鷹の6本のツメ   作:ひとりのリク

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独白

 

引退しようと思っていた。

 

2度目の日本ライト級王者となり、2度目の防衛戦を制して会場をあとにすると、肩に掛けたバッグがやたら重い。防衛に成功したあとの心地良い疲労感が以前はあったのに、この時はあと何度防衛を続けるのか分からない徒労感に背筋が曲がってしまったんだ。

天井が見える。雨風を防ぎ、直射日光を遮り、本能を研ぐための環境から遠ざける人工物だ。プロボクサーを目指した頃は無かったものだ。泥臭いことは好きだし、負けることは嫌いだから懸命に練習に励んで息が上がると、決まって空が見えたから間違いない。

悟ったんだ。王島総司の展望台は、日本を見渡せる程度の高さなんだ、ってね。

王者に返り咲いても、強くなる実感はない。後ろから足音が聞こえる。王座を狙うボクサーのものだ。

顔を見る気はない。男の顔に惹かれることはなかった。こちらを妬む眼差しに魅入るのは無理だ。唯一、目もくれずに踏み越えていった伊賀には挑戦状を破り捨てられる始末さ。

この王道は宛てがなくなった。世界の壁に阻まれた間柴了、その彼に完敗した伊賀に手の届かないボクサーは、東洋に出ることも叶うまい。戦績に付いた黒星はライト級にとって致命的だった。

黒星は悪くない。勝負の世界には付き物だ、然しタイミングがある。東洋太平洋(OPBF)に出ようとするボクサーは、その玉座への挑戦権には伊賀のトレーナーの目に留まる程度の格が求められた。それが最後のひと押し。

 

引退を決意した。

朝起きて、外を見て、雨が降っていた。日課のロードワークが億劫になると、引退の二文字が脳裏に浮かぶ。無敗の王者だった頃なら、川が氾濫しようとも、日照りでダムの貯水が干上がろうとも走り出していた。薄情で無味な決意だ。

翌昼、ジムに向かった。ビジネススーツの着心地が悪い。負けてリングを降りる時の気分にそっくりだ。決意が揺らぐ前にジムの横扉を開けて、事務所に向かおうとする足は止まる。

 

「鴨川ジム所属の青木だ。

チャンピオンに挑戦状を叩きつけにきた」

 

便箋を叩きつけに来た男がいた。青木だ。

小狡い人気者が立ち直ってやってきた。

バロンの条件だろ。知らないよ、向こうの都合なんか。キミのリベンジなんて。路傍に唾を吐き捨てるような攻撃的返答をした。

 

「チャンピオンってよ、闘志が煮えたぎって、ベルト巻いてるのに誇りがあるもんだろ」

 

批難の眼差しをかわす。

何年プロにしがみついているのか、コイツは。ベルトを巻けもしないくせして、崖っぷちの挑発に踏み込むと思っている。嗤えば勝手に転落するだけのボクサーに腹を立てるのは、何故だろう。諦めの悪さが羨ましい。

 

「王島総司を倒してベルト巻けば、伊賀をぶっ倒す足掛かりになる。なんせライト級のベルトを2度も手にしたボクサーだ。尊敬してんだ。

あんなクズを見るな。俺と向き合え」

 

ファンのことすら考えなかったのに。

彼女たちの声援で踏み留まることはなかったけど。

ふと踏み留まる喉仏。そういえば、王島総司を踏み台にした相手は居なかったな、と。伊賀? アレは違う。操り人形だ、初めから視線すら合っていなかった。

ライト級は魔境だ。軽量級で世界ランカー入りする日本人ボクサーは多いが、中量級…ライト級にもなれば米国や英国、身体能力が秀でた外国人が世界を埋め尽くす。同じ身長体重でも、運動神経が日本人よりも優れている人種が相手だ。

王者宮田の存在が異質すぎるせいで勘違いされているが、ライト級で活躍する日本人はここ数年でも片手で足りている。だからだろう、日本ライト級のベルトは他階級よりも重い。

このタイトル死守を世界挑戦よりも重要視する人間もいるほどだ。無為に散るよりも価値がある数少ない国内ベルトだ。バロンはそれを踏まえてデタラメな要求をしてきた。

王島総司が保有する日本ライト級王者の証は、並みの挑戦者にとっては最終目標であり、伊賀を除く挑戦者はボクサー人生の山場を王島総司に定めてきた。

 

「アンタの持つチャンピオンベルトがほしい。10年追い続けたんだ、弱ってようと容赦なく倒すぜ。

そもそもな、伊賀のことなんてアンタに言われるまで忘れてた。頭ん中ベルトのことでいっぱいだ。

アンタを倒して念願叶えたら勝手に出会すヤツのことなんて気にしてやるかってんだよ」

 

突き刺すように差し出された果し状を、思わず受け取っていた。僅かに残っていたらしいプライドが、男の熱意に応えろと指先を動かした。或いは、無碍に扱うことは伊賀陣営とやっていることが変わらないことに耐えられないからか。

なら、知るべきだと思った。伊賀にそこまでしてリベンジする崇高な理由はなんだと問う。

 

「トミ子をブサイク呼ばわりしやがった。私怨モリモリだよ、ベルト巻いてなくたって殴って落とし前をキッチリ付けさせてもらう」

 

怨敵、伊賀を倒すためにベルトをふんだくる。とんだ巻き込み事故を起こそうとしている自覚はあるのだろうか。迷惑な話ではあったけど、真っ直ぐな想いをぶつけられたのは何年振りだ?

