもう生活の一部みたいなもんだ。だから、疲れなんざそもそもさして感じないさ」
あっけらかんと、ラカムが言った。
「生活の一部?」
と、ルリアが首をかしげる。
「顔を洗ったり、歯を磨いたり……そういういつもやることに、いちいち疲れただのなんだの言わねえだろ?それと同じさ」
ラカムがそう言うと、
「ははっ、なるほどなぁ。ラカムにとっちゃ、グランサイファーの操縦はもう当たり前にやってることなんだな!」
と、ビィが納得したように笑う。
「ま、顔を洗ったり、歯を磨いたり、ってのよりは、俺にとってこいつは特別だがな」
と、ラカムは甲板の縁を、煙草を持っていない方の手で愛おしそうに撫でる。
「ラカム……」
その姿を、とても尊いものを見るように、目を細めて見つめるルリア。
「……今後は、こういうのは無いようにするよ。緊急だって言っても、受ける依頼はちゃんと選んで、航空に無理が出ないようにする」
神妙な顔をしていたグランが、話題を戻した。
「なんだよ、だから大丈夫だって言ってんだろ?」
そう言って笑うラカムの顔は、確かにいつも通りの様子だった。
だが、
「ラカムが大丈夫でも、僕が心配なんだ。それに」
と、グランは甲板の縁を、先のラカムと同じような手つきで撫で、
「このグランサイファーにも、あまり無理をさせたくないしね」
そう言うと、
「……そうか、そうだな」
ラカムは静かに頷いた。
「ところで」
と、ラカムが話題を変える。
「お前らはなにしてんだ?いつもみたいに、島に遊びに行かねぇのか?」
今日はもう休みなんだろ?
と、あと一口吸えるかどうかの短さになった煙草を咥えて、ラカムが尋ねる。
「うーん、そうだなぁ」
と、三人は頭上を少し仰ぎ見る。
抜けるような蒼空。
穏やかな陽光。
優しく吹く風。
暖かい空気。
「なんか、今日は島に降りなくてもいいんじゃない?」
「はい。たまには、艇でのんびりしましょうよ」
「ま、こういうのもいいもんだよなぁ」
と、のんびりした様子で三人は答えた。
「そうかい」
微笑しながら、ラカムは最後の一口を吸い、紫煙を蒼空に溶かす。
吸えなくなったそれを自前の携帯灰皿に押し付け、もう一本の煙草を取り出す。
それを咥え、マッチを擦って火を灯し、穂先を炙りながら、ゆっくりと吸う。
煙が喉と肺を満たし、何とも言えぬ心地になりながら、またゆっくりと煙を空に向かって吐く。
「ラカムってさ」
と、ラカムの所作をじっと見ていたグランが口を開き、
「いつも吸ってるよね、それ」
ラカムの指先にある煙草を見ながら言う。
「ん?ああ、まあな」
そうラカムが相槌を打つと、
「それってさ、おいしいの?」
と、グランが訊いてくる。
ラカムは少し考え、
「んー、そうだな。おいしいってのは、ちっと違うな」
そう答えると、
「え?美味しくないんですか?」
ルリアが意外そうな顔をする。
「ああ。むしろ単純な味の話だけをするなら……そうだな、マズいとも言える」
「え、そうなの?」
と、グラン。
「ええー?いつも、あんなに美味しそうに吸ってるのに?」
と、ルリア。
「マズイなら、なんでそんなもん吸ってんだぁ?」
と、ビィ。
「そうだな……」
なんと答えたものか、とラカムは少し考え、
「こいつを吸うとな、落ち着くんだ」
「落ち着く?」
「ああ」
火を灯した煙草の煙を肺まで吸い込み、そして静かに吐き出す。
すると、なんとも言えない豊かな味と香りが広がる。
その煙の味は、苦み走っていて確かに美味くはない。
だが、その苦味は心を満たし、落ち着かせてくれる。
「だから、俺はこいつを吸ってるんだろうな」
「へえ……」
興味深げに、ラカムの説明にため息をつくグラン。
「ま、大人の嗜好品ってやつだ」
そう言って、ラカムは再び煙草を口に咥える。
「ふーん。でもそれなら、オイラ達にはまだまだ縁のないもんだよなぁ」
「はは、そうだな。お前らには、こいつの味を知るにはまだまだ早いな」
別に知らなくてもいいもんだけどよ。
と、付け足すラカム。
「多分、私は大人になってもずっと知らない味な気がします。苦いの、あんまり好きじゃないですし」
「そりゃわかんねぇぜ、ルリアちゃんよ」
「え?そうですか?」
「子供の頃は苦いのが嫌いでも、大人になったら何故か苦いのが好きになった、ってのはよくある話だ。案外、ルリアちゃんみたいな子がヘビースモーカーになったりしてな」
