1
場内には、入り切れないほどの人々が集まっている。
が、熱気喧騒とは、無縁どころか正反対の粛々たる空気。
ここがどこであるかを考えれば、当然だろう。
大人たちはみな、黒い上下に身を包んでいる。
生徒と思われる子供たちは、ほとんどが同じ制服姿。
その学校制服たちの中には、
彼女は今、焼香をしているところだ。
お経と木魚を打つ音の中、焼香台の前に立っている。
礼をすると、抹香を摘んだ。
隣には、
二人は、手を合わせ、礼をし、下がり、仏の遺族たちへと礼をする。
入れ替わりに、次の生徒たちが二人、立ち上がって焼香台へと向かう。
告別式である。
先日亡くなった、
式場の奥に、花々に囲まれて桐の棺が置かれている。
既に納棺されており、仏と対面するための小窓も閉じられている。
花束を敷き詰める作業も、スタッフによって完了済だ。
遺体が、あまりにむごたらしいためである。
殺害、されたのである。
首を切断されて、なおかつ、その顔からは眼球が二つともくり抜かれていた。
そんな、ショッキングな殺され方で。
現在、首は胴体に縫い付けられており、目にも義眼がはめられている。
だからといって、姿を晒すのもどうなのか、そもそも恐怖に歪み切った顔を生徒さんに見せるのも、情操上どうなのか。そんな、遺族の意向配慮によるものとのことだ。
死後五日。
発見されてから、三日。
殺害現場は学校の中。
自身の城であるはずの、校長室で殺されていた。
発見者は
教員であり、メンシュヴェルトメンバーである。
もっと有り体にいうならば、樋口校長の片腕、メンシュヴェルト活動における参謀である。
先日、須黒先生の自宅に、ヴァイスタが出現した。
メンシュヴェルトのサーバーへの、通信が拒否されていたためである。
そのことについて相談しようと、早朝の校長室を訪れて、死体を発見したのだ。
リヒトに牛耳られている可能性もあるとして警戒し、これまでメンシュヴェルト上層部への接触を避けていた須黒先生であるが、こうなっては是非もなく、ことを報告するしかなかった。
過去に何度か会ったことのある、幹部の一人、
彼は、ショックを受けた後、憤った口調で、「全力をあげて調査をする。同朋を殺した者を、必ず捕まえてやる」といっていたらしい。
らしい、などと不確定なのは、アサキにとってすべて須黒先生から聞いたことだからだ。
須黒先生は、こうもいっていた。
メンシュヴェルトの幹部たちは、このことを知っていたのではないか。
加担したのか、率先したのか、容認したのか、黙認したのか、そこまでは分からないけれど。
樋口校長が殺されたのは、色々と知り過ぎてしまったことと、なおも知ろうとしていたこと。加えて、リヒトに対して少し敵対的で、あり大いに懐疑的だったから。
そこを、アサキたちの精神を不安定に追い込むための、玩具として利用されたのではないか、と。
そういわれてみれば確かに、この葬儀のやり方についても、そう思えてしまう。
アサキは、以前、校長から聞いたことがある。
異空で死んだり、あまりにむごたらしい死体は、行方不明として処理されて、組織の中だけで葬儀する、と。
不可解な死体があちこちで上がったら、人間の社会が混乱崩壊するからだ。
だというのに、この一般葬。
組織の中での秘密葬ではない。
先日の、
応芽の時には、遺体のない不可解さがメディアに取り上げられて多少騒がれたし、今回の樋口校長に関しては、むごたらしい殺され方をしたことを、まったく隠してもいない。
ぜんぶ裏で、
あえて、世を乱れさせようと。
至垂にとっての、超ヴァイスタ有力候補がアサキであることは、本人の暴露によって分かっている。
だからといって、他から第二のアサキが出るのなら、それはそれで大歓迎であろうし。
と、これらの話は、
この葬儀場へと向かう道の途中で、須黒先生が悔しそうに唇を噛みながら、話していたこと。
あえて大きな話に持っていくことで、辛い気持ちを、はぐらかそうとしているのではないだろうか。
アサキには、そうも感じられた。
第三中は、組織の非戦闘員つまり背広組が、たった二人しかいない。いや、いなかった。
だから二人、須黒先生と樋口校長は、いわば唯一無二のパートナーとして、何年も活動してきたのだから。
メンシュヴェルトの末端は、戦闘員が少女に限られることから、利便性を考えて中学高校を中心としたものになる。が、指揮する大人つまり背広組の数は、少ない。
無駄に人数を置いても、極秘裏に動けなくなってしまうからだ。
従って、異動や交代も慎重だ。
なんらかのアクシデントがない限り、ずっと同じ顔合わせで、仕事をすることが多い。
人数の少なさにしても、配属の長期傾向にしても、より顕著なのが天王台第三中学だ。
樋口校長は、十年前から。
須黒先生は、六年前から。
気の置けない、信頼し合えるパートナーに育っていただけに、今回の件は、辛さ並大抵のものではないだろう。
転入からまだ半年しか経っていない自分ですら、ショックで夜通し大泣きしたのだ。
須黒先生は、その百倍も千倍も辛く悲しいだろう。
そんなことを考えながら、アサキは、治奈と一緒に戻り、パイプ椅子に座った。
先に焼香を済ませている、カズミや祥子のいる近くに。
ふう。
アサキは、微かなため息を吐いた。
最近、葬式続きだ。
しかし、
正香は、幼少期の家庭内殺人という過去を、引きずった挙げ句、絶望からヴァイスタ化。昇天つまり処分された。
成葉は、そのヴァイスタ化した正香に、顔と内臓を食われ死亡した。
応芽は、魔道着を制御出来ず暴走させてしまい、自分の作り出した妹の幻影に刺されて消滅。
そして今回の、樋口校長の死。
すべて魔法使いの活動が絡むところではあるため、仕方がないことかも知れないが。
でも、
でも、
酷いよ。
悲し過ぎるよ。
あまりにも、残酷過ぎる。
ちらりと、前の席に座っている須黒先生の、小さくなっている背中を見たら、また奥から込み上げて、く、と呻いた。
じわり涙が染み出して、人差し指で拭った。
そんなアサキを見ながら、カズミが申し訳なさそうな表情で、
「悪いけど、もうあたし泣けないや。なんだかすっかり、感覚が麻痺しちゃって……」
言葉途中で、びくり肩を震わせた。
アサキが、
うー、うーー、と呻きながら、
ぼろぼろ、ぼろぼろ、大粒の涙をこぼしていたのである。
「どうしてお前は、そんなに真っ直ぐなんだよ」
カズミは苦笑しながら身体を伸ばし、なおもえくえくと嗚咽の声を上げるアサキの肩を、優しく抱いた。
と、そのカズミの視線が、すっ、すっ、と注意深く動いた。
アサキと反対側に座る祥子の肩が、ぴくり震えるのに横目で気付き、続いて、祥子がなにに肩を震わせたのか、視線を追ったのである。
振り向いたカズミの、視線の先にいるのは……
グレーのスーツ。
内側からはち切れそうなほどに筋肉のみっしり詰まった、大柄な体躯。
オールバックにした髪の毛。
野生的とも知的とも、どちらとも取れる容貌の、男性。
会場へと、入ってきたばかりのようだ。
カズミは、アサキを抱いた腕を解くと、椅子から立ち上がった。
グレーのスーツ、至垂徳柳へと向かった。
なにか一言、いってやる。
そんな、不満と憤りをたっぷり詰め込んだ顔で、睨み付けている。
今回の件について、直接の指示を出した本人かは分からない。
だが、無関係とは思えない。
まったく知らないはずは、ないだろう。
問い詰めようとも、ボロを出すことは決してないだろうが。
それでも、一言、なにかいってやらなければ、気が済まない。
一触即発の気配ぷんぷん漂う、そんな、険しい顔のカズミ。
導火線に火を着けたのは、「ああ、いたの?」といった感じの、飄々というかのんびりとした、至垂の表情であった。
ぶつ
カズミの血管が切れていた。
強く、踏み出し床を踏み付け、怒りの形相で口を開こうとした、その瞬間、
「命を弄んで楽しいか!」
怒鳴り声。
アサキである。
カズミの脇を後ろから抜け、アサキが、至垂へと詰め寄っていたのである。
「魂を、生命を、バカにして楽しいか!」
周囲が、ざわついていた。
敵意を向けられた当の本人は、どこ吹く風であったが。
どこ吹くどころか、このような粛々とした場において、不自然なほどに、楽しげな笑みを浮かべていた。
宣戦布告をした身であるから、底意地の悪さを隠す必要もない。など単純なものかは分からないが、その表情に、アサキはさらにカッとしてしまい、腕を振り上げ、言葉にならない言葉を怒鳴り続けていた。
「やめなさい令堂さん! やめなさい!」
須黒先生が、アサキを背後から羽交い締めていた。
なだめようと、抑えようとされるほど、アサキ猛然と反発。身体をよじり、暴れさせ、身体がままならないまでも視線を、敵意を、恨みを、至垂へと向けた。
恐ろしい顔で、睨み付けていた。
「令堂さん!」
「せ、先生が、先生がっ、一番辛いんじゃないかあ!」
大きな声でそう叫ぶと、アサキは、ぷしゅうと破裂した風船になり、床に縮んで座り込み、大声で泣き始めた。
「なにやら、わたしへの誤解があるようですが……いずれにしても、ここの校長は、生徒にも教師にも、こんなに慕われていたのですね」
グレースーツの大柄な男性は、低いがどことなく女性的な甘い声を出すと、寂しげに、苦笑をした。
2
我孫子市
淡く夕陽の差し込む住宅街の道を、
中学校の制服姿であるが、通学途中ではない。
太陽はまだ沈んでいない。
だが、アサキは表情は、どんより沈み切っていた。
葬儀の帰りに明るい顔もないが、そういうことではなく、式場での、自分の行動を後悔しているのだ。
今回は一般葬であり、メンシュヴェルトやリヒトと関係のない人の方が遥かに多い。そんな場所だというのに、我を忘れて、大きな声で叫び、糾弾してしまったのだ。
反省している。
無関係の人々を、無駄に騒がせてしまったことを。
それだけでなく、至垂の持つ野望を阻止するためにも、冷静でなければならないというのに。
至垂の持つ野望。
そこで、神の力を手に入れること。
人間の身であることを鑑みない、傲慢な考えだ。
絶対に、阻止しなければならない。
阻止し、彼がこれまでなにをしてきたかを、すべて暴く。
その上で、罪に対して相応の償いをさせたい。
そのためには、冷静に物事を判断出来ないといけない。
誰が味方か、誰が敵か、分からない。ある意味で四面楚歌の、絶対的不利。
アサキたちが置かれているのは、そういう状況であるのだから。
ただ泣き叫ぶだけなら、いつでも出来る。
現在はまだ、その時じゃない。
だから、あの自分の取ってしまった態度は、反省しないと。
冷静にならないと。
そう分かっている。
理屈では。
でも。
そこまで大人になんか、なれないよ。
悲しいことに耐えて、責めるべき悪の前でへらへら笑っているだなんて、出来るはずないよ。
お前がやらなきゃ、とか、カズミちゃんも治奈ちゃんも、いうけど……
魔力量がどうとか、みんな、やたらわたしを持ち上げるけど、そんなの知らないよ。
わたしはまだ、十四年しか生きていないんだ。
そんなことを思いながら、暗い顔で自宅への道を歩くアサキであるが、
その目が、すっと細くなった。
鋭い視線を、左右に走らせていた。
背後、いや周囲に、微かな気配を感じたのだ。
味方ではないどころか、どちらかといえば敵対的な気配を。
四……五人。
間違いない。五人だ。
全員、
など、肌に感じる微かな気配から探っていると、突然、ひんやりとした霧が周囲に発生していた。
あっという間に、数メートル先も見渡せないほどになっていた。
横に二人……
後ろには、三人か……
と、霧の運んでくる気配に神経を集中させながらも、アサキは、過去のことを思い出していた。
以前にも、同じようなことがあった。
その時は夜だったが、やはりこうして一人でいるところへ、目くらましの霧の中、数人の魔法使いに襲われたのだ。
また、リヒトの魔法使い?
