魔法使い×あさき☆彡   作:かつたけい

3 / 43
第一章 令和の魔法使い

 

     1

 学校の駐車場に、白い乗用車が停車した。

 後ろのドアが両側とも開いて、それぞれから、えんじ色の制服を着た赤毛の少女と、簡素なスーツ姿の大人の女性が降りた。

 

「忘れ物はないだろなあ」

 

 自動車の運転席から、野太い、のんびりとした男性の声。

 

「ない……はずだけど」

 

 制服姿の少女、(りよう)(どう)()(さき)の声。自信がなくなったのか、弱々しい語尾である。

 

「初日から授業があると聞いてたから、準備はぬかりないはずだけど。あらためて聞かれると困っちゃうなあ」

「ま、なんか忘れてたら忘れてたで」

 

 スーツの女性が、はははと軽く笑った。

 

「えーーっ、(すぐ)()さあん、それで初日からいじめられたりしたらどうすんのおお」

「だあったら、自分でしっかりやっとけばよかった」

「まあ、そうなんですけどお」

 

 憮然としたように唇をとんがらせる和咲。

 

「じゃ、いこっか」

 

 声を掛けるスーツの女性、令堂直美、和咲の母親である。

 正確には、義母である。

 

「頑張ってこい!」

 

 運転席の中から男性ののぶとい声、令堂(しゆう)(いち)、和咲の父である。

 正確には、義父である。

 

「うん」

 

 微かな笑みを浮かべる和咲。

 

 修一が身を大きく伸ばして反対側助手席の窓から手を出した。

 パン、

 と、和咲とその手を打ち合わせた。

 

 音はすぐ風に溶け消え、和咲は身体を回れ左させて学校へと向けた。

 校舎をしばらく眺めると、振り返り、自動車のボンネット越しに眼下に広がる湖のようなものへと視線を向けた。

 大きいが湖ではない。()()(ぬま)という名の沼である。

 

「じゃな。おれはこのまま仕事にいっちゃうけど、帰り迷うなよ」

 

 去る自動車へと、和咲は手を振った。

 手を下ろすと、しばらくそのまま風に吹かれていたが、やがて義母である直美と一緒に校舎へと歩き出した。

 

「あたしは手続き終わったら、ちょっと手賀沼をジョギングしてみたいんだけど。……和咲ちゃん一人で平気? ちゃんと、挨拶出来る?」

「あったりまえだよお。わたし、もう中学二年生だよ。どかーんと盛大に挨拶するから。もう以前のわたしじゃないんだ。ナイスな掴みで、一気に人気者になっちゃうからあ、だから心配はご無用」

「そっかそっかあ。子供扱いしてごめんね」

 

 直美は笑いながら、娘の赤毛の頭をなで回した。

 

「子供扱いしないなら、それやめてよお!」

 

     2

 令和 二十七年 五月 十五日 (曜日 月) 日直 山田 遠藤

 

 いつも明るく

 挨拶しっかり

 自ら進んで行動

 

 ここは()()()市立(てん)(のう)(だい)第三中学校の校舎三階、二年三組の教室である。

 

 紺色の制服を着た男女生徒たち。

 授業前のよくある光景ではあるが、みな大声ではしゃいでおり、教室は実にうるさい状態である。

 

 前のドアが開いて担任の()(ぐろ)()(さと)先生が入ってくると、すーっと溶け入るように静かになったが、でもその後すぐに、あちらこちらの席からちょこっとしたざわめきが起きた。

 先生に続いて、見知らぬ女子生徒が入ってきたためである。

 

 この学校の指定とは違う、えんじ色のブレザーにタータンチェックのスカート。

 長い赤毛を後ろで縛り上げすっきりまとめており、一見するとショートカットのようだ。縛っているのにところどころピンピン跳ねているのは、寝癖をまとめ切れなかったのかなんなのか。

 女子生徒、(りよう)(どう)()(さき)である。

 

「もしかしてえ……」

「まさかあ」

 

 と、何人かの生徒からそんな言葉が漏れる中、和咲はギクシャクギクシャク同じ側の手と足を同時に出しながら教卓の前まで身体を運ぶと、ギギッと回れ左してようやく動きを止めた。

 まるでブリキの人形である。

 

「はいはい、静かにする! ……では転校生を紹介します」

 

 須黒先生の言葉に、

 

「おーっ!」

「やっぱり!」

 

 教室がどっと沸いた。

 

「令堂さん、自己紹介をして下さい」

「はは、はいっ!」

 

 和咲は氷のようにガチガチに強張った表情を生徒たちへと向けながら、ぎゅっと手を握った。汗でじっとり湿った手を。

 

「…………」

 

 小さく口を開くものの、つっかえつっかえで全然名前が出てこない。

 

 なんだか大人しくじーっとしているようにも見えるが、

 

 どど、どうしよう。どうしよう……

 

 と、心の中では必死に焦りの声を上げていた。

 

 本当に名前すらも出ない。頭が、真っ白になっちゃって。そ、そもそもなんだっけ、わたしの名前っ。

 ずばーんと名乗って、すかーんとなんか面白いこといって笑わせてやろうと、昨日必死に挨拶の練習をしたのに。

 どうしよう……

 バカなことしていないで、普通に名乗る練習だけしとけばよかったよおおお。

 

「令堂和咲さんです。お父さんの仕事の関係で、仙台からこちらへ移ったとのことです。仲良くしてあげてね」

 

 結局、先生が助け舟を出した。

 

「は、はい! 分かりましたあ!」

 

 緊張ガチガチ赤毛の転校生は裏返った声で叫んだ。

 

「あなたがあなたと仲良くしてどうするんですか」

 

 苦笑する先生。

 教室内に、はははとちょっと乾いた笑いが起きた。

 

 わ、笑われたあ!

 いじめられる、それか、無視される、

 いずれにしてもターゲットロックオンされたかもお!

 最悪だ……

 

「それじゃあ、せめて黒板には自分でしっかり名前を書いてね」

「は、はい。お任せを」

 

 白墨を手渡された和咲は、ぐるりん黒板へと向いた。

 

 ふーーーー

 

 ゆっくり息を吐いた。

 全然思考が落ち着くことなどなかったけど。

 

 カツ、黒板へと白墨を押し当てながら、また、小さく息を吐いた。

 今度はため息だ。

 

 相変わらず、ダメだなあ、わたし。

 全然、変わっちゃいない。成長していない。

 すぐに緊張して、ドジばかり踏んじゃうところ。

 過ぎたことは仕方ない。せめて名前だけでもちゃんと書いとこう。

 なるべくいじめられないよう、隅っこで大人しくしとこう。

 

 そんなことを考えながら、白墨カツカツ名前を書いていると、先生の声が現実に引き戻す。

 

「令堂さん、小さすぎて前の席の子でも読めないんだけど。視力検査じゃないんだから、大きく書かないと」

「ええっ、あ、ほんとだっ!」

 

 ノートに書くよりもいくらか大きな字ではあるが、確かに黒板にこれでは誰も読めないだろう。

 

「あ、あ、あのっ、あのっ、すすみませんっ、書き直しますっ!」

 

 ああもう、まいったなあ。

 ここでこんな失敗して、余計に緊張しちゃうじゃないか。

 そもそも先生も先生だよお。視力検査じゃないとか、そんな嫌味をここでいってどうなるんですかあ?

 

 そんなことを思いながら、掴んだ黒板消しを押し当てて、左右に動かした。

 カチカチ音がするばかりで字が消えない。

 

 なにこれ? 新種のいじめ? と思ったら裏表が逆だあ!

 

 ちょっと顔を赤らめながら、あわてて持ち直して字を消し、意識して名前を大きく書き直すと、向き直り深く頭を下げた。

 

 ぜいはあ、

 こんなことで息が切れて、恥ずかしそうにしていると、

 その様子に耐え切れなくなったのか、誰かがプッと吹き出した。

 一瞬にして、教室は爆笑の渦に包まれていた。

 

 ぽあっと顔をさらに、髪の毛と同じくらい真っ赤に染める和咲。

 

 死にたい……

 そこまでじゃなくても、穴があったら入りたい。

 先生なんで穴を用意しておいてくれなかったんですかあ?

 いや……

 それでいいのか。

 成長するんだ。

 これを機会に、わたしは前へ進むんだ。

 い、い、いくぞっ、

 いち、にい、さんっ!

 

「令堂和咲です! みなさん、ど、どうかよろしくお願いします!」

 

 教室がまだ笑いに包まれている中、そのどさくさに乗じて大きな声で叫んでいた。

 

 生徒たち拍手。

 

「はい、よろしくお願いします。では、令堂さんの席ですが……」

 

 紆余曲折はあったけれど、なんとか挨拶を乗り越えたことに和咲は小さく安堵のため息を吐いて、浮かんだおでこの汗を袖で拭った。

 汗で体重が半分に減ったかも知れない。

 

「先生」

 

 窓際後方の席に座っている女子生徒が手を上げた。

 

「うちの後ろが空いちょるけえ、当然ここってことでええんじゃろ?」

「そうね。とりあえずは(あきら)()さんの後ろに座ってもらって。いずれ席替えを考えましょう」

「やった! 転校生の近くの席だあ!」

 

 明木と呼ばれた女子生徒は、嬉しそうに右腕を突き上げた。

 おでこで髪の毛を左右に分けている、さっぱりした印象の女子だ。

 

 あの子の、後ろの席か。

 言葉が首都圏ぽくないけど、なんか岡山とかあっちっぽいけど、でもまあ普通の子のようだからよかったのかな。

 いやいや、まだ分かんないぞお……

 

 などとぶつぶつ胸に呟きながら、和咲は、ふと気が付いた。

 教室の中央に、もう一つ空席があることを。

 

 いまの話しぶりだと窓際の一席しか空きはないということだから、今日は休んでいるということなのかな。

 パッと見た感じ、このクラスに怖そうな子はいないけど、その席がそんな子だったら嫌だなあ。

 どんな子なんだろう。男子かな、女子かな。

 

 などとその中央の空席をやたら気にしていると、先生が察したようで、

 

「ああ、そこの席? (あき)()(かず)()さんっていってね、たぶん学校にきてるとは思うんだけど。……(おお)(とり)さん、知らない?」

 

 え?

 どういうこと?

 きているのなら、なんでいないの?

 

「いえ、今日は会っていませんけど。それよりも、どうしていつの間にかわたくしが彼女の監視役になっているのか必然性の理解に苦しむのですが」

 

 いま受け応えしている大鳥さん、長い黒髪で、身体もほっそりして、とても美人だ。

 生まれも育ちもいいのか、声も喋り方も非常に上品で。

 

 あまりに自分にないものばかりで、和咲は羨ましさを感じることもなく単純にうっとりしてしまっていた。

 

 やり取りは続いている。

 

「だって、性格が正反対すぎて、反対に相性が合うのかなあと思って。知らないならいいや、後で探してぶっ飛ばしておくから」

 

 そういうと先生は、ははっと笑った。

 

 な、なんか、喋り方が乱暴になってない?

 先生、地が出てきてない?

 それより、昭刃さんて子、学校にきてるのに教室にいないって……

 ひょっとして、そういうのが日常茶飯事の学級崩壊クラス?

 だ、大丈夫なの? ここ。

 

 不安になる和咲であった。

 

 表情から察したか、先生が手をぱたぱた振りながら、

 

「あ、いや、昭刃さんだけだから。素行不良なのは」

「はあ」

 

 信じますけど、いいですかあ?

 

「それじゃあ令堂さん、さっそく席についてください。早速授業に入るから。……教科書まだだっけ? 隣の(にい)(くら)くんに見せてもらってね」

「分かりました」

 

 指示された窓際後方の席へと向かう和咲。

 

「よろしくね、令堂さん」

 

 アキラギさんと呼ばれていた女子生徒は、にんまり無邪気な笑みを浮かべながら右手を差し出した。

 

「あ、どうも、こちらこそ」

 

 和咲は、差し出される手を握りながら、もう片方の手を頭に当てて照れた笑みを浮かべた。

 

「うち、(あきら)()(はる)()。下の名前で呼んでええよ」

「いやいや、そんなっ、会ったばかりでとんでもないっ。……よろしく、明木さん」

 

 和咲は明木治奈の後ろの席にこそっと座り、その背中を見ながら心に呟く。

 妙に馴れ馴れしい子だなあ。と。

 

 千葉県って東京に近いのに標準語じゃないんだな。

 それとも我孫子だけ特別?

 それとも特別なのはこの子だけ?