と、笑うラカム。
「えー?そんなことないですってー」
と、ルリアも笑い、
「タバコを吸うルリアかぁ……ははっ、想像もつかねぇなぁ」
ビィも楽しそうに笑う。
そして、
「……」
何やら一点を見つめ、グランは黙り込んでいる。
「?どうしたんだぁ?グラン」
それに気づいたビィが声をかけると、
「あ、いや、その」
若干慌てたように口ごもるグラン。
その視線の先には、ラカムの指先。
紫煙くゆらす煙草を、少年はさっきからじっと見つめていた。
「なんだ、グラン。こいつに興味があるのか?」
気付いたラカムが、単刀直入に言う。
「う、うん、まあ」
そうグランが頷くと、
「グラン、ダメですよ。たばこは二十歳になってから、です」
と、すぐさま咎めるような口調でルリアが言う。
「わ、わかってるよ。吸わせてなんて言わないって。でも、ちょっと興味があるっていうか、憧れるっていうか……」
頭をポリポリと掻きながら、若干頬を赤くするグラン。
「へえ、お前、そういう所もあったんだなぁ」
と、何やら感心したような様子のビィ。
「なにさ、どういう意味だよ」
「根っからのお人よしかと思ってたら、タバコに憧れるような不良っぽい所もあったんだな、ってよ」
そう言って、からかうように笑うビィ。
「う、うるさいな。そもそも僕は別にお人よしなんかじゃないし」
別にいいだろ、とちょっと拗ねるような声を出すグラン。
「私も、ちょっと意外です。優しい人だと思ってたけど、グランって、意外とひこう少年だったんですねー」
からかうように、ルリアも笑う。
「なんだよ、ルリアまで」
と、グランが唇を尖らせる。
そのやり取りを見て、
「まあ、そう言ってやるなよ二人とも。男なら誰でも、一度は煙草ってやつに憧れを抱くもんさ」
と笑いながら、ラカムが煙草の灰を携帯灰皿に落としながら言う。
「え?男の人って、みんなたばこに憧れるんですか?」
「ま、全員がそうだとは言わねえがな。大体の男は通る道さ」
「へえー、男の人って不思議なんですね。私は憧れたことなんてないのに」
「とは言え」
と、ラカムは煙を吐き出し、
「こいつは、お前さんが自分の体に自分で責任を持てるような歳になってからだな」
ラカムがグランに向かって言う。
「わかってるよ、もう」
頭をぽりぽりと掻くグラン。
「なら、グランは大人になったらたばこを吸うつもりなんですか?」
とルリアに訊かれ、うーん、とグランは少し考える素振りをして、
「確かに、ちょっと興味はあるけどさ。大人になったら本当に吸うかどうかって言われると」
その時にならないとわからないや、と言った。
「やめといた方がいいんじゃねぇのか?体にも悪いって聞くぜ?」
と、ビィ。
「まあな。さっきも言ったが、吸わねぇでいいなら吸わない方がいいさ」
と、ラカム。
「体に悪いし、こいつの煙と匂いを嫌がる奴も少なくないからな」
若干寂しそうな顔をしながら、ラカムはいつの間にか短くなっていた煙草を吸う。
「うーん、でも」
と、ルリア。
「私は、ラカムのたばこは好きです。お店とか町中にある喫煙所なんかは、正直あんまり近づきたくないって思っちゃうんですけど」
「お、そうかい?ありがとよ」
嬉しそうな顔をするラカム。
「そうだなぁ。オイラも、ラカムのタバコは嫌いじゃねぇな」
「うん、僕も気にならない」
「へえ、そうかい?別に匂いの少ない銘柄を選んでるわけじゃねぇんだが」
「ふーん。なら、なんでだろうなぁ」
「あ、それなら」
と、
「みんな、ラカムのことが好きだからですよ。だから、ラカムのたばこも好きなんです」
笑顔でルリアが言った。
「はは、そうだな!」
と、ビィも笑い。
「うん、きっとそうだよ」
と、グランも笑った。
ラカムは微笑して、
「おいおい、俺をおだてても何にも出ないぜ?」
それとも、と今度は不敵な笑みを作り、
「そうやって乗せておいて、いざって時にはまた延々舵を握らせようって魂胆か?」
「そ、そんなことないって!」
と、必死に言うグラン。
「ははは、冗談だよ」
そう言って、ラカムは携帯灰皿に煙草を静かに押し付ける。
紫煙が一瞬強く立ち上り、すぐに蒼空へと消えていった。
少し、煙の匂いがする。
そんな春先の、いい天気の日。
グランサイファーの、何気ない一コマであった。
たばこは二十歳になってから。
マナーと節度を守り、正しく吸いましょう。