アマルティア島の宿泊所。
その一室で、私はグランの帰りを待っていました。小さな窓から見える外の景色は、もうとっくに真っ暗です。
今日は少し遅いな、大丈夫かな?とちょっと固いベッドに腰掛けて思っていると、
「ただいま」
ぎぃ、と入口のドアが軋む音と一緒に、穏やかな声が部屋に響きました。
やっと帰ってきた、と私はほっとして、ベッドから立ち上がり入り口まで駆け寄ります。
「おかえりなさい、グラン」
嬉しくて、つい少し笑ってしまいながらそう言うと、
「うん。ただいま、ルリア」
グランも、さっきと同じようなことを言って、少し笑いました。
ほころんだ唇から白くてきれいな歯が少し見えて、私はちょっとぼんやりしてしまいます。
そのあとグランの身なりを見ると、身につけている鉄の胸当てと籠手が、いつも通り泥と魔物の血でぼろぼろに汚れていました。
今日も大変な訓練だったみたいで、
(さすがリーシャさんだなぁ)
と、私は思いました。
どういうことかというと、あれは今から一ヶ月ほど前。
「ファータ・グランデ空域で活動する騎空団の団長のみを集め、我々第四騎空艇団の本拠であるアマルティア島で、十日間の実戦形式の訓練を受けてもらおうと考えています」
と、リーシャさんからグランに手紙が来たのです。
リーシャさんは秩序の騎空団というこの空の平和を守る活動をしている騎空団の一員で、このファータ・グランデ空域全てを担当しているすごい人であり、そして私たちの仲間でもあるのです!
手紙にはまだまだ続きがあり、
「この空の治安維持に一役買っている騎空団。そのリーダーたる団長の実力は、実際の所はいかほどなのか。自らの騎空団を離れても仕事ができるのか。そして、団長不在でも騎空団は普段どおりの業務をこなせるのか。それらを見るのが目的です。また、訓練と言ってもこの島に蔓延る魔物を相手に行うので、依頼という体を取り相応の報酬も出す予定です」
とのこと。
「今までにない試みで、団長が長く各々の団を空けることになる為、参加しない騎空団が多いと予想しています。しかし……これはモニカさんの提案なのですが……名前が売れている彼が来てくれれば、それに乗じて名を上げようと参加を表明する者も出てくるだろう……とのことです」
実際、予想をはるかに超える団長が参加したらしく、リーシャさんが驚いていたそうです。
で、団長だけが参加する依頼ということで、当然行くのはわれらが団長であるグランだけ……
「それから」
だったのですが、手紙にはさらに続きがありました。
「やむを得ない事情があり団長が誰かを伴う必要がある場合、その人物は本件に参加しないという条件でアマルティア島の宿泊所に同泊するのを許可します。これはあくまで特例であり、原則として各団長は単独でアマルティア島まで来ること」
さらに、その下に追伸がありました。
「やむを得ない事情の具体例としては、そうですね。例えば生命を共有していて、物理的に一定の距離を取れない場合などでしょうか」
「今日もおつかれさまでした」
グランが身に付けた装備を外して部屋の隅に置いていくのを見ながら、私はそう言いました。
「うん」
と、身軽になったグランが私の顔を、ぼうとした感じで見て、
「……良かった」
そう小さくつぶやきました。
「?」
脈絡のない言葉に私が首を傾げると、
「ああ、いや、なんでもない。ただの一人言だから、ルリアが気にすることじゃないよ」
そう言ってグランがベッドに腰掛けました。
私もその隣に腰掛けて、
「そんなに風に言われると」
ちょっと意地悪な顔を作ってみます。
「なんだか、逆に気になっちゃいますよ?」
そう言うと、グランがちょっと困った顔をします。
「わざわざ話すようなことじゃないよ。ただの一人言だから」
「いいじゃないですか。私はずっとグランの帰りを待っていて、退屈だったんですよ?」
「う……それはごめん」
なんてグランが申し訳無さそうな顔をしましたが、実のところ、私はこの宿泊所での生活が楽しくなってきているのです。
この宿泊所には、リーシャさんの言う“やむを得ない事情”により団長に着いてきた人が、私の他にも思いの外たくさんいました。
例えば、
「あの人は厄介な病気抱えててさ、毎日あたしが診断してやらないといけないのよ」
という人など。
訓練には参加できないということもあり、各々の団長が帰ってくるまでみんな暇を持て余していて、私はそんな人達とすぐに仲良くなりました。
色んな事情を持つ騎空団の人たちとお話をするのはとてもためになって、そんなみんなと一緒に食べるご飯はとても美味しいです。
時には団長自慢みたいな話になって、
「私のグランが一番です!」
なんてちょっと熱くなってしまったこともありましたが、まぁなんというかそれは余談ということで。
「ねえねえ、何が『良かった』なんですか?」
グランのほっぺたをちょっと突っつきながら、私はそう言います。
グランはまた困った顔をしていますが、正直に言うと、別にそこまで気になると言うほどのことではないのです。
なんでもない一人言についてなんて、ことさらに聞くような話でもありません。
