本編ありません
オリ兄妹が会話しているだけです
10年前とか、それくらい。私たちが暮らすこの町で、聖杯戦争というものが起こったらしい。
何でも願いを叶えられるだけの魔力を有した万能アイテム。魔術師たちの悲願の足掛かり。
魔術師の家に産まれている私だけれど従兄弟の兄以外の魔術師とはかかわって生きていない私にはピンとくる話ではなかった。
だから聖杯戦争があったと聞いてももったいないというか、もっと早く産まれていれば、なんて悔しさもない。従兄弟の兄との生活で手一杯でそれどころではない。
母はいない。記憶のどこにもいないくらい小さい頃にいなくなったらしい。
父もいない。ぼんやりとだけど記憶にはいる。けれどいつ忘れてもおかしくないくらいぼんやりとだ。兄曰く、件の聖杯戦争に参加する予定だったけど直前にいなくなったらしい。理由は教えてくれない。
当時の私は父を失ったショックで泣きに大泣きをして兄を困り果てさせて聖杯戦争どころではなかったのだそうだ。そしてその大泣きの後遺症で当時と父の記憶が曖昧なのだとか。
真偽は分からない。
けれど兄がそうしたいのならばそうすべきだと思う。
全ては終わったことなのだ。今更掘り返すべきではないしそんなことで今や唯一の家族である兄と揉めたくない。
だからいつもこの話はここで終わりなのだ。
10年ほど前に聖杯戦争があった。
我が家は参加していない。
聖杯はきっといい人がもらっていったのだ。
でなければ、今日も私たちはこうして平穏無事に日々を送ってなどいないのだから。
「お前進路どうするんだ?学校でそろそろ聞かれる頃だろ?」
朝の挨拶もそこそこに、眠たげな顔で朝食を口に運ぶ兄が眠たげな声で問う。私もまた気の入っていない声で「考え中」とだけ返す。
それに兄は機を悪くするでもなく「まあわかんねえよなあ」と頷いている。
いかにも自分にもそんな時期があったと言わんばかりの雰囲気を出しているがそれはない様に思える。
父が死んだ時の兄は今の私と同じ、10代半ば。幼い私を抱えている状態でどれほどの選択肢があったというのだろう。悩む余裕があったというのだろう。
現在は20代半ばだというのに不相応の苦労を背負ってきたのが丸分かりで、いまだ何も返せていない状態であることに申し訳なくなるばかりだ。
そんなお人好しの塊の兄が今日も不満ひとつ持っていないような素振りで気軽に話す。
「ま、期間内だったらいくらでも悩んでいいぞ。うちははぐれみたいなもんだけど時計塔にツテも一応あるし。当主に見捨てられてるような状態の家だ。俺たちで廃業でも誰も文句は言わないさ。見てみろ親父からの手紙。お前の進路のことだってのに「好きにしろ」の一言だ。お前の姪だっての!」
ひらひらと見せられた手紙というには切れ端の紙切れが勢いよくテーブルに叩きつけられる。兄がここまで荒れる相手はもう10年以上帰ってきていない兄の父だけだ。私は会ったこともない。
家にも帰ってこず手紙もそっけない一言で済まされてしまうなら、もうとっくに見放されているのなら、もう連絡なんてしなくていいんじゃないか。なんて私は思ってしまうし兄に言ってしまうのだが、兄には曖昧に濁すだけ。それでも手紙を送り続けては怒っている。
やはり血の繋がりがある者として見放されても見放しきれない何かが在るんだろうか。それとも私がわからないだけでふたりにはそういう形で繋がっているのだろうか。
私には分からない。分かる日が来るかも分からない。
分かることといったらそろそろ学校に行かなければならないということくらいだ。
手早くテーブルに残る私の分の朝食を平らげて食器を洗い場に持っていく。洗うのは在宅ワークで比較的時間に余裕がある兄の仕事だ。
…………………………………………そういえば、
「……ねえ兄さん」
いってきますと共に部屋を出る直前、ふと思い出す。
「ラーサーさんって人、知ってる?」
「…………あ?」
「昔、小さい頃そんな人がいた気がするの。私の手をあったかいって言ってくれた人」
「……………………」