わたしの精神を追い込むため?
絶望へと近付けるため?
……なにが、楽しいの?
こんなことをして、なにが楽しいの?
命令だから?
でも……
でも、
わたしは……
手を握る。
念じる。
晴れていた。
霧が、跡形もなく、吹き飛んでいた。
アサキの非詠唱魔法が、隠れ身魔法の効果を、一瞬にして打ち消したのである。
淡い陽光の差し込む住宅地。
見たこともない、五人の
魔道着は、赤や青の装飾があるが、ほぼ全身真っ白。
五人とも、同じデザイン。
それが、白日のもとに晒されていた。
彼女たちは、驚き、呻き声を上げた。
かと思うと、一斉に、姿が風に溶け消えていた。
だが、薄っすらと、見えている。
何枚もの透明シートを重ねた、その向こう側に、薄っすらと、ぐにゃぐにゃと、五人の姿が見えている。
異空側。
魔法を無効化され、姿を晒されて、慌てて身を次元境界の向こうへと隠したのだ。
アサキは、小さなため息を吐いた。
右腕を前へ伸ばし、横へ払い、次元のカーテンを開いた。
一歩、前へ出ると、青い空はオレンジの空。
チョークで描いた絵みたいな、白い道路。
どよどよ漂う、瘴気。
鼻孔を突く悪臭。
アサキもまた、謎の五人を追って異空へと入ったのだ。
クラフトも持っていないのに、自分の魔力、魔法だけで。
以前、
それは、慣れていなかっただけだったのか、それとも自分が成長したのか、いざ自分の意思でやってみたら、拍子抜けするくらい簡単だった。
特に、魔力を吸い上げられた感覚もない。
異空内、前方に視線を向ける。
ぐにゃり歪んで色調の反転している住宅の間を、走って逃げている五人の後ろ姿が見える。
アサキは、静かな足取りで、彼女たちの逃げる跡を追い始める。
奇妙な光景が、展開されることになった。
相手は、泳ぎ飛び跳ねるかのごとく、全力必死で走っている。
対してアサキは、ゆっくり静かに歩いている。
だというのに、両者の距離が、少しずつ縮まっているのだから。
アサキが魔法で、空間を捻じ曲げているためだ。
速いは遅くなり、遅いは速くなり。
走りながら時折振り返る白い魔道着たちの顔が、振り返る度に、より青ざめたものになっていた。
ゆっくり歩いているのに、あれよあれよと距離を詰めてくる赤毛の少女の姿に、彼女たちは、一斉に足を止めた。
横並びで、赤毛の少女へと向き合い、それぞれに武器を取り出して、構えた。
逃げ切れない。
そう判断し、開き直ったのだろう。
人数は有利であるし、さすがに負けることはないだろう。という過信も、あったかも知れない。
ただし、彼女たちの表情に、余裕は微塵も感じられなかった。
以前にアサキを襲った魔法使いたちは、人数差に勝利を疑わず、あっさり返り討ちにあった。
そうしたところを聞かされて、戒めているのだろう。
でも……
アサキは歩を踏み、足を止めた五人へと近付いていく。
関係ない。
相手が油断してようとも。
警戒してようとも。
「わたしは、ちょっと機嫌が悪いんだ」
一歩、一歩、ゆっくり、足を踏み出しながら、毅然と不満がない混ぜになった顔を、白い魔道着の魔法使いたちへと向けた。
一人が、小さく呻いた。
顔をしかめた。
自尊心を傷付けられたことによる、憤りであろうか。
五人の側が一人に対して油断なく構えているのだから、一人の側にこそそれ以上の警戒や恐れがあって然るべき。だというのに赤毛の少女は、まるで平然としているのだから。
「死ね!」
白い魔道着の一人が、地を蹴った。
低く跳びながら、片手に持った短い槍を、アサキの喉元へと突き出した。
すんと風を切り、唸りを上げる穂先。
アサキには、止まって見えていたが。
喉元へ突き刺さるかというぎりぎりのタイミングで、穂先を左手の甲で弾き、同時に、飛び込んでくる顔面へと、軽く拳を突き出した。
カウンターヒットに、もんどり打って崩れた白魔道着。
ぐうう、と呻くのみで、起き上がってこない。
「手加減はする。もちろん。でも……」
アサキのぼそり小さな言葉は、続く大きな声に掻き消された。
「でもなんだってんだあ!」
残る四人のうちの一人が、叫びながら、アサキへと飛び掛かったのである。
風を切り、短い距離を一瞬にして詰め、二本のナイフを手にしたまま、身体をそのまま突っ込ませた。
迎え撃つアサキの反応は、単純だった。
半歩横へ動いて、相手の足を引っ掛けただけである。
どさり音を立てて、白魔道着が倒れると、アサキはすぐさましゃがみ込み、地へと右手のひらをそっと当てる。
道路、色調反転した白いアスファルトが、突然やわらかくぶるぶると、腸の
ぎゃあああああ!
しんとした異空に、恐怖の絶叫が上がった。
実際には、口どころか顔全体を塞がれているため、げぐゅぁあああ、と、くぐもった声であったが。
恐怖と苦しさに、ばたばたのたうち回る、白魔道着を尻目に、アサキは腰を上げた。
立ち上がり、残る三人へと、ひややかな視線を向ける。
口を開き、先ほどの、でもの続きをいった。
「……あなたたちがどうなろうと、同情するつもりも、ない」
その結果の一つが、目の前のそれであろうか。
視界を塞がれ、呼吸を封じられ、恐怖にもがく魔法使いという。
「ど、どうなってんだよ、こいつ……」
「魔道着も着てないってのにさあ」
アサキの見せた能力と態度は、残る三人を、隠しようがないほどに焦らせ、たじろがせた。
ずっと口を閉ざして、動揺や不安を誘う不気味を演じていたのに、いざ開けば、自分たちの方こそが、このような会話で焦りと恐怖を紛らわせようとしているのだから。
「でもっ、魔道着を着てないんだから、防御力はないはずだよ」
「攻撃さえ当てちまえばってことか」
長年一緒にいるグループなのであろう。
ここまでの会話で自分たちを納得させると、もう言葉はいらないとばかり、示し合わせていたかのタイミングで、三人三方に分かれた。
それぞれ、手にした武器をアサキへと振り下ろし、または突き出した。
洋剣、薙刀、
必殺の意思を持った一撃であったが、現実は、それぞれの武器がただ空気を焦がしただけであった。
もう白魔道着たちは驚くこともなく。その焦げた空気を、風が運び去るよりも早く、赤毛の少女へと次の攻撃を繰り出していた。
アサキは、さして集中しているようにも見えないが動きは非常に落ち着いており、半歩横へ、一歩後ろへ、と最小限の歩幅で身体を動かして、腕を払って、攻撃をかわし続けている。
制服姿の女子中学生を相手に、武器を持ち魔道着を着た魔法使いが、三人がかりで攻撃している。
だというのに、かすりもしない。
自分たちが弱いのではなく、相手が化け物なのだ。
と、既に自尊心もなにもない必死の表情で、攻撃を続ける三人。
動くのでなく動かされ、あっという間に疲れが蓄積し、ぜいはあ息を切らせていた。
もう勝敗は決した。
そう思ったアサキは、
「もう、やめよう。あなたたちが何人いようと、わたしには勝てない」
戦いの終了を、持ち掛けたのである。
だが、疲れた表情の裏で、彼女たちは細工をしていた。
一人の口元に薄っすらと笑みが浮かんでいるのを見た瞬間、アサキはそう察知した。
察知はすれども、もう遅く。
アサキを囲んでいる三人の、作る正三角が、放たれた黄色い輝きに結ばれていた。
さらに、三角から伸びる線が頭頂で結ばれて。
薄黄色に輝く大きな三角錐の中に、アサキの身体は閉じ込められていた。
大爆発。
爆音、轟音、震える地面。
三角錐の中は、真っ黒になって、なにも見えなくなっていた。
どどん、どどん!