 どうなんだろう。

 

「ああ、うち広島出身なんよ」

 

 明木治奈が背もたれ越しに振り返って、にっと楽しげに笑った。

 

「あっ、明木さんてっ、超能力者なんですかあ?」

「いや、思い切り独り言が出とったけえね」

「ええっ、ほ、ほんとですかあ?」

「うそうそ。初めて会う子は必ずこの言葉遣いにびっくりするもんやけえ。でもあっちじゃあこれが普通なのになあ」

 

 明木治奈の笑い声を、パンと手を叩く音が掻き消した。

 

「はい、そこの二人! いつまでもお喋りしていない! 令堂さん、初日とはいえ、もうここの生徒なんですからね」

「あ、は、はいっ、すみませんでしたあ!」

 

 和咲は肩をびくりと震わせながら立ち上がって、深く勢いよく頭を下げた。

 

 ガツッ

「いたっ!」

 

 自ら激しく、机におでこをぶつけてしまったのである。

 周囲から笑いが起きて、和咲は恥ずかしさにまた顔を真っ赤にしながら、肩を縮こませて座った。

 

「面白い子じゃのう、和咲ちゃんて」

 

 また明木治奈が振り返って笑っている。

 しかもいつの間にか、下の名前をちゃん付けだ。

 

「面白くありません! また怒られちゃうじゃないですかーーーっ!」

 

 こそーっと小さい声で怒気を吐き出すと、ながーいため息を吐いた。

 

 でも、

 

 ちらりと、前を向き直った明木治奈の背中を見る。

 

 どんな学校かと不安で一杯だったけど、とりあえず前の子は、性格は悪くなさそうで安心した。

 

 いつまでこの学校にいることになるか分からないけど。

 勉強に、運動、頑張るぞお。

 

     3

「うちは、(あきら)()(はる)()いうたじゃろ、ほいでこの幼児っぽいのが(へい)()(なる)()、見た目も中身も優等生なのが(おお)(とり)(せい)()じゃ」

「ナルハぜんっぜん幼児っぽくなんかないし! ちょっと背がちっちゃいだけだもん」

「わたくしも別に優等生ではないですよ。そもそもそのような表現自体が相対的……」

「分かった分かった。二人の頭の中ではそがいなっとると、思っといてやるけえね」

 

 現在は業間休み。二時限目と三時限目の間にある、他の時間より五分長い休憩時間だ。

 この仲良し三人で、(りよう)(どう)()(さき)に天王台第三中学校の校舎内を案内しているところなのである。

 

「よろしくね、大鳥さん、平家さん」

 

 和咲は笑顔で小さく頭を下げた。

 

「おーっ、そんなふにゃっとした顔で笑うんだねえ。さっきまではカッチコチだったのにい」

 

 平家成葉がからかった。

 

「わたしね、緊張しやすいから、最初がとにかく苦手なんだよね。それで前の学校でも、無視されちゃってて。……でもこの学校はいい感じの人が多そうで助かった。こうやって声も掛けてもらえたし」

「でもまあだ堅苦しいよお、アサにゃん」

「ア、アサにゃん?」

 

 和咲は自分の顔を指差した。

 

「だってアサキでしょ。アサにゃんじゃん」

「……何故、にゃん……まあいいや、それより、そりゃあ堅苦しくもなるよ、まだ転校初日だよ」

「すぐ慣れるよ。あらためてよろしくねアサにゃん」

「こちらこそ」

 

 廊下を歩き続ける四人。

 和咲は、もちろん案内されるまま校舎内もしっかり目に入れていたが、それ以上に、この三人へと注意が向いていた。

 

 (あきら)()(はる)()

 いつもほがらかで嫌味なところがなさそうで、一緒にいるだけで元気を貰えそうだ。

 

 (おお)(とり)(せい)()

 おっとりして物腰も柔らかいが、内面から意思の強さを感じる。

 長い黒髪が、とっても綺麗だ。

 やはり、どこかの社長のお嬢様なのだろうか。

 

 (へい)()(なる)()

 背丈といい喋り方といい、なんだか幼く思えてしまうけど、芯はしっかりしてそうだ。

 自分のことをナルハって名前で呼んでたけど、うちとか、わたくしとか、いってる子と一緒にいるもんだからあまり気にならないや。

 それよりなんだアサにゃんって。

 

 三人は同じクラスの仲良し組、ということらしいけど、

 仲良し、といっても……

 

「なんか、個性的だなあ、みんな」

 

 いままで普通に普通にと生きてきた和咲であるが(結果的に日影族ではあったが、だからこそだ)、こうまで個性さらけ出して堂々しているのを見ると、ちょっと憧れてしまう。

 

 ちょっと真似したくなってしまうけど、でも、わたしの個性ってなんだろう。

 わたしが個性開放したら、どんなになるんだろうか。

 

「個性的? まあ、うち以外の二人はそうかもな。ほじゃけど、もっと凄いのがおるけえね」

「え、他のクラスに?」

「いや。うちらのクラスじゃ」

「えーっ。それっぽい人なんて教室にいたかなあ」

「じゃけえさっきは……お、さっそく発見!」

 

 明木治奈が、びしっと前方を指差した。

 

 肩を怒らせズボンのポケットに両手を入れて歩く、いかにもといった長い茶髪の男子が二人。

 うち一人が、反対から歩いてくる気弱そうなひょろっとした男子にぶつかった。

 

 どう見ても、ぶつかったのはわざとだろう。

 ひょろっとした気弱な男子は横へとずれて、壁際ぴったりくっついていたくらいだというのに、追うように軌道修正して激しく肩を当てたのだから。

 

「いてえだろが!」

「邪魔だろ!」

 

 怒鳴り凄む不良たちの剣幕に、

 

「す、すみませんっ」

 

 ひょろひょろ気弱男子は、肩を小さくして頭を下げた。

 

「凄いっていっても、なんだ男子かあ。というかっ、それどこじゃないでしょっ! どど、どうしよう!」

 

 和咲が突然おろおろと慌て始める。

 

「ええからええから。うちが指さしちょるのは、そいつらじゃのうて……」

 

 そいつらじゃのうて、一人の女子生徒である。

 廊下の向こう側から、歩いてくる。

 

 肩を怒らせて、ぶっ殺したるぞといった狂暴そうな表情を満面に浮かべて、ずんずんと。

 うっすら茶色掛かった髪の毛をポニーテールにしており、顔の造作も可愛らしいのであるが、その表情で全部が台無しである。

 

 女子生徒は不良たちへと近づくと背後から突然、

 

「邪魔なのはてめえらだろ! 失せろや、このゴミカスが!」

 

 ビリビリ空気を震わせる、とんでもない大声で怒鳴った。

 

「うわ、(あき)()(かず)()!」

「くそっ、いい気になってんじゃねえぞお!」

 

 振り返って相手が誰だか認識するや、二人はそんな捨て台詞を吐きながら、そそくさと逃げ出した。

 

 ひょろっと気弱男子は、昭刃和美に軽く頭を下げると、すっかり気が動転しているのか不良二人と同じ方向へと走り去っていった。おそらくこの後、タコ殴りにされるのであろう。

 

「いつでもかかってきやがれってんだよ」

 

 けっ、と吐き捨てるように前方を睨み付けると、「ああかったり」などといいながら、廊下のど真ん中にスカートも気にせずどっかりあぐらかいて座り込んだが、次の瞬間、

 

「あたっ!」

 

 その頭をペシリと引っぱたかれていた。

 

「あなたも充分に邪魔です!」

 

 大鳥正香が叩いたのである。

 

「いってえなあ。……なんだ正香か。ぽかぽか気安く殴んじゃねえよ、もう。バカになったらどうすんだよ」

「そのようなことを気にするくらいなら、はじめから殴られるようなことは謹んで下さい!」

「は、はいっ……すみません、善処しますっ」

 

 昭刃和美、たじたじである。

 

「それよりも、授業はちゃんとを受けなきゃだめでしょう」

「面倒くさくてさあ。あたし学校は好きだけど勉強は嫌いなんだよな」

 

 自分の頭をさすりながら、和美は気怠そうに立ち上がった。

 

「せめて席にだけは座って、じっとするのが耐えられないならノートに落書きでもしていてください。本来しっかり勉強をすべきですが、まずは教室に入る、着席する、というところから覚えていきましょう」

「サルみたいに……。分かった、分かったよもう。教室にいけばいいんだろ」

 

 と、ここで和美は初めて(りよう)(どう)()(さき)の姿に気がついたようで、「ああ?」と睨んだ後、ちょっと表情やわらげて、頭から足先までじろじろ好奇の視線を送る。

 

「なに彼女、よその学校の制服着てて、ひょっとして転校生? あ、ひょっとしてうちのクラス?」

「ほうよ。うちのクラスじゃ。すごい面白い子なんよ。挨拶の時もみんな大爆笑じゃったわ」

 

 明木治奈が楽しげに語る。

 

「いや別に面白くないんですが。……勝手に先入観を与えるのはやめてもらえますかあ」

 

 突っ込む和咲。

 

 なんかギャグやれとか、無茶振りされたらどう責任とってくれるんだ。

 

「そっか、転校生か。あたし昭刃和美。よろしくな」

 

 和美は手を差し出した。

 

「令堂和咲、こちらこそよろしく」

 

 ガラはとてつもなく悪そうだけど、一応弱者の味方みたいなことしてたし、かっこいいかも……

 

 などと思いながら、和咲も手を伸ばした。

 と、その瞬間である。

 

「パンツ何色じゃああああああああい!」

 

 昭刃和美の手が、和咲の手をすり抜けるように急降下して、スカートの裾を掴んで思い切りまくり上げたのである。

 

「わあああああああああ!」

 

 と悲鳴を上げながら、和咲は両手でスカートを押さえつけた。

 

「やめてください! 中学生だし白に決まってるじゃないですかああああ!」

「自分でいう、それ? 白に決まってるとはいえ」

 

 ははっと和美は笑った。

 

「実は、うちも去年、あれやられたんよ」

「知ってる。確かハルにゃんは黒いパンツだったんだよね」

「履いたことないわ!」

 

 なるほど、エロ不良なのか。

 治奈たちの会話を聞きながら、屈んでスカートの裾乱れを確認しながら、破廉恥なことしておいて平然としてるその顔を見ながら、令堂和咲は思った。

 

「ん? どしたあ? あたしの顔になんかついてんのかあ?」

「『さっき、よろしくっていった時、やっぱり漢字で夜露死苦って思ったのかなあ』だそうじゃ」

 

 治奈が勝手に代弁だ。

 

「そんなこと思ってないよ!」

 

 和咲と、和美は、声をぴたり合わせ、治奈をぎろりんと睨み付けた。

 

「おー、ハモった。……リョウドウって、珍しい苗字だよな。漢字でどう書くの? あとアサキも、教えてよ」

 

 昭刃和美が尋ねる。

 

「律令のリョウに、お堂のドウ、昭和平成のワと書いてアと読んで、花が咲くのサキ」

「リツリョーとか、勉強嫌いなあたしをコバカにしやがって。……ん、あれ、あたしも昭和平成のワだから、被ってんじゃんかよお」

「あ、ああっ、そうだねえ」

 

 和咲は、ぽんと手のひらを叩いた。

 

「紛らわしいから、お前、改名しろよ」

「ええっ、そんな無茶苦茶なあ!」

「冗談冗談。あらためてよろしくな、和咲」

 

 昭刃和美は後頭部に左手を当てながら、右手を差し出した。

 

「よろしくね、昭刃さん」

「和美でいいよ」

「じゃあ、和美、ちゃん……」

 

 和咲は恥ずかしそうに微笑んだ。

 

 ……改名しろやと、和美は冗談でいっただけかも知れないが、確かに和咲と和美は紛らわしい。

 これから文中では、なるべくカタカナで表記することにしよう。

 

 それはさておき、和咲と和美、いやアサキとカズミの二人は、ぎゅっと握手をかわしたのであるが、

 

 いや、

 ぎゅっ、ではない、ぎゅぎゅっ、ぎゅうううううううう!

 

「いたっ! いたたたたたたっ! つ、強いっ、強く握りすぎだってばあ!」

「これが男同士の握手だあ! おりゃあああ!」

 

 ぎゅぎゅぎゅぎゅう!

 

「男なのカズミちゃんだけでしょっ! いたたたた骨が砕けるうう!」

 

 これまで転校のたびに友達作りに失敗して、なんとも寂しい学校生活を送ってきた令堂和咲。

 しかし今回はこのように、初日にして四人の生徒と仲良くなってしまったのである。

 

「死ねええええええ!」

「いたーーーっ! やあめてえええええええ!」

 

 仲良く……かな?

 

     4

 (てん)(のう)(だい)中央公園。

 住宅街の中にある、木々に覆われた部分と児童用遊具ゾーンとが半分半分の、特に珍しくもない町の公園だ。

 

 木々に覆われた側の、隅に置かれたベンチに、二人の女子中学生が座っている。

 (りよう)(どう)()(さき)と、(あきら)()(はる)()の二人である。

 

 治奈は天王台第三中学校の制服、アサキはまだそれが仕上がっていないため仙台の中学校での制服を着ている。

 

 どうして二人が、ここでこうしているのかというと、通学路が同じだからだ。

 

 家がすぐ近くらしい、ということから学校から一緒に歩いてきて、せっかくだしなんか話そうか、と通り道にある公園にて雑談をしているというわけだ。

 

「今度、食べにきてな。奢るけえね」

「うん。でもお金は払うよ。……わたし広島風って食べたことないんだあ。確か焼きそばが乗っているんだよね」

「ほうじゃ。なおかつ味も食感も最高なのが広島焼きじゃけえ。……じゃというのに、いまいちメジャーになれないんだなあ」

 

 治奈は腕を組み足を組み、長いため息を吐いた。

 

 なんの話をしているのか。

 まあ想像は付くだろうが、お好み焼きの話だ。

 

 アサキの住むマンションから徒歩数分の路地裏に、広島風お好み焼きの店舗がある。

 そこは治奈の両親が営んでおり、二階に両親と妹と住んでいる自宅でもあるのだ。

 というところから、広島風を食べた食べないという話になっていたのである。

 

「試合の遠征の時は、とにかく炭水化物を摂ろうと思って、ごはんの上に普通のお好み焼きを乗っけてお弁当にしたことがあったなあ」

 

 楽しそうな顔で、以前の中学校での思い出を語るアサキ。

 出会いの掴みに失敗していつも教室では暗いが、かといって学校生活が嫌な思い出というわけでもないのだ。

 

「普通のお好み焼き? 大阪焼きを、普通じゃとお?」

「あ、あ、ごめん!」

 

 そここだわるポイントだったのかあ!