訊ねた瞬間、彫刻かというほど兄が固まった。
大きく目を開き口も開いて閉じる気配がない。けれど呼吸も止まっているみたいな……。そんな呆然とした兄が(おそらく)長い時間をかけて元に戻ったと思ったら今度は椅子から転げ落ちるんじゃないかというほど悶えだした。
そんなに兄にとって大地雷なのだろうかラーサーさんとは。
じわじわと背を伝う嫌な予感と兄が落ち着くのを待つこと数分。大きく深呼吸して落ち着きを取り戻した兄が随分と疲れた声で聞いてくる。
「……どれくらい」
「え?」
「どれくらい覚えてるんだ。『ラーサーさん』のこと」
「えっと……」
改めて思い返す。けれどそう多いものではない。そんな人がいたという気がするだけだ。私は静かに首を振ってその通りに告げる。
「多分だけど、父さんと同じくらいの年の人。優しくてあったかくて、なのに、私のことをあったかいって言ってくれるような、そんな人。夢かもしれない」
「……………………」
具体性などどこにもない私の話を兄は黙って聞いていた。真偽の判別のような沈黙の後、ため息がこぼれた。
「……いたよ、ラーサーさん。お前の父さんの友達で、死んだって聞いて見に来てくれたんだ。一週間くらい3人で暮らしてた」
「へえ」
本当にいてくれたんだ。
小さい頃の記憶には特に自信がないのでその一言だけで心躍るには十分だった。今も残っている父の部屋を探せば手がかりくらいあるのでは。
なんて心を読んだのか、兄の厳しいまなざしが抉るように飛んできた。
「会いたいなんて思うなよ」
「え」
ぎくりと心が硬直する。
「あの人、封印指定くらってるんだよ。かかわるな。巻き込まれるぞ」
「えぇ……ラーサーさん何したの…………」
「知るかよ。知らない方がいい」
投げやりな態度にこれ以上の質問は許さないという圧を感じる。私が拗ねて頬を膨らませた程度では口を割ったりしないだろう。
むしろ「そろそろ学校に行けよ」と更に投げやりに払われる。確かにその通りなので急いで部屋を後にするしかない。唇を尖らせて兄に背を向ける。
「…………でも、感謝はしてる。本当に。あの人がいなかったら、俺もここまで頑張れなかった」
こぼされた言葉に、「そっか」とだけ返してドアを閉める。兄がラーサーさんに悪い感情だけでないものも感じているというだけでとても気が楽になった。
ラーサーさんラーサーさん。私の心の中にだけいると思っていた人。あたたかな人。素敵なおじさん。今は何をしているのかは分からないけど兄を私をとりあえず幸せに暮らせるようにしてくれた人。
いつまで覚えていられるかは分からない。けれど今はまだ朧に覚えている記憶を機嫌よくなぞる。
「あんたの手はあったかいな。魂を温めてくれる手だ。優しい幸せをくれる手だ」と。
優しい記憶はどこまでが本当でどこからが曖昧なことをいいことに勝手に作られてしまった都合のいい創作なのかは分からない。けれどそれに私はすがる。滑稽であろうと共に踊る。
「ラーサーさんラーサーさん。ラーサーラーサーらあさぁらぁさぁ…………ランサーさん?」
ふとよぎった考えに、一瞬思考も動作も全て停止した。
けれどまさかと首を振る。
それこそありえない。多くの魔術師が求めるたったひとつの願望機を巡って死力が尽くされる聖杯戦争なのだ。いくら一騎当千のサーヴァントとはいえ幼児と子供を抱えて生き残れるほど優しいものではない。どんな防衛の達人だという話になる。
ありえない。ありえるわけがない。もう一度首を振って玄関の扉に手をかける。朝のまだ少し冷たい風が髪を揺らして首を撫でる。
「さあ、お出かけの時間だ。どこであろうとオジサン頑張って連れて行っちゃいますよ」
笑って連れ出された外は暗くて風は冷たかった。けれど寒くなんてなかった。少し眠かったけど行きたくないなんて思わなかった。
だって抱き上げてくれた腕が優しかったから。すっぽりと包んでくれた身体が温かかったから。どこに行っても恐くないって思わせてくれる声だったから。
「マスターは、どこに行きたい?」
私?私はね、