中で、大きな爆発が、連続して生じているのだ。
会心の笑みを浮かべる、白魔道着の三人。
アサキには、まったく効いてはいなかったが。
ビルを粉々にしそうなほどの、この爆発のパワーも。
少し薄れた煙の中から、三角錐の結界をガラスの如く砕きながら飛び出したアサキ。低い位置から身体を回転させて、一人の顎へと、回し蹴りを浴びせていた。
完全に油断していたところへ、豪快な蹴りを受けた白魔道着の魔法使いは、くるくる回転しながら倒れ、地に頭を打って気を失った。
「ああああ!」
「くそお!」
混乱、興奮した二人が、雄叫びを張り上げながら、やけっぱち気味に洋剣を、細剣を、それぞれ突き出した。
前後から、アサキの身体を突き刺そうと。
そこに、アサキはいなかったが。
空中である。
足裏に作り出した魔法陣を蹴って、真上へ軽々と飛び上がって、攻撃を避けたのだ。
飛ぶアサキの、眼下で、血飛沫と悲鳴が上がった。
向き合う二人の魔法使いが、突然お互いに吸い寄せられて、それぞれの武器でお互いの胸を貫き合ったのだ。
アサキが、非詠唱魔法により、空間を歪めたためである。
どさり、音を立て倒れる二人。
その傍らに、音を立てず着地したアサキは、
「ごめんなさい」
申し訳なさそうな顔で、誰にも聞こえないほどの小さな声を出した。
別に、無視してもよかったのだ。
彼女たちが自分を恐れて逃げ出したというのなら、別に、追わなくてもよかったのだ。
どうしてこんな日にこんなことをしてくるのか、という非常識への憤り、
昼間の、
要は、自分の弱さから、この魔法使いたちを不必要に傷付けてしまったのだ。
彼女たちは、ただ命令に従っているだけかも知れないのに。
従わなければならない、仕方のない事情があるかも知れないのに。
と、そうしたところからくる申し訳なさに、自分を騙すことが出来ず、謝ったのだ。
アサキは、小さく鼻をすすると、屈み、膝を着いた。
地を血で染め、苦痛の呻きを漏らしている二人へと、左右それぞれの手を翳した。
治癒魔法の呪文を、脳内で詠唱すると、翳した両手が、ぼおっと青く、優しく輝いた。
3
広島風お好み焼きの店、あっちゃん。
出入口脇にあるカウンターの奥で、学校制服にエプロン姿の
目の前に立つ中年男性へと、釣り銭を渡した。
男性はガラス戸を開き、出ていった。
「ありがとうございましたあ!」
いまの男性が出ていったことで、店内に一人の客もいなくなった。
午後六時。
普段ならば忙しい時間帯であり、だから今日も手伝っているのだが、日によってはこのようなこともある。
これから混雑するかも知れないが、とりあえずは暇になったので、テーブル席の椅子に腰を降ろした。
「年寄りは、すぐに座りたがるけえ」
父、
「十四じゃ! まだ若い娘じゃい!」
治奈は立ち上がると、若さを見せ付けるべく、しゃがみ切る大きなスクワットを始めた。
「ああああ、スカートに油っぽいのついた! 年寄りとかいうから!」
「わしのせいじゃなかろう。こないだ清掃して貰ったばかりなんじゃけど、繁盛しちょるからすぐに汚れるわ」
「いや、そこまでの繁盛もしとらんじゃろ。単に日々の掃除を怠けとるだけじゃ」
「一理はある。よし、治奈、暇ならば床掃除じゃ」
「うええ、もう奥に上がろうと思ってたのに」
ここは店舗兼住宅。
奥とは、住居部分のことである。
「どうせアニメとかゲームだけで、少しも勉強せんじゃろ」
「す、少しはやるわい」
憤慨の言葉を吐きながら、油っぽい床を踏んで足をたんと鳴らした。
でも、顔には、微かに笑みが浮かんでいた。
無意識の笑みであったが、誰かに指摘されたとしても、それはそうだろう、と思っただけだろう。
理由はら自覚している。
下らない口喧嘩の出来る幸せを、感じていたのだ。
だけど、その幸せの自覚は、すぐにどんより沈んだ気持ちに塗り変わっていた。
ふと、
仕事の上で最高のパートナーであった、
須黒先生。
学校の仕事だけでも、忙しいだろうに。
メンシュヴェルトのデスクリーダーとして、戦線に立つ自分たちを、支えてくれた。
樋口校長とタッグを組んで、自分たちを過度に不安にさせないよう、裏からそっと。
その強力タッグの、お喋りの掛け合いなんか実に絶妙で。
お互いへの信頼が、よく伝わってきた。
須黒先生、辛いだろうな。
家族のように信頼していた人が突然いなくなるって、辛いだろうな。
などと、須黒先生を思っているうちに、家族というものを考えてしまっていた。
アサキちゃんもカズミちゃんも、本当の両親と暮らしていない。死んだ正香ちゃんも、そうだった。
自分は、父も母もいる、妹もいる。
普通の家庭、というだけ話で、嬉しい、ありがたいことではあるが、ちょっと申し訳ない気持ちにもなってしまう。
ウメちゃんも、妹を失っている。
魂を取り戻すために、戦っていたのだから。
妹がいない。
妹がいなくなってしまう。
それは、どんな気持ちだったのだろう。
どんな気持ちなのだろう。
でも、そのウメちゃんも、結局……
治奈は首を横に振った。
まとまらない、しかも暗い気持ちになることを、いつまで考えていても仕方がない。
「ほうじゃ」
ちょっとだけ明るい顔になって、厨房側へと回り込んだ。
鉄板の横で、材料勝手に使って、具を作りはじめた。
店が暇な間に、焼きの練習でもしようかと思ったのだ。
奥へ上がって休もうと思っていたのだけど、気が変わった。
スカートに付いた油を落とすのも、後回しだ。
キャベツを刻み、小麦粉を溶き、魚粉などを混ぜ。
油を敷いた鉄板に生地を落とし、薄く広げ、すぐさまその横に、豚肉を並べる。
目でしっかり見ながらも、それ以上に、音に注意。
生地と鉄板の間に、ヘラを差し入れ、ひっくり返す。
失敗、といえるか分からないが、
ほんのわずか、早かったかも知れない。
でも、自分でそう気付くようなら、失敗だ。
まだまだだ。
作り方にムラがあってはいけないのに。
まだまだだ。
「返しが、ほんのちょい早かったの」
後ろで見ていた
「こ、これでええんじゃ。うちのがこれ以上ちょっとでも美味しくなったら、お父さんのを抜いてしまうじゃろが」
面と向かってダメ出しされると腹が立って、意地を張ってしまった。
「どう頑張ろうと抜けんわ」
「ここ継ぐ気はないけど、人生の選択肢を狭めたくないから、ここでも修行はしとかにゃいけん」
焼き上げたものを皿に乗せると、再び生地を鉄板に垂らした。
じゅいーーっ、と気持ちのよい音が響き、油の粒子が小さく跳ねた。
「仮に継ぐなら婿養子かのう。じゃけえ、勉強あまりに酷いと、来手どころか貰い手もないけえね」
ふふっ、と小馬鹿にする秀雄。
「そこまではいらんお世話じゃ!」
ヘラを持ったまま声を荒らげ、そして、顔をそむけ隠しながら微笑んだ。
つまらないことで喧嘩の出来る、幸せに。
「それでは次のニュースです。連日お届けしている通り……」
隅っこに吊るされているテレビで、博多の立てこもり事件を報道していたのだが、それが終わって次のニュース。
治奈の、よく知った顔が映った。
そして、異空驚異の対策組織であるメンシュヴェルトの、
超常現象としか思えない、あまりに不可解な死に方であった場合は、死亡を内緒にされ、行方不明で片付けられることが多い。
そうではない場合、つまり一般葬を行えるようなケースの場合、特に裏での報道規制は敷かない。
以前に、須黒先生から聞いた話だ。
人々の知る権利をなるべく阻害したくないとか、死んだ人の尊厳を考えるとなるべくなら事実を歪めたくないとか、そのような理由で。
ただ、須黒先生はいっていた。
それは表向きで、報道するのは漠然とした不安を、市民に与えるためではないか、と。
老人が暴行死とか、高速逆走で衝突とか、人の死に関わるニュースが最近多い気がするが、それもそのためではないか、と。
「お姉ちゃんの学校だよね? 犯人が早く捕まらないと、怖いよお」
いつの間にか
「首が垂直になるような席で見ることないじゃろ。……それよりフミ、自分の部屋で寝ておらんとダメじゃろ」
治奈は、両手に皿を持ちながら、妹の前に立った。
史奈は風邪で、熱と咳が酷いため、本日は学校を休んだのだ。
「やなこと、多いよね。……あの、何度かここに遊びにきた、関西弁のお姉ちゃんも、死んじゃったんだもんね」
寂しげな表情を浮かべながら史奈は、姉の忠告を聞いて、隣の椅子に移った。
その、妹の言葉に姉は、くっと微かな呻き声を漏らしたが、すぐに笑みを浮かべ、
「生きておるよ。ウメちゃんは。……ほら」
史奈の前に、皿を置いた。
軽く湯気を立てているのは、大阪風の、お好み焼きであった。
「え、食べていいの?」
史奈は、きょとんとした表情で、姉の顔を見上げた。
「ごっつ美味くて泣くでえ」
無理な関西弁で微笑む治奈の目に、じわり涙が浮かんでいた。
じわりがぼろりになるのに、時間は掛からなかった。
治奈は、泣いてしまっていた。
立ったまま。
声を出して。
涙が嗚咽を呼んで、しばらく止まらなかった。
椅子に座り、突っ伏して、なおも泣き続ける姉の背中を、妹はやさしくさすって、いつまでも慰めていた。
4
「入るよ」
妹、
日記かポエムでも、書いていたのだろうか。急にドアを開けられたことに、「うわっ!」っと目を丸くしながら、慌てて、手にしていた紙のノートを背中に隠した。
「お姉ちゃん、いきなり入ってこないでよ!」
姉であることに、ほっと安堵の表情になりながらも、それはそれこれはこれ、姉のマナー違反に唇を尖らせた。
「入るといったけえね」
「いいながらドア開けるんじゃ、意味ないよ。それにあたし、うんっていってないよ」
「確かに。……ごめん、お姉ちゃん悪かった」
これまではドアが開けっ放しで、ノックする必要もなかったから、うっかりしていた。
