1
東京都上空。
リヒト関東支部の上空。
びょおびおょと鼓膜を殴り吹く強風を、身に受けながら、二人は対峙している。
金属が打ち合わされる音が鳴るが、それは響かず一瞬、びょおびょおと、強風が攫って消し去ってしまう。
周囲ただ風あるのみ、という自由な空間の中で、この風よりも遥かに激しい、二人の戦いが行われている。
空中であり、重力に身を支配されていたら当然、自由な空間になど成り得ない。彼女たちは、重力を逆に支配するどころか、さも完全に無視し、透明な足場にどっしり立っているかと見まごう、戦いを戦っていた。
身を覆うのは、真紅の魔道着。
本来ならば、
両手に握り操るは、ひと振りの剣。
対するは、青い魔道着の令堂和咲。
構えているのは、二本のナイフ。
武器も魔道着も、
自分のクラフトが、応芽に破壊され、変身出来ないため、彼女のものを借りているのだ。
空気、という足場に、大地の如くしっかりと両足で立ち、戦っている二人。
かと思えば突然、風に舞い上がって、幾多の残像を作りながら刃を打ち合わせ、新たな足場に立って、また刃を打ち合わせる。
一見すると、互角の戦いだ。
打ち、防ぎ、防ぎ、打つ。
ナイフと、剣の攻防は。
ただし、お互いの顔を見れば、そこには明確な違いがあった。
明確な優劣が、存在していた。
応芽の顔に浮かんでいるのは、喜悦にも似た笑み。
本心か、演技か、分からないが、自分に余裕ありと思っているのは間違いないことだろう。
対するアサキの顔に浮かぶのは、焦り、それと、とにかく食らいつこうという必死な表情。
さらに刃を交え続けるうち、状況に変化が訪れていた。
だんだんと、二人の作る表情の通りになってきていたのである。
この、戦況そのものが。
「令堂、どないした? 最初の威勢は? カッコ付けて啖呵を切ってた、あの態度は、どこへいったんやあ?」
ははっ、笑いながら、応芽は、アサキの胸を切り裂こうと、剣を真横に薙いだ。
爪先で空間を蹴って、退き逃れたアサキ。
視線を軽く落とし、胸の防具に付いた横スジを見ると、ふうと小さく安堵の息を吐いた。
だがそこへ、息つく暇を与えまいと、応芽が飛び込む。
かろうじて避けるアサキであるが、執拗に応芽の刃が追い掛ける。
これがいつまでも繰り返される。
アサキは、かわすだけで精一杯になっており、それはつまり応芽の攻撃ターンが延々と続くということだった。
圧倒。
力も、速度も、技の冴えも、慶賀応芽は、すべてにおいて、アサキを完全に圧倒していた。
先ほどまで互角に見えていたのは、単に力をセーブしていたのだろう。
楽しむためか、慎重を期すためか、そこまでは分からないが。
応芽が剣を軽々と振る都度、ぶん、ぶうん、と仕掛けでもしてあるのか、重々しい音が鳴る。
別に、仕掛けなどはない。単純に、振り回す勢い、激しさが、常識外れなのだ。
その都度、アサキの身体が、風圧により右に左に踊らされる。
ぐっと歯を食いしばるのみで、必死以外の表情など浮かべる余裕はなかった。
文字通りの防戦一方。
構えた二本のナイフも、なんとか攻撃を弾いて己の生命を守るという、その程度の役にしか立っていなかった。
このままじゃあ、時間の問題だ。
な、なんとか、しないと……
焦るアサキは、状況打開すべく、意表を突く攻撃に出た。
応芽の攻撃が、少し大振りになった隙を見逃さず、かわしざまに、後ろ回し蹴りを放ったのである。
以前にカズミから特訓を受けた、空手の技だ。
だがそれすら想定内であったか。
それとも、戦力の絶対差から、想定など必要もないということか。
応芽の左肘に、アサキの足先は、しっかりと受け止められていた。
にやり、と笑む応芽に、
く、と微かに呻くアサキ。
「効くかボケが!」
お返しに、とばかりに打ち出された、応芽の前蹴り。
アサキの方こそ意表を突かれて、避けることが出来なかった。
靴の底が、胸の装甲を蹴り砕く、ペキリという音と共に、後方へ吹っ飛ばされていた。
応芽は、空気を引き裂き、掻き分け、一瞬でアサキへと追い付くと、脆くなった胸部へと、今度は両手に持った剣を叩き下ろした。
「うあ!」
アサキの鋭い悲鳴は、風が攫い、風に溶けた消えた。
青いラインの入った胸の装甲が、完全に砕かれて、さらには魔道着の本体ともいえる強化繊維が切り裂かれ、層の一番内側にある白い布が覗いていた。
剣で上から叩かれたことと、苦痛激痛に浮力制御の魔術が解けてしまったことにより、アサキの身体は、重力という見えない手に掴まれ、ぐんと引っ張られ、落下を始めた。
意識を失い掛けて、赤毛の少女は、半分白目をむいた状態になっている。
地へと、真っ逆さまである。
「ダメ押しや!」
応芽は、潜水でもするのか、身体を丸めて、くるんと前転すると、空を蹴り、地へと急加速。
アサキの落下速度を遥かに超えて、一瞬にして追い付くと、再び前方一回転、意識朦朧無防備な赤毛の少女へと、風をも切り裂くかの如く速度で、振り下ろした踵を叩き付けていた。
ご、という、肉と骨を打つ不快な音がした、その瞬間には、もうそこにアサキはおらず。
遥か真下の地面が、間欠泉のごとく、どおんと吹き上がって、低い爆音と共にぐらぐらと揺れた。
もうもうと煙った視界が晴れると、地面が大きく、すり鉢状にえぐられていた。
中心に、横たわったアサキの身体がめり込んでおり、土をかぶった状態のまま、ぐったりとなっている。
空中の応芽が、腕を組みながら見下ろしていると、
ぶん
ダメージ限界に、アサキの変身が解除された。
魔道着が溶け消えて、中学の制服姿へと戻っていた。
「ウメ……ちゃん」
虚ろな視線を小さく泳がせ、はあはあと息を切らせながら、アサキが口を開いて力ない声を出した。
震える手を、ゆっくりと、上空へと差し出した。
そんなアサキを遥か眼下に、応芽は意地悪そうな笑みを浮かべている。
「魔道着がちゃうにしても、ここまでやと、つまらんもんやなあ。でも……容赦はせえへんで」
応芽へと、アサキの震える手が、指が、向けられる。
「う……あ」
呻き声しか出ない。
でも、心の中では、叫んでいた。
悲しんでいた。
そんな演技、しなくてもいいんだよ。
ウメちゃん。
あなたが、仲間思いで、根はとっても優しいこと、わたし、知っているよ。
ただ、必死なんだよね。
妹、雲音ちゃんを助けたくて、必死なんだよね。
孤独に耐えて、戦っている。
応芽の姿がそう見えて。
助けてあげたくて。
せめて、優しい言葉を掛けてあげたい。
救う言葉を掛けてあげたい。
朦朧とした意識の中で、そう考えるものの、でも、どんなに力を入れようとしても、呻きに似た声しか、その口からは出てこなかった。
ただ、アサキが喋れたとしても、応芽の行動は変わらなかっただろう。
アサキの思いは、しっかりと通じていたのである。
……だからこそ、応芽は激怒していたのである。
「なんや、その憐れむような目は!」
魔法浮遊をやめて、応芽の身体が落下を始めた。
真下にいるアサキへと。
握った剣を、上段で後ろへと、振りかぶりながら、
「これでええ、しまいやあああああああ!」
叫び、空気を蹴って、落下速度を倍加させた。
まっすぐ、アサキへと。ジェットを超えるけたたましい爆音を立て、落ちていく。
すり鉢状の中心で土に埋もれながら、ぐぅ、と呻き声を上げ、必死に身体を動かそうとするアサキであるが、受けたダメージがまるで回復しておらず、手足に寸分の力も入らない。
応芽の身体が、落ちてくる。
応芽の身体が、ぐんぐんと大きくなる。
応芽の身体が、アサキの視界を完全に塞いでいた。
ざん
空気を切り裂く音。
応芽の持つ剣が、振り下ろされたのである。
地球をも真っ二つにしそうな、全身全霊の激しい一撃が、身動き取れないアサキへと。
爆音、地響き、豪風と共に地が噴き上がった。
まるで爆弾、凄まじい威力であった。
ただの剣ひと振りであるというのに。
周囲すべてが、消し飛んでいた。
すり鉢が深く、大きく、広がっていた。
変身が解けて生身の身体に戻ったアサキに、耐えられるはずもない。
しかし、アサキは無傷だった。
剣の一撃が肉体を切り裂くことも、爆風に吹き飛ばされることもなく。
より深くえぐられた地の中心で、驚きに目を見開いている。何故、自分が無事なのか、と。
応芽の剣は、受け止められていたのである。
不気味な形状の、武器で。
それは、柄のない、巨大な斧であった。
それを持つのは、銀の黒の、魔道着を着た魔法使いであった。
魔道着と同様、左右で黒と白銀に分かれている、長い髪の毛。
百七十を優に超える、大柄な体格。
突然現れた魔法使いが、身動き出来ず絶体絶命のアサキの前に立ち、その不気味な斧で、応芽の剣を受け止めていたのである。
「
応芽は、魔法使いの名前を呼ぶと、ぎりり歯を軋らせた。
2
応芽は、目の前に立つ大柄な魔法使いを睨みながら、ぎりっと歯を軋らせた。
「
軋らせ方、歯が折れるくらいだったが、ふと我に戻ったか、目付きはそのままで、口元だけが笑みの形に釣り上がった。
ふん。
冷静になろうと、あえて鼻で笑ったのだろうか。
表情をすべてニュートラルに戻した応芽は、小さくため息を吐いた。
斧へと触れ合っていた刃を引くと、すっかりぼさぼさになった前髪を、かき上げた。
「ちゃんと、余興になるんやろな。
だっ、応芽は力強く、地を蹴っていた。
幾多の、自らの残像を掻き分け、瞬時にして嘉嶋祥子へ迫ると、その頭上へと、微塵の躊躇すらもなく、剣を打ち下ろしていた。
ぎんっ
研がれた金属のぶつかり合う、鈍くもあり鋭くもある独特な音が上がった。
応芽が放った一撃を、大柄な魔法使いが、その身に相応しい巨大な斧で受け止めたのである。