 と慌てるアサキ。

 

「ええよ別に。冗談で怒るふりしてみただけじゃ。ところで試合の遠征ってなあに? アサキちゃん、どんな部活に入ってたの?」

「仙台の中学ではね、バスケをやってたんだ」

「へえ」

「補欠だったけどねえ」

 

 えへへ、と恥ずかしそうに頭をかいた。

 

「たまーにはメンバーに入ることあったけど、出番は一回もなかったなあ。……まあ強豪らしいから、仕方ないんだろうけど」

「ほいじゃあ、運動苦手いうわけではないんじゃな」

「バスケ部ではそんなだったけど、体育の成績はそこそこよかったよ。まあ、持久走で違うコース走ってしまったりとか、そんな失敗ばっかりでしたけどお」

 

 また、恥ずかしそうに笑った。

 

「走るのは小さな頃から結構得意なんだけど、運動会で選手に選ばれると決まって直前に足を痛めたりしちゃってさあ。お払いに行け、とか家族にいわれてたなあ」

「それほんまなんか憑いておるのかもなあ。……アサキちゃんって、そがいな霊とか超常現象とかいう話、信じる方なの?」

「いやあ、幽霊とかあ、そういうのは信じないなあ。不思議な能力を持つ不思議な生物とかは、いてもおかしくないと思うけど。……ああ、そういえば子供の頃、なんか白いぬるーっとしたものがたまに見えたことあったなあ」

「白い、ぬるーっとしたもの?」

「うん」

 

 アサキは頷いた。

 

「そうか。……あのな、アサキちゃん、切り出すタイミング不自然なんじゃけど……ちょっと聞いてもらいたいことがあって……じゃけえ、にわかには信じてもらえない話かも知れなくて……」

「なあに?」

「あ、あのな、聞いてな、と、突拍子もない思うかも知れんけど……」

 

 治奈は、躊躇いがちに、縮めた肩を左右に揺すって、もじもじとし始めた。

 やがて、意を決したか、バッグを開いて両手で中をがさごそ漁った。

 

 バッグの中に、その見せたいものが入っているのかな?

 なんだろう。

 

 と、アサキが思っていると、どこからか、動物の鳴き声が微かに聞こえてきた。

 

「鳴いてる」

 

 どこだろう。

 どこから聞こえてくるのだろう。

 

 強くも弱い、必死に訴えているその鳴き声に、アサキは思わず立ち上がっていた。

 

「猫、かな」

「多分そうじゃろ」

 

 治奈も立ち上がりバッグを肩に掛けながら、耳を澄ませて、きょろきょろと視線を走らせる。

 

「あっちじゃな」

 

 指差すと、その方へと治奈が小走りし、アサキが慌てたように後を追った。

 

 やはり、猫であった。

 

 公園周辺に植えられたつつじの木の下に、和菓子の箱が置かれており、中にタオルが敷かれている。

 その中に、生後間もないであろう、ふにゃふにゃとした子猫が二匹、大きく口を開けて訴えるように必死に鳴いていた。

 

 雑種の、兄弟猫だろうか。

 一匹は白黒のブチで、もう一匹は黒っぽい虎模様。

 

「捨て猫じゃな」

 

 相当に弱っているのだろう。

 二匹は力なく、でも生きようと必死に鳴いている。

 

「どうしよう。猫ちゃん、なんだか元気ないよ。いつからここにいるんだろ。……死んじゃいそうだよ。どうしよう」

 

 涙目で、おろおろとした様子のアサキを見て、治奈は微笑を浮かべた。

 

「……この近くに動物病院があるけえね。連れてこうか。元気になったら、一緒に飼い主を探そ」

「うん。ありがとう。治奈ちゃん、本当にありがとう」

 

 涙目ながらも顔に笑みを浮かべて、アサキは頭を下げた。

 

「ええよそんな、頭下げられるようなことじゃない。……優しくて、ええ子なんじゃなあ、アサキちゃんは」

 

 治奈は笑みを浮かべたまま、ため息にも似た小さな息を吐くと、肩に掛けていたバッグが開けっ放しなことに気付き、ファスナーを引っ張って閉じた。

 

 その小さな息のためか分からないが、どこか苦笑にも思える、そんな治奈の笑みだった。

 

     5

 天王台四丁目。

 JR常磐線の駅に近い、住宅街である。

 

 ある通りの路地裏に、普通の住宅に挟まれた、古びた木造二階建ての店舗がある。

 一階の、ガラス戸の上にはトタンの看板。

 白ペンキの地の上に、黒い毛筆体で大きく「あっちゃん」、その字の上には小さく「広島風お好み焼き」と書かれている。

 

 四十代の夫婦が二人でやっている店である。

 店内は、もうすぐ夕飯時ということもあって、既に四人の客が入っている。

 テーブル席が三人、カウンター席が一人だ。

 

 曇りガラスの戸に人影が見えたかと思うと、ガラガラ音を立て開いた。

 

「いらっしやい!」

 

 洗い物をしながら笑顔を持ち上げる店主であるが、すぐその顔が苦虫噛み潰した感じに変わった。

 

「なんじゃい、(はる)()か」

 

 そう、入ってきたのは中学の制服を着た(あきら)()(はる)()であった。

 通学カバンにレクリエーションバッグ、学校帰りである。

 

「実の娘の帰宅に、なんじゃはないじゃろ。あからさまにつまらん顔を向けることないじゃろが」

 

 唇を尖らせる治奈。

 

「いらん愛想を振りまいた分、ぶすくれ顔で取り戻すんじゃい。実の娘がとか、そがいなしっかりした扱いをして欲しいなら、店の側から入ってくるな。邪魔じゃ」

「ええじゃろ、こっちのが近いけえ。……どうも。ごゆっくり」

 

 テーブル席の常連さんに挨拶しながら、ずんずん進んでしまう。

 

「ところで治奈、同じクラスに転校生が入りよったんじゃて?」

「は、早いなあ! どこからの情報よ、それ」

「こちらの奥さん」

 

 治奈の父、(あきら)()(ひで)()は、カウンターに一人座っている女性客を手のひらでさした。

 

 女性客は、席から立ち上がると、

 

「ああ、どうも、(りよう)(どう)(すぐ)()っていいます。と、いうことは、あなたが、さっきご主人がいってた、うちの娘と同じクラスになった……」

「ああ、はい、明木治奈いいます。()(さき)ちゃんの、すぐ前の席です」

「そうなんだ。アサキと仲良くしてあげてね」

「あ、いや、もう友達です」

「えーーーーーーっ!」

 

 直美は、顎が裂けそうな程の大口で、驚きの声を張り上げた。

 

「そそ、そ、それっ、ほ、ほ、本当?」

「はい」

 

 しかし、驚きすぎではなかろうか。

 と、胸に思う治奈。

 

「驚きすぎじゃけえ、とか思ったでしょ? いや本当なら正直に嬉しいことなんだけど、にわかに信じがたいというか」

「何故です?」

「いつも最初の掴みでコケて、暗いキャラ扱いされてそのまま、ってのが多かったから。慣れて打ち解けさえすれば、明るいというかちょっとオバカな子なんだけとね。ま、掴み成功しても同じかも知れないけど」

「なるほど。いずれにせよ、今日もというべきか掴みには思い切り失敗しとりましたが」

「でしょお。なのに友達が、しかも初日のうちに出来たっていうから、そりゃあ驚くよ。でもほんと安心したあ。あの子の成長がというよりは、運がよかったのね、きっと」

 

 直美は、神へ感謝するように両手を組んだ。

 

「いや、少しは娘の成長も認めてあげましょうよ」

 

 成長したのかは知らないけど、一般論的な親の言動として。

 

「まあ成長は感じるよ、でも、もっと強くたくましくなって欲しいのよね。優しいのは、もう充分すぎるくらいだから」

「そう、アサキちゃん、とても優しいんですよね。さっきもそこの公園で、捨てられて弱っていた子猫を見付けて、一緒に動物病院に行ったんですよ」

「治奈、店入る前に毛だらけの汚え手は洗ったのか」

 

 飲食店店主、明木秀雄が皿洗いをしながら渋い表情の顔を上げた。

 

「前でしっかりすぎるほど洗ったわ! いらん茶々を入れるな! ……あ、あ、すみません、アサキちゃんのお母さん。……そがいなわけで、飼い主が見付かるまで二匹の猫を飼ってええかっていわれると思いますよ」

「そっか。優しさから出た行為だし、まあ一週間くらいならいいか。ノミが気になるけど。……ありがとね、一緒に病院に連れて行ったって。治奈ちゃんだって、とても優しいんじゃない。……よし、最初の一杯は引っ越し記念ってことで、そしてこれは、アサキちゃんに友達が出来た分だあ!」

 

 そういうと直美は、右手のコップに口を付け、顔を上げてぐいーっと一気にあおった。

 

「もうそんな飲んでたんかい! しかもなんだか、かなり出来上がっとりませんかあ?」

「いや、水みたいなもん。つうかあたし水でも酔うもん。……治奈ちゃん、もう一回お願いするけど、アサキちゃんのことよろしくね。抜けてるとこあるというか、抜けてないとこ探すのが難しいくらいだけど、根は真面目だし、優しいし。……あんな奴らの子とは思えないくらい」

「え、あ、いま、なんて」

 

 まずいことを聞いてしまったのではないか。と、治奈はうろたえてしまう。

 

 そのうろたえに、自身の失言に気付いたか、直美はガッと立ち上がって、

 

「あーーーーーっ! やば、いっちゃったあ! ……ま、いっか。娘の大親友ですものね」

 

 意外になんともなかったごとく、静かに座り直した。

 

「大親友なら、いいかあ」

「いや、あの、今日知り合ったばかりなので、まだそこまでになるかどうかは……」

「隠してる、というわけでもないんだけど、実はね、本当の親子じゃないんだよね。あたしら夫婦と、あの子は」

「そう、なんですか」

「うん。旦那の知り合いの子供なんだけど……あの子、両親から酷い虐待を受けていてね」

「え……」

 

 ごくり。

 治奈は唾を飲み込んだ。

 

「元気のない表情とか、痣とかから察した旦那が、あの子を半ば強引にうちに連れてきちゃってね。あの子は、お父さんに怒られる、怒られるってことは悪いことなんだって、泣きわめきながら拒否したんだけど」

「こんな時代じゃけえ、すぐに警察呼ばれませんか? 誘拐とか監禁とか訴えらて」

「うん、すぐに実の両親が二人して、訴えるぞって乗り込んではきたよ。虐待のことがあるからなのか、本当に訴えられることはなかったけどね。代わりに、慰謝料とか口止め料とか、とんでもない額を要求してきたよ」

「どうなったんですか」

「そうしたいざこざから一週間もしないうちにね、その実の親は二人とも、交通事故で死んでしまったんだ。猛スピードでハンドル切りそこねて、電柱に衝突して」

「それは」

 

 なんといっていいのか、言葉が出ない。

 因果応報といえばそれまでかも知れないが。

 

「小学生の頃にそんな親に育てられていたものだから、あの子、人の反応をとにかく気にするのよね」

「分からないけど、分かる気もします」

 

 そうなってしまうのも。

 自分には、虐待された経験なんかないけれど。

 

「で、本当の自分を主張出来ない。当たり障りのないことだけをいって、とにかく人と衝突しないよう上手く付き合おうとする。でも、そうしていつも心が無意識に構えてしまっているものだから、出会いの度いつも掴みに失敗してしまう」

「いや、掴み失敗は本人のセンスの問題じゃ思うけど」

 

 同情しつつも、そこだけはしっかりツッコミ入れる治奈。

 

 ともかく、

 

「そがいな過去のある子だったんですね」

 

 これからあの子の笑顔を見るたび、優しさに触れるたび、ちょっと胸が詰まるような気持ちになりそうだなあ。

 

 と、治奈はちょっと寂しそうな表情で立ち尽くしていた。

 

     6

 (あきら)()(はる)()は、階段を登った二階一番奥にある部屋のドアを開けて、中へ入った。

 

 治奈の自室だ。

 先ほどまで下の店舗で、(りよう)(どう)()(さき)の母親と話をしていたのだが、学校の宿題があるからと切り上げてきたのだ。

 

 制服を脱いで壁のハンガーに掛けると、スエットに着替えた。

 ベッドに腰を掛けると、左腕にはめているリストフォンを通話モードに切り替え、発信した。

 

 

「あ、明木です。

 はい……その件なんじゃけど。

 ええ、接触はしました。

 はい。そう、そうです。

 それは……いえ、まだ、渡してはいません。

 話もまだ……

 すみません。

 ほじゃけえ、新型装備の開発が順調ゆうことなら、このエリアはこれまで通り、うちらだけで守れると思うんじゃけど。

 先輩たちは卒業していなくなったけど、うちらももう一年生じゃないわけで、最初と比べて間違いなく成長している。

 ……あ、いや、そういうわけでは。

 すみません。

 なんか、タイミングというか、その……

 しばらくは、うちらだけでその分を頑張りますから。

 迷惑は絶対にかけません。

 うちらのエリアからは、絶対に犠牲者は出しません。

 はい。

 ほいじゃ失礼します」

 

 

 リストフォンの通話アプリを閉じると、ばったんとベッドに倒れた。

 両腕を広げて、

 

「うちは管理職のオヤジかあ!」

 

 叫び声が、むなしく天井に吸い込まれた。

 ふーーっ、と長いため息を吐いた、その時である。

 

「なに? オヤジって誰のことお?」

 

 治奈を幼くした感じの、十歳くらいの小さな女の子が部屋に入ってきた。

 

「ふ、(ふみ)()っ! 黙ってお姉ちゃんの部屋に入りよるないつもいっとるじゃろ!」

「だってえ、これ返しにきたんだもん」

 

 明木家で一人標準語を喋る史奈。

 物心ついた時には、既に我孫子市民つまり関東人だったためである。

 

 史奈は一冊の漫画本を姉へと差し出した。「恋愛バトルロワイヤル」というギャグタッチ少女漫画の単行本だ。

 

「黙って入る理由にはなっとらんわ。今度から注意してな」

「はーい」

「……ああ、ほうじゃ、フミの友達で、猫を飼いたいって子おらんかな? 子猫を二匹なんじゃけど」

「どうだろうなあ。明日、学校で聞いてみるね」

「ありがと。頼む」

「じゃあ、なんか他の漫画本を貸して。また恋愛ものがいい」

「ほんまにませとるなあ。たまには、漫画日本の歴史とか、そがいなもんを読まんのか」

「お姉ちゃんだって、そんなの一冊も持ってないじゃないかあ。変な漫画ばっかりでさあ」

「変いうな。ただの少女漫画じゃろ。少女漫画は多感な中学生女子にとって人生バイブルじゃけえ。……なんでもええからどれか一冊二冊好きなの選んで、自分の部屋で読んでな。ただし宿題もしっかりやること」