反対に自分はよく、フミがノックしないで入ってくることを、よく怒っていたのに。
しかし、ついにフミも、羞恥心やプライベートに目覚めるようになったかあ。
と、成長がちょっと嬉しいような寂しいようなの治奈である。
「どうしたの? なにか用?」
史奈が身体を卵みたいに丸めたまま、きょとんとした表情をこちらへ向けている。
「あ、いや、その、特に意味はないんじゃけどね。風邪、治ったかなあ、って」
頭を掻いて、ははっと笑いながらベッドへと近寄ると、腰を下ろした。
「さっきお店で、お姉ちゃんの焼いた関西のお好み焼きを食べたばかりでしょ」
「あ、そ、そうじゃったな」
もう元気も回復したし、それまで寝てて、まったく食事をしていなかったから、ということで、たまたま練習で作ったお好み焼きを食べてもらったのだ。
「美味しくて栄養たっぷりだったしい、もともと治りかけだったし、明日は学校に行けると思うよ」
「なら安心じゃ。作った甲斐があったわ」
どうして、妹の部屋にきたのだろう。
ははっ、と笑いながら、自問していた。
史奈には風邪の心配と答えたが、それは適当に口を突いて出ただけだ。
先ほど、つい大泣きをしてしまって、史奈に慰めて貰っていたのだが、そうした気恥ずかしさを、ごまかしたかったのかも知れない。
そうか分からないけど、ことのついで、治奈は、腰をぎゅいっと回転させて、ベッドに足まで乗っけると、全身を横たわらせて、
「ほじゃけど、まだ病人はおとなしくしとけ!」
「わっ」
史奈を掴み引き倒して、自分の身体もろとも、毛布を掛けてしまった。
一つの枕の、端と端に、毛布から顔を出した治奈と史奈が、頬を乗せて向き合っている。
にやにやと、笑みを浮かべている治奈。
眼前にそんな姉を見て、
「なあに? 気持ち悪いなあ」
史奈は、恥ずかしそうに、顔は向き合ったまま、視線だけをそらせた。
「何年か前までは、いつもこうして一緒に寝てたじゃろ」
身体を寄せ、妹の体温を感じながら、治奈は笑みを強める。
「何年か、は過去のこと。広島の頃でしょお」
「途中から、二段ベッドを買って貰って、別々になったけどね」
「あー、懐かしいね、二段ベッド」
史奈は、あははと笑った。
「懐かしいとかいえるほど生きとらんじゃろ。……フミは最初、上じゃなきゃ嫌だって大泣きしとったなあ」
「嘘だあ」
「駄々をこねるもんじゃけえ、うちが渋々無条件で下になったら、今度は、お姉ちゃんズルい下の方が秘密基地みたい、って交換を要求してまた駄々こねてな」
「嘘、嘘、ぜーったい嘘」
「うちも意地になって、絶対に応じん、と突っぱね続けてとったら、すぐに落ち着いたけど」
「記憶にないなあ」
「ほじゃけど、こうして今はまた、同じ高さじゃ」
治奈は、ふふっと笑った。
「勝手にベッドに潜り込んできてるだけでしょ」
そういうと、史奈は、身体を半回転させて仰向けになり、天井を見上げた。
姉と至近距離で、顔を突き合わせているのが、気恥ずかしかったのだろう。
なおも姉が、横顔をじーっと見ているものだから、やがて、もじもじと身悶えを始めた。
「お姉ちゃん、なんか漫画貸して」
気恥ずかしさをごまかそうとしているのか、そういいながら、上半身を起こした。
「漫画日本の歴史とか、世界の偉人伝とかなら貸したるけえね」
「恋愛ものしか持ってないでしょ」
史奈は苦笑しながら、姉の部屋へ行こうと、ベッドから降りた。
「一人で歩ける?」
「当たり前。さっきお店まで降りたでしょ」
「遅くまで、読んどらんようにな。明日から学校なら、お風呂も早くせんとな。後で、一緒に入ろう」
「うん。分かった」
心配性で世話好きな姉に対し、また苦笑すると、史奈は自分の部屋を出た。
ガチャリ、廊下の向こう、治奈の部屋のドアが開く音。
ベッドに残った治奈は、史奈の部屋のベッドに寝そべったまま、幸せそうな顔で、天井を見上げている。
そうな、ではない。
本当に幸せだ。
家族がいて、バカみたいな冗談をいって、どうでもいいことで怒ったりして。
正香ちゃんたち仲間を襲った不幸は、気の毒だし、今でも泣いてしまうけど、でも、おかげで、どれだけ我が家が幸せであるかを知った。
今後、この世界が、どうなって行くのかは分からない。
でも、やれることをやるだけだ。
自分には、しっかりした足場である、この幸せな家庭があるのだから。
などと改めて、ヴァイスタとの戦いや、至垂徳柳を阻止することに、静かな闘志を燃やしている、その時であった。
がしゃん
なにかが倒れるような、砕けるような、低く大きな音が、治奈の鼓膜を震わせたのは。
「フミ、どうかしたの?」
治奈はすぐベッドから上体を起こし、漫画を取りに自分の部屋にいるはずの史奈へと、大声で呼び掛けた。
だが、戻るは静寂ばかりであった。
「フミ!」
ベッドから降りながら、再び呼び掛けるが、やはり返事がない。
「お姉ちゃんをからかうのも、大概にせんと、怒るよ!」
すぐ隣の部屋で、呼び掛けの声が聞こえないなど、あるものか。
ちょっと声を荒らげながら、史奈の部屋を出る。
すぐ目の前に、自分の部屋のドアがあるのだが、開けっぱなしで、電気も点いている。
灯りのついた部屋の中が見えている。
だが、部屋の中には、誰もいなかった。
本棚の観音扉が開いており、何冊か、漫画本が落ちていた。
5
十八時。
もう日が暮れて空は真っ暗だ。
告別式が終了してから、もうだいぶ時間も経つというのに、まだ学校の制服姿。
すぐに自宅へ帰りたかったが、帰り道途中で五人の白魔道着に襲われ戦ったことを、
歩きながら、アサキは考えていた。
あんな程度で、わたしをどうこうしようと思ったわけじゃ、ないだろう。
最近、立て続いて悲しいことが起きている。
そんな疲弊した気持ちに、追い打ちを掛けること。
イラつかせ、漠然とした不安をさらに広げる、きっと、それが目的だ。
いつかわたしの心に綻びが見えたなら、そこを一気に突こうというつもりだろう。
でも、
そうは、いかない。
わたしは、あなたの思惑通りにはならない。
ならない、けど、
でも、もしも……
わたしを追い込むために襲わせたはいいけれど、もしも本当に、わたしが倒され命を落としたならば、どうなるのだろう。
至垂所長は、どうするだろう。
そんな、詮ないことを、考えてしまっていた。
昼間に魔法使いの襲撃を受けたこと関係なく、確かに心は疲弊しており、ふと、戦いで死ぬのならそれはそれで悪くないかもな。
などと、そんな思いが浮かんでしまっていたのである。
そこから、じゃあ自分が死んだら、どうなるだろう、と。
首を、横に振った。
ダメだ。
ダメだ。
どうなるもなにもない。
わたしなんかがいなくなったところで、至垂所長は、他に獲物を見付けるだけだよ。
ならば、わたしがなんとかしなきゃ。
または、彼の目がわたしに向いている間に、須黒先生たちに、なんとか打開策を見付けて貰わないと。
これまでの調査で、一番魔力の高い女の子を狙っているだけ、ということならば、わたしがターゲットにされている現状を、むしろ好都合と思わないと。
自分に掛かる火の粉を、振り払っているだけでいいんだから。
「アサキ?」
前方からの声に顔を上げると、道路脇に、
私服姿。
薄地のトレーナーに、デニムのスカート。
ボロになるまで使い込んだ、木のサンダルを履いている。
「カズミ、ちゃん……」
アサキは、足を止めた。
ああ、そういえばここって、カズミちゃんの家がある通りなんだったな。
考え事のあまり、景色が見えていなかったよ。
「おい、お前、まだ着替えてないのかよ」
ちょっと驚いたというか、疑問の言葉。
告別式は午前だったのに、まだアサキが学校の制服を着ているからだ。
「うん。……また、知らない魔法使いに襲われちゃって」
何故だが申し訳なさそうに、答えた。
「またかよ。で、また生身で撃退か? すげえなあ、もう」
「クラフトが使えないんだから、仕方ないじゃない」
第三中の魔法使いが持っているクラフトが、一斉に働かなくなった。
そのため、魔道着や武器の伝送機能も、使えなくなった。
だから現在、原因を調べるため、全員、須黒先生に預かって貰っているのだ。
「いやいやいや、変身出来ず仕方ねえって理由で、丸腰のまま魔法使いを相手に戦えるわけねえだろ、普通は。また何人もいて、武器だって持っていたんだろ?」
隠す必要もないことなので、赤毛の少女は、小さく頷いた。
頷いた後、ちょっと悔しそうに小声をぼそり。
「後悔、してるけど」
「なにがよ」
「殺したりは、しなかったけど……わたし、本気で戦っちゃった。それどころか、少し酷い目にもあわせてしまった」
「あいつらの自業自得じゃん」
「違うんだ。わたしね、ただ、これまでのことや、昼間の所長との件があって、自分の気持ちが面白くなくて、不機嫌で、それを、その女の子たちにぶつけちゃったんだ」
「はあ?」
「わざわざこんな日にどうして! って許せなくなっちゃって。彼女たちは、単に命令されているだけかも知れないのに。本当は、ヴァイスタから世界を守る仲間のはずなのに! わたしはっ……」
泣き出しそうになっているアサキを、カズミは、点になった目で見つめていた。
ぽかん、と口を小さく開いたまま。
どれくらい、そうしていただろうか。
ぷっ、と声が漏れ、続いて、大爆笑が開始された。
今度は、アサキの目が点になる番だった。
「カ、カズミ、ちゃん?」
なにに笑われているのか、まったく理解出来ず、カズミの名前を呼び掛けてみる。が、片や小さい声だし、片や爆笑中だしで、耳に届いていないだろう。
やがて笑いも収まると、カズミは、まだお腹を痛そうに押さえながら、そしてもう一方の手で涙を拭いながら、すっきりした顔で、
「お前が相変わらずの激バカで、安心したよ」
そういったのである。
「え?」
どういう、こと?