また走りたくなってきた。鏡を見たくなった。

 

青木勝。

彼を足掛かりに、日本を飛び出すのもいい。ライバルのような相手に巡り会えなかったのは、女好きだからだと思い込んでいた。運が良い、引退前に勘違いを正せた。自分が人見知りで、元々強い程度で自惚れ、敗北と向き合えず、拳以上の会話を避けていたことを。

…まずは、コーチへの謝罪から始めよう。

 

後日、彼のことを調べているウチにトミ子という女性のことを知った。

伊賀の言葉通りのブサイクとは恐れ入った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

捕食行為。

鴨川ジム所属トレーナー、篠田氏の依頼を聞いて浮かんだ言葉だった。

 

カエルパンチ。

青木勝を研究する過程で、それは避けては通れない必殺技だ。

 

青木勝。

スポーツ記者の記事起こしの取材で、必殺技を編み出した経緯にこう答えていた。

『井の中の蛙だった不良なもんだから、落ちても落ちても飛び跳ね続けたんだ』

カエルのように、と締めた言葉を読んで彼と同じ視座に立つため、カエルの生態系を調べに図書館へと向かった。生物図鑑から探したカエルの解説のなかに、ソレがあった。獲物を捕食するとき、カエルは生物的に目を閉じる。そうしなければならない生き物で、その不憫さに腹を立てたこともあった。

今は違う。カエルから学ぶ姿勢が違った。欠点を補うための進化を遂げようとしている。何故?

 

伊賀忍。

復讐心だけじゃない。プロボクサーとしての敬意があり、人間性への侮蔑と憐憫を抱いていた。

それらが拳の中で嵐のように激しく混ざり研磨して、引き分けを果たした試合とは見違えるほどの成長を遂げている。駆けていく道中を、王座奪取という高い壁を彼は気づかないうちに乗り越えていくのだ。

 

「────っできた」

 

飲み込み方が分からないだけで、その口に獲物は挟まっている。見ろ、日本ライト級王者を倒す戦法を彼は2ヶ月で完成させた。東洋太平洋(OPBF)ライト級王者に通じないであろうに、復讐心に捉われずに日本最強のトリックスターは立っている。

復讐心に駆り立てられるボクサーが強いものか、と昔なら吐き捨てた動機も今は認められる。

 

(もう、完成したか)

 

指導者失格の思考を脳みそに吐き捨てた。感嘆は許しても、落胆を現せば今江克孝(じぶん)を殺してでも罰する。

この2ヶ月の意味を見失うな。青木勝の特訓は今日成就した。プロボクサーを引退し、トレーナーの道を進んだのは決して、引退の意を引き摺るためではない。

 

「ミットがなかったら顎に一撃、です。正直ちょっと効いてます。顔で抑えたから分かる、紛れもなく試合を終わらせる一撃だ」

「……………感謝してる。王島対策は今江の研究過程を学ばなきゃ間に合わなかったよ」

 

グローブを外して差し出された右手。

感謝を伝えるための握手を交わせば、悔いは断ち切れる。違う、断ち切れ。断ち切るんだ。

心構えは決まらないまま。握手することに意味があると、放り投げるように右手を差し出す。

 

「だから、俺と試合をしてほしい」

「───────。────は?」

 

返ってきた言葉の意味は、そんな疑問符を付けずとも理解していた。恐れたんだ、勘違いを。都合の良い解釈をしてやしないか。

 

「…正気じゃない。試合まで1週間しかないのに」

「この2ヶ月、拳を打ち続けて分かった。お互いを尊敬し合って、(わだかま)りは無いけど、やっぱプロなんだよ俺たち。

視界の隅っこに引き分けの文字がチラつくんだ。

特訓を終わった瞬間に確信したよ、アンタとケリ着けずにベルトは巻けない」

 

逃げ道を一蹴する申し出に喉が鳴る。

こんな機会を差し出されて、我慢できるのか。

 

「アンタも、俺を倒す理由があるはずだ」

「まさか、本気を出せって言うんですか」

「勝ち負けつけたいんだ。練習に付き合ってくた感謝を、本気の俺で伝えさせてくれ」

 

2ヶ月前、ジムを訪れた彼に問われて正直に答えた。『何かしらの形で青木さんの拳を受け止めたかった』と。集中してもらうために理由をはぐらかさなかったが、あの言葉を聞いてから今日のことを決めていたんだろう。

怪我のリスクもあるのに。立て続けに伊賀選手との試合に臨むつもりでいるのに。

 

「……貴方が来ると聞いてから、プロボクサー同様の練習に取り組んでいました」

 

この背中は、王者の誇りを忘れることはなかった。

プロボクサーとしてならそれで良かった。引退のタイミングは申し分なかったと思う。

だが、あと1度でいいからと求めた。感情を振り回される不自由さがあって、自分を待ってくれる人に誇れるくらい没頭したリングを。プロボクサーの引き際としては、数えるほどしか味わえない贅沢を。

 

「あの日の俺がここに居ます。あの日から再戦を熱望するボクサーは、手加減なんてしない」

「二言は無い‼︎ プロとプロの約束だ」

 

いつの間にか傍には菊元コーチがグローブを持ち寄ってくれていて。懐かしい手捌きで拳の保護を終えれば、篠田コーチがレフェリーを務めるリングにいた。

 

「これは、俺のもう一度なんだ」

「……おう!」

「勝たせてもらいます」

「はなっからそのつもりだぜ!」

 

日本ライト級タイトルマッチ延長戦、幻の第11ラウンドが始まる。

 

 

 

 

 

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