「はあい。……なんか追い出したがるよねえ最近。前はここで、ずーーーっと二人で遊んでいたのにさあ」

「あ、あ、いや、そう思わせてるならごめん、別に嫌いとか、そういうわけじゃないけえね。お姉ちゃんもほらっ、花の女子中学生じゃ。そろそろ乙女のプライベート空間を大切にしたいなー、というだけでな」

 

 あたふた、なんだかいいわけめいた態度の治奈。

 

「ふーん。まあどうでもいいけど」

 

 史奈は漫画本ぎっしりの本棚から二冊選び出すと、部屋を出ていった。「乙女ねえ」とぼそり、プッと笑いながら。

 

「乙女じゃろが!」

 

 顔を真っ赤にして怒鳴ると、再びベッドにばったん。

 ふう、と息を吐いた。

 

 別にそんなに怒ってはいない。

 妹に隠し事をしている罪悪感を、ごかましただけだ。

 

 確かに最近、自分の周囲から妹を遠ざけようとしている。

 間違いない。

 でもそれは、単に巻き込みたくないがため。

 

「勉強でもやるか」

 

 立ち上がり、学習机の椅子に座り直す。

 カバンから教科書を、机の棚から参考書を、それぞれ取ったところで、左腕のリストフォンがブーーーーブーーーーと振動した。

 

「ああもう! 休まる暇ないなあ。今度はなんじゃい」

 

 と、画面を見てびっくり。

 すぐに空間投影に切り替えた。

 

 治奈の目の前に、リストフォンから投影されている画面が映った。

 この近辺の地図だ。

 地図上に赤い小さな丸が四つ、それぞれの丸のすぐ横には小さく顔写真。

 

 (あきら)()(はる)()

 (おお)(とり)(せい)()

 (あき)()(かず)()

 (へい)()(なる)()

 

 この四人だ。

 さらには、黄色い丸が六つ。

 二つは治奈を示す赤丸のすぐ近くで、残る二つはどちらかといえば他の三人に近い。

 

「分散出現か。参ったな。まあ、まとまってるのも厄介じゃけど」

 

 ぶーーー。

 リストフォンから、先ほどとは異なる振動。

 

 空間投影された画面には、

 

 着信 カズミちゃん

 

 と表示されて、大きく昭刃和美の顔が映っている。

 

 治奈は投影されている画面を消すと、リストフォンを自分の耳に当てて、こそこそっと小さな声を出す。

 

「ああ、カズミちゃん。

 確認した。

 ……ほじゃな、確かにあいつら最近強くなっているし合流して各個撃破がベストなんじゃろな。

 じゃけえ、こっちに近い三体あるじゃろ。

 ここ(りよう)(どう)さん……アサキちゃん家にも近いし、早めに対処しないと不安じゃけえね。

 ほじゃけえ、そっちに近い三体はカズミちゃんたち三人に任せて、うちだけ別行動でもええかの。

 無茶? ま、危ない思うたら無理せずなんとか粘って足止めだけしておくから、そっち片付いたら合流して助けてな。

 うん。

 ありがとう。

 そっちも気を付けてな。

 ほいじゃまたの」

 

     7

「お姉ちゃあん、やっぱり違う漫画と交換してえ。最初は面白そうだと思ったんだけ……」

 

 ドアが開いた。

 そこには(あきら)()(ふみ)()が、二冊の漫画本をそれぞれの手に持って立っている。

 

「あれえ……いま誰かと小声で電話してた気がしたんだけど……」

 

 しばらく口を半開きで、ぽかーんと間抜けな表情になっている史奈であったが、やがて首をぷるぷるっと振った。

 

「お姉ちゃん。……お姉ちゃん。どこお?」

 

 彼女のこの反応も無理はないだろう。

 

 姉の部屋の中から、こそこそっと声が聞こえていたというのに、ドアを開いてみれば、電話どころかそもそも誰の姿もなかったのだから。

 

     8

 両腕に顎を乗せて夜景を見ながら、緩やかに流れる空気の流れを身体に感じている。

 

 八階建てマンションの、三階ベランダだ。

 三階ではあるが、周囲ほとんどが一軒家であることと、天王台地区が高台であることから、なかなかに夜景が綺麗なのである。

 

 だけど、まだそれが気に入るかは分からない。

 引っ越してきたこの町でや、転校してきた学校で、どういった生活を送ることになるのか。それにより、この夜景が綺麗に思えるかどうか、大きく変わってくるのだろう。

 

 などと思うものの、おそらくは綺麗な景色になること、疑っていない。

 

 だって……

 

 (りよう)(どう)()(さき)は微笑を浮かべた。

 今日の、学校でのことを思い出していたのだ。

 さっそく友達になれた、四人のことを。

 

 (あきら)()(はる)()

 その名の通り明るくて、面倒見の良い、嫌味なところのまったくない素敵な子だ。

 じゃろ、とか変な言葉で喋るけど、そこもなんだか可愛らしい。

 

 (おお)(とり)(せい)()

 おっとりしてて、でもしっかりしてそうで、言葉遣いも丁寧で、落ち着いている。

 なんでも受け止めてくれそうな、頼りがいがある子だ。

 

 (へい)()(なる)()

 日本史に出る貴族みたいな名前だけど、なのに正香ちゃんと反対に落ち着きがなくて、ほんと元気一杯で。

 一緒にいるだけで、こっちまで元気を貰えそうだ。

 

 (あき)()(かず)()

 態度が乱暴で怖いけど、授業サボるのやめた方がいいと思うけど、場所わきまえず大きな声で喋るのもどうかと思うけど、でも、ひねたとこがなくて真っ直ぐそう。

 多分、根はとても優しくて純情なんじゃないかな。

 

 彼女たちは、中学に入ってすぐ意気投合した、仲良し四人組ということらしい。

 共通項を見付けることなど不可能なくらいに個性的な四人。一見するとチグハグなのだが、上手くピースが噛み合ってまとまっている。

 

 転校初日である今日の朝、前の席になった治奈が話し掛けてくれたことから、他の三人とも知り合いになることが出来たのである。

 

 学校帰り、通学路が分かれるところまで五人で会話をしながら歩いたのだけど、とてもくつろげる楽しい時間だった。

 

 既に関係が出来上がっている四人組のようなので、これ以上は入り込みにくいけど。

 だから自分は、友達を作れずに浮いているような子がいたら、そういう子と仲良くなった方がいいのかも知れない。

 

 まあ、それは明日からの話だ。

 とりあえずは、

 

「そろそろまた、ミルクをあげますか」

 

 公園に捨てられていた子猫を二匹、明木治奈と一緒に動物病院に連れていって診てもらった。

 とりあえず生命に別状はないだろうと診断をされたのだが、その二匹をここへ連れ帰ってきているのだ。

 

 部屋に戻ろうと、くるり夜景に背を向けるアサキであるが、

 

「!」

 

 ふとなにかの気配を感じて、再びくるり振り返っていた。

 

 その瞬間、驚愕に目が見開かれていた。

 小さく開かれた口から、やがて、かすれるような声が漏れた。

 

「嘘だ……」

 

 眼下に、白い影のようなものが、すーっと疾っていくのが見えたのである。

 そこまでの間に透明シートが何枚も何枚も張られているかのような、そんな歪み濁った向こう側に、その白い影が見えたのである。

 

「ここでも……なんだ」

 

 この白い影を見たのは、初めてではなかった。

 以前に住んでいたいくつかの町でも、度々このようなことがあった。

 

 単なる偶然かも知れないが、それを見てしまうと翌日か翌々日に近場でよくないことが起こる。身内が、というわけではないが、殺人事件や行方不明など。

 

 これもまた偶然かも知れないが、それを目撃するのは学校や家庭のことで辛い気持ちになっている時が多く、だからその都度アサキは自分を責めた。辛い、苦しい、という自分の怨念が悪霊を呼び寄せているのではないか、と。

 

 今回の転校では良いクラスに入れたし友達も出来た、義父母との生活にも慣れてもうギクシャク感もないし、だからこの地でそれを見てしまうことなどないだろう。と思っていたのに……

 

 心臓が、どきどき高鳴る。

 息が苦しくなってきた。

 

 絶望感、

 焦燥感、

 消失感に。

 

 ここでもまた、なにか嫌なことが起きてしまうのだろうか。

 

 張り裂けそうな胸にそっと手を当てて、不安定な呼吸をしていると、また眼下で驚くべきことが起きた。

 今度は、先ほどの怪物のようなものとは違う人影が見えたのだ。

 

 濁った透明フィルムを重ねたような、その向こうを走るのは、

 

「治奈……ちゃん?」

 

 そう、新しい中学校で同じクラスになった女子生徒、(あきら)()(はる)()であった。

 

 白と紫の、和風なのか洋風なのか、古風なのか未来的なのかが漠然とした、身体にぴったりした服を着て、音も立てず走っているのだ。

 

 白い影を追うように。

 右手に長い槍のような武器を持って。

 

「まさか……」

 

 アサキは引きつった笑みを浮かべると、両のまぶたを手の甲でこすった。

 目を開くと、眼下にはただ闇と静寂があるばかりだった。

 

「疲れてるんだ。わたし」

 

     9

「そうだよなあ、転校初日だもんなあ。誰だって、変なカッコで槍を構えて走ってる女の子の幻覚くらい見るよなあ。って見るわけあるかあ!」

 

 などと自分の言葉に突っ込みを入れながら、窓を開けてベランダから室内に入ると、

 

「おお、これが噂のニャンコたちかあ」

 

 義母の(すぐ)()が床に四つん這いになって、頭を低くして、子猫の入っている箱を間近に覗き込んでいた。

 

「ああ帰ってたんだ。おかえり、直美さん」

「うん。飲んでて遅くなっちゃった。ごめんね、食事すぐ作っちゃうから待ってて」

「分かった。ところで、『噂の』ってなあに?」

「ん? ああ、そうそう、(あきら)()(はる)()さんて、すっごいいい子だねえ」

「えっ」

 

 アサキは、びくっと肩を震わせた。

 

 どうして知っているのか、という疑問もあるが、先ほど彼女に似た幻影を見てしまったことが大きいだろうか。

 

 思わず振り返って、窓から外を見てしまう。

 角度的に、三階の部屋の中から下の道路など見えやしないというのに。

 

「なんで治奈ちゃんのこと知ってるの?」

「おお、もう名前で呼んでるんだ。……ジョギング後にね、たまたますぐそこにお好み焼き屋さんを見付けてね。入ったら、そこが彼女の家でさ、色々とお話しちゃった。娘をくれぐれもよろしく、っていっといたよ」

 

 その言葉に、アサキはほっと胸を撫で下ろした。

 単純に、どうして知っているのかが分かったから。

 

「自分の面倒くらい自分で見るよ、子供じゃないんだから。……ああ、そっか、それで治奈ちゃんから猫のことを聞いたんだ。……飼い主が見つかるまでの間だけなんだけど、いい?」

 

 おずおずと、遠慮がちにアサキは問う。

 

 直美はニコリ笑って、

 

「いいもなにも、せっかく助かった小さな生命だ、いまさら捨てるわけにいかないじゃん。もし見つからなければここで飼うしかないけど、結構かわいい顔をしているから、どっちもすぐ見つかりそうだね」

「ありがとう。頑張って探すよ。治奈ちゃんも知ってる人に聞いてみてくれるって」

「うん。ところでさ、学校はどうだった?」

 

 直美の問いに、アサキはちょっと考え込むようにして、口を開いた。

 

「不良っぽい男子とか、そういうのもまあいるといえばいるんだけど、それ以上に親切そうな人が多くてさ、上手くやれそうかな」

「ならよかった。でも、また挨拶で失敗したんだって?」

「ええーーーっ! ひょっとして治奈ちゃんが喋った?」

「うん。全部聞いた。書いた名前が小さくて消そうとしても消えなくて、黒板消しを裏表反対に持ってたとか」

「もう。そんな余計なことまでいっちゃうんだなあ、治奈ちゃんは!」

「でもよかったじゃん。そうだというのに初日から打ち解けることが出来て。これまでは、その最初の失態を後々まで引きずってしまってたのに」

「打ち解けた、かどうかは分からないけど……でもまあ、悪くはない感触だよ。これから大丈夫なのかなあ、みたいな不安は全然ないよ」

 

 アサキは柔らかく微笑んだ。

 

「それはなによりだ」

「教室では窓際の席になったんだけどね、そこから手賀沼が見渡せて、眺めがとってもいいんだ。沼っていうとさ、なんか濁った汚いイメージあるじゃない? 周囲が鬱蒼としてたり。だけどね、青くてキラキラ輝いていてとっても綺麗なんだ」

「へえ。そんな素敵な眺めだと勉強に集中出来なくなりそうだけど、でも学校に行くのは楽しくなりそうだね。……あたしも変装して偽って女子中学生をやり直してみようかなあ」

 

 さらりととんでもない無茶をいう直美。

 

「いやあ、無理すぎだって。せめてあと二十歳若けれ、うあっ!」

 

 アサキはびくりと身をよじらせた。

 脇腹を思い切り人差し指で突っつかれたのだ。

 

「せめてもなにも、二十も若ければリアルに小学生二年か三年だよ!」

 

 ずんずんずんと、アサキの脇腹を突っつき続ける直美。

 

「うぐっ、は、初めて知った衝撃の事実!」

「知らんわけあるか!」

「うにっ! いたたたたっ、もう、反撃だあ!」

 

 アサキは身をよじらせつつさっと腕を伸ばし、両の人差し指で義母の脇腹へ、ぐさり突き刺した。

 