すっかり、混乱していた。
人の顔見ながら大爆笑されて、バカで安心とか、意味が分からないんだけど。
「今後なにがあろうとも、お前はそのままでいろよ。あたしも自他共に認める激バカだけど、お前とは方向性が違う激バカだからな。……バランスを取ってやるよ」
「え?」
なにを、いわれているんだ、わたしは。
「えじゃねえよ! さっきからもう! 必要だ、っていってんだよ。あたしたちにとって、この世界にとって。……とんでもねえ力を持っているくせに、まるでそれに溺れない、どうしようもねえバカな女の存在はさあ」
「ああ……」
そういうことか。
意味は分かったけど、でも別にわたしそんな……
「つうか、あたしにお前のことなんか、褒めさせるんじゃねえよ! 恥ずかしいだろお! だから食らえ、チョークスリーパー!」
カズミは、素早くアサキの背後へと回り込むと、前へ回した右腕で顎を締め上げた。
「やあん、やめてよお! カズミちゃん」
アサキは笑っていた。
その笑いが、すぐに大きく激しくなった。
カズミの攻撃が、身体のくすぐりに変わったのだ。
「や、やめ……倍返しだあ!」
反撃に転じるアサキ。
そうはさせまいとするカズミ。
と、二人は笑いながら、夢中になってくすぐり合っていたが、通行人の老婆の姿に、ぴいんと気を付けの姿勢になった。
老婆が通り過ぎると、カズミは、ふうと息を吐きつつ、おでこの汗を袖で拭いた。
「ったくもう。アサキのバカのせいで恥かいたあ」
「わたしのせいじゃないよお」
濡れ衣もいいところだ。
カズミちゃんがプロレス技を仕掛けてきたのが、発端じゃないか。
「そうだ。うち、ちょっと寄ってくか?」
カズミは、自分の肩越しに、親指で、背後にあるボロい平屋を差した。
昭刃家住居の貸家である。
「いや、いいよ。晩ごはん時だし悪いよ」
「なんだよ、たまにゴキブリ出るのが嫌かあ?」
「え、でっ、出るの? カズミちゃん家?」
初耳だ。
そりゃどこだって、たまには出るかも知れないけど。
いわれてみればこのような家だし、たまにどころでなく、出そうな気が……
「こないだ遊びにきた時も、座ってるお前のすぐ後ろ、床に着いた手をかすめるように、かさこそ通ってたぞ」
「ぎゃあああああああああああああ」
赤毛の少女は頬に手を当て、ムンクの絶叫をしていた。
これが、ザーヴェラーを一人で倒し、変身せず武器も持たずにヴァイスタを倒したり、五人の魔法使いをこともなげに蹴散らした者の、態度であろうか。
半分、いや三分の一は、あえて乗っかったのだが。
ゴキブリが大の苦手なのは事実だが、バカバカしい話をすることで自分を元気づけたいという、カズミの気持ちが分かったから、あえて。
でも、あえて乗っかろうとも、ゴキブリ嫌いなことは変わりなく、
「じゃ、じゃあ、わたし、よ、用事があるからっ」
しゅたっ、と手を上げ去ろうとするアサキであったが、瞬間、腕をがっしと掴まれていた。
「いいからいいから」
「いやいや、全然よくないですよお!」
ぐいぐい引っ張るカズミを振りほどこうとするものの、魔力抜きの単純な腕力だけなら、カズミの方が遥かに強く。
「ああ、そうだ。ご飯食ってきなよ。今ね、兄貴が料理してるんだ」
「家族団らん邪魔しちゃ悪い。遠慮しておき、うあっ!」
ぐい、とカズミが強く引っ張ったのだ。
「ほら、早くっ」
「助けてえええええええ」
こうして、ヴァイスタを変身もせずにパンチくれて倒す無敵の魔法使いは、半泣き強制的に、カズミの家へと連れ込まれてしまったのである。
6
六畳間と繋がった狭いキッチンで、一人のエプロン姿の青年が、フライパンを持ち、木べらを振り回している。
「♪ヘーイライリーシェクナフォー」
「兄貴! 友達連れてきたからさあ、ご飯一人分追加ね!」
「ん?」
智成は横を向き、首を伸ばし、玄関、妹の声が聞こえた方を確認した。
「おーっ、アサキちゃんじゃないか」
「どうもお久し振りです。すみません、こんな時間に」
カズミの後ろに立つ、学校制服姿のアサキが、申し訳なさそうに頭を下げた。
「告別式だったんでしょ? 大変だったね。またカズミに、勉強教えてくれにきたの? きったねえ部屋だけど、つうかきったねえ部屋だから、遠慮なくくつろいでてよ。あと二十分くらいで、ご飯が出来るからさあ」
「い、いえっ、そんな、わたしすぐ帰りますからっ」
引っ張られて上がってしまっただけで、本当にご飯なんか頂けないよ。
なんていえばいいだろう。
どう早く帰るかを思案していると、サンダル脱いで先に上がったカズミが、笑いながら胸を突いてきた。
「まあ、せっかくなんだしさ、食ってけよ。間違いなくまずいだろうけど。……兄貴の作るクソまずいメシが、兄貴が下手なのか、あたしの舌が上品過ぎるからなのか、論争に決着をつけたかったんだよ」
「カズミちゃん、それは酷いよお。毎日料理しているんだから上手なんじゃない?」
靴を脱ぎ、部屋に上がりながら、ボロカスいわれている智成を擁護するアサキであったが、しかしその擁護の言は不要であった。
「お前の方が下手くそなくせに『兄貴よりマシ』とかいってる時点で、お前の舌か頭がバカなだけと気付けやバカ! バカ妹! バカ女! バカズミ!」
「な、なんだとお」
ぐぬぬっ、噴火しそうな真っ赤な顔で、怒りを堪えているカズミを、まあまあと両手のひらを向けてなだめるアサキ。
と、その時である。
玄関のドアが開いて、
「あっ、アサキじゃん」
カズミの弟である昭刃
「あ、駆くん。お邪魔してます。なんか、ごめんね、ご飯時なのに」
えへへと愛想笑いをするアサキ。
駆は言葉を返すわけでなく、最初に名を呼んだきり無言で靴を脱いで部屋に上がると、無言のままアサキへと近寄り、ぴたり正面から密着するように立った。
ん? と、アサキは、頭半分ほどの高さを見下ろしながら、顔に疑問符を浮かべた。
突然、制服のスカートが、イエローストーン国立公園の間欠泉が吹き上がるごとき勢いで、めくり上げられていた。
「わああああああああ!」
逆さに大爆発しているスカートを、腕を振り回し、慌てて撫で下ろそうとして、ぷちりホックが外れて、ずるり斜めに、膝まで落ちてしまった。
下着丸出し状態になってしまったアサキは、顔を赤毛髪より真っ赤ににしながら、涙目でスカートを引き上げた。
駆は澄ました表情を一変させて、泣き顔のアサキを指差しながらわはははははと笑うと、素早く踵を返し、隣の部屋へと逃げ込もうとする。
だがしかし、
「お前はああああああああああ!」
カズミが、逃げようとする弟の肩を、しっかりがっしり掴んでいた。
痛がり身をよじる弟であるが、構わず両手で肩を掴み、と、素早く腰を落として腕を回した。
「くらえジャーマン!」
屈み、腰に腕を回した瞬間、身体を後ろに反らせた。
宙に舞い上がる弟、駆の身体。
そのまま遠心力で、床に叩き付けられていた。
「うがっ!」
ウシガエルを潰した悲鳴。
を、掻き消しながら、さらにカズミは叫ぶ。
「からのお!」
もぞもぞ体制を変えた。
「必殺、地獄車!」
引き寄せて、床に両肩を押さえ付けると、抱き込み自分が円の中心になるように丸まり、前へと回り始めた。
デニムのミニスカートがまくれて、履いてないのも一緒のパンツ丸見え状態であるが、まるで気にせずに。
床の上を、ごとごとごとごと車輪が進む。
「いっ、で、だっ、ががっ」
頭を打ち付けられる都度、痛みと衝撃に駆の呻き声が上がる。
ゴトゴトゴトゴト。
まさに地獄車である。
恐怖の車輪が、壁まで行ってぶつかったところで、ようやく技を解除したカズミ。
立ち上がると、まくれたスカートを両手で下ろしながら会心の笑みを浮かべた。きれいに技が決まったことによる笑みであろうか。
「ううーっ、車先生……」
駆は、わけの分からないことをいいながら、ぐでーっと一直線に動かなくなってしまった。
「正義は勝つ! つうか冬なのに汗かいたあ」
部屋の大きなガラス窓を開けると、どっこいしょういちいいながら、縁側に腰を下ろした。
「ねえカズミちゃん、駆くんほっといていいのお?」
死んだように動かない駆が、気になって仕方ないアサキなのである。
「いーーんです。こないだも、あたしのとろなまプリン勝手に食いやがったから、おんなじ技を掛けてやったよ。今日の方が上手く回ったあ」
思い出して、あははっと楽しげに笑った。
「兄弟だよなあ」
アサキも縁側、カズミの隣に腰を下ろした。
「なにがよ」
「わたしたちが初めて会った時のこと覚えてない? わたしカズミちゃんに、さっきの駆くんみたいなことされたんですけど」
何色だーっなどと叫びながら、不意打ち豪快にめくり上げられたのだ。
学校の廊下で、男子だっていたのに。
「記憶にねえな。治奈か成葉だろ」
「えーっ」
不満顔を浮かべるアサキ。
あの二人がそんなことするはずないのに。
「ういー」
呻き声に、ちらり後ろを振り返ると、まだ駆がぐったりしている。
だいぶ回復したようではあるが。
「いいのかなあ」
ちょっと気まずそうに、外へと向き直った。
縁側からの眺めを。
真正面は、ここと同じような造りである隣家の、勝手口側が見えているのみ。眺めもなにも、眺めはこの隣家に完全に塞がれているといってよい。
左横を向くと、先ほど歩いていた道路。
右側には普通の一軒家があり、ブロック塀で、しっかり隔てられている。ブロック塀の下には、たらいや脚立、ホースなど、雑多な物が置かれている。
「うち、なーんもないだろ? 寄ってけ、とかいっといてなんだけどさ」
ふふっ、とカズミは恥ずかしそうに笑った。
「そんなことはない。すべてが、あると思うな。ここには」
本心をいった。
それは、ここにくるたびに思っていたことだ。
両親はいない、ということだけど、でも、血の繋がった兄弟がいるし。最高に、仲がよさそうだし。
それ以上、なにを望む?