だけど私は、こんなどうでもいいことでも何でも、グランの話はちゃんと聞きたいのです。
なぜなら、
「うちの団長はね、もうあんまり長くないんだ。診断してるとわかるんだよ。今はまだ動けてるし、伝えちゃいないけどさ……」
そういう話を、私は聞いたのです。
だから、今日も無事に帰ってきてくれたグランの話を、私は聞きたいのです。
だって、いつか私たちにもそういう日が来るから。私もグランも何も話せなくなる日が、絶対に来るから。
私が何も話せなくなる日はグランが何も話せなくなる日で、グランが何も話せなくなる日は私が何も話せなくなる日……だけど。
「わかった、わかったって」
とグランが観念したように手を振ったので、私はほっぺたを突っつくのを止めました。
「本当に、別に大したことじゃないよ。たださ」
グランが、両手を枕のように頭に敷いて、ベッドに仰向けになります。
「帰ってきて、お疲れ様って言ってくれる人がいるのは、すごくありがたくて、すごく恵まれてることでさ」
「うん」
「それで、良かった、って思ったんだ。それがふっと口に出ただけだよ」
グランが目を細めます。
「本当はさ」
そして、そう続けました。
「僕は、ここには一人で来ないといけなかったんだ」
「はい。リーシャさんがそう言ってましたね」
「そう。団長は自分の騎空団を離れてもどこまで仕事ができるか、が今回のテーマの一つだから」
でも、とグランが言います。
「厳しい訓練から帰ってきて、それでルリアの顔を見ると、すごく安心する自分がいてさ。でもそれって今回の趣旨から外れてるんじゃないか?って、ちょっと思って」
「はい」
「僕は一人じゃ何にもできない人間なんじゃないか?僕は帰りを待ってくれる人がいないと戦えない、そんな弱い人間なんじゃないか?って」
それで、とグランが横になりながら私の方を見ます。
「休憩時間に聞いてみたんだ。集まった団長のみんなに」
「なんて聞いたんですか?」
「僕は弱い人間なんでしょうか?って」
真顔でグランがそう言って、
「またいきなりですねぇ」
私は思わず吹き出してしまいました。グランらしいです。
「みんなそう言ってたなぁ……笑われたし」
なんでだろう?とグランが首を傾げて、私はますます可笑しくなってしまいます。
「で、その後みんなはなんて言ったんですか?」
「ん、色々だったよ」
それは人として当たり前のことだ。強い弱いの話じゃない。
いや、守るべきものがあればそれは弱さに繋がる。本当に強い人間はいつも独りだ。
いやいや、守るものがあるからこそ人は強くなるのだ。
いやいやいや、その強さは、もし守るものに裏切られれば一転して弱さになるのではないか。
いやいやいやいや……
「それで、そのお話は結局どうなったんですか?」
「休憩が終わったのにいつまでも喋ってたから、リーシャさんに怒られて終わった」
「どんな風に?」
「いつまで埒のない議論に花を咲かせるつもりですか?って、すごい怖い顔で」
「ふふっ。リーシャさんも立派になりましたね」
その光景が目に浮かぶようです。
「楽しそうな訓練みたいで何よりです」
「まさか。秩序の騎空団の訓練が生易しいわけないよ」
「ですねぇ」
それはあの装備の汚れ具合を見ればわかります。
「ああ、でもさ」
ふっとグランが思い出したように言いました。
「今日の帰り道に、声をかけてきた人がいたんだ」
「へえ」
「僕でも知ってる有名な騎空団の団長でさ、すごく強い人で……」
言いながら、グランがうとうととし始めます。
やはり疲れているのでしょう。今にも眠りそうです。
「その人が言ったんだ。俺は弱い人間だ、って」
「うん」
「俺はもう長くない。だから、本来独りで来るべきここに、俺の大事な人間を連れてきた。あいつがいなければ俺は戦えない……って」
「……はい」
「それだけ言ってその人はさっさと先に行っちゃったんだけどさ、なんだか、すごく印象に残ってる」
そう言ったグランのまぶたはもうほとんど落ちていて、今にも眠りかけです。
「寝ますか?」
「ん……」
「お風呂は?」
「明日の朝……」
「装備の手入れは?」
「それも明日……」
「起こしませんし、手伝いませんよ?」
「わかってる、今回は……」
団長は一人でどこまで仕事を、とぶつぶつ呟いた辺りで、
「ぐぅ」
と、寝息が聞こえました。
私はその頬を少しなでて、毛布をかけました。
立ち上がって灯りを消して、部屋が真っ暗になります。
すっかり慣れた部屋の中をベッドまで移動して、私もグランの隣で横になって、
「私は」
と、言いました。
「一人ぼっちじゃ、なんにもできない。すごく弱い人間です」
真っ暗な部屋には、眠りに落ちたグランしかいません。
「だから、一緒にいたいんです。弱いから、強くなんて無いから」
誰に向けているのかわからない言葉を言って、私も目をつぶりました。
「でも、どんなに弱くたって、きっと強くなれますよね……」
明日、グランが帰ってきたら、この話をしよう。
そう思った辺りで、私はグランの汗の、ちょっと臭う香りに包まれながら、眠りにつきました。