「いっ! やり返すなあ!」

 

 二人の突っつき合いは、いつしかくすぐり合いへと変化していた。

 生まれて間もない子猫すら呆れてしまいそうなほど、無邪気に笑いながらソファの上で身体を絡み合わせてお互いをくすぐり続けていた。

 

「おー、仲いいなあ。素晴らしき家族のコミュニケーションかな。おれも混ぜろ」

 

 いつの間にか帰っていた(りよう)(どう)(しゆう)(いち)が、まるで競泳スタートのように戦場へとダイブしてきた。

 だがしかし、

 

「殿方厳禁!」

 

 女性二人の足裏を顔面に受けて、あえなく撃ち落とされるのだった。

 

     10

「今日、特筆すべきことは、これしかないだろう。

 

 我孫子市立天王台第三中学校の生徒になった、ということ。

 

 最初は、うまくやっていけるか不安だった。

 

 自己紹介の挨拶では緊張して声が出ず、ああやっぱり不安的中か、また誰とも話せず隅っこでじっとしているだけの学校生活になるのかなあ、と悲観に暮れるところだったのだけど、でもそのような心配はいらなかった。

 

 前の座席の(あきら)()(はる)()さんが、色々と話し掛けてくれたおかげだ。

 

 家が近いということで一緒に帰ったのだけど、その際に立ち寄った公園で見付けた弱った捨て猫を、動物病院に診せにいくのにも付き合ってくれた。

 明木さん、名前の通り明るいし、とっても親切な子だ。

 

 そうそう、教室での自己紹介失敗の件も、捨て猫の件も、直美さん知っていた。

 

 ジョギングの後に寄ったお好み焼き屋さんが、たまたま明木さんの家だったのだそうだ。

 

 帰ってきた直美さん、お酒に強いからしらふにしか見えないのだけど、でも、かなり飲んでそうな感じだったな。

 

 やけ酒、というほどでもないのだろうけど、それに近いものを感じる。

 

 修一くんも、そろそろ直美さんが働くのを認めてあげればいいのに。

 でないと直美さん、下手すれば酒浸りだ。

 

 呼吸器の病気だって、もうジョギング出来るくらいまでに回復しているというのに。

 

 とはいえ、まだまだ半分ウオーキングのようなものではあるのだけれど。

 

 完全に回復したら、いつか見てみたいな。二人の、赤ちゃん。

 

 二人は、本当の子供ではない私に遠慮しているようだけど。

 私の精神的な居場所がなくなるのではないか、と。

 

 私が令堂家に貰われた経緯は色々あるにせよ、夫婦に子供が出来なかったからということも大きいのだろうから、つい私を気遣ってしまうのも分からなくはないけど。

 

 でも、私は別に平気なのに。

 

 むしろ早く会ってみたい。弟か、妹に」

 

 

 と、ここまで入力を終えたところで、キーを押す指がぴたり止まった。

 

「ダメだあああ!」

 

 学習机で端末に向かっていた(りよう)(どう)()(さき)は、頭をかかえると天井を見上げ叫んだ。

 

「なんだかとりとめなくなっちゃったぞお」

 

 日記を書いているのであるが、せっかくの転校初日だというのに、そこをろくに書けていない。

 

 明木さんにスポット当てたはいいが、平家さん大鳥さんたちのことにこれっぽっちも触れていない。

 

 特筆すべきは、などと書き出しておきながら、ほとんど語らないまま横道に逸れてしまっている。

 夫婦のくだりをたらたらと、それ別に今日の日記で書く必要もないことなのに。

 

「修正するか。……でもそれも面倒だな」

 

 最後を上手くまとめよう。

 どうにか我孫子に越してきたこととからめて、綺麗に文章を終わらせるんだ。

 そこで、明木さん以外のキャラも強引に出すんだ。そうそう、みたいな追伸的に。

 

「とはいうものの、文面が思いつかない」

 

 どう繋げばいいんだ。

 考えろ。

 考えるんだ。

 もっと脳を働かせろ、アサキ。

 

 我孫子、

 天王台、

 猫、

 お好み焼き、

 やけ酒、

 夜景、

 ベランダ、

 明木……治奈……

 彼女が、アサキの脳裏に浮かんでいた。

 紫色の衣装に身を包み、槍を持って走る、明木治奈の姿が。

 

 以前に住んでいた町でアサキは得体の知れない白い影を何度か見たことがあるのだが、それと同じようなものを明木治奈は追っていた。

 白い影がアサキ自身の気の弱さが生んだ幻影だというのなら、先ほど見た明木治奈もまた幻影、ということかも知れないが。

 

 でも、

 本当に、そうなのだろうか。

 すべては気のせいなのだろうか。

 

 反対に、もしも先ほど見た明木治奈が幻影ではなく現実ならば、あの白い影もまた現実なのではないか。

 

 などと考えはじめてしまったものだから、思考ぐるぐる回って日記どころではなくなってしまった。

 

 空間投影しているリストフォンの画面を消すと、椅子から立ち上がり、部屋を出た。

 

 キッチンで、直美が鼻歌混じりに料理を作っている。

 リビングのソファで、修一がお笑い番組を見ている。

 

「ちょっとだけ、外を散歩してきてもいい?」

 

 アサキはどちらへともなく尋ねた。

 

「ん? ああ、いいけど気をつけろよ。夜なんだからな。長い時間はダメだぞ」

 

 修一が、ちらり視線を向けつつ応えた。

 

「うん。気をつける。じゃあちょっと行ってくるね」

 

 ミルクをあげてから、と思ったが二匹の子猫たちは箱の中で、お互いの身体に顎を乗せ合って眠っていたので、軽く頭を撫でると玄関へ。

 

 靴を履き、外へ出た。

 

     11

 たかだか三階だし、とエレベーターは呼ばずに階段を降り、エントランスから外へと出た。

 一軒家の多い、住宅街の中である。

 

「確か、あっちへと走っていったよね」

 

 (りよう)(どう)()(さき)は、右を向き、前方へと視線を向けると、意を決したように拳をぎゅっと握り、歩き出した。

 

 まだそれほど遅い時間でもないし、ここは駅から徒歩数分の距離にあるというのに、すれ違う人はいない。

 まだ住み始めて間もない土地なので、たまたまなのか、普段からこんなものなのか、アサキには分からない。

 遠くに車通りの激しい道路があるためか、彼方の声まで逃さないほど静まり返っているわけではないが、閑静というに充分な静かさである。

 

 現在アサキは、あまり楽しい気分ではなかった。

 

 引っ越してきたばかりの地で、

 学校では仲良くなれそうな子もいて、上手くやれるのかという不安も払拭されて、

 だからこの散歩は、楽しい気分になっていておかしくないものなのに。

 

 何故こうも、沈むような気分なのだろうか。

 先ほど見た幻影、それを確かめるためだから。といってしまえばそれまでだが。

 

 これまで幾度となく自分の心に暗い影を落としてきた、あの白い影を。

 

 それとも実は、夜の知らない土地に一人でいることに、不安になっているだけ?

 

 でも、それならば……

 

「なんでこんなに、ここまで、どきどきするの?」

 

 アサキは、そっと自分の胸に手を当てた。

 先ほどから妙に心がざわめいて、胸の鼓動が早くなっていた。

 

 そうであればこそ、引き返すことは出来なかった。

 胸を締め付けるその感覚をはっきりさせるためにも、治奈の幻が消えていった方向へと、歩き続けるしかなかった。

 

 どれくらい歩いた頃だろうか。

 

 異変に、気が付いたのは。

 前方、空の色が微妙に違うことに気が付いたのは。

 

 赤黒、いや、赤紫の方が近いだろうか、

 目をこらすと逆にぼやけて分からなくなってしまうくらい微妙ではあるのだが、アサキには明らかに空の色が周囲と異なって見えた。

 

 錯覚かも知れない。

 心の問題かも知れない。

 

 分からない。

 だからアサキは、そこへ向かって歩き続けた。

 

 喉がつっかえた感覚に、つばを飲もうとするが、特に溜まっておらずただ喉が唸っただけだった。

 

 もう帰らなきゃ。

 (すぐ)()さんたちが心配する。

 もうたぶん、ご飯出来てるよ。

 遅いと迷惑かけちゃう。

 

 などと心に呟きながらも、前へと歩き続けることを、やめることが出来なかった。

 

 そのような中で、事は突然起こった。

 

 

 ごじゃっ

 

 

 湿った巨木同士が擦るような激突したかのような、なんとも形容しがたい不快な音と共に、真横からなにか白い、しなる物が飛び掛かってきたのだ。

 

 驚きと恐怖に、ひっと息を飲むに似た悲鳴を上げながら、アサキは身を守ろうと反射的に腕を振り上げる。

 

 そして、見た。

 

 ぬめぬめとした、タコの腕のように長い物体が、すぐ眼前でうごめいているのを。

 真っ白な、触手のようなその物体は、鎌首もたげた蛇さながらにアサキとの距離を取ると、再びしゃっと伸びて襲い掛かった。

 

 

 ごじゃっ

 

 

 アサキは顔をそむけ、ぎゅっと目を閉じた。

 

 だが、その白く粘液質の触手がアサキを捉えることはなかった。

 皮膚に食らいつき皮膚をえぐることはなかった。

 

 間に、分厚く透明な膜があって、一見柔らかそうに見えるそれが、弾力でもって攻撃を跳ね返していたのである。

 

 先ほどベランダから見ていた時も、少し濁った透明な膜の向こう側に、白い影はいた。

 そこは違う世界、ということなのだろうか。

 ほんの少しだけずれた、違う世界にそれはいて、こっちの世界を襲おうとしている、ということなのだろうか。

 

 一瞬の間にそう思ったアサキであるが、当然のことながらそれで襲われる恐怖が微塵たりとも減ることはなく、逃れようと意識的無意識的に走り出していた。

 

 だがその行動は、新たな恐怖を招くだけだった。

 透明な膜状の向こう側で、人の形をしている白いものが、一緒になって走リ出したのである。

 

 ムチのようにしなり襲う、ぬるぬるしたタコの触手は、人間に似たシルエットであるこの生物の、腕だったのである。

 

 その生物が、見付けた獲物を逃すまいと、アサキにぴったり並走している。

 すこしずれた世界を並走しながら、触手による攻撃を右、左と繰り出してくる。

 

 

 ごずっ

 

 ごじゃっ

 

 

 半透明な膜状の物に攻撃が阻まれているとはいえ、それで恐怖が薄らぐものでもない。

 

「な、なんなのおこれ!」

 

 すっかり平常心を失ったまま、アサキは泣き叫びながら走り続けた。

 

 わけが分からない。

 まったくわけが分からない。

 

 なんで自分が、このような目に遭わなければならないのか。

 不安を覚えながらも外に出たのは自分自身ではあるが、こんな事態になるなど誰だって思うわけない。

 

 なんなんだ、これは。

 なにに狙われているんだ、わたしは。

 

 以前にも何回か見たことのある白い影、それがこれだったのか。

 こんな恐ろしい物に、わたしはかつて何度も出会っていた?

 

 でも、それなら何故、

 何故、いまになって襲われる?

 どうして……

 

 疑問の答えをここで導き出すことは出来なかった。

 

 どんどん気持ちが正常でなくなっているのもあるが、そうではなく、バリンとなにかが突き破られるような音がして、アサキの身体に白い触手が巻き付いていたのである。

 

 物理的に突き破ったということなのか、少しずれていた世界と世界が同調して繋がったということなのか、それは分からない。

 

 分かっているのは、間違いなくアサキの全身は巨人の手に全身を掴まれるごとく、白い影へ軽々と引き寄せられていたということ。

 

 驚きと、肋骨を締付けられる苦痛とに、悲鳴を上げることも出来ず、アサキは引っ張り込まれていた。

 向こう側の世界へと。

 

 このまま、殺されちゃうのかな、わたし……

 

 薄れゆく意識の中で、そんなことを考えながら。

 

     12

 路上へと放り投げられて、肩から落ちた。

 その激痛により、深くに落ちかけていた意識が一瞬で戻っていた。

 

 ぐ、と呻き、顔を険しくしかめつつも、状況を確認しようと視線を走らせる。

 

 その目が、驚きに大きく見開かれていた。

 

「ここは……」

 

 どこだ。

 いつの、どこなんだ。

 

 (りよう)(どう)()(さき)は、転がったまま両手を付いて、顔を持ち上げた。

 

 いままでいた、走っていた、住宅街の道路、のようではあるのだが、でも、ここはどこなんだ。

 

 アサキでなくとも、誰だってそう思うだろう。

 それほどまでに、飛び込む視界情報が、奇妙で不気味だったのである。

 

 夜の住宅街を写真に撮影して、フィルター効果でぐにゃぐにゃに歪めて、なおかつ色調を正反転させたような、といえば分かりやすいだろうか。

 

 夜闇が色調反転しているため、ことごとくが白っぽい。

 空も白、道路も白だ。

 

 すぐそばに、なにかが立っている気配を感じたアサキは、地に手をついたまま振り向いていた。

 その瞬間、さあっと血の気が引いていた。

 震える唇から、掠れたような呻き声が漏れていた。

 

 人間のような、二本足で立つシルエットを見たのである。

 もちろん、普通の人間ならば、アサキがここまで驚くことはない。

 つまりそれは、どう見ても普通の人間では……いや、どう見ても人間ではなかったのである。

 

 ひょろひょろと細長い四肢を持ち、頭部があり、というそれ自体は人間のようでもあるが、

 服は着ておらず、

 全身という全身が真っ白で、

 ゼリーのように、表面がぬるぬる光り震えており、

 そして、顔がない。

 首から上、いわゆる頭部はあるものの、パーツが存在していない。

 つまり、目も、鼻も、口もない。

 耳の穴すらもない。

 

 四肢があり二本足で立っているからといって、これが人間、霊長類といえようか。

 