押し合い競り合い、になるより前に、祥子が力任せに、斧を真横へ振った。
とっ、と小さく跳ね、応芽は地につま先を着く。
二人の距離が空いた、その瞬間には、祥子の方から詰めていた。
巨大で、柄がなく刃だけ、という奇妙な形状の斧。刃身には、拳大の穴が二つ空いており、その一つに指を掛けて軸とし、くるり回して応芽の頭部へと振り下ろした。
応芽は、剣を斜めに構えて、巨大斧を剣のひらで滑らせ、いなす。
同時に、右足で前蹴りを放っていた。
がきっ
祥子の、胸の装甲が蹴り砕かれていた。
後方へ吹っ飛ばされた祥子だが、とんと地に足を着くと、安堵のため息。さしたるダメージを受けた様子もなく、巨大斧を構え直した。
蹴り足インパクトの瞬間に、自らも後ろへ跳んで、威力を殺していたのである。
だが、戦力差は絶対。
そう思っているのか、応芽の顔にはなんの驚きも焦りもない。
にやにやと笑みを浮かべたまま、地を蹴り、離れた分を一瞬で詰めていた。
祥子は、刃身に空いた穴を軸に、くるり斧を横に回転させ、迎え撃つが、
応芽は、楽々と見切り、軽く跳躍してかわすと、水平になった巨大斧の刃身へと、両足で着地した。
ぶん。
応芽の足が、唸る。
巨大斧に乗ったまま、祥子へと蹴りを見舞ったのである。
モーションこそ小さいが、空気をも焦がす、凄まじい勢いの蹴りである。
とはいえ、祥子に受けねばならぬ義理もなく、身を後ろにそらせて、間一髪、かわしていた。
宙でトンボを切って着地した応芽は、すぐさま祥子へと身体を突っ込ませ、剣を振るう。
のらりくらり、祥子は持ち前の戦闘センスでかわし続ける。
だが、ただかわしているというだけ。
状況の優劣に、揺るぎはなかった。
応芽 ≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫ 祥子。
やはり、魔道着の差が圧倒的なのであろう。
応芽も、手加減を自覚しているようで、どれだけ剣をかわされようとも、余裕の笑みを浮かべ続けている。
「さっきのは感謝しとるで、祥子。つい我を忘れて、令堂を消し炭にしてしまうとこやったからな。でもな、そこまででええわ、お前の役割は。……いま逃げ出すんなら、追わんよ」
「それはどうも」
祥子は淡々飄々とした態度で、巨大な斧をくるくる回転させて、これが返答だといわんばかりに、応芽へと振り下ろした。
特に意表を突いた攻撃でもなく、いとも簡単に受け止められていたが。
ぎり、ぎり
刃を合わせての、押し合いに入ったが、真紅の魔道着、応芽はさして力を込めているように見えないのに、少しずつ、祥子の大柄な身体を、後退させていく。
「さすがは、新ピカの魔道着だねえ」
祥子は、必死に踏ん張りながらも、のんびりとした口調で、唇を歪めた。
「なあに負けを認めず強がっとんのや。戦っとるんは、魔道着やないで。令堂専用を、しっかり使いこなしとるんは、この応芽様やで」
「それが?」
「やれんのか、自分に」
「はは。興味もないや」
「まあええわ。いつも上から目線で、ムカついとったけど、その減らず口も、今日で最後やからなあ!」
応芽は、力強く踏み込みながら、斜め下から大振りで、斧を跳ね上げた。
いなそうとする祥子だが、いなし切れず吹き飛ばされて、建物の壁に背中を強打。
重たい音がして、砕けた壁の中に、祥子の大きな身体がめり込んでいた。
すぐ抜け出し、地に足を着くと、
「いてて……」
痛みに顔をしかめながら、額の汗を拭い、そのまま銀黒の髪の毛を掻き上げた。
「なんやあ、へっぴりやなあ。こないだみたく、怪我で瀕死のあたしに切り掛かって、悦に入っとるのが、関の山や、な!」
な、で地を蹴った応芽は、滑り飛びながら、内側から剣を払った。
間一髪、斧で一撃を受け止める祥子。
だが、応芽は構わずそのまま、二撃、三撃、四撃、五撃。
勢い、苛烈になっていた。
応芽の、攻撃が。
祥子は、斧使いや立ち位置の妙で、なんとかかわし続ける。
かわし続けながらタイミングを計り、剣を屈んで頭上へやり過ごしながら、応芽の懐へと、潜り込んだ。
潜り込んだ瞬間、
ぶん
祥子の手のひらから、青白い光弾が生じ、応芽の顔へと唸りを上げる。
十センチにも満たない超至近距離からの攻撃であったというのに、応芽は、慌てることなく手の甲で払い除けていた。
と、払ったその瞬間に、応芽の顔が爆発した。
連続して、二発目が放たれていたのだ。
前弾に隠れるように、少しだけ小さな光弾が。
ぐうと、怒りに呻き、のけぞる応芽であるが、すぐさま姿勢を直した彼女の顔はもう、笑っていた。
「倍返しや!」
叫びながら剣を、くるくる回して真上へ放り投げると、祥子を真似して、手のひらから薄青いエネルギー弾を発射した。
右手から、左手から、連射、連射、雨あられである。
祥子は、巨大な斧のひらを盾にして、上半身を守る。が、すべてを防ぎ切ることは出来ず、時おり腕や足に当たって、ぐっ、と苦痛の呻きを漏らした。
それた光弾は、祥子の背後、建物の壁に当たり、子供が作った砂の城よりもろく、削られ、崩れていく。
まだ終わらない。
鼻歌でもうたっていそうな、楽しげな顔で、応芽は光弾を発射し続ける。
「倍どころか千倍やな」
「どうかな」
絶え間なく襲いくる攻撃を耐え続けながら、祥子は、薄い笑みを浮かべた。
まるで折れていない。という、それが事実なのか見せかけなのかは分からないが、いずれにせよ小癪な態度に、応芽は舌打ちすると、光弾を放つペースを上げた。
じりじりと、祥子の大きな身体が、後退する。
押され、よろけ、いつの間にか、壁に押し付けられていた。
と、雨あられの流星群が不意にやんだ。
それは単に、次の攻撃の始まりであった。
高く放り投げておいた剣を、受けた応芽が、地を蹴って、壁際の祥子へと、飛び込んだのである。
横薙の一閃、を身を低くしてぎりぎりかわす祥子であるが、その顎を、応芽が蹴り上げていた。
ガツ、
と嫌な音がするが、祥子は堪え、斜め上へと跳んで、蹴りの勢いを殺しつつ逃げた。
勢いを殺した、といっても、意識をなんとか保てるほどには、という程度だろう。
蹴られた激痛に、クールな顔が歪んでいる。
意識が飛ばないよう、わざと痛みを感じる蹴られ方をしたのかも知れないが。
応芽も、軽く膝を曲げて跳び、祥子を追う。
貫き串刺し
祥子は、壁を蹴って、なんとかその突きから逃がれたのであるが、応芽の攻撃は執拗だった。着地したと同時に、そこを狙って、頭上から剣を振りかぶって、落ちてきたのである。
落ちざま放たれる、上段の一撃を、祥子は、巨大斧で受け止めて、その勢いを借りて後ろへ跳んだ。
追い、迫る応芽の、剣が突き出される。
祥子は、跳ぶ方向を変えて逃れようと、つま先で地を蹴った。
と、その瞬間、
うくっ、という呻き声と共に、顔が苦痛に歪んでいた。
咄嗟に反対の足で、地を蹴ろうとするが、結局バランスを崩して転んでしまう。
「足い痛めたんかあ? ははっ、ざまあないで!」
応芽は、薄い笑みを浮かべながら祥子へ近寄ると、太ももを蹴飛ばした。
堪え、転がった斧を掴んで、起き上がろうとする祥子であるが、同じところを再び蹴られると、そのまま動けなくなってしまった。
「元チームメイトや。手足をぶったぎるくらいで、堪忍したるわ。せやから、もうあたしの前に、そのムカつく面あ見せんな。……まずは、腕や!」
祥子の腕へと、振りかぶった剣を、
打ち下ろした。
受け止められていた。
二本の、ナイフに。
目の前に立つアサキの、クロスさせた、二本のナイフに。
中学の、制服姿のアサキ。
先ほどの戦闘で、変身が解除された、生身の状態。
魔道着による魔力制御を一切受けていない、そんな、生身の状態。
だというのに、応芽のエンチャントされた剣を、受け止めていた。
かろうじて、ではあるが。
がくり、剣の重みに膝が崩れた。
崩れながら、なんとか堪え、はあはあ、辛そうに息を切らせながら、背後に横たわっている祥子へと、ちらり視線を向けた。
「さっき、助けて、貰った分は、返、す」
肩で大きく呼吸しながら、それだけいうと、応芽の方へと向き直った。
「期待、してるよ、令堂さん。そのた、めに、回復までの時間、稼ぎ、したんだ、から」
祥子の声。
アサキの背後で、まだ苦しそうに息を切らせながら、上体を起こすと、唇を小さく歪めて、薄い笑みを作った。
応芽はそんな二人を見て、ふんと鼻を鳴らした。
「また、選手交代か」
3
「戦いたく、なんか、ない、けど」
ぜいはあ、アサキは息を切らせている。
中学の制服姿。
二本のナイフで、なんとか応芽の剣の重みを支えている。
耐えきれず、膝がぶるぶる震えている。
「だったら、おとなしゅう腕の一本でも差し出せや!」
応芽の叫び声。
と同時に、アサキの身体に消失感。
ぐいぐいと刃同士を押し合っていたはずなのに、すっと抵抗がなくなって、前へよろけた。
ぶうん
いつ引いたのか、いつ振り上げたのか、応芽の剣が、真上から落ちてきた。
アサキは、両手のナイフで受け流そうとはせず、むしろ応芽へと身体を飛び込ませていた。
応芽の剣は空振るが、舌打ちしながら、握った柄尻を、飛び込んできたアサキの背へと、叩き落とした。
がふ、と呼気を吐きながら、アサキは構わず身体を突っ込ませ、応芽へと体当たり、壁に激突させて、そのまま壁へと押し付けた。
「それで、本当に、元の、ウメちゃん、に戻るん、だったらね」
それ以上の価値なんかないよ。
わたしの、腕なんて。
こんな戦い、ウメちゃんだってしたくないんだろうな。
辛くて、仕方ないんだろうな。
残忍なこといって、笑って、そうして自分を騙して。
ただ、妹、雲音ちゃんのために。
お姉ちゃんにここまで愛されて、雲音ちゃんは幸せだったんだな。