自分も、義理の父母との絆は確かであり、負けていないとは思うが。でも、それはそれ。やっぱり、肉親の温かな仲を見せられると、羨ましくなる。
是非ないことではあるが。
そんなことを考えながら、意味なく視線を泳がせていると、奥の物置場に自転車が立て掛けられているのに気付いた。
スポーツ仕様ではない、いわゆるママチャリだ。
「なんだか、懐かく感じちゃうな」
自転車のデザインが、古臭いということではない。
数カ月前のこと、第三中の魔法使いとして新加入した
確か、降りて押した方がよっぽど楽に思える急坂を、物凄いパワーで漕いで漕いで上り切っちゃったんだよな。
その後の歓迎会も、楽しかったな。
ウメちゃんと
治奈ちゃんが負けてしまって。
その敵討ちをしようとしたお父さんまで負けて、二人して放心状態になっちゃって。
それほど前のことでもないのに。
なにもかも、懐かしいな。
平穏な日々。
日常が。
魔道着を着てヴァイスタと戦う、ということが既に異常なのだけど、でも、わたしにとっては日常になっていた。
いつか、取り戻せるのだろうか。
わたしの日常を。
本来あるべき、いや、わたしが望む、日常を。
つまらないことで喧嘩したり、お腹を押さえて笑い合える日々が。
ああ、そういえば、
「乗れるようになっておけ、とかいっていたな。ウメちゃん」
自転車を見ながら、ぼそり呟いた。
応芽が死ぬ間際、そのような会話をしたのだ。
自転車程度、乗れるようになっておけ、と。
約束するよ、と。
バタバタ落ち着きのない、そんな日々が続いており、まったく果たすことが出来ないでいるのだけど。
「別にそれ、なにに対しても頑張れとか、普通に生きろとか、そういう意味だろ。夢をアサキに託そうとしたわけだから、前向きでないと困るし、ちょっとの苦手は気合で克服しろ、ってことだよ。ゴキブリとか」
「ゴキブリは誰だって苦手だよ!」
得意な人なんているの?
「そう? んなことよりお前さあ、真面目に聞くけど、本当に、自転車に乗れないの?」
「うん。漕がなきゃ安定しないのは分かるんだけど。前へ進もうと漕いでもね、どうしてもふらついて倒れちゃうんだ」
恥ずかしげをごまかすでもなく、にんまりと笑みを浮かべた。
分かっている。
中学二年にもなって自転車に乗れないなど、恥ずかしいということを。ごまかすもごまかさないもない。
時折、思い立って、義母である
しかし、やれども漕げども、まったく向上の兆しがなく、いつか疲れてやめてしまう。
何度、チャレンジしたことか。
天王台へ越してきてからだって、四、五回くらいは練習している。
「結局、漕がないからなんだよ。倒れるのは、怖がってスピード出さないからだよ」
「いやいや、ペダル思い切り踏んだら、ぐうんと加速しながら、ハンドルが一瞬でぐりんと真横を向いて、その瞬間に地面に叩き付けられて、肘と手のひらを怪我したよお」
思い出して、情けない顔になるアサキ。
つい先日の、秘密練習の時だ。
倒れたはずみにごろり転がって、肘を怪我だけでなく、頭を打って。
誰もいないと思って、わんわん泣いてしまったのだ。
そしたらそれを、小さな子に見られてしまったんだよなあ。
ほんと恥ずかしい。
「ハンドルをしっかり固定させておかないからだろが。剣持って戦ってるくせに、なんなんだ、その握力のなさ。……ちょっと、うちのそいつで、アントワネット号で練習してみろよ。あたしが見ててやっから」
「えーっ、無理だよう!」
慌てた様子で、バタバタと手を振った。
練習はいいけど、別になにも、こんな時じゃなくても。
そもそも、これまで一人で隠れてだったから、誰かに見られていたら恥ずかしくてみっともなくて、練習なんか出来ないよ。
それより、なんだアントワネット号って……
「無敵の魔法使いのくせに、なにいってんだ。ほらあ、天国からウメも応援してるぞお」
それはなにげない言葉だったのだろう。
でも、その言葉に、アサキははっと目を開いていた。
応芽とのことを、
彼女が亡くなる時のことを、思い出していた。
そうだよな。
と、胸の中に呟いていた。
約束、というほど大袈裟なものじゃないけれど、
さっきカズミちゃんがいっていた通り、別に自転車だけってわけじゃ、ないんだろうけど、
でも……
「じゃあ、やってみるね」
足元のコンクリートに置いてあったサンダルを履くと、地面へと降りた。
それが、ほんの僅かでも、ウメちゃんの弔いになるのなら。
やり切れれば、わたしだって自信になるし。
奥の物置場にある脚立をどかすと、斜めに立て掛けてある赤い自転車、アントワネット号のハンドルを握って起こした。
「あれ、鍵掛が掛ってない。盗まれちゃうよ」
「そんなボロ、誰も盗まないから。だから、倒しても構わねえ。遠慮なく漕ぎな」
「分かった」
頷くと、自転車を完全に引っ張り出して、あらためてハンドルを両手で握った。
「でも、壊しちゃったら弁償するね……」
「どんだけ自分に自信ないんだよお! まあ、お前らしいけどな」
「だって、乗れたことまだ一度もないし。……それじゃあ、やってみるね」
決心した真顔で深呼吸をすると、無敵の魔法使いが、ついにサドルにまたがった。
地に左足を、ペダルに右足を乗せた状態で、きっと前方を見据える。
身体が細かく震えている。
転ぶ怖さとか、転んだら恥ずかしいなとか、そんな気持ちからの緊張で。
「も、目標は、そこの通りのところまでっ。い、い、行くぞお!」
目標距離、約三メートル。
左足も地面から離して、ペダルの上へ乗せると、そおっ、と踏み込む足に力を込めた。
ガシャン!
豪快に、真横にぶっ倒れた。
地面に頭を打って、ごつっという痛そうな音と、ぎゃっという悲鳴が同時に上がった。
「なんで足を着かないんだよ!」
頭を抱えたまま裸足のまま、ウッドデッキ下のコンクリートに立ち上がって、カズミは両の拳をもどかしそうに握った。
「そこまで考えが回らなかったあ」
うえええ、と情けない声。
赤毛の頭を押さえながら立ち上がると、腰に手を当てくっと回し、身体の無事を確認。
制服のスカートに付いた汚れを、はたいて落とした。
「考え回らなかったから転ぶとか、そこからか、お前はそこからなのか。なんかアサキが相変わらずの天然で、嬉しいような、ちょっとムカつくような、複雑な気持ちだよ」
カズミがぶつぶついっている。
「気持ち盛り下げるようなこといわないでよ。……よし、二度目の正直だ」
再びまたがり、ペダルを踏んだ。
ガシャン!
最初とまったく同じように転倒してしまった。
考え回っていようとも、結局。
めげずにまたがった三度目は、少しは
「頑張るぞ」
転倒しなくなったことに勇気が湧いて、何度もチャレンジするアサキであったが、
しかし……
乗れない。
進まない。
一メートルも進まない。
しっかり押さえているつもりなのに、ハンドルがぐらぐら揺れてしまい、すぐ転倒しそうになる。
そんなハンドルぐらぐら状態で、闇雲にスピードだけ上げても、勢いに持ってかれたハンドルが強制的に横へ回転してしまい、すぐにまた転び掛けて、地に足を着くことになる。
ムキになり無茶をした挙げ句、転倒した。
派手に。
繰り返すうちに、すっかり惨めな気持ちが膨らんでいた。
自分の運動神経は、それほど悪い方ではないはずなのに。
体育の成績だって悪くないのに。
最近練習している剣道だって、自分でも上達を感じているのに。
どうして自転車だけが、こうもままならないのか。
まるで神様に、そう仕組まれているかのように。
きっと、たまたま自転車の酷さが際立つだけで、探せば他にも色々とあるのだろう。こうした、自分の不器用さは。
そう、不器用なのだ。
自分は。
なにごとにおいても。
「ウメちゃん……」
微かに開いた口から漏れるのは、慶賀応芽の名。
死に際の会話を、思い出していた。
自転車くらい、乗れるようになっておけ、という。
あえて日常的なことを語って、幸せな気持ちで、天国へ行きたかっただけなのだろう。
分かっている。
でも、かわした言葉に、わたしが頷いたのは事実だ。
適度に練習すれば、いつかは乗れるようになるだろう。
これまでは、そう気楽に考えていた。
でも、いざこうして、強い気持ちで挑戦し、それでこうも乗れないなると、本当に自分がたまらなく情けなくなる。
惨めな気持ちになる。
世界を救え、などと大きなことを頼まれたのならともかく。
自転車くらい乗れるようになっておけ。
という、その程度も出来ないことに。
自分が情けないばかりか、応芽に対し申し訳のない気持ちになっていた。
ガシャン!