 先ほど、触手に似た腕を伸ばして何度も攻撃してきたのが、おそらくこの生物なのだろう。

 

 逃げないと……

 早く……

 

 目の前に立つ生物への生理的嫌悪と、死への恐怖に、パニックを起こし掛けるアサキであったが、なんとか正気を保ちつつ、四つん這いになり、そして立ち上がっていた。

 

 早く、逃げないと。

 

 気が焦る。

 焦るけど、頑張るんだ。走って逃げるんだ。

 

 そう気持ちを強く持とうとするアサキであるが、だが、これはどうしたことだろうか。

 立ち上がるまではよかったが、身体がそれ以上動かないのだ。

 

 恐怖に足がすくんでしまっているのも勿論あるのだろうが、それ以上に、なにか得体の知れない悪魔の視線で呪縛されてしまったかのようであった。

 

「あ……」

 

 小さな声が、口から漏れる。

 

 アサキと白い生物、二人は見つめ合っていた。

 

 いや、それは正しい表現ではない。

 相手の顔に目などないのだから。

 

 でもアサキは確かに、このぬるぬると細長い不気味な生物からの視線を感じていたのだ。

 

 何故かは分からないが、その視線に込められた意味がアサキには分かっていた。

 

 この奇妙かつおぞましい生物の体内は、殺意で満たされているということを。

 この世にいる全人類のそれをすべて凝縮したくらいの、憎悪や殺意がみっしりと詰まっていることを。

 

 逃げないと。

 という思考すらも、既に出来なくなっていた。

 完全に精神を包まれて、その中で恐怖がどんどん膨れていく。

 

 恐怖が絶望にまで育ったことを、確認したからだろうか。

 白い、得体の知れないこの生物の、放つ空気が不意に変化していた。

 

 ゼリーのようにぷるぷると震える身体の、右肩から生える触手状の腕がゆっくりと持ち上がる。

 やわらかくしなったかと思うと、小動物を襲う蛇のごとく鎌首が振り下ろされた。

 

 先端が、アサキの胸に突き刺さり、背を突き抜けていた。

 

 いや、貫かれたかに見えたは幻か、

 アサキへの触手の攻撃は、いままさに胸に突き立たんとする寸前で、受け止められていたのである。

 

 長い、槍状の物に。

 

「アサキちゃん、大丈夫?」

 

 聞き覚えのある、少女の声が聞こえた。

 

     13

「アサキちゃん、大丈夫?」

 

 耳に、脳に、飛び込んでくるのは、聞き覚えのある声だった。

 

「うち、ここにおるけえ! アサキちゃん! 必ず助けるから。ほじゃから絶望なんかしたらダメじゃ! 闇に、取り込まれないで!」

 

 呼び掛ける必死な言葉に、深みへと落ちていた(りよう)(どう)()(さき)の意識が一瞬にして浮上していた。

 

 とろんとした目が、かっと見開かれた。

 そして目の前の光景、目の前にいるのが誰かを認識すると、ばちばちっとまばたきをした。

 

「え、ええっ、は、(はる)()ちゃんっ?」

「ほうよ、(あきら)()(はる)()じゃ。……よかった、意識を取り戻してくれて」

 

 治奈はにこりと微笑んだ。

 

 アサキは再びまばたきをしながら、治奈の全身、足元から頭までを見た。

 

 不思議な格好をしている。

 薄い銀にも見える白地の服の上に、

 コートのように長い、紫の刺繍が施された上着。

 下半身は動きやすそうな黒いスパッツ状で、

 さらに胸、前腕、脛、手足の甲には硬化プラスチックのような軽防具。

 両手には槍を持っており、柄には呪文のようなものが細かくびっしりと彫られている。

 

 その、槍の穂先を見た瞬間、アサキはぎゃっと悲鳴を上げた。

 あの、白くぬめぬめした、手足のひょろひょろ長い生物、その腕をその穂先が受け止めていたのである。

 

「うおりゃあ!」

 

 治奈は気合全開で槍をぶうんと振って、触手状の長い腕を弾くと、すぐに踏み込んで詰め、その腕へと斬りつけていた。

 だが気合もむなしく、攻撃は相手の弾力ある皮膚に跳ね返されて、ととっとよろけた。

 

「スパッとぶった切ろうとしたんじゃけど……もう魔力の、残りが……」

 

 治奈は、ぜいはあと息を切らせ肩を大きく上下させている。

 

 改めてその姿を見てみると、全身細かい傷だらけであった。

 防具にはひびが入り、白い服も薄汚れているばかりか、ところどころ切れて肌が見えてしまっている。

 

 息を切らせながらも治奈は、ぶんと振り下ろされる相手からの一撃をぎりぎり避けると、避けざまに槍を地について支えにして、胸部へと蹴りを見舞った。

 

 その勢いで後方へと跳躍して距離を取ると、前方をきっと睨み付けつつ槍を構えなおした。

 

 はあ、はあ、

 

 呼吸が荒い。

 

「その格好、さっき見たのやっぱり治奈ちゃんだったんだ」

 

 少しだけ心に余裕の出来たアサキは、離れたところから戦況を見守りつつぼそり呟いた。

 

 誰にいったつもりもなかったが、しんと静まり返っているためかその声に治奈が反応した。

 

「さっき、ベランダにおったじゃろ? 視線を感じた。鍛えてもいないのに()(くう)におるうちらの姿が見えるわけない、と思っとったけど……見えとったんじゃな」

「うん。気のせいかと思ってたけど。……それよりも治奈ちゃん、あの怪物はなんなの? なんでこんなところに治奈ちゃんや……わたしが……」

「あの白いのは、ヴァイスタと呼ばれとる」

「ヴァイスタ……」

 

 アサキの復唱に、治奈は頷いた。

 

組織(ギルド)からそう呼ばれとる、得体の知れん悪霊じゃ。人知れずに人間を襲い、絶望させてから殺して食らう。行方不明者のニュース、尋ね人のチラシ、未解決事件のかなりな割合がこいつの仕業じゃけえね」

「行方不明……」

 

 またアサキは治奈の言葉を繰り返した。

 ぼーっとした表情であるが、しかし、微かに目の輝きが変わっていた。

 

「ああ……」

 

 そうか、

 そういうことだったのか……

 

 仙台や水戸など以前に住んでいたところでも、この白い生物を何度か見たことがある。

 

 正確にはちらりと見たような気がするというだけで、はっきりした映像の記憶があるわけではないのだが。

 

 とはいうものの、その、ちらりと見たような気がすると、何故か分からないがたいてい翌日以降に、よくないニュースが入ってくるものだから、アサキとしては見てしまうことに対して罪の意識を抱えていた。

 

 でも、違っていたんだ。

 いるから見えてしまったというだけで、見てしまったから悪いことが起きたわけではなかったのだ。

 

 罪悪感が軽くなり、アサキはほっと胸を撫で下ろした。

 

「魔力を持つ者の絶望がな、こいつらの大好物なんよ」

 

 そういうと治奈は、槍を振りかぶるようにしながら白い怪物、ヴァイスタへと飛び込んでいった。

 

「え……」

 

 魔力を、持つ者?

 それって、わたし、関係あるの?

 魔法とか超能力とか、そんな力なんか持ってないよ、わたし。

 

 そんな疑問を抱いてちょっと難しい顔になるアサキ。

 

 そのすぐ前では二人、いや一人と一匹、一人と一体というべきか、激しい戦いが繰り広げられている。

 

 ヴァイスタと呼ばれる白い人間型の悪霊が、長い両腕をしならせて左右から挟むように治奈を叩き潰そうとする。

 

 治奈はその瞬間に躊躇いなく前方へと跳躍して、相手の懐へと飛び込んでいた。

 

 逃さない、というようにヴァイスタの両腕がぐにゃり曲がって、治奈の背中へと襲い掛かる。

 

 間一髪、治奈がすっと身を伏せた瞬間、ヴァイスタの腹部に自らの両腕が突き刺さり突き抜けていた。

 

 粘液質な音と共に、刺さった腕が引き抜かれていく。

 

 腹部にはぽっかりと大きな穴が空いていたが、胸からどろりどろりと白い粘液が垂れて、あっという間に塞がってしまった。

 

「治っちゃった! どっ、どうするの治奈ちゃん!」

 

 驚異的な生命力を見せられて、アサキはすっかりうろたえてしまっていた。

 

「心配いらん。うちの方が強いけえね」

 

 にっ、と強気な笑みを浮かべる治奈であるが、その顔から疲弊の色は隠せなかった。

 

「とはいうものの、正直いうと現在の状況ちょっとやばいかな。実はもう二匹と戦っていて、魔力も体力も使い切ってしまって。……カズミちゃんたちがくるまでの時間を稼ぐくらいしか出来ないじゃろな」

 

 ぜいはあと苦しそうに呼吸をしながら治奈は、振り返ってアサキへと視線を向けた。

 

「アサキちゃん、ごめんね。ほんとはさっさと片付けてこがいな場所から出たかったのに、いつまでも怖がらせてしまって」

 

 前を向き直り、槍を構える。

 

 ぶうん、とヴァイスタの右腕が唸りをあげて、斜め上から振り下ろされる。

 

 治奈は、槍をくるり回して跳ね上げた。

 と同時に、大きく横へ跳んだ。

 

 一瞬遅れて、それまで治奈のいた場所へとヴァイスタの左腕が突き刺さっていた。

 

 ヴァイスタが一気に攻勢に出た。

 触手状の腕を軟体化させては茨のムチのように、硬質化させては巨大な刀のように、織り交ぜた攻撃で治奈を追い込んでいく。

 

 もう、治奈には軽口を叩く余裕どころか、重口を絞り出す余裕すらなくなっていた。

 無言のまま、ただひたすら防戦に徹し続けることしか出来なかった。

 

 アサキがいるから、ということも多分に影響しているのだろう。

 いなければ、もう少し有利に戦えるのだろう。

 

 アサキは無意識に、ぎゅっと拳を握っていた。

 

 逃げたい。

 自分が逃げて、逃げ切れるものなら。

 治奈ちゃんのためにも。

 でも、あのヴァイスタとかいう悪霊は、そもそも自分を追い掛けてきたのだ。

 もしもわたしがここから逃げ出したら、きっと追ってくる。

 そうなったら、ただでさえ疲れ切っている治奈ちゃんが、わたしを守ろうときっと無茶をする。

 仲間を待つようなことをいっていたから、ならばここでこうしているしかない。多分それが、一番わたしたち二人が助かる可能性の高いことなんだ。

 

 だが、

 次の瞬間、アサキは聞いた。

 

 がふっ、

 胸が砕かれたかのような、激しい呼気を。

 

「治奈ちゃん!」

 

 アサキは叫んだ。

 

 横殴りの一撃を受けて吹き飛ばされた治奈が、受け身も取れず壁に激突したのだ。

 

 元々歪んで見えていた住宅の塀の壁が、この激突を受けてさらにぐにゃんと歪んでしまっている。

 

 治奈は、なんとか足をつき、なんとか倒れずに踏ん張っているものの、相当なダメージを受けているのは間違いないだろう。

 意識が朦朧としているのが、遠目からでもはっきり分かる。

 

「治奈ちゃん! 治奈ちゃん!」

 

 無力なアサキには、ただ名前を連呼することしか出来なかった。

 

 叫びながら、思っていた。

 どうして自分、こんなところにいるんだ、と。

 どうして、こんな怪物なんかに襲われなといけないんだ、と。

 そもそも、どうして治奈ちゃんが、こんなことをしないといけないんだ。

 こんな、血を吐くような思いをしてまで、戦わなくちゃいけないんだ。

 わけが、分からないよ。

 怖い。

 逃げたい。

 夢ならいいのに。

 これ、夢ならいいのに。

 

「でも……夢じゃない」

 

 現実なんだ。

 そうだ。これは現実なんだ。

 受け止めろ。

 

 冷静ではないものの、恐怖と必死に戦い、気力を奮い起こそうとするアサキ。

 こんな時だというのに、いや、こんな時だからというべきか、

 

 アサキの脳内に、ふと古い記憶が蘇っていた。

 この、白いぬるぬるとした生物、ヴァイスタと遭遇した時の、ある古い記憶が。

 

     14

 この、ヴァイスタという怪物を見たことは、これまでに何度かあったが、

 いつだったか、一回、襲われたこともある。

 

 すっかり忘れていた記憶だったが、思い出した。

 

 まだ幼い頃。

 いまわたしがいるこの世界みたいに、見るものすべてがここであってここでない、歪んだ奇妙な世界に迷い込んで。

 

 そして、襲われたんだ。

 

 どうなったんだっけ。

 

 そうだ。

 (はる)()ちゃんのような、ちょっと変わった格好をした、でもかっこいいお姉ちゃんんが現れて、剣かなんかで戦って、やっつけてくれたんだ。

 

 もう大丈夫だからね、怖いのによく頑張ったね、そう笑って。

 わたしの頭を撫でてくれたんだ。

 

 でもあのお姉ちゃんも、ちょっと足が震えていた気がする。

 きっと怖かったんだ。

 

 治奈ちゃんだって、そうなのだろう。

 本当は、こんな怪物なんかと戦うのは怖いのだろう。

 

 でも、こうして戦ってくれている。

 わたしを守ってくれている。

 

 なら今度は……

 アサキは、ぎゅっと手を握った。

 恐怖に脂汗まみれになった拳を、ぎゅっと。

 

「今度は、わたしが助ける番だあ!」

 

 大きな声で叫ぶと、走り出していた。

 

 全力で、ヴァイスタへと向かって。

 

     15

「今度は、わたしが助ける番だあ!」

 

 (りよう)(どう)()(さき)は、大きな声で叫ぶと、走り出していた。

 

 ヴァイスタの背中へと、飛び掛かっていた。

 わあああ、と雄叫びを張り上げながら、右手を振り上げ、殴りつけた。

 