どんな子、だったんだろう。
写真でしか、見たことないけど。
きっと、素敵な子なんだろうな。
息切れ切れに、応芽の腰へと抱き付きながら、アサキは一瞬のうちにそのようなことを考えていた。
見上げるアサキと、見下ろす応芽の、目が合った。
目が合った瞬間、応芽が激高した。
「なんや、その見透かしたような顔は!」
怒鳴りながら、また、剣の柄尻をアサキの背中へと叩き落とした。
何度も。
何度も。
呻き、耐えるアサキであるが、いつまでも耐えられるものではない。
膝が崩れたところへ、膝蹴りを顔に受けた。
とと、と後ろへよろけたところ、締め付けから逃れた応芽の剣が、喉元掻っ切ろうと水平に走る。
半歩退いて、かろうじてかわし、間髪入れずにきた返す刃を、二本のナイフで受け流して、距離を取った。
はあ、はあ
赤毛の少女は、二本のナイフを持ったまま肩をだらり落として、息を切らせている。
応芽は不意に、ぷっと吹き出すと、肩をすくめながら、嘉嶋祥子へと小馬鹿にした顔を向けた。
「残念やったな。時間を稼いだもなにも、ぜーんぜん回復しとらんやないか」
「忘れたのかい? 彼女が、ザーヴェラーと戦った時のこと。体力じゃなく、魔力が無尽蔵に湧き上がる。だから特Aなんでしょ、彼女は」
「少女向けアニメの魔法やないんやで。動ける肉体あってこそやろ。もうボロッカスやないか」
二人の会話に、当人であるアサキが、
「でも、負けてないよ」
言葉を、割り込ませた。
「負けてない。わたしの、心は。……それは、心から、ウメちゃんを助けたいと、思っているからだ」
ぜいはあ、息を切らせながら。
苦しそうに、顔を歪ませながら。
「口ばかりやなあ。祥子が乗り移ったんとちゃうか?」
「口ばかりは、ウメちゃんだよ。だって、いってることと、思っていることが、まったく違うもん」
「せやから、見透かしたような態度はやめろ!」
地を蹴った応芽は、苛立ちを刃に乗せ、赤毛の少女へと振り下ろした。
赤毛の少女、アサキは、交差させたナイフで受け止めようとするのだが、威力予想以上で、ガード体勢のまま吹き飛ばされた。
壁に背中を強打、壁に亀裂が走った。
次の瞬間、その壁が爆発し、消し飛んでいた。
とどめを刺そうと応芽が身体を突っ込ませ、アサキが呻く間もなく横へ転がりかわし、脆くなった壁に剣が叩き付けられて、風圧と続く打撃とで、粉々に砕け散ったのである。
ごろり転がったアサキは、転がる勢いで立ち上がりながら、左手に装着しているカズミのリストフォンを頭上へとかざし、スイッチを押した。
なにも反応はなかった。
「まだダメか」
まだ、カズミの魔道着が修復されていないのだ。
嘆くアサキの頭上から、剣が振り下ろされる。
一本引いてかわすが、応芽は素早く踏み込んで、引かれた分を詰めると、右手の剣を真横へ払った。
胴を狙った一撃。
アサキは、引いかわすでも身を屈めるでもなく、瞬時に跳躍していた。
剣の上に乗って、それを足場に、応芽の頭を蹴ったのである。
目を覚ませ。
というメッセージだったのか、自分でも分からない。
無意識に、身体が動いていた。
頭を蹴られ、のけぞりながらも、瞬時に怒声を発しながら出鱈目に剣を振るう応芽であるが、その切っ先は空気をかき混ぜるだけだった。
アサキは、今度は空気を蹴って、十メートルほどの空中にいたのである。
「逃げんならハナから歯向うなあ!」
怒声上げ、強く地を蹴り、応芽が追う。
アサキはさらに空気を蹴って、さらに高く跳んだ。
制服のスカート姿であることなど、気にしている余裕もない。
そうだ。
ウメちゃんに勝たないと。
勝って、とりあえず戦力を奪って、その上で冷静になって貰わないと。でないと、今のウメちゃんじゃ話し合いも出来ない。
飛ぶのは、かなり魔力を消費する。
でも……
わたしの体力は限界だけど、でも、祥子さんがいっていた通り、わたしに無尽蔵の魔力があるのなら、魔力量の勝負にさえ持ち込めば、勝算がある。
だから。
だから。
飛べ、わたしの身体。
高く、高く。
アサキは空気を蹴って、さらに上へ、空へ、天へと飛ぶ。
どんどん、地上が小さくなっていく。
ものの数秒で、以前にザーヴェラーと戦った時と同じくらいの超高度に、アサキの身体は浮いていた。
アサキと、追い付いた応芽の、二人の身体が。
激しい強風に揺られながら。
遠近、高層ビルに囲まれた、都心の眺めの中。
眼下、すべてが豆粒や、子供の積み木に見える、眺めの中。
青い空の下。
向かい合っていた。
「前にさ……」
ぼそり、口を開くアサキであるが、ばりばり鼓膜を震わせる風に掻き消されてしまい、大きな声でいい直した。
「前に、カズミちゃんが、手賀沼の公園で、いってたよね。こんな眺めを、守るんだ、って。知っておいて欲しい、って。ここの、この眺めも、同じだ。この眺め、街、人たち、生き物、世界、わたしたちは……わたしたちが、守る」
まともに呼吸の出来ない息苦しさの中で、応芽の情、優しさに、訴え掛ける。
「は、どうでもええわ」
鼻で笑われただけだった。
「ウメちゃん!」
赤毛をばさばさなびかせながら、声を荒らげる。
荒らげたところで、応芽に届くのは、ほとんどが風の音だろうが。
「あたしはただ、神の力を借りたいだけや。……あわよくば、神の力そのものを、手に入れたいだけや」
「人間は神様にはなれない」
「なんなきゃ雲音を救えへんやろ! とゆうても、神がなんやのかは知らへんけどな。きっと、魔法以上の奇跡を起こせる力やろ」
「そんな力……」
「奇跡で雲音の魂を戻した後は、どうでもええわ。雲音をあんな目に遭わせた、こないな世界なんか、どうなろうと知るか!」
「雲音ちゃんだって、守ろうとした世界だよ! どうでもいいなんていっていたら、雲音ちゃんは喜ばないよ!」
「お前なんかに、なにが分かるんや! 会うたこともないやろ!」
「考えて! ウメちゃんのやろうとしていること、その先に、なにがある? その向こうに、誰がいる? みんな、笑顔なのかな。みんな、幸せなのかな」
「じゃかましい!」
「わたしは……」
「黙れ!」
「だ、誰が、どこに、どんな、思いで、生きるという、人はっ」
理屈が通じないどころが、がなりたてられ言葉を遮られ、それでもなにかいおうとして、アサキの言葉はすっかり支離滅裂になっていた。
「黙れゆうとんじゃ、ドアホが!」
応芽の、怒気を乗せた剣を、間一髪、眼前で、アサキは受け止めて防いでいた。
二本のナイフで。
落ち着いた、真顔で。
「ごめん、ウメちゃん。うまく喋れない。言葉で、思いを伝えられない。でも……」
ぐ。ナイフを押す。
そう。
言葉じゃない。
心。
気持ち。
きっと、伝わる。
わたしだって、自分が絶対に正しいなんて、そんなことは思ってない。
でも、ぶれない。
もしも、間違っていようとも、わたしは……
「わたしがウメちゃんを思う気持ちを、信じる!」
叫び。
ぎらり激しい、厳しい双眸。
応芽の剣を、気合いで弾き上げていた。
踏みしめる足場がなく、すうっと後ろへ流れる応芽へと、魔力で空気を蹴り、赤毛をなびかせて瞬時に詰め、身体を回転させながら、左右のナイフで切り付けた。
目の前の小癪な言動に舌打ちしながら、応芽は、避けつつ回り込み、
「もうくたばれや!」
反撃の刃を振り下ろす。
アサキは見切っていた。
がちり、二本のナイフで受け止めていた。
受け止めながら、一本を剣身に沿って滑らせて、手首を返して水平に走らせ、真紅の魔道着の、胴体を切り付けた。
カチ
応芽の着る真紅の魔道着、胸の装甲に、横一筋の亀裂が入っていた。
また舌打ちをしながら応芽が、前蹴りを放った。
腕で払いながらアサキは避けるが、読んでいたか、応芽は瞬間的に身体を回転させて、後ろ回し蹴りで赤毛に包まれた即頭部を狙った。
その攻撃も、アサキは肘を上げて受け切るが、
応芽は、アサキを蹴った勢いを利用して、身体を逆回転。今度は蹴りではなく、剣を振るった。
不意を突いた一撃が、風を切り、唸りを上げ、アサキを襲う。
しかしアサキは、冷静だった。
引かず、逆に詰めると、右膝を振り上げて、自分の肘と膝とで、応芽の腕、剣を持っている腕を、押し潰したのである。
がっ、
応芽は呻き、睨み、下がりながら、剣を左手に持ち変えた。
再びアサキが、距離を詰める。
切り付ける。
二本のナイフを、自分の手の如く使い。
応芽が引けば、アサキが押し。
切り付け続ける。
利き手が痺れて、剣を左手に持っているとはいえ、応芽は、完全に防戦一方へと追い込まれていた。
「な、なんでや。なんで最強の魔道着が、生身の、裸同然の令堂なんぞに、押される?、お、おかしいやろ!」
「負けないといったはずだ」
いったから負けないものでもない。
けれども、いまのウメちゃんには、絶対、負けちゃいけないんだ。
だから、わたしは……
「黙れ! 黙れ! 魔力量のみの三流! とっとと絶望して、
絶叫を放ちながら、応芽は、剣を両手に握り、身体を、腕を、ぶるぶる震わせながら、高く振り上げた。
「ウメちゃんっ!」
アサキは、ナイフを高く放り上げると、空気を蹴って、真紅の魔道着へと飛び込んでいた。
「目をっ、覚ませえええええええええ!」
怒声。
応芽の顔が、醜く、ぐしゃぐしゃに、ひしゃげていた。
頬に、アサキが、右拳を叩き込んだのである。
4
刃を振り、打ち合わせ、押し合い、弾き合い、唸り、歯を軋らせ、睨み合う。
片方は、魔道着を着ておらず、生身のままであるが、繰り広げられているのは、完全に魔法使い同士の、いや、それを遥かに上回る次元の戦いであった。
「ハナから覚めとるわ! つうか、お前らと一緒におった時こそが、薄甘い夢を見とったんや!」
