朝日が窓から差し込むグランサイファーの自室。
そこに、さらさらと櫛を髪に通す音と、ビィのぐぅぐぅといういびきの音が響いている。
「痛くない?」
鏡面台に座っているルリアに、いつもの調子で僕は訊いた。
「はい、大丈夫です」
鏡に映ったルリアの顔が少しほころぶ。
「ん、良かった」
言って、僕は作業を続ける。
寝癖のついたルリアの髪に、静かに、ゆっくりと櫛を通していく。
跳ね放題の髪が、少しずつ、いつものルリアの髪型へと変わっていく。
……いつからか、僕はこうしてルリアの髪を整えるようになった。
どうしてこうなったのかは、よく覚えていない。
僕の方から軽い気持ちで言い出してみたことなのか、ルリアの方から頼んだことなのか。
それはもう思い出せないけど、ある時、少し気になって理由を聞いてみたことがある。
「自分でやるより、グランがやった方がずっと早いので」
すると、ちょっと恥ずかしそうにルリアがそう言った。
早い遅い云々よりも、女の子が男に安々と髪を弄らせるのはどうなんだろう、と思いそれを口に出してみたら、
「いいんです、グランなら」
ルリアはそう言ったきりで、それ以上何も言わなかった。
その雰囲気が少し普通じゃないというか、有無を言わせない感じだったので、僕もそれ以上は何も言えず、何も言わなかった。
「ぐがー……」
ビィのいびきを聞き流しながら、僕はルリアの髪を梳かしていく。
そろそろ起床の時間なんだけど、どうやらあいつはまだ起きないらしい。
これが終わったら起こしてやろう、と思っていると、
「グラン、器用ですよね」
ぼう、とした感じでルリアが言った。
「ん……そう?」
「そうです。こういうこともすぐにこなしちゃって」
鏡越しに、ルリアが嬉しそうな顔をする。
「いや、すぐじゃなかったと思うけど」
苦笑すると、
「すぐでしたよ。とっても上手です」
と、ルリアが微笑む。
自分が器用かどうかは考えたことはないが、上手と言われるのは少し嬉しい。
「そっか。ありがと」
素直な気持ちでそう言って、僕はルリアの長い髪を手に取り、まだ寝癖が跳ねている部分に櫛をかける。
ルリアの蒼い髪。細長い、さらさらとした髪。
男の僕のそれとは全然違う、美しい女の子の髪。
「やっぱり綺麗だよね、ルリアの髪」
「ふふ、そうですか?」
くすぐったそうに、ルリアが笑う。
前に初めてこれを言った時はずいぶん驚かれたけど、今では慣れてしまったようで、
「グランったら、いつもそんなこと言うんだから」
こんなからかわれているような返しをされるようになってしまった。
なんだか社交辞令を言っていると思われているようで、
「いつも、ねぇ」
僕は、少し寂しい気持ちになる。
いつも思っていることだから、何回言っても足りないのに。
本当に綺麗だって、いつも思ってるのに。
「……」
僕はルリアの髪を梳きながら、
(……いつか)
と、思う。
これはこの所、こうしてルリアの髪に触れる度に思うことだ。
いつか。
いつか僕は、君の髪を、こういう形じゃなく触れることができるだろうか、と。
ただ寝癖を整えるというのではなく、もっと別の形で。
いつからか、僕はそう思うようになった。
でも、思うようになっただけで、それ以上は進んでいない。
なら、そういう事を、僕はいつできるだろう。
いつになったら、僕はルリアの髪を、ちゃんと触ることができるのだろう?
(たぶん)
それは、僕自身が勇気を出さなければいけないのだろう。
そうでなければ、きっと叶うことのない想いなのだろう。
その勇気を、僕はいつ出すことが――
「グラン?」
と、ルリアが首だけで振り向いて僕を見た。
「どうしたんですか?」
いつの間にか手が止まっていたらしい。ルリアが不思議そうな顔をしている。
「ああ、いや。なんでもないよ」
そう言って、僕は作業を再開した。
作業。ああ、そうだ。作業だ。
ルリアにとってどうかはわからないけど、僕にとってこれは寝癖を整えているだけの、ただの作業だ。
ただ器用にこなしていると言うだけで、それ以上のものじゃない。
そう思うと、なんだかもっと寂しい気持ちになった。
その寂しさのまま、
「いつか、ちゃんとルリアの髪に触れてみたいな……」
僕はそんな事を、言うことができなかった。
思ったまま心の中に引っ込んでしまったそれは、ルリアに届くことはなく、
「終わったよ、ルリア」
代わりに、作業が終わったことを告げる言葉だけが口から出た。
「はい、ありがとうございます」
ふふ、と寝癖のすっかり直ったルリアが、上機嫌そうに鏡面台から立ち上がる。
「うん」
我ながら上出来だ、と寂しさを誤魔化しながら思っていると、
「ぐがー……」
ベッドの方を見れば、気持ちよさそうにいびきをかいているビィがいた。
「まだ寝てるよ、もう」
起こしてやろうと、僕はビィの側に近づく。
と、
「……あの」
ルリアの声で、僕は立ち止まった。
「ん?」
振り返ると、ルリアが何やらもじもじして、
「えっと、私。待ってますから」
と、言った。
「待ってる?」
何を?と言うと、
「グランが、私の髪、ちゃんと触ってくれること……」
「!」
「でも、髪だけじゃなくて。な、なくて……その……」
そこまで言って、その後は続かず、
「そ、それじゃっ、私、先に行ってますねっ!」
言うや否や、ぱたぱたぱた、とものすごい勢いでドアを開けて出ていってしまった。
ばたんという大きな音がして、後には僕とまだ寝ているビィだけが残される。
僕は呆然としながら、
「つ、筒抜けだった……」
そうつぶやく。
僕とルリアは初めて出会った時の一件により命を共有していて、同時に感覚も共有することになった。
なら、あるいは心の中を共有することだってあるのかもしれない。相手の心の中が読めることだってあるのかもしれない。
「い、いや」
あの言葉だけじゃ、そうだとは言えないだろう。
別に心の中なんて読めてなかったけど、中々踏ん切りをつけない僕にしびれを切らしてあんな事を言ったのかもしれない。
少なくとも僕にはルリアの心は読めなかったのだから、結局どうなのかは……
「どうしたんだぁ?」
なんてあれこれ考えていると、眠そうなビィの声が横から聞こえた。
いつの間にか起きたのだろう、目をこすりながら僕の側でひらひらと飛んでいる。
「あ、ビ、ビィ。起きたんだ」
「でかい音したからなぁ……それより」
と、ビィが僕の顔を見て怪訝そうな顔をする。
「お前、変な顔してるぜ?」
「へ、変な顔?」
「ああ。嬉しそうっつーか……なんかにやけてるぞ?」
「う」
今更、僕は赤くなった。