 ぬるりと震える気味の悪い感触。

 ゼリーを潰したような、ぶちゅんという音がするが、実際には潰れるどころかアサキのやわらかな拳は弾力で跳ね返されていた。

 

 まるで効いている手応えはなかったが、それでもアサキは、殴り続けた。

 今度は左手、今度は右手。

 

 あまりの貧弱さに気付いていないのかというくらいに無反応のヴァイスタであったが、さすがに鬱陶しくなったということなのか、ずずっと踵を擦るようにゆっくりと振り向いた。

 

 無我夢中で殴り続けていたアサキであったが、いざ自分へと相手の意識が向くと、途端に恐怖が戻って手の動きが止り、足もすくんで動けなくなってしまっていた。

 

「あ……」

 

 見上げ、掠れた声を絞り出すのが精一杯だった。

 

 そんなアサキを見下ろしながら(顔に目はないが)ヴァイスタが、ゆっくりと右腕を振り上げる。

 

 ぶん、

 アサキに向けて、その手が振り下ろされた。

 

 凄まじい絶叫が空気を引き裂いて、静まり返った白い闇の中に響き、同時にアサキはごろごろと転がっていた。

 

 転がりながら頭を何度もぶつけて、意識が吹っ飛び掛けるが、なんとか気を強く持って堪えた。

 

 いま、自分に何が起きた? 確か、何か柔らかいものが、自分の腰に抱き付くように飛び込んできて、凄い悲鳴が聞こえたかと思うと、ぶんと真横に飛ばされて、それで……

 

 なにかが自分に絡み付いているのにアサキは気付き、慌てて上半身を起こした。

 

「治奈ちゃん!」

 

 やはり、それは(あきら)()(はる)()であった。

 ヴァイスタからアサキを庇おうとして、攻撃を受けてしまったのだろう。

 

「治奈ちゃん! 治奈ちゃん!」

 

 必死に呼び掛けるが、意識を失っているのかぐったりした様子でまったく反応がない。

 

 白い悪霊、ヴァイスタが、ゆっくりと、ゆっくりと、二人のいる方へと近づいてくる。

 

「ごめんなさい、治奈ちゃん、余計なことしちゃった。わたし、余計なことしちゃった」

 

 アサキは、罪悪感と死への恐怖から、すっかり涙目になっていた。

 顔を上げると、ヴァイスタが白い肉体をふるふる細かく震わせながら、静かにこちらへと歩いてくるのが見える。

 滲む涙を拭うと、険しい表情で前方を睨んだ。

 

「考えろ」

 

 胸に手を当てて、ぼそりと声を出した。

 

 どうすればいい?

 泣いているだけじゃ、なにも変わらないぞ。

 わたし、どうすればいい?

 なにが、出来る?

 考えろ。

 そして、絶対に生き延びるんだ。

 わたしたちの世界に、戻るんだ。

 

 実際のところ気持ちに余裕は微塵もなく、パニックを起こす寸前であったが、なんとか冷静であろうと、胸に言葉を唱え続ける。

 

 その間にも、ヴァイスタが少しずつ近づいてくる。

 妙にゆっくりとした歩みなのは、意識的なのだろう。もしもこの悪霊に、意識というものがあればの話であり、先ほど治奈がいっていた通り、絶望させて食らうということなのであれば。

 勝利を確信したのなら、後はどうすればより相手を絶望に追い込めるか、ということだ。

 

「あ……」

 

 アサキは、はっと目を見開いていた。

 今日の学校の帰りに、公園に寄った時のことを思い出していた。

 治奈が躊躇いがちに、バッグからなにかを取り出そうとしていたことを。

 

 捨て猫の鳴き声で、うやむやになってしまったのだけど、あれは、なにを出そうとしていたんだろう。

 バッグに入る、片手で簡単に出せそうな小さな物……

 あれは、なんだったんだ。

 

 視線を落とし、ぐったり横たわっている治奈を見る。

 左腕にはリストフォン。この時代にリストフォンなど珍しくないが、銀と紫というカラーリングは見たことがない。

 彼女が身に付けているこの変わった服や鎧みたいなものの、装飾部分の色も紫……

 

 もしかしたら、リストフォンをわたしに渡そうとしていたんじゃないか?

 きっと、仲間に誘おうとしていたんだ。

 世界を守るために。

 わたしなんかになにが出来る、とは思うけど、それはともかく。

 きっとこのリストフォンが、ヴァイスタと戦う道具なんだ。

 とても武器には思えないけど、でも、きっとなんかの役に立つ物なんだ。

 だったら……

 

「ごめん治奈ちゃん、借りる!」

 

 意識を失っている治奈の腕を持ち上げて、リストフォンを取り外そうとする。

 留め具が少し複雑な形状であったが、焦りながら適当にいじっているうちになんとかバンド部分が外れた。

 

 と、その瞬間、

 

 ふん、

 

 風が唸りを上げて一気に駆け抜けた。そんな音がし、同時に、明木治奈の身体が、というよりも服装が、一瞬にして変化していた。

 自宅でくつろいでいるような、スエット姿になっていた。

 

「姿を変える道具、ってこと?」

 

 どんな仕組みによるものかは分からないけど、きっとそうに違いない。

 

 アサキは立ち上がり、ヴァイスタを睨み付けた。

 睨みながら、リストフォンを左腕に装着しながら、ゆっくりと自らヴァイスタへ近寄っていく。

 

「アサキちゃん、無茶じゃけえ! はよ逃げんと!」

 

 意識を回復したらしい治奈の、悲痛な叫び声を背中に受けながら、アサキは小さく口を開く。

 

「逃げられないよ。そんなボロボロになるまでわたしを守ってくれた、治奈ちゃんを置いていくなんて、出来っこないよ。だから……」

 

 アサキは前方を、ヴァイスタを睨んだまま、

 

「だから今度はわたしが、治奈ちゃんを守る!」

 

 左腕を振り上げる。

 その叫び声に、呼応したのだろうか。リストフォンが、眩しく光り輝いた。

 

     16

 光り輝きはしたが、ただ、それだけであった。

 

 その光は一瞬で消えて、残るは白い闇と、静寂と瘴気、目の前には白くぬめぬめした巨大な生物ヴァイスタ。

 腕を振り上げたまま硬直している(りよう)(どう)()(さき)

 

 額に、冷や汗がたらり垂れた。

 

「えーーーーっ!」

 

 期待したことがこれっぽっちも起こらず、無意味にポーズだけ取ってしまって恥ずかしいのと、現実的に迫る生命の危機とに、感情ごっちゃになってつい間抜けな顔で叫んでいた。

 

 それを合図にというより単に射程距離に入ったというだけであろうが、ヴァイスタの左右の腕がぶうんぶうんとアサキへと目掛け音を立て弧を描いた。

 

「うわゃっ!」

 

 横へ跳び、頭を下げて、奇妙なダンスと見まごう不格好さながらもなんとか攻撃をかわすと、たたっと小走りでヴァイスタと距離を取って、あらためて向かい合った。

 負傷し、離れたところで壁に寄り掛かっている(あきら)()(はる)()へ、ちらりと少し自信なさげな視線を向けた。

 

「念じるだけじゃのうて、横にあるボタン押さんと!」

 

 視線の意味を察したのであろう治奈の言葉に、

 

「あ、そ、そ、そうなのっ」

 

 アサキは慌てた様子で、左腕にはめられたリストフォンの、脇にあるボタンを確認する。

 

「そがいなボケかますキャラだったんかあ」

 

 壁にもたれる治奈の頭が、脱力にずるーっとずり下がっていく。

 

「よおし、今度こそっ!」

 

 二度目の正直だとばかり毅然とした表情で仁王立ちになると、アサキはリストフォンを自分の額に当てた。力を貸して、と強く念じると、そのまま左腕を天高く突き上げた。

 

 気持ちに応じたか、リストフォンが再びまばゆい輝きを発した。

 

 腕を立てたまま、すーっと下ろしながら、脇についている大きなボタンをカチリ押し込んだ。

 

 その瞬間である。

 アサキの全身が、眩しい光に包まれていたのは。

 

 逆光的に真っ黒に浮かび上がるアサキの、着ている物のすべてがほろほろと空気に溶けて、一瞬にして、一糸まとっておらぬであろうシルエットになっていた。

 

 身体の周囲あちこちで、無数の糸が色鮮やか幻想的な花火のようにぱあっと広がって、それらの糸がまとまり幾つかの束になって全身に巻き付いていく。

 

 眩い輝きが弱まると、白銀の布に足先から首まで包まれている赤毛の少女の、姿がはっきりと浮かび上がった。

 

 つま先から布が裏返り折り返されて、するすると膝上まで持ち上がって、黒いスパッツを履いているかのような下半身の見た目になった。

 

 気が付けば空中に、ごてごてとした塊が現れている。

 紫色の装飾が施された白銀の防具が、絡み合いくっついているのだ。

 それがぱあっと弾けて、ばらばらになった。

 

 各々意思がある生き物のように、胸部、前腕、すねに、カチリカチリという音とともに装着されていく。

 

 つま先から布がめくれて素足だったはずが、いつの間にか、やはり白と紫の、スニーカー形状の靴が履かれている。

 

 ふわり。

 袖のない、モーニングのように背中側の長い、やわらかくも丈夫そうなコートが上から降ってくる。

 アサキは、鳥が羽ばたくかのごとくに縮めた両腕をすっと伸ばし、広げて、袖へと通した。

 

 両手にはいつの間にか、紫色の薄地のグローブがはめられている。

 

 グーパーで感触を確かめると、服をなじませるために腰を捻りながら、腕を右、左とそれぞれ突き出した。

 

 白銀を基調に紫色の装飾が施されている戦闘服を着た、(りよう)(どう)()(さき)の姿がそこにあった。

 

     17

「変身完了、魔法使い(マギマイスター)アサキ、じゃな。しっかりポーズまで決めてやる気満々じゃけえね」

 

 離れたところで壁に寄り掛かり、苦しそうな表情をしている(あきら)()(はる)()が、冗談ぽくぼそぼそっと呟いた。

 

「い、いやあ、別にポーズ決めたわけでは」

 

 治奈を守ると決心したのだから、と、ヴァイスタに恐怖していることを悟られないよう、頭を掻いて照れ笑いしたふりをするアサキ。

 

 不意に視線を落として、自分の両手を見る。

 紫色の、薄地のグローブに包まれている両手を。

 そして、自分の服装を見る。

 白銀の、プラスチックのようにとても軽い防具に身を包んだ、自分の身体を。

 

 身につけている物が変化しただけ、に思えるけど、

 

「強く……なったのかな」

 

 もう一回、手をグーパーすると、顔を上げて前を見る。

 真っ白で、ぬるぬるした、巨大な人間のようでいて、でも顔のパーツが一つもない、ヴァイスタと呼ばれる悪霊のその姿に、アサキの顔は一瞬でさーっと青ざめていた。

 ひいーっ、と情けない悲鳴を上げていた。

 

「やっぱり怖いっ!」

 

 治奈を守るはどこへやら、青ざめた顔で叫びながら、くるんと踵を返しヴァイスタに背を向け全力で逃げ出していた。

 

 だが、

 ぴたり立ち止まった。

 そして、振り返った。

 両の拳を、ももの脇でぎゅっと握った。

 膝をがくがくと震わせながら、

 胸に、言葉を唱える。

 

 やらないわけにはいかないんだ。怖いけど。

 逃げるわけにはいかないんだ。怖いけど。

 

 と。

 ここでぶんぶん首を横に振って、

 

「いや、怖くない、怖くないっ。怖いけど怖くないっ!」

 

 睨むに似た厳しい表情を作り、しっかり前を向くと、身を低く落として、両腕を構えた。

 

 ゆっくりとした歩みで、再び攻撃の射程圏内にまでアサキとの距離を縮めたヴァイスタ。

 

 両者、睨み合う。

 いや、片方には目がないので、正しい表現ではないが、とにかく緊迫した気が、瘴気まみれの空間内に満ちた。

 

 巨大なムチといった触手状の長い腕が、ぶんと斜め上から打ち下ろされる。

 

 ぎりぎりなんとかかわしたアサキは、地を蹴って、体当たりの勢いをもってヴァイスタの腹部へと右拳を打ち込んでいた。

 どおおん、と、なにかが爆発したかのような、重たい音、そして衝撃。

 拳から、皮膚から、それを感じた瞬間に、地が揺れてヴァイスタの身体はぐらり後ろへよろけていた。

 

「凄い……」

 

 アサキは、夢か現実か分からないといった表情で、じーんと痺れる自分の拳を見つめていた。

 

「それが、アサキちゃんの力。()(どう)()が引き出した、アサキちゃんの、本当の力じゃけえ」

「わたしの、力……」

 

 アサキは、ぼそっと呟くと、きっとした力強い表情になった顔を上げた。

 そして、突然雄叫びを張り上げると、拳を振り上げ猛烈ダッシュでヴァイスタへと身体を突っ込ませる。

 

 既に体勢立て直したヴァイスタが、ぶんと左腕を振るい迎え撃つが命中しなかった。

 アサキが、高く跳躍して、かわしていたのである。

 

 しかし……

 

「な、な……」

 

 びっくりしているアサキの顔。

 

 重力の支配下にあるようなないような感覚で、ふわーっと逆さに浮いている。

 その遥か遥か、遥か眼下には、ぐにゃぐにゃに歪んだ色調の狂った天王台の町並みと、そしてこちらを見上げることもなく元の場所でただ仁王立ちしているヴァイスタの姿。

 

 飛び上がり過ぎていたのである。

 

 気付いた時には、重力に引かれて落下が始まっていた。

 

 ヴァイスタにとって、これ以上に恰好な標的はなかったことだろう。着地というか墜落というかの瞬間を狙って、ひょろひょろと長い両腕を、容赦なくアサキの身体へと叩き付けたのである。

 

 ぎゃんっ、という子犬を踏み潰したような悲鳴と共にアサキの身体は住宅の塀に激突、砕き突き抜けて転がり落ちていた。

 