応芽が、拳を頬に叩き込まれたことで激高し、右腕の痛み痺れも忘れて盲滅法に洋剣を振り回していたが、すべての攻撃を冷静に対処されると、癇癪起こした子供みたいに声を裏返して怒鳴った。
目を、覚ましてくれなかった……
向き合うアサキは、少し悲しく虚しい気持ちになったが、すぐに首を小さく横に振り、応芽の言葉を否定する。
「薄くも甘くも、夢でもない。健気に掴み続けていた、現実だ」
制服のスカートが、掴まれ引っ張られているかのように、バタバタザバザバと音を立てて、強風になびいている。
「つべこべ、じゃかあしいわあ!」
応芽は、小癪なことばかりをいう赤毛へと詰め寄りながら、剣を突き出した。
アサキの胸が、貫かれていた。
柄まで、ずぶり、突き刺さっていた。
という残像か幻想に、瞬き、応芽は舌打ちする。
赤毛が、瞬間的に、背後へ回り込んだのだ。
「舐めんな!」
激高。くるり振り向きながら、剣を叩き下ろした。
アサキが、二本のナイフを横から叩き付け、太刀筋をそらしつつ、その勢いを利用して距離を取った。
ここは東京。
青い空の下。
高層ビルすらもすべて眼下の、地から遥かな上空で、二人は戦っている。
真紅の魔道着。
応芽の持つのは、洋剣。
中学校の制服姿。
アサキは、左右の手にそれぞれ、ナイフを持って。
空中。
上から、下から、横から後ろから、乱れ吹く、氷のように冷たい強風の中を。
まるで瞬間移動、残像消えぬうち、あちらこちらで武器をぶつけ合う。
時折、動きを止めては、睨みながら、ぜいはあ肩を上下させるが、呼吸の整わないうちに、どちらかが攻撃を仕掛け、また空中での打ち合いが始まる。
停止しては目から、動いては刃から、常に火花を散らしながら、彼女たちは戦い続けていた。
先ほどまでは、アサキが圧倒していた。
だがまた、応芽が押し返していた。
形成逆転というほどではなく、あくまで押しているのは、アサキであるが。
戦い始めの頃と比べて、の優越で考えれば、完全に立場逆転であった。
いまや応芽の方こそが、気迫でアサキに食らいついて、なんとか互角の勝負に持っていっている。
と、このような状況であるのだから。
妹のために、アサキを
自分は特殊な魔道着を着ており、相手は並どころかそもそも魔道着を着ていない。という、崩壊一歩手前ではあるが自尊心からの憤慨心がある。
応芽としては、状況不利になろうとも、絶対に負けられないと気迫燃やすのも当然だろう。
「くそっ、実はポンコツなんやないかあ? この魔道着!」
こうも押され続けていれば、真紅の魔道着への疑念も沸くだろう。
対するアサキがなにかしら魔道着を着ているならいざ知らず、単なる中学の制服姿とあっては。
「なら、もうやめようよ。そんな物があるから、戦わないといけないんだ」
向き合いながら、アサキは悲しげな顔を応芽へ向けた。
強力な魔道着と聞いて、ウメちゃんは、取り憑かれてしまった。
世界を守るための力は必要だけど、過ぎたる力なんか、持ってなんの意味があるのか。
「関係ないわ! そしたらいくらでも違う方法で、お前をヴァイスタにしてやるだけや!」
自分の着ている真紅の魔道着へと、恨めしそうな視線を向けていた応芽は、顔を上げると、小癪なことばかりをいっているアサキへ、ピシッと指を差した。
少しの沈黙の後、アサキは、眼光しっかり受け止めながら、口を開く。
「わたしは、ならないよ。この世界を、守り続けるから。守るべきこの世界がある限り、絶望はしないから。だから、ならないよ」
「ははっ、随分と饒舌になってきたやないか!」
作った笑みを浮かべて、応芽は体当たり、がちりぶつかると、また剣とナイフの押し合いが始まった。
押し合い、といっても、一方的に応芽がガツガツと、ガムシャラに当たっているだけであるが。
「やめよう。いまのウメちゃんは、わたしには勝てないよ」
「その姿でなにをゆうとんじゃ!」
応芽は、怒鳴りながら、弾き飛ばそうと、ぐうっと剣の柄を押し出した。
アサキは、軽くいなして、ぐるり背後へと回り込んだ。
同時に、どんと背を強く押して、少し距離を取った。
バカにするでもなく、真摯な、悲しげな表情を、応芽へと向ける。
「本当に、こんなことが、雲音ちゃんのためになるのかな?」
「そう思わなきゃあかんやろ! これが、あたしの人生なんや!」
突き出される、応芽の剣先。
アサキは二本のナイフで、剣と絡め取りつつ、横へ流し、攻撃をそらせながら、
「ウメちゃんは、ウメちゃんでしょう!」
怒鳴った。
「そうや。自分の人生をぶっ壊してでも、楽しげに笑いながら、お前を絶望に追い込もうとしとる、それが慶賀応芽様や! あたしは、こんな程度なんだよ!」
「いい加減にしないと……もう一度、殴る!」
「好きなだけ殴るとええわ! でもなあ、あたしは……お前なんかに、負けるわけにはいかへんのやああああ!」
この戦いが始まって、お互いに何度も声を荒らげたが、これは何度目の絶叫だろうか。
明らかに、先ほどまでのものとは異質だった。
気迫。
怨念。
情念。
執念。
悲哀。
必死。
悲痛。
焦燥。
憤怒。
それらの思いが混ざり合い、爆音じみた叫び声が、口から吹き出されていた。
彼女の妹、慶賀雲音。
おそらくすべては、そこに起因する感情なのだろう。
魔力を持つ者以外には、ただ叫んでいるだけに見えるだろう。
アサキには、気脈から発せられる感情の昂ぶり、噴き上がる魔力の光が、はっきりと見えていた。
応芽の魔法エネルギーが、上空を吹き荒れている強風と融合して、さながら八ツ又の龍といった具合に、ごうんごうんうねっていた。
「これは……」
アサキが、その眩しさに目を細めた、その瞬間である。
応芽が、爆発した。
体内のエネルギーを溜め込み切れず、すべて逆流して一気に吹き出したのだ。
轟音、豪炎と共に、アサキの身体は堪らず吹き飛ばされていた。
呻き声を上げながら、足元の空気を蹴ってブレーキを掛け、その場に踏みとどまると、はあはあ、息を切らせながら、細めた目を開いた。
真紅の魔道着、応芽が、空中に立ち尽くしている。
ごんごんと、眩しい光の粒子を噴き出しながら。
顔を落とし、不思議な、信じられないといった、表情で。
「いままで、自分にリミッターを掛けとったっちゅうことか。……負けられへん気持ちが、すべてぶっ飛ばしたちゅうことか……」
しばらく、自分の両手や、真紅の魔道着、ごんごん噴き出す魔力の粒子を眺めていた応芽であるが、やがて、嬉しそうに微笑んだ。
顔を、上げた。
「えろうたいしたもんやなあ、この魔道着は。……さっきは、思い切りコケにしてもうたけど。なんや、ええ気持ちや。……ええ気持ちや! 力が、身体ん中から、いくらでもみなぎってくるでえ!」
どん!
収まり切らない膨大なエネルギーが、また、噴き上がり、爆音を上げた。
応芽の背中、両肩。
真紅の魔道着から、ゆらゆら揺れる、巨大な炎。
微笑む彼女の表情とあいまって、それは、まるで悪魔の翼であった。
「行くでえ!」
嬉しそうに叫びながら、軽やかに宙を蹴った。
悪魔の翼を得た応芽は、自らの残像を砕きながら、超速でアサキへと突っ込んで、そのまま突き抜けていた。
「うあ!」
どう、と跳ね上がるアサキの身体を、今度は戻りつつの追撃が、再び跳ね上げた。
ブレーキを掛けた応芽は、腕を組んで、楽しげな顔。
激痛に顔を歪めているアサキを見ながら、ゆっくりと、口を開いた。
「圧倒的やなあ、この力。こら病み付きになるで。さあて、どうやって令堂和咲に絶望を与えたるかあ。どうやって
満足気な笑みを浮かべながら、応芽は、アサキを見つめている。
悪魔の翼に、身体をボロボロにされ、苦痛を堪えている、アサキを。
アサキは、痛みを押し殺しながら、嫌らしい視線を真っ向から受け止め、疑問の言葉を発した。
「ねえ、ウメちゃん……こうして、強くなって、どんどん壊れていっちゃうなら、それは、本当に、強さ、なのかな」
「うん、まあ本当の強さやないんやろな。つうか、お前の求めとるスポーツマンシップ選手宣誓みたいな強さなんて、どーでもええねん! あたしはただ、雲音を助けたいだけやゆうとるやろ。記憶力がないんか?」
「雲音ちゃんをどんなに大切に思っているか、それなりには、理解出来るつもりだよ」
「ほざけや。お前なんかに、分かるわけないやろ。義理の親どころか……」
新たな力を得た興奮に、ぺらぺら舌を動かしていた応芽であったが、自分のその言葉につっかかって、不意に口を閉ざした。
「どころか、なに?」
アサキが聞き逃さず、食い付いた。
「なんでもないわ」
「まだ思い出し切れていないんだけど、さっきのことで、わたしの記憶は嘘で包まれていることは分かった。ウメちゃんは、もっとたくさんのことを知っているんだよね。わたしが辛くなるような……でも、いうのを躊躇ってくれた。やっぱり、優しいんだよ。ウメちゃんは」
アサキは、警戒は怠らず、でも、少し表情を緩めた。
「アホ抜かせや! 全部を思い出させようとしたんやけど、お前がアホやから、中途半端だっただけやろ」
「でも、いまの無意識の行動は、やっぱり優しいウメちゃんだよ」
「はあ? 決め付けも、たいがいにしとけ。……そうや、お前を追い込む、ええことを思い付いたで。その義理の親を、ぶっ殺したったら、さすがに心が粉々になるやろなあ」
「そんな、心にもないことを、いわないで」
「百パーセント本音でゆうとるわ」
「信じない。でも、冗談でも、いっていいことと悪いことがあるよ。……血は繋がってないけど、わたしだって
「ああそうなん? ほな、強い方が勝って、お前は守りたい者を守り、あたしは手に入れたい力を手に入れる。分かりやすくてええね。ほな遠慮なく……ぶっ潰させて貰うで! 令堂和咲!」
どおおおん!