五度目の転倒。
まともに受け身を取れず、自転車に手足を絡ませて、地に横たわっている。
横たわったまま、アサキは動かなかった。
コンクリートに置いてあった外履きがもうないので、縁側から膝立ち姿勢で、もどかしそうにカズミが話し掛ける。
「ああもう。早く起きろよ! スカート思い切りめくれてっぞお。……悪かったよ、無理やりやらしちゃって。もう練習終わりにしようよ」
アサキは、倒れたまま動かない。
よく見ると、身体が微かに震えている。
「アサキ?」
呼び掛けに応えるのは、ふーっとため息に似た長い呼気。
アサキはゆっくりと片腕を動かして、顔にかざした。
隠していた。
泣き出しそうな顔を。
いや、泣き顔を。
つうっ、と涙がこぼれるのを。
でも、隠せなかった。
悔しがる、唇を。
頬を伝う、涙を。
漏れる泣き声を。
押し殺しながらも、でも、はっきり聞こえる声で、アサキは、すすり泣いていた。
「ごめん……ウメちゃん」
隠した腕から、もう隠し通せないほどに、ぼろぼろと涙がこぼれていた。
えくっとしゃくり上げると、さらに声が大きくなって、そのままいつまでも泣き続けていた。
冬の夜空には、星が出ていた。
7
すっかり遅くなってしまった。
もう夜、二十時過ぎだ。
自宅マンションに帰宅した
手袋をしておらず、冬の寒さに冷たくなった手を擦り合わせている。
ハンドルレバーへと手を伸ばしたところ、ドアが勝手に開いた。
内側から、押されたのだ。
「お帰り。お疲れさま。今日は大変だったね」
義母の
「ただいま、直美さん。遅くなって、ごめんね」
小さく、頭を下げた。
「ん、どうした? 制服がやたら汚れているけど」
「あ、いや、これはちょっと……」
義母が大変とねぎらったのは、告別式のことだろうが、実は、その後の方がよほど大変だった。その時の、汚れだ。
白い魔道着の魔法使いに襲われたり。
そんなこと、いえるはずないけど。
直美さんたちは元リヒト職員の夫婦だが、魔法によってその時の記憶はなく、現在はただの一般人なのだから。
さらには、カズミの家で自転車の練習をして、何度も転んだり。
制服が汚れたのは、ほとんどそれが原因だ。
「いわれた通り、夕ご飯は用意してないよ。もし小腹が空いたら、冷蔵庫に少しあるにはあるけど」
「うん。ごめんね、急に勝手なこといって」
「後でプロレスの子の、連絡先を教えてよ。お礼しなきゃ」
直美のいうプロレスの子とは、
今日はカズミの家で、夕ご飯を御馳走になってきたのだ。
十一時から告別式。
十五時に終わり、真っ直ぐ帰宅するつもりだった。
帰路で、白い魔道着の魔法使いに襲われ、撃退。
ようやく帰れる、と思っていたら、昭刃和美に呼び止められ、
家に強制的に招かれて、
庭で自転車の練習をしたり、
夕飯をごちそうになったり、
それで、こんなに遅い時間の、帰宅になってしまったのだ。
自分の部屋で、スウェットに着替えたアサキは、キッチンの冷蔵庫を開けて、猫のウェットフードを用意する。
帰宅した時は、出迎えをしないどころか無反応だった、白と黒、二匹の猫が、突如カーテンの向こうから飛び出して、アサキの背中にべたっ、べたっ、となんだかオモチャみたいに張り付いた。
「いたたっ、爪立てないでええ!」
捨て猫なので、いつの生まれかは分からないが、飼い始めてはや半年以上。
身体はもう大人だが、心はまだまだ子供で、容赦なくこんなことをしてくる。
定期的に爪を切っているとはいえ、大人二匹の全体重を前爪で支えられては、それは痛いに決まっている。
涙目で屈み、背中を揺するアサキであるが、むしろなにかのゲームと思ったか、よりがっしりしがみつかれて、降りてくれず。
涙目のまま、ウェットフードを皿に入れて、食べられる準備をしてあげたら、ようやく飛び降りてくれた。
競い皿に顔を突っ込んで、餌をがっつく二匹を見ていると、痛みに泣きそうだったアサキの顔が、微笑みに一変した。
「ほんと大きくなったよなあ」
ヘイゾーの頭を、そっと撫でる。
白い方がバイミャン、黒いのがヘイゾー。
我ながら、変な名前だとは思う。
ネットで調べた中国語の、
アサキが第三中に初登校した日。
さっそく治奈ちゃんという友達が出来て、二人で児童公園に寄ってベンチで話していたのだが、そこへ聞こえてきた子猫の鳴き声が、この二匹だ。
飼い主が見つかるまでは、ということで買い始めたのだが、貰い手はみつからず。
もうこのまま、飼い続けるしかないだろう。
しかないどころか、もう家族の一員だけど。
二匹とも。
大切な、家族。
などと思いつつ、アサキは二匹の頭を撫でている。
まさかこの後、家族に関する衝撃の報告を、直美さんから聞かされることになるとは、当然ながら思ってもいなかった。
「プロ……カズミちゃん家に、連絡したよ」
直美が、リストフォンの通話を切りながら、隣の部屋から出てきた。
「ありがとう。ごめんね、気を使わせちゃって」
「お兄さんとお話しちゃったよ。あそこ、お兄さんがお父さんでありお母さんなのね」
昭刃家は、
両親とも死別しており、一人だけ社会人の兄が、家計を支えているのだ。
「そうなんだよ。面白いお兄さんでしょ?」
両親はいないけど、みんな元気で、明るくて、いつも笑っていて。
最高の家族だと、アサキは思う。
「そうだね。……でも、夕ご飯は関係なく、本当は早く帰ってきて欲しかったなあ」
「え」
言葉の意味が分からず、きょとんとした顔で直美を見るアサキであるが、見たその瞬間、きょとんがより深まっていた。
直美の、眼鏡の奥に、不満げなような、嬉しいような、恥ずかしさに照れているような、なんとも読めない表情が見えたためである。
「報告、したかったから」
「え、な、なにを?」
ふふっ、と笑う直美。
そのまま五秒ほども、見つめ合っただろうか。
直美はもったいつけるように、ようやくその報告の言葉を発したのである。
やわらかく、微笑みながら。
「アサキちゃんが、もうすぐお姉ちゃんになるってことを」
時間が、静止していた。
それを聞いた瞬間。
アサキの中の、時間が。
直美は優しく微笑み続け、アサキは呆けたようなきょとん顔のまま。
にゃん。
お腹いっぱい食べた猫の、満足げな鳴き声に、時が動き出した。
アサキの顔に浮かぶ、驚きと混乱、混乱と驚き。
「わ、わたしが、お、お姉ちゃ……って、ええっ、す、直美さん、え、えっ?」
戸惑い慌てふためくアサキの態度に、直美の微笑みが、にんまりとした無邪気な笑顔へと変化していた。
そんな直美の顔を見ながら、
「わ、わたしが、お、お姉ちゃん、そ、それって……それって」
言葉つっかえつっかえのアサキであるが、心の中も同じくらいつっかえつっかえであった。
と、と、という、ことはっ……
す、す、す、直美さん、が、
直美さんがっ
そそ、そ、そのっ、あのっ、
つまりっ、
すっかり頭が混乱していた。
でもそれは、決して不快な混乱などではなく、感情の方向性としては、むしろ正反対だった。
心地のよい嬉しさが、脳にどっと流れ込んでいたのである。
やがて少しだけ感情を整理出来たアサキは、
「やったあ!」
破顔、直美へと飛び付いて、抱き締めていた。
ぎゅうっと力強く、抱き締めていた。
「あ、ご、ごめんなさいっ。だ、大事なお腹なのにっ」
慌てて腕を離し、一歩下がると、視線を落とし、まだ全然膨らんでいないお腹を、申し訳なさそうに見た。
「大丈夫だよ、このくらい」
直美は笑いながら、自分のお腹をさすり、軽く叩いた。
安堵の長いため息を吐いたアサキは、あらためて自分も笑顔を作ると、ちょっと恥ずかしそうな上向き目線で、小さく頭を下げながら、
「おめでとう……ございます」
心からの言葉を送った。
「なんだよ、他人行儀だなあ。でも、ありがとう、アサキちゃん」
「もう性別は、男の子か女の子かは、分かっているの?」
「もう分かってるだろうから、聞けば教えてくれるんだろうけど。どっちなのかは、最後まで楽しみに取っておくつもりだ」
「そっか」
ふーーーっ、とさして意味なく長い息を吐くと、顔を上げ、視線を上げ、天井を見上げた。
「
アサキの目は赤くなっていた。
潤んでいた。
泣きそうだ。
それほどに、嬉しかったのだ。
二人がどれだけ子供を望んでいたかを、よく分かっていたから。
まだ若いのに半ば諦め掛けていたことも、知っていたから。
そんな二人を見ているのが、辛かったから。
だから、この報告は自分のことのように嬉しい。
最高に、幸せな気持ちだ。
でも、
だからこそ……
「わたし、家を出るよ」
真顔になり、正直な思いを直美に伝えた。
子供が出来たら、自分だけ血の繋がりがないわけで、それを窮屈に思うから?