「アサキちゃん、大丈夫?」

「なんとか……」

 

 自分の空けた大穴から、薄汚れた顔のアサキがふらふらした様子で這い出てきた。

 

「無駄に跳ねても的になるだけじゃ。魔力も無駄になるけえね、もっとセーブせんと」

 

 治奈がダメ出しをする。

 

「そんなこといわれましてもお」

 

 このような場所で、このような怪物と、このような格好でこのような戦闘をするなど、当たり前だが初めてで、だから魔力とかセーブとかいわれたところで分かるはずがないだろう。

 

 それだけじゃない……

 

 アサキは、ヴァイスタの攻撃をよけつつ、懐に飛び込んで右拳を叩き込んだ。

 どおん、という重たい音と共に、再び巨体がととっと後ろに下がる。

 

 ほら、これだ……

 

 このように、本気で殴っても、せいぜいよろける程度でダメージを受けているように見えない。

 ならば力をセーブなど、していられないではないか。

 

 どおん。

 本気の力を拳に込めて、さらにもう一撃を食らわせた。

 しかしやはり、ヴァイスタは少しふらつくだけであり、土埃が晴れる間もなくもう何事もなかったようにこちらへと向かってくる。触手状の腕をムチにして、攻撃してくる。

 

 ふと、自分が凄まじく疲労していること気が付いた。

 息が、苦しい。

 アサキは、肩を大きく上下させて、あえぐように呼吸をしていた。

 

「ほじゃからっ、分散させないで! 魔力はセーブしつつ、その代わりに力を込めるべき一点へと集中させんと!」

 

 治奈の叫び声。

 

「ほじゃからっ、なんばゆうちょるばってんよく分からへんのやけどっ!」

 

 アサキは別に、死の恐怖もなんのそのと余裕かましてからかっているわけでは勿論ない。

 焦りと恐怖ですっかりパニックを起こし、治奈の方言に触発されて、かつて転々としていた地域の言葉がごっちゃになって口をついて出てしまったのである。

 

「あいたっ!」

 

 動転していたせいで、間合いを思い切り見誤り、横殴りの一撃を脇腹に受け、吹っ飛ばされて壁にガッツン後頭部を打った。

 

「いてて……」

 

 片目をぎゅっと閉じ、しかめっ面を作るアサキ。

 

 ゆっくりと近寄ってくるヴァイスタ。

 その背後、路面に落ちている物がキラリ光ったのをアサキは見逃さなかった。

 

「あれだ!」

 

 素早く立ち上がると、前方へ、ヴァイスタへと、走り出していた。

 

 ぶん、ぶん、と時間差で左そして右の腕が襲う。

 

 左腕の攻撃を、自分の右腕を打ち付けて払うと、右腕の横殴りの一撃を、今度こそは加減した跳躍でちょこんとかわして、ヴァイスタの脇をそのまま駆け抜けた。

 駆け抜けて、さらに走り、路上に落ちている長い物へと、飛び付いて、拾い上げていた。

 

 治奈が使っていた、穂先の少し手前に小さな斧が付いている、奇妙な形状の槍であった。

 

「いくぞおおおお!」

 

 両手に持った槍を小脇に抱えて構えると、気合全開、再びヴァイスタへと走り出した。

 

 左右の腕が同時に伸びてアサキを襲う。

 

 だが、アサキの攻撃の方が早かった。

 躊躇いなく突進し、槍の切っ先をヴァイスタの腹部へと突き刺したのである。

 

 ぶちゅり、という音と同時に、刺した部分から白いゼリー状のものが弾け飛んだ。

 

「これなら……」

 

 はあはあ、と息を切らせながら、心の中で続きを叫ぶ。

 

 これなら、嫌でも一点集中だ!

 

 魔力とかよく分からないけど、気合を槍に送り込むイメージをしながら、ヴァイスタを睨み付けた。

 

 アサキの両腕が、そして槍が光り輝いたかと思うと、その瞬間、刺さっていた穂先がヴァイスタの背中を突き抜けていた。

 

 ヴァイスタは、びくんと全身を大きく痙攣させると、それきり動かなくなった。

 

     18

 明暗の反転した、静まり返った、見るもの歪んだ世界の中で、ぜいはあと(りよう)(どう)()(さき)の呼気だけが聞こえている。

 

 静寂を破ったのは、(あきら)()(はる)()の声だ。

 

「なにをしとるん、早く昇天を!」

「え、な、なにそれっ」

 

 わけの分からない言葉に正気に戻されて、アサキはばたばたと慌て始めた。

 

「ほうじゃね。ごめん、分からんよな。うちがやるけえ」

 

 よろよろと力のない足取りで、治奈が近付いてくる。

 路面の微妙な段差につま先を引っ掛けてしまい、ととっとよろけて転びそうになる。

 

「大丈夫?」

 

 アサキがさっと近寄って両手を伸ばし、身体を支えた。

 

「ありがと、アサキちゃん。……ほいじゃあクラフトは、返してもらうけえね」

 

 クラフト?

 顔に疑問符を浮かべているアサキへと、治奈がさっと手を伸ばして、左腕に付けられているリストフォンを器用にあっという間に取り外してしまった。

 その瞬間、

 

 ふぉん、

 

 高密度の光がそのまま音になったような、そんな音がして、白と紫の戦闘服というアサキの格好が、一瞬にして元の、ジャケットとスカートという私服姿へと戻っていた。

 

「まだ変身、出来るじゃろか」

 

 治奈は不安げな表情で呟きながらも、自らの左腕に、クラフトと呼んでいたリストフォンをはめた。

 天へと翳し、ゆっくりと腕を下ろしながら、側面にあるスイッチを押した。

 

「うわ!」

 

 眩い光を間近に受けて驚いたアサキが、ぎゅっと閉じた目を開くと、既に治奈の格好が変化していた。

 つい十秒前までのアサキと同じ、白と紫の戦闘服という姿へ。

 

 無事に変身が出来たことにだか、治奈はほっと安堵の息を漏らした。

 

「アサキちゃん、少しだけ魔力を分けて。……一緒にやろう」

 

 治奈は微笑むと、右手でアサキの左手をそっと掴んで、余る左手をヴァイスタの真っ白な胴体へと当てた。

 

 不思議そうな顔のアサキであったが、やがて真似するように右手をヴァイスタの胴体へ当てた。

 

「イヒベルデベシュテレン」

 

 治奈が小さく口を開き、聞いたことのない言葉を発する。

 なにかおまじないの言葉だろうか。

 

「ゲーナックヘッレ」

 

 次の瞬間、アサキは驚愕にギャアッと悲鳴を上げていた。

 倒したはずのヴァイスタがいきなり動き出したのだ。

 

「大丈夫! まだ手を離しちゃダメ!」

 

 治奈のその言葉がなければ、手を離していたどころか逃げ出してしまっていただろう。

 

 アサキはあらためて手のひらを当て直して、涙目になった顔でびくびくおずおずとヴァイスタの巨体を見上げた。

 その瞬間、アサキの目がかっと見開かれていた。

 

 なんだ、これ……

 

 ヴァイスタのことである。

 いきなり動き出して慌てて逃げようとしてしまったのだが、動いているのはアサキが槍で貫いた傷口の部分だけだ。

 

 腹部に出来た大穴が、まるでビデオのコマ送り逆再生でも見ているかのように癒えていく。

 一体どこの器官から生じているのか、ちち、ちち、と舌打ちするかのような気持ちの悪い音とともに。

 

 あっという間に、傷口が完全に塞がっていた。

 

 なんなんだ、これは。

 この後、これがどうなるというんだ。

 

 治奈は大丈夫といったが、アサキは怖くて仕方ない。

 死闘の上に倒した怪物がまだ動いているともなれば、それも当然だろう。

 

 ドキドキする胸を押さえたかったが、片方の手は治奈に握られ、片方の手は治奈にいわれた通りヴァイスタの胴体へと当てている。

 不安を静めることも出来ず、どうしようもないまま張り裂けそうな心臓の鼓動に耐えていると、突然、ヴァイスタに次の変化が起きた。

 

 パーツのまったくない、のっぺらぼうの顔に、魚にも似た小さなおちょぼ口が出来ていたのである。

 そして、その口の両端が釣り上がって、笑みの形を作ったのである。

 

「うわあああああああ!」

 

 そのあまりの不気味さに、アサキは心から恐怖し絶叫していた。

 

 叫び続ける彼女の前で、ヴァイスタの肉体が頭頂からさらさらと光の粉になって、あっという間に足先までが、空気に溶けて消えた。

 

「全部、終わったけえね」

 

 あらためて治奈はアサキへと微笑みかけた。

 

「ありがとう、アサキちゃん。……それと、怖い思いさせちゃってごめんね」

 

 アサキと繋いでいる手に、ぎゅっと力を込めた。

 

 ふーーーーっ。

 

 アサキは、治奈の顔を見ることなくうつむいたままで、溜め息を吐いた。

 膝をがくがくと激しく震わせながら、長い長い溜め息を。

 

 と、そんな時である。

 呼吸どころか心臓の鼓動すら聞こえそうなほどに静まり返っていたというのに、突然、なんだか騒がしくなった。

 

 騒がしくなったというか、騒がしさが近付いてくるというか。

 

 どんどんそれは大きくなる。

 足音と、話し声のようだ。

 ばたばたばたばたと、慌ただしい足音。遅いとか誰のせいとか、いい争う声。

 

 そして、それは現れた。

 

「待たせたな治奈! カズミ様御一行があ、あっ、いざ、助太刀に参ったでぇごうざあるううう!」

 

 足を大きく広げ手を突き出して、歌舞伎みたいな口上を発しているのは、白と青の戦闘服に身を包んだ少女、(あき)()(かず)()であった。

 

「ちょっとカズにゃん、走るの速いよお!」

 

 やっぱりというべきか、カズミを追うように姿を見せたのは、同様の出で立ちをした(へい)()(なる)()(おお)(とり)(せい)()であった。

 成葉は白と黄色で、正香は白と緑という戦闘服である。

 

「ちっとも早くなんかないわ! いま最後の一匹を倒し終えたとこじゃけえね。……アサキちゃんが変身してな」

 

 救援遅すぎな彼女らに、苦々しい視線を向ける、ボロボロ戦闘服姿の治奈である。

 

「あっ、そうなの、ごめんねえ治奈ちゃあん。魔道着がくっそボロボロになってるけど、ひょっとして死にかけた? つうか治奈、お前さあ、アサキのこと魔法使いにはさせたくないとかいってたじゃんかよ。なあにやることコロコロ変えてんだよ」

「成り行きでつい、うちの魔道着で戦うことになった。……なんとか倒せたけど、身動き取れず見とるだけのうちとしては、怖くて怖くて危うくおしっこ漏らすところじゃったけえね」

 

 治奈は頭を掻きながらはははと笑った。

 

「きったねえなあ、お前はもう」

 

 カズミは顔をしかめ、うすら寒そうに腕を組みながら治奈から一歩離れた。

 

「漏らしちゃったのわたしだよう!」

 

 やけくそ気味に泣き叫ぶアサキの情けない声に、みんなの視線が集中する。

 本人のいう通り、スカートがびしょびしょというだけでなく、足元にも広がって大きな海を作っていた。

 

「リアルできったねえのかよお! ま、まあよかったじゃんか、魔道着の時じゃなくてさあ」

「だとしても汚れるの治奈ちゃんのだよう。……ほんとに怖かったああ! 死ぬかと思ったんだからあああ!」

 

 色調の反転した白い夜空を見上げながら、アサキは生命の助かった実感と失禁した恥ずかしさをごちゃまぜに、いつまでもわんわんと泣き続けていた。

 

     19

「追記。

 

 特筆すべき事項が増えた。

 

 わたくし令堂和咲は、なんとなんと、変身バトル魔法少女アニメの、主人公になってしまったのです。

 

 あ、いや、別にアニメではないし、主人公にもなってはいないか。

 

 驚き声を張り上げているだけの端役みたいなもの、といった方が真実に近いか。

 

 普通の人に説明しても絶対に信じてくれないと思うけど、ヴァイスタなどと呼ばれている人間の生命を脅かす謎の生命体が存在し、そしてそれと戦う組織が存在するのだ。

 

 そのヴァイスタにわたしは襲われ、異空(いくう)というおかしな世界に引き込まれた。

 

 殺されそうになったわたしを、間一髪のところで助けてくれたのが、中学で同じクラスになった明木治奈ちゃん。

 

 わたしは、負傷した治奈ちゃんに代わってヴァイスタと戦った。

 

 治奈ちゃんの特別なリストフォン(クラフトというらしい)を借りて、魔道着とかいう姿に変身して。

 

 なんとか倒すことが出来たけれど、本当に怖かった。

 

 顔のパーツがないものだから表情がないし、感情もなさそうで。

 

 でも時折感じる思念のようなものが、それはもうひたすら恨みに満ち満ちていて、世界中の人の負の心を集めてもなお追い付かないくらいの、とんでもない悪意を感じるもので。

 

 そんなのと殺し合いをしたんだ。正直、まだ心臓のどきどきがおさまらない。

 

 酷く動揺している。

 まだ、怖い。

 

 ヴァイスタについて、

 戦う組織について、

 明日になったらもっと詳しい話を聞かせてもらえるということだ。

 

 早く寝てしまって、早く朝がきて欲しいけど。

 眠れるのだろうか。」




ここまでお読み頂き、ありがとうございます。

ちょっと暗い感じに始まったこの物語ですが、背景自体はシリアスなんだということを伝えるため、あえてそうしました。

第二章からは、ほのぼのダラダラぐでーっとしたギャグ路線へと入る予定です。

どこかで展開切り替えのスイッチを入れて、そこからは一気にラストまで持っていくつもりですが、どこでスイッチが入るのか。気長にお付き合い頂けますと幸いです。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。