さらに巨大に、魔法力の粒子が作る翼が膨れ上がった。
体内に、真紅の魔道着に、おさまり切らない、応芽の力、魔法力が。 どるどると、噴き出している。
巨大な翼というだけでなく、うねうねと無数の、光の蛇が、身体を這い回り、包み込んでいる。
「お互い、もう飽きたやろ? しまいにしようや」
噴き出す莫大な魔力エネルギー。
自分自身から放出した、エネルギーの中心で、応芽は、右手の剣を強く握った。
「是非も、ないのか……」
アサキは、悲しい表情を浮かべると、きっと睨む目付きを応芽へ向け、二本のナイフを胸の前で構えた。
「ええヴァイスタに、なるとええよ」
にたり。
応芽が頬を、唇を、釣り上げた、その時であった。
どん!
真紅の魔道着が、爆発したのは。
大きくはないが、低く重たく空気を震わせる爆音。
魔道着は破れに破れ、胸や肩の装甲もすべて弾け飛んでいた。
あちこちの破れ目から、光の粒子と煙が混ざって、蒸気のごとく、噴き出している。
「ウメちゃん! 大丈夫?」
アサキが心配そうな顔で叫び、近寄ろうとする。
内部からの魔法力の爆発に、すっかり姿ボロボロになって、煙を噴き出している応芽へと。
意識朦朧とした表情の応芽。
がくん、と重力に引かれ、身体が落ちそうになるが、かっと目を見開くと、右手の剣を伸ばし、
「敵やで!」
近付こうとするアサキの鼻先へと、突き付け、牽制した。
「でも、でもっ、魔道着が……」
「まだまだ。これからや」
身体のあちこちを焦がしながら、ぎりり、錆びたブリキ人形のぎこちなさで、右手の剣を構えた。
はあはあ、息を切らせながら、強気な笑みを浮かべた。
誰が、想像出来ただろう。
次の瞬間に、彼女の身に起きたことを。
応芽のまぶたが、驚愕に、大きく見開かれていた。
向き合う、アサキの顔も同様であった。
「なんや……」
応芽は、ゆっくりと、首を、下に向けた。
剣が、突き出ていた。
自分の胸元から、血に濡れた、剣先が。
背後から突き刺され、そのまま貫かれたのだ。
血に染まった剣先が、引かれ、すうっと音もなく、応芽の中へと消えていく。
ごぶ、と、血が溢れて流れた。
応芽の、口から。
真紅の魔道着と、同じくらい赤い、血が。
瞳、身体を、ふるふると震わせながら、ゆっくりと、振り向いた。
再び、その目が見開かれていた。
先ほど以上の驚愕が、その青ざめた顔に浮かんでいた。
振り向くと目の前には、応芽と同じ顔をした、薄黄色の魔道着を着た、魔法使いが、無表情で、剣を片手に、空中に立っていたのである。
「なんで……雲音が、どうして……ここに……生きて……」
驚愕の次は、困惑であった。
何故、雲音がいるのか。
奇跡的に魂が蘇ったのだとして、何故、姉を殺そうとするのか。
何故……
「なんかの、間違いやろ。雲音が、そんなことするはずあらへん。あのな、お姉ちゃんな、頑張ったんやで。雲音と、また……雲音と」
ふっ
応芽の意識が、落ちた。
白目をむいて、がくり身体の力が抜けると、浮力を失い、遥か眼下、吸い込まれるかのように、落ちていった。
5
落ちている。
風を切り、地へと速度を上げながら。
焦げて破れたところ、切り裂かれたところ、魔道着のいたるところから、どろどろと瘴気を吹き出しながら。
意識なく、引力に身を委ねて、落ちている。
冷たく激しい風の中に、
「いま行く!」
真っ逆さま、天を蹴り、蹴り、蹴り、追い掛ける。
仲間、大切な友達を。
学校の制服姿で、必死に、追い掛け、追い付き、追い越した。
すぐさま、くるり身体を前転させて、天地に対し体勢を正常に直すと、風を切って落下してくる応芽の身体を、両手で受け止めた。
ぶづっ
「うぁっ!」
降下しながら受け止めたものの、速度を相殺し切れなかった。
ぐうん、と下に持っていかれるのを、堪えようとした瞬間、腕が引きちぎられそうになり、思わず悲鳴を上げた。
赤毛をばさばさなびかせながら、激痛に顔を醜く歪て、ぎりぎりと歯軋りをしながらも、応芽の身体は手放さない。
手放せるはずがない。
眼下に、地上がどんどん大きくなる。
懸命に落下速度を落とそうとするが、そうするほど腕を、全身を、激痛が突き抜ける。
アサキは、複数の呪文を、同時に唱えることが出来る。だが現在、そのすべての魔力を、空中制御系にのみ集中させている。
だから、応芽を抱きかかえるのは、自分の体力のみだ。
落とすまい、と必死に抱きかかえ、抱き締めるが、これまでずっと生身のままで戦わされており、過剰酷使に、もう肉体は限界だった。
限界だったが、
「絶対に、離さないっ!」
疲労に意識が朦朧としながらも、腕に力を込め続け、心の中で呪文を唱え続けた。
どうっ!
重く激しい衝撃が、身体と意識を、吹き飛ばし掛けた。
地面に落ちて、背を思い切り打ち付けたのだ。
透明な巨人の手にもぎ取られ、応芽の身体は、アサキから引き剥がされて、宙に浮いた。
再び地に落ち、小さくバウンドした。
応芽の身体からは、変わらずしゅうしゅうと、黒い光の霧が体内から噴き出している。
変身が解除されて、私服姿に戻っていた。
ボロボロになった、真紅の魔道着から。
完全に意識を失っているのか、浅く胸を上下させているのみで、それ以上まるで動く様子がない。
墜落時のクッションになったアサキは、激痛を堪えながら、頭を振って、朦朧とした意識を吹き飛ばすと、素早く上体を起こした。
はあはあ、息を切らせながら、
「ウメちゃん、しっかり!」
両手で地を引っ掻いて、応芽へと這い寄った。
両膝を地に着いて、前のめり、身体を覆いかぶせ、横たわる応芽へと手を翳した。
翳した両手が、ぼおっと青白く光る。
「い、いま治すからっ」
苦しそうな顔で、必死に治癒のエネルギーを送る。
呼吸の整わない状態で、如何ほどの効果があるのか。
でも、でも、待ってなどいられない。
早く、少しでも、治さないと。
ウメちゃん。
ウメちゃん!
心の中で、泣きそうな声を出しながら。
手を翳し続ける。
応芽の身体あちらこちら、特に剣で貫かれた胸から大量に、しゅうしゅうと黒紫の煙が上がっている。
体内に溜め込めなくなった膨大な魔力が、様々な負の感情と融合し、焼け焦げて吹き出しているのだ。
地面に、小さな影。
気付いたアサキは、治療の手を翳しながら、そっと顔を上げた。
十メートルほどの高さに、魔道着姿の少女が、ゆらゆらと浮いている。
応芽とまるで同じ顔をした、魔法使いが、なんの表情を浮かべることもなく。ただ空気の流れに揺れている。
同じ、顔。
雲音、ちゃん?