それもある。
でも、窮屈がどうというのは、単に自分の気持ちだ。
そうではなく、純粋に、この家族のことだけを思い、幸せの邪魔をしたくないと思い、それで、出て行こうと思ったのだ。
現在は、中学生の身分で収入もない。
だから、卒業してからということになるだろうが。
ウメちゃんだって、中二で一人暮らしをしていたのだ。
高校生にもなっていれば、アルバイトだって出来るし、生活自体は、なんとかなるだろう。
アサキの言葉をどう汲んだかは分からないが、
「ダメ。あたしたちは四人家族になるの。アサキちゃんが長女」
直美には一瞬で否定、否認されたが。
「でも……」
「でもじゃない」
「ごめん。で、でも、やっぱり迷惑……」
「本当の家族以上、だよね、あたしたちの関係って」
突然そんなことをいわれ、少し戸惑いながらも、アサキは小さく頷いた。
血の繋がりこそないが、自分がこの夫婦を好きだということ、本当の家族以上に思っていること、一緒に過ごせたことの幸福感、これらに微塵も嘘はない。
「もし本当の家族なら、誰かがグレようが強盗しようがでっかい借金背負おうが、家族だよね」
「うん」
「でしょ? そうだとしてもそうなのに、アサキちゃんはそんなこととは正反対の、優しくてしっかりしてて、最高の女の子」
「そんなことは……」
買い被りすぎだ。
「そんなことあるの! だったら、わたしたちの最高の家族じゃん。うちの自慢の娘だよ。……もう、なにをどうしようとも切れない絆で、あたしたちは、繋がっているんだよ。どこかへ行くのは、いつかいい人と結婚する時だけだ」
「そういってくれるなら……」
ず、
鼻を、すすった。
ぼろり、涙がこぼれた。
「まだ、しばらく、ここにお世話になります」
「だからそういうこといわない!」
「分かった」
アサキは目を赤く腫らしながら、幸せそうな笑みを浮かべた。
そこまでいってくれるのなら、本当の家族になろう。
遠慮なんかしない。
家族以上の、世界一の、家族になろう。
生まれてくる、弟か、妹のため。
「理由はないけど、女の子な気がするよ」
涙を拭いながら、アサキは笑った。
「うん。考えられない話じゃないよね。二分の一だし」
「そうだね」
もしかしたら、成葉ちゃんか正香ちゃんの生まれ変わりだったりして。
実は双子で、応芽ちゃんと雲音ちゃんの魂が……って、それはないか。そんなこと起こるなら、うちよりも慶賀家に生まれるのが当然だし。
しかし、帰宅してみたら、こんな嬉しいニュースが待っていたとは。
ここ最近、知っている人がどんどん死んでいくばかりだった。
生まれる生命もあるのだという、当たり前のことをすっかり忘れていた。
リヒトからの、じわじわ追い詰められていく感触に、気持ちが闇に飲まれかけていたのかも知れない。
でもこうして、まだまだ守るべき幸せはあるのだ。
ならば、守らなければ。
この生活を。
この世界を。
そのためには、「
この下らない争いに、早く決着をつけないと。
みんなが、笑顔であるために。
8
「嬉しい。
嬉しい。
嬉しい。
それほど長くもない人生で、どれだけ久し振りのことだっただろう。
嬉しくて、泣いてしまうだなんて。
あまりに嬉しくて、ボロボロと涙がこぼれるだなんて。
こんな涙が、まだ私の中にあっただなんて。
枯れず、残っていただなんて。
いつもは、その日のことを時系列で書くよう心掛けているというのに、
今日は、記しておくべき色々なことがあったというのに、
その日の最後のことから書いてしまっている。
仕方がない。
今の私の頭の中は、その嬉しいことで一杯だから。
筆を持つ手を抑えられないから。
何かというと、
赤ちゃんが、出来たのだ。
いや、あの、違う。
修一くんと直美さんとのだ。
待ちに待った赤ちゃんが、ついに。
性別は、聞いていないとのこと。
どちらであろうとも、きっと可愛い子か生まれるに違いない。
二人がどれだけ子供を欲していたか分かっていたから、私も自分のことのように嬉しかった。
妊娠が判明したばかりだから、まだまだ先のことだけど。
早く、会いたいな。
私を幸せな気分にさせていることが、もう一つある。
嬉しい報告を聞くと同時に、ただの養女である私は、この家を出るべきだろうなと思い、その思いを直美さんに伝えた。
そうしたら、直美さんは強くいってくれたのだ。
生まれて来る子と、四人で家族なんだと。
私も、もう強い家族の絆で結ばれているんだからと。
涙が出て、止まらなかった。
だって最近、周囲の人が死んでいくばかりだったから。
魔法使いだから、ヴァイスタと戦っているから、仕方ないことではあるのかも知れないけど。
普通の感覚が麻痺していても、おかしくないと思う。
実際、少し麻痺していた気がする。
でも久し振りに、こうした明るい話を聞いて、目が覚める思いだった。
この世界を守らなきゃ、と強く思うと同時に」
「同時に、なんだ……しかし困ったな。ついテンション高く、
自室で学習机に着きながら、アサキは、ペンを持ったまま腕ん組んで、難しい表情を作った。
背もたれを少し後ろへ倒して、天井を見上げる。
今日は、色々なことがあった日だというのに。
いまさっきのことから、日記を書き始めてしまった。
昼前から、
帰りには、白い魔道着を着た魔法使いに襲われて、撃退。たまたま近くにあった
すっかり日も暮れ、ようやく帰れると思ったら、
時系列という点からも、ことの重さからも、本来ならば、樋口校長の件から書き出すべきなのに。
あえてそれを避けて、気持ちのよいことだけ勢いで書いてしまったのかも知れない。
その件以外、今日は嫌な記憶ばかりだからだ。
告別式では、
白い魔法使いに対しては、過剰防衛ともいえるあしらい方をしてしまい、自己嫌悪。
自転車練習では、ウメちゃんとの約束を守れていない自分が情けなくて途方に暮れて。
書かないわけには、いかないからな。
仕方ない。
自分の嫌なところと向き合うのも、また日記の役割だ。
思い出して追記した形式にするか、今日だけ日付を二回振って二部構成にするか。
どうするかな。
「決めた」
椅子の角度を戻して、机に覆いかぶさり、執筆を再開しようとした。
その時である。
ブーーーーーーーーーーーー
机の上に置かれたリストフォンが、激しく振動したのは。
単なるメッセージ着信とは違う強烈な振動に加え、直置きされている机もカツカツ激しく鳴って、アサキはびくりと肩を震わせた。
いつものクラフト内蔵リストフォンは、須黒先生に預けてあるため、これは前々より所有していた、市販の物。
だというのに……
特殊回線を使えるわけでもない、普通のリストフォンの、画面に映っているのは、
グレーのスーツ。
髪をオールバックにした、なんとも野性的な風貌の、でも整った顔立ちのためか女性のようにも見える、男性。
リヒト所長、
「東京の特別放送局からお送りしております。天王台第三中学校の
画面の中の彼は、これまでに見たことないほど、妙に機嫌のよい口調であり、笑顔であった。
その正反対ベクトルの感情が、同じリストフォンのスピーカーから激しく噴き出した。
「てめえ、なにいってんだあ!」
カズミの怒声である。
小さなスピーカーから、バリバリと割れた音質で。
魔法使いたち、といっていた。
そしてこのカズミの声。
至垂徳柳は、どこで宛先を知ったのか、同報通信を掛けてきているのだ。
「どんどんね、どんどんね、追い込んでいくよね、この、感触……」
小さな画面の中で、グレースーツのリヒト所長が、楽しそうに身体を細かく揺すっている。
「ま、まさかっ! フミ……フミを、どうした!」
今度は、
フミとは治奈の妹、
「うーん、いいねえ。この追い込んでいる実感。いいねえ。でも一人、なんだか幸せそうにニヤけちゃってたのもいるけどねえ」
ふふうっ、と画面の中の至垂徳柳が、笑いながらアサキを見た。
その笑いに、言葉に、さあっとアサキの顔が青ざめていた。
わたしのことをいっているんだ。
でも何故、それを知っている?
っと、それは後回しだ。それよりも、
「治奈ちゃん! フミちゃんが、どうかしたの?」
至垂徳柳によって繋げられた回線の、向こう側にいる治奈へと、呼び掛けた。
「アサキちゃん? ……フミが、フミがっ、部屋からいなくなったんじゃ。ほじゃけど出掛けた形跡もなくて。こんな冬の夜じゃゆうのに、部屋着のまま黙っていなくなるはずもないじゃろ!」
治奈の、慌てた、動揺した、いまにも泣き出しそうな、激しく震えた声。
「ほんとかそれ治奈っ! おい、クソ至垂、なんか知ってんだろ! 答えろよ、クソ野郎!」
カズミの怒声、テーブルを叩いているだろう音に、至垂徳柳の表情は揺らぐどころか、ますます楽しげな笑みを強めた。
ぷっ、と吹き出した。
「知っているもなにも……」
画面の中で、至垂がすっと横へ、軽く身体をどかした。
信じられない光景に、アサキの全身は、血も肉も凍り付いたかのように、固まっていた。
おそらく、同じ画面を見ている治奈も、カズミもだろう。
至垂の後ろに映っているのは、
口にさるぐつわをされ、後ろ手に縛られている、よく知る少女の姿だったのである。
目に涙を浮かべ、懇願の表情で、画面越しにこちらを見ているのは、
明木史奈であった。
その隣には、魔道着姿の、ナイフを持った女子が立っている。
笑みこそ浮かんではいないが、冷淡な顔で、涙目で怯えている少女の頬に刃をそっと当てている。
姉である治奈の、断末魔の絶叫にも似た、凄まじい悲鳴が聞こえた。
小さなスピーカーから、バリバリと割れた音質で。
「フミ! フミ!」
狂乱の中、妹の名を叫ぶ治奈。
「至垂! てめええええっ!」
カズミの、怒鳴り声、壁か机か、なにかを激しく蹴る音。
アサキは、すっかり頭が真っ白になって、なにも考えらなくなっていた。
手が震え、身体が震え。
なんにも出来ず、考えられず、ただ、そのスピーカーからの音を、叫びを聞いている。
沸騰、しそうだ。
全身の血管が、破れそうだ。
荒い呼吸で、立ち上がる。
画面の中で笑っている至垂徳柳を、睨み付けた。
視線や態度に気が付いたようで、至垂は、どうもという感じに軽く頭を下げた。
アサキは、自分の胸へとそっと手を当てた。
どっ、
どっ、
心臓が、内側から胸を突き破りそうだ。
「きみたちさあ、こんな遅い時間だけど、もしも暇なら……」
至垂は笑みを深め、ひと呼吸、そして、
「遊ぼうか」
甘い声。
顔には喜悦。
背後には、魔法使いにナイフを突き付けられている史奈の、脅え切った姿。
「うああああああああああああああああああ!」
アサキは、叫んでいた。
こんなことをして、楽しげな顔でいられる、至垂への不快感、ドス黒い怒りの感情に。
部屋着姿のまま、部屋を飛び出した。
「どうしたの? アサキちゃん、凄い声で……」
居間のソファから直美が声を掛けるが、アサキは脇目も振らず真っ直ぐ玄関へ。
運動靴を履き、マンション通路へ。
階段を駆け下り、外へ出た。
月夜の下を、走り出した。