でも、何故、ウメちゃんを刺した。
謎の魔法使いを睨み掛けるアサキであるが、恨みの感情では治癒の効果が半減する。もどかしい気持ちだったが、視線を落とし、応芽の治療に専念する。
だけど、これはどうしたことか。
邪念を払い、すべての魔力を治療のために集中させているというのに、応芽の胸に大きく開いた傷口が、まったく小さくならない。
いつまでも、しゅうしゅうと黒紫の煙を吹き上げているだけだ。
「アサキ!」
カズミの声だ。
変身の解けた中学校の制服姿で、息せき切って走ってくる。
銀黒大柄、
「な、なにが、どうなってんだよ! ウメは……つうか、なんなんだよ、あれは!」
空に浮いている魔法使いを、カズミは指さした。
この状況に対し、すっかり混乱しているようである。
それも当然だろう。
カズミの立場からすれば。
戦いを見上げていたら、遥か上空からアサキたちが墜落。
急いで駆け付けてみれば、応芽は半死半生。
死闘を演じていたアサキが、懸命に治療を施している。
ここまでならば、まだ分からなくもないだろうが、
応芽の身体からは、得体の知れない煙が噴き出して、
さらには、空中に浮いている、謎の魔法使い。
しかもそれは、応芽と同じ顔をしている。
ともなれば。
「アサキ! なあ、なにが起きてんのか、教えてくれよ!」
カズミの怒鳴り声。
アサキは、顔を上げた。
泣きそうな顔、いや、泣いている。
涙を、ボロボロとこぼして。
そんな、弱々しい泣き顔を、アサキはカズミへと向けた。
「傷が……ウメちゃんの傷が、塞がらないんだ」
横たわっている応芽。
その胸に、青く輝くアサキの両手が、翳されている。
胸の傷口からは、しゅうしゅうと音を立てて、黒紫の煙が噴き出している。
カズミは、応芽を睨む目付きで見下ろしながら、拳をぎゅっと握ると、
「あたしの魔力も使え」
中腰になり、開いた手のひらを、アサキの肩に置いた。
「こいつにゃ、聞きたいことがある。償ってもらわなきゃならないことがある。まだ、思い切りひっぱたいてもいないし……死んで欲しく、ないんだよ!」
肩へ手を置いたまま、悔しそうに顔を歪めて、踵を地に踏み落とした。
「あき……ば……か?」
弱々しく、かすれた声に、カズミ、アサキ、祥子の三人は、視線を落とした。
応芽の顔を見た。
「ウメ……」
「昭刃、の声やな。目が、見えないんや。……ザマア、ないやろ? あかんこと、したからなあ。令堂と戦うやなんて。ははっ、自業自得や」
「喋らないで!」
手を翳しながら、アサキが泣き顔を険しくさせて、声を荒らげた。
また、やわらかく、弱々しい表情に戻ると、
「分かっているよ。仕方のないことだったんだろうな、って」
「令堂……あたしホンマ、あかんことした、から、せやから、雲音が、いてもたってもおられず、叱りに、きて、くれた。魂、滅んで、なんか、おらんかった」
視点の定まっていない目を薄く開けて、見えないけど空中に浮かんでいるはずの、魔法使いを見上げながら、応芽は微笑んだ。
「安心して、死ねるわ。行き先は、地獄かも、知れへんけど、まあええわ」
ごぼ
微笑む応芽の口から、大量の血が溢れた。
頬を伝って、地を真っ赤に染めた。
「ダメだよ、そんなこといっちゃ! 治すから、わたし必ず治すから! だ、だからっ!」
ぼろぼろ、ぼろぼろ、涙をこぼしながら、アサキは、胸に手を翳し続ける。
噴き上がる黒紫の煙が、アサキの手を避け、指の間をすり抜けて、立ち上り続けている。
しゅうしゅう、しゅうしゅう、煙が上る。アサキの思いを、あざ笑うかのように。
それでもアサキは、信じ続け、念じ続けることしか出来なかった。
と、その時である。
足音が、新たな人物の登場を告げたのは。
「慶賀応芽を泳がせておいたら、こんなことになるとはね。世の中、生きていれば面白いことが起こるものだ」
グレーのスーツを着た、大柄な男性。
リヒト所長、
数人の部下と一緒だ。
その声に、応芽は、ぐったりしたまま首を横に向け、視点定まらぬ目をグレースーツの男へと向け、にんまりとした笑みを浮かべた。
「せやろ。雲音は、死んでなんかおらんかった。魂、砕けてなんか、おらんかった。
この言葉を喋るだけで、どれほど体力を消耗したのか。
応芽は腕を広げ、大の字になって、瀕死の犬のように、はひいはひいと呼吸荒く、胸を膨らませた。
でも、その顔は、とても満足げであった。
しばらく、その様子を見下ろしていた、リヒト所長であったが、やがて、ゆっくりと口を開いた。
「あの……いいかな、ただ疑問に感じたので尋ねる、というだけなのだけど。本当に、あれが自分の妹だと、慶賀雲音だと思っているのかい?」
グレースーツの男は、小さく首を上げて、空にゆらゆら揺れている魔法使いを、見上げた。
アサキたちも、つられて、見上げる。
応芽と瓜二つの顔の、少女を。
すっかりボサボサの汚れた髪になっている応芽と違い、整髪料でおでこにピッタリ撫で付けている、綺麗な髪の毛。
その顔には、なんの表情も浮かんではいない。
薄黄色の魔道着に、身を包んでいる。
応芽と同じ顔だが、着ている魔道着は違う。そして、応芽本人はここにいる。
と、なれば普通に考えて、話に聞いていた双子の妹、雲音、ということになるのだろうが……
しかし、それを否定しているとも捉えられる、至垂徳柳の言葉。
「なにを……ゆうとんのや」
はあはあ、息を切らせながら、
しゅうしゅう、胸から煙を吹き上げながら、応芽が鼻で笑った。
至垂徳柳の、次の言葉は早かった。
それを受けた、応芽の表情が変わるのも。
「無自覚無責任、不感、欺瞞、きみのそれは演技なのかな? と、聞いている」
「え……」
ぴくり、と、応芽の身体が震えていた。
身動き取れず、横たわったままで。
数秒前と、完全に表情が一変していた。
菩薩の境地、というほどではないにしても、このまま死んでも構わないというやすらかな表情が一変して、不安、猜疑、畏怖、怒り、慚愧、これでもかとばかり負の感情が混ぜ込まれた顔になっていた。
「まさか。まさか、そんな!」
視力を失っている目を、かっと見開くと、この世を未来永劫呪うかのような、凄まじい雄叫びを張り上げた。
息も絶え絶えの、どこにそんな力が残っているのか。
じゅわあああっ
その叫びに呼応して、胸から立ち上っていた黒紫の煙が、勢いよく、間欠泉の勢いで噴き上がった。
どろどろと、狂気の粘度を帯びた、ドス黒い煙が。
応芽は、声にならない声を、叫び続けていた。
6
地に横たわったまま、ぶるぶると、身体を震わせている。
体内の血液を、すべて失ったかのような、青ざめた、白い顔で。
慶賀応芽は、輝きを失った、濁り乾いた目を見開いて、身体を震わせている。
信じたくないという思い、ああやっぱりという諦めの気持ち。
そんな、二つの気持ちが交錯しているように、アサキには、思えていた。
じゅわじゅわと噴き出す瘴気に、肌が焼け焦げそうになるが、それでもアサキは、横たわる応芽の身体に手を翳し、治療を続けていた。
だって、それしか今の自分に出来ることがないから。
考えるのは後。
治療が先決だ。
と、胸に唱えた瞬間、その胸が、どきりと跳ね上がっていた。
応芽の、濁った両目から、どろり、血が黒い涙になって、両の耳を伝って地を濡らしたのである。
「ウメちゃん!」
不安げに応芽の顔を覗き込んだアサキは、続いて、軽く顔を上げ、この状況をもたらす言葉を吐いた
アサキのすぐ後ろに立っているカズミも、やはり同じように思ったか、彼を睨んでいる。
その隣にいる銀黒の少女、祥子は、前方を見つめているだけで顔からは感情が読めない。ただ、ざりざりと踵を地に擦りつけている仕草が、すべてを語っていたが。
彼女たちから放たれる負の視線を、むしろ心地よさげに受けながら、
地に横たわり震えている慶賀応芽を、ほぼ垂直に見下ろした。
「推測を話そう。とはいえ、状況やこれまでの調査から考えて、ほぼ間違いないこととは思うがね」
もったい付けた前置きをし、少し間を空けると、彼はまた口を開いた。
「慶賀応芽、きみは、妹である
ここで言葉を切る。
応芽は、苦しそうな表情、焦点の定まらぬどころか濁りに濁った目で、自分の足元に立っているリヒト所長を、睨み付ける目付きで、見上げている。
声は出ずとも状況は理解しているようだね。とでもいいたげに、
「そう、思い込んでいた。何故? それは、無意識の中で、罪悪感から逃れるため。魂を消滅させ、輪廻の対象から永久に外してしまったことの。そして、様々な都合のよい行ないを、すべて妹のせいにするために」
「二重人格だとでもいうのか? そんな様子はなかったぜ」
カズミが横槍を入れる。
「それとは違うね。魂の生存を無意識に信じる思いが、心理に多大な影響を与えた、というだけ」
その通りならば、その通りなのだろう。
そう思えばこそ、妹を蘇らせるために、応芽は苦悩苦闘していたのだから。
「偉そうによ。で、ウメの生真面目さというか、お人好しの気持ちで、今度はアサキへの罪悪感が膨らんだ。無意識下で信じている、妹の魂が現れて、悪いお姉ちゃんをお仕置きした、ってことか?」
「そうだね。今度は、令堂さんを滅ぼさねばならない、ということから逃げたんだ。心の弱さが、そうせねばならぬことに耐えられず、自分で幻影を作り出して、自分を殺したんだ」
「ウメちゃんは弱くない!」
アサキは、声を荒らげて、
そよ風ほどのことも起こらなかったが。
グレーのスーツ、
「令堂和咲、きみも色々と知ってしまっただろうし……他の者たちにしても、必要なら記憶も記録も、いくらでも塗り潰せるから、気にせずこのまま、話を続けてしまうけど……」
ちらり、アサキたちを見る。
不安、恐れ、怒り、などがない混ぜになった、少なくとも好意など微塵もない、そんなアサキとカズミの視線、表情。
むしろ心地よさげに受け止めながら、
「わたしは、完全な『
「こうなることが分かっていて、家族のために苦悩していた女の子を笑って見ていた人が、なにをいって……」
アサキの侮蔑の視線、言葉。
すぐグレースーツに掻き消されてしまう。
「だからあ、いまいった通りなんだってば。大義では、わたしのしていることが正しいの。小義を気にしていたら、そりゃあ色々とあるさ。歴史上の、世の中を変えた戦だって、それで死んでいった者たちはたくさんいるんだ。それでもカエサルは偉人だろう? ナポレオンは偉人だろう?」
言葉を遮って、自分の価値観に酔っている
「メンシュヴェルトに、慶賀応芽を送り込んだのは、良質の魔法使いを素体に真のヴァイスタを造り出すため。特Aの令堂和咲と、その他クラスAの魔法使いをね」
「
カズミは、拳を握りながら、ぎちぎちっと歯を軋らせた。
リヒト所長は、返事をする代わりに、小さく唇を釣り上げた。
「でも慶賀応芽は、令堂和咲たちに触れているうち、好きになってしまった。彼女らと一緒にいることが、心地よくなってしまったんだ」
「こんな、甘ちゃんたち、だ、誰が、嫌いに、なれるんや」
震える、応芽の声。
アサキの治癒魔法もむなしく、胸からどろどろと煙を吐き出している。
視点定まらぬ、そもそも濁りきって、まるで見えていないであろう目。
リヒト所長への恨みというよりは、アサキたちとの思い出に浸っているのだろうか、とてもやわらかな顔になっていた。
「その甘ちゃん以上に甘い、必要時にすら冷酷になれないクズには、狙った魔法使いをヴァイスタにしようなど出来るはずはなかった。最初から、分かっていたことだがね。だからこそ、特使として選んだんだ」
ふっ、とリヒト所長は鼻で笑った。
「甘いことが……冷たくなれないことが、どうしてクズなんだ」
アサキの、低く押し殺した声。
彼女にしては珍しい、凄みのある、少し乱暴な言葉遣いであった。
それだけ、頭にきていたのである。
「だってそうだろう。知っていて就いた任務であり、自分の家族の生命が懸かった問題でもある。だというのに、与えられたことをまっとうできないどころか、しようともしない」
「だからって……だからって、そんないい方をしなくても!」
「アサキ、どっちがクズか問答してたって仕方ねえよ」
カズミが話に割って入った。
「一つ、教えて欲しいんだけど……あたしたちの仲間、
カズミは視線を落とし、ぜいはあ息を切らせている瀕死の応芽を見た。
「わたしが直に見たわけじゃないけど、本人の報告や、クラフトに記録された活動レポートによると、慶賀応芽は、必死に阻止しようとしていたらしいね。大好きな仲間である、大鳥正香のヴァイスタ化を」
「でも、さっきはこいつ……
「でも、無意識にブレーキを掛けたママゴトみたいな戦い方で、生身の令堂和咲に負けただろう?」
「そんなの、アサキが桁外れに強かっただけじゃねえかよ」
「昭刃和美、信じたいのだね。慶賀応芽のことを」
「え、ちが……ああ、そうだよ! 悪いか!」
「信じていいよ。慶賀応芽は、きみたちの、信頼のおける仲間だ。わたしにとっては、抱く願望の大きさに対して、能力どころか信念すらも中途半端な、蔑むべき存在だけどね」
「そんないい方をしないで!」
アサキが激高し、声を裏返し怒鳴っていた。
いわれた当人は、不謹慎を恐縮するどころか、むしろ心地よさげな笑みを浮かべていたが。
「こうした状況になることは、想定の範囲というより、すべてにおいて予想の通りだった。慶賀応芽ごときには、令堂和咲たちを超ヴァイスタにすることなど、最初から不可能だった。でも、そんなことはそもそも不要だった。だって今回の実験計画は、慶賀応芽自身を絶望に追い込んで、ヴァイスタ化させることだったのだからね」
リヒト所長は、言葉を切ると、楽しげな顔で視線を動かして、魔法使いたちの表情を確認した。
「酷い……」
アサキは、震える声でいうと、地面を殴り付けた。
「く……
応芽が、地に横たわりながら、手を上げ、伸ばした。
空中にゆらゆら揺れている、慶賀雲音の、幻影へと向けて。
目が見えないどころか、既に意識も朦朧としているようである。
夢と現実が、ごっちゃになっているかも知れない。
「存在するはずがないだろう。きみが魂を消滅させたんだから。都合のよいことが起こるのは、むしろ魔法ではないよ」
夢の中にまで踏み入り、微かな希望を打ち砕こうとする、
「ああ、うあっ……」
応芽の胸の傷口から噴出する、黒紫の煙、その勢いが激しくなった。
まるで、高圧掛けられた蒸気である。
「雲音……」
視点の定まらない応芽の目から、また、どろりどろり黒い涙が流れて、こぼれ落ちた。
「もちろん、令堂和咲が
「てめえ、自分がなにをいっているのか、分かってんのか」
カズミが、だんと強く地面を踏み付けた。
「わたしほど、発言に気を付けている者はいないよ。……さて、この後どうなる、か。慶賀応芽の無意識が信じていた、妹の魂の生存、それが完全に絶望へと変わったわけだが。どのようなヴァイスタが誕生するのかな。……もしも失敗作だったならば、すぐに昇天させる。念のため、魔法使いをもう何人か呼んでおけ」
グレーのスーツ、リヒト所長は、数人の部下へと命令した。
「そうは、させない」
アサキが立ち上がっていた。
リヒト所長、
「ウメちゃんを……人間を、なんだと思っているんだ」
7
「人間の世であるからこその仕組みがあり、すべきことがあるのだよ。果たせるか、果たせぬか、果たそうともせぬか、ただ、それだけのこと」
笑うでも、怒るでもなく、理の当然といった様子で、淀みなく舌を動かすグレースーツの男、
その饒舌に勝てなかろうとも、なにか一言は浴びせてやろう、と思うアサキであるが、実際に口を開いたのは、彼女の足元で息絶え絶え横たわっている、
「ただ、お、泳がせ、とった、だけ、のくせに、偉そ、うに」
かすれた声で、言葉ぶつ切りに。
一言発するたび激痛が襲うのか、顔がぐちゃぐちゃである。
「気持ちのいいくらい、思っていた通りに泳いでくれたね。メンシュヴェルトの持つ、異空やヴァイスタのデータを盗もうとしたのは、意外だったけど」
先ほど、戦っている最中に、応芽がアサキに話していたことだ。
「その件が起きたことで、色々とシナリオを思い付いてね。そこからはまた、びっくりするくらい、こちらの考えている通りにことが進んだよ。慶賀雲音を救うためには、やはり超ヴァイスタを作る以外にないのだ、と思わせるために、リヒト側の持っている情報を教えてあげて、そこからは、一本道の筋書きだ」
グレーのスーツのしわを直して、ひと呼吸すると、また言葉を続ける。
「メンシュヴェルトでやらかしたことの、お咎めがないどころか欲しい情報まで貰えて、違和感を覚えたよね? この研究施設に、簡単に侵入出来るなんて、おかしいと思っていたよね? 最新の魔道着を簡単に奪えるなんて、おかしいと思ったよね? 思っていても、妹のためやらないわけにはいかなかったんだよね?」
嬉しそうに喋る、所長。
絶望を操作していることを、あえて主張して、応芽の心をより追い込もうとしているのだろう。
そう思ったからこその、次の、応芽の言葉なのだろう。
「あたし、なんかを、ヴァイスタ、にしても、しゃあ、ないで。多少、ひねくれとるだけの、地味な、のが、一匹、生まれるだけや」
「謙遜。きみも
所長、
「Cクラス、やろ、あたしは」
「ああ、きみには教えてなかったんだった。劣等感の中で、どう育つか、成績を操作していたからね。きみ、特とまではいわずとも、Aには余裕で入れる魔法力を持っているよ。令堂和咲専用の魔道着を、少しの間とはいえ、使いこなしたのがその証拠。通常は、着た瞬間に魔力を吸い尽くされて、全身を疲労と激痛が襲って動けなくなるよ。特Aに近いAだ」
「ははっ、それは、嬉しいなあ。もう、どうでも、ええけどな」
「ここで戦いになることも、令堂和咲がお得意の甘っちょろい戯れ言を吐いて、きみの罪悪感を揺り動かすことも、予想通りだったよ。特Aの令堂和咲が
にやり、リヒト所長はいやらしく唇を釣り上げた。
あらためて、雲音は決して蘇らないことを、応芽の心に叩き付けているのであろう。
だが、
予期せぬことが起きた、ということか、
ぴくりと、引きつっていた。
「絶望、なんか……せえへんよ」
笑顔を浮かべて、立ち上がろうとしているのである。
応芽が。
胸から、しゅうしゅうと黒色の煙を噴き出しながら、苦痛に顔をぐしゃぐしゃにしながらも、幸せそうに、笑みを浮かべて。
「ウメちゃん。無理しないで!」
アサキが悲痛な顔で、肩を押さえ付けた。
応芽の、ミイラよりやつれきったガリガリの身体の、どこに力が残っているのか。応芽は、制すアサキの腕を、むしろ掴んで支えにしながら、全身をぶるぶる震わせながら、立ち上がっていた。
「あたし、絶望なんか、せえへんよ」
その目は、すっかり濁っているばかりか、乾いてヒビすら入っている。
もう、いかなる光も感じてはいないだろう。
だけと、その目は、真っ直ぐと、リヒト所長、
「へえ」
受けた所長は、澄ました表情で、また唇を釣り上げて見せる。
だが、少し引きつった、ぎこちのない笑みであった。
「雲音、を助け、る方法、必ず、ある、と信じ、とるから。せやから、あたし、絶望なん、て、しない」
濁りきった目を、正面へと向けて、はあはあ、肩を大きく上下させている。
「せやろ。……だって、あたしがヴァイスタに、なったら、雲音を、抱き締め、られへんや、ないか。お帰りな、さいって、いえへんやないか。二人で、過去を笑えない、やないか。未来、を、笑えないや、ないか。……でも、残念、やな、未来も、なに、も、あたしの、この、生命は、もう、おしまいみたいや」
苦笑を浮かべた。
がくりと崩れて、地に両膝を着いた。
「ウメちゃん!」
慌て自分も屈み、介抱しようとするアサキであるが、びくり肩が震え、その目が驚きに見開かれた。
体内でなにが爆発したのか、応芽の胸から、これまでないくらい濁った、粘度のある、黒紫の煙が、噴出したのだ。
「があああああ!」
応芽の悲鳴。
顔が苦悶に満ちて、ぐちゃぐちゃである。
果たして、どれだけの激痛に襲われているのか。
ずっと、尽きぬ瘴気を吹き出し続けていた胸の傷であるが、どろどろ溶け広がって、ぽっかりと大きな穴が空いていた。
背中の、向こうが見えていた。
アサキが頭を抱えて、金切り声の悲鳴を張り上げた。
胸の傷だけではない。
指の先端も、肉が溶けて、骨が見えていた。
その骨すらも、液状化が始まって、ぐちゅぐちゅとゼリー状になっていた。
「状況的に『絶望しかない』こと、理解していないはずがない。本来なら、ヴァイスタ化しているはずだが。それを魂で抗おうとすると、このようになるのか。これはこれで、面白い」
グレースーツの男、
計算通りにいかなかった苛立ちよりも、新たな事実を知ることが出来た興奮が勝るのか、とても嬉しそうな表情で。
「令堂……」
応芽の、身体全体が、じくじくと、着ている物までが溶かされて、ただの、粘液の塊になりつつあった。
そんな状態で、アサキへと顔を向け、アサキを呼んだ。
ただ顔を向けたというだけで、もうその目は、いかなる光も感じてはいないのだろうが。
「楽し、かった。一生、忘れ、へんよ。まあ、その一生も、もう、しまいや、ねんけど、な」
「そんなこと、いわないでよ! お願いだから! ダメだよ。死んじゃ、ダメだよ! 治すから、わたしが治すからっ! だ、だからっ、ウメちゃんっ!」
ぼろぼろ涙をこぼしながら、青白く輝く魔法の手を、応芽のあちらこちらへと翳すアサキであるが、その必死な思いが、いかなる奇跡を起こすことも、なかった。
応芽の肉体は、どろどろと、溶け続けていった。
「
「お、お前、なにしょいこんでんだよ。なんで、話してくれなかったんだよ。な、なか、仲間とかさっ、いっといてよ、一人でしょいこんでんじゃねえよ!」
いつ泣き出してもおかしくない顔で、カズミは、怒鳴り声を張り上げた。
拳を握り、踵を踏み降ろした。
「堪忍な」
もう痛みも感じないのか、どろどろと皮膚が半分溶けた顔で、応芽は、優しく微笑んだ。
「祥子。こいつらのこと、任すわ」
少し首を傾げて、嘉嶋祥子へと、ぐちゃぐちゃになった顔を向けた。
いつも薄笑いを浮かべている祥子であるが、いま彼女は真顔、表情を押し殺して、微かに身体を震わせている。
「リヒトの任務と相対しないところでならば。わたくしのところでは、ウメの親友として接することを、約束するよ」
リヒト所長もおり、それが精一杯の友情の表現だったのだろう。
「それで……ええわ」
小さく頷くと、また、アサキの方へと向き直る。
「とこ、ろで、令堂、自転車に、乗れない、って、ホンマか?」
不意打ちの質問に、ぼろぼろ涙をこぼしながらも、面食らった顔で、アサキは、黙って頷いた。
応芽の目が見えていないことを思い出して、
「ほ、本当。恥ずかしいけどね」
慌てて、声を付け足した。
「そん、くらい、乗れるよう、なっとけや」
「練習する。……乗れるようになる」
笑った。
大粒の、混じりけのない涙を輝きこぼしながら、アサキは、優しく笑った。
「
「……なあに。ウメちゃん。……わたしのこと、名前で呼んでくれたね」
「恥ずかしいけどな」
「嬉しいよ。それで、なあに?」
「ああ、覚えとったらで、ええから、なんかの、ついで、でも、ええから。雲音、妹、を……。あたしは、笑って、待って、いるから……」
「うん」
頷いた。
ぼろぼろ涙をこぼしながら、優しい笑みを浮かべながら、アサキは、こくこくと、小さく首を振った。
「……あたしは、希望、を捨てて、いない。絶望なんか、せえへん。……ああ、そうや、これ、は、お前、のや、アサキ」
ぜいはあ息を切らせながら、応芽は、弱々しい動作で、左腕に着けている真っ赤なリストフォンを取り外し、アサキへと差し出した。
両手をそっと差し出して、アサキは、それを包み込み、受け取った。
「ほんの、数ヶ月、付き合い、やったけど、楽し、かった、なあ。……あたしは、天王台、第三中学校、
どろどろと、
醜く焼けただれ、溶けながらも、
美しく、笑う、
彼女の姿、
は、もう、そこにはなかった。
存在の痕跡を残すものは、なにも。
アサキは、両腕で空気を抱いていた。
消失感に、ふわり前のめりになると、あらためて、起きた現実を認識した。
認識したからといって、冷静に受け止められるわけではなかった。
受け止められるはずがなかった。
「う……くっ」
微かな呻き声を発し、身体をぶるぶるっと震わせると、
「うああああああああああああ!」
天を見上げ、口が張り裂けんばかりの絶叫を放っていた。
これまでに見せたことのない、心の底、魂が震える、叫びを。
8
絶叫を絶叫でかき砕く、喉の奥がいまにも裏返って飛び出しそうな、叫び声、激情、慟哭。
「いやだああああああああああ! ウメちゃん、ウメちゃんっ! ウメちゃん! うああああああああああああ!」
嘆き、怒り。
悲しみ、やり場のない辛さの、衝動に震える魂。
その震えだけで、地が砕かれて裂けそうなほどの。
激しい感情の爆発と裏腹に、その手に力はなく、すがるように地を叩き続けている。
泣いているのは、アサキだけではない。
「ふざけんなよ、くそお……畜生……畜生!」
カズミである。
立ったまま、感情を押し殺そうと、でも堪え切れず、涙をぼろぼろとこぼしていた。
こぼすまいと思ったのか、上を向くものの、流れ出る量があまりに多く、まるで意味をなしていなかった。
その後ろには、
思うところの違いから、この一年は相対していたとはいえ、応芽とは幼馴染の親友であり、リヒトでの戦友である。
もしもこの場に誰もいなかったら、泣き崩れていたかも知れない。
表情こそ冷静であるが、しきりに靴の底で地を引っ掻いている。泣き崩れないまでも、激しく動揺していることに間違いはないだろう。
悲しみに暮れる三人の様子を、腕を組んで、面白そうに見つめているのは、リヒト所長、
横には、黒スーツを着た側近の部下が二人、護衛の意味もあるのだろう、肩をぴたり寄せて立っている。
後ろには、白衣の技術者、そしておそらくリヒト所属の、魔法使いたちが数人ずつ。
白衣の技術者たちが、それぞれに、提げていた黒いバッグから、小型の機械を取り出した。
泣きじゃくるアサキのすぐ目の前、応芽の身体が溶けて消滅した地面へと、コードを引っ張って伸ばした、センサー棒の先端を当てた。
応芽とアサキが争った結果、なにかが起こることは間違いなく、なんであれ生じた事象のデータを、測定するために。
なお、魔法使いは、先ほど
応芽の魔法力や怨念絶望が足りず、通常のヴァイスタにしかならなかった時に、すぐさま倒し、昇天させるために、呼ばれた者たちだ。
着々と計測作業が進む中、まだ地を叩き泣き続けているアサキであったが、感情涸れたわけではないものの、瞬発力が尽きて、号泣から嗚咽へと変わっていた。
「ウメ……ちゃん」
死者への、何度目の呼び掛けだろうか。
じゃっ
砂を潰す音に、アサキはびっくりし、目を見開いた。
すぐ手元の土、硬い地面に、短剣が、斜めに突き刺さっていた。
顔を上げると、
至垂の、薄く歪んた口元が動いて、小さいけれど、はっきりした言葉を呟く。
「受け入れるか、拒絶するか、物理的にか、精神か。自己表現に正解はないよね」
小さいけれど、はっきりした、
小さいけれど、侮蔑に満ちた、
嘲り、虚栄心、欺瞞に満ちた、
思わせぶりな話し方。
とどのつまり、絶望の仕方についてということだろう。
親友を失った、アサキへの。
この短剣で自害するもよし、世を呪うもよし。
ここで狂い、ヴァイスタ化するもよし。さらに負を、内に貯め込むもよし。
挑発しているのだ。
心を揺り動かそうとしているのだ。
ここでなにがどうなろうとも、
なにかきっかけさえ与えれば、どうであれ、今か、いつか、面白いことにはなるだろう。
そんな、愉悦のための種まきを、しているのだ。
なにが、楽しいんだ?
アサキは、リヒト所長へと侮蔑の視線を向けていた。
何故そんな、自分を正しいと思っていられる?
そもそも、この状況下で笑っていられる、その神経をこそ、疑う。
侮蔑の視線を向けたまま、手元の短剣の柄を掴むと、乱暴に引き抜いていた。
次の瞬間、壁に、短剣が突き刺さった。
壁際に立っている、リヒト所長の、顔をかすめて、
硬いタイルを、ものともせず砕いて、深々と、突き立っていた。
ゆっくりと、アサキは立ち上がると、あらためて迷いのない強い眼光を、リヒト所長、
「わたしたちは、絶望はしない」
真っ赤に泣き腫らした目で、睨み付けた。
薄笑いを浮かべている、リヒト所長を。
「本当に、そういい切れるのかな?」
思い見透かす冗談ぽい表情で、深々と壁に刺さっている短剣を、二本指でつまんだだけの軽い持ち方で楽々と引き抜くと、いやらしい流し目をアサキへと向けた。
アサキは、どっしり地に立ったまま、また、口を開く。
「素敵な思い出を、たっぷりもらった。みんなが必死に頑張ってきた。そんな思い出の生まれた、世界を守るためなら、絶望なんて……するはずがない!」
少し言葉がまとまらなかったけど、でもこれが、迷うことのないアサキの本心だった。
リヒト所長には、どうでもいいことのようだが。
「きみはまた、ここへくるよ。自分を知るために。真の絶望をするために」
ふん、と鼻で笑うと、そういったのである。
「もう知っています。思い出しましたから。わたしが幼い頃、この施設で実験台にされていたこと」
応芽に教えられ、そこから雪崩式に記憶が戻ったのだ。
「そうか」
それも予期の範囲ということか、特に驚くこともなく、唇を僅か釣り上げた。
「もっと、思い出したら、または、もっと、思い出したくなったら、また、ここへきなさい」
「なにをされていたとか、そんなことまで思い出せなくていいです。……それよりも、ウメ……
「そうだね。謀反のような事を、起こした者ではあるけれ……」
「あなたがそう仕向けたんでしょう!」
「知って乗ったは彼女の方だ。でも当然、葬儀は行うよ。殉職したリヒトの魔法使いとしてね」
「分かりました」
アサキは小さく頷いた。
気持ちのいいものではない。
だけど、仕方がない。
メンシュヴェルトやリヒト、ギルドメンバーが不慮の死を遂げた場合、肉体の損傷度合いによっては、死亡届を出して通常の葬儀を執り行えることもある。
だが、あまりに奇怪な死であったり、異空での死であった場合には、行方不明で片付けられることになる。
今回は、肉体の消滅であるため、後者に位置づけられる。
つまり、社会に隠れてということにはなるが、彼女の葬儀を行えるのは、リヒトだけなのである。
この所長は大嫌いだけど、でもここで働く者がみな悪者というわけではないだろう。
応芽と仲のよかった者だっているだろう。
だから、葬儀はしっかりとやっておくべきだと思ったのだ。
「日取りが決まったら、教えて下さい」
「約束しよう」
だからといって、感謝する気もない。
吐き捨てるように、冷ややかな表情で、小さく頭を下げた。
応芽のためにも強くあらねば、と思うからこその、アサキのその淡々とした態度であったが、でもそれもさして続かなかった。
「令堂さん! 昭刃さん!」
「これは、どういうこと……み、慶賀さんは……」
「先生っ! ウメちゃんが、ウメちゃんが……」
「ちょ、令堂さん?」
アサキは、須黒先生へと抱きつき、強く抱きしめると、また泣き始めたのである。
もう涙の枯れるまで泣いたと思っていたのに。
身体のどこに貯まっていたのか。
まるで、世界中の雨雲を集めたかのよう。
アサキの、涙。
心の中に降る雨は。
キラキラと輝く、親友を思う宝石の輝きは。
いつまでも、やむことを知らなかった。