鷹の6本のツメ   作:ひとりのリク

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パンチドランカー

脳障害の1種。打撃系格闘技、とくにボクサー選手の発症例が多い。
初期症状として、頭痛や吐き気、身体のしびれがあり、徐々に日常生活を侵食していく。次第に記憶障害へと悪化、ところどころ記憶が抜けることがある。やがて歩行困難となり、選手生命が絶たれるどころの話ではなくなるため、医師からパンチドランカーを告げられた選手は強制的に引退となる。


降りしきる記憶 その2

 

これは、宮田 一郎の世界戦が決定する直前のお話。

 

ある晴れた昼、のどかな時間が流れる空のした。

山奥のペンション『義男』にて、2人の年老いた男性がベンチに腰をかけ話していた。

 

「幕之内さパンチドランカーの疑いがあるだニ?」

「あぁ…。いまは休養を与えておる。しかし…」

 

片方は猫田 銀八。鴨川の古き友人で、戦後の日本において拳闘家として活躍した人物。

 

「それでも練習を辞めてないんじゃないだニか?」

「そうじゃ。ここ最近、あやつはロードワークをこなしとる。愚直にも、ワシとの練習をなぞるようにな」

「幕之内さ正直者すぎる。そのおかげで成長したも同然。身体は、恩をそう簡単に忘れられん。嬉しい話じゃないだニか?」

「………そのことで、聞いておきたくてな」

 

こんにち、鴨川が猫田のもとに訪れたのは、他でもない幕之内のこと。

幕之内 一歩は、ボクサーとして短命なスタイルをなぞっている。小柄ゆえに相手の懐に飛び込んでいくため、選手を広く見渡しても被弾率はトップの位置にいる。とくに、顔面への衝撃は強力なものが多い。ストレート、カウンターをよく顔面に受けるため、いつ脳障害に悩まされてもおかしくはない。

 

そんなとき、アルフレド・ゴンザレスとの戦いに敗れたのち、パンチドランカー疑惑が持ち上がったのだ。

 

「そうか、ワシのことを聞きに来たんだニね」

 

戦後、ボクシングが拳闘と呼ばれていた時代。

拳闘家であった猫田は、パンチドランカー症状に陥り引退した。その苦悩を見てきた鴨川は、猫田の心境に触れることはしなかった。それが当初、ともに戦ったことのある猫田への敬意でもあったのだ。

 

「…………言いにくいなら、無理にとは言わん。パンチドランカーと付き合うその心境は、おいそれと触れていいものじゃない」

 

だが、いま鴨川のボクサーにパンチドランカーの嫌疑がかかっている。引退を告げるかを悩み、結論が出ない日々を過ごし、猫田のもとを訪ねた。

 

「じゃが、怖くてたまらん。2人も、この手で人生を狂わせてしまうかと思うと、止まるようにしか頭が回らない。

ワシは、なにを終わらせればいい……」

 

大切におもう選手の人生を、己の采配ミスでこれ以上台無しにできない。

なにが正解で、どれが残忍な最期なのかを見極めるため。

かつての盟友に助けを求めた。

 

「よくぞ訪ねてくれた。幕之内のために、参考にするといいだニ」

「猫ちゃん…感謝する」

 

猫田は、間髪入れずに返答した。

 

「段々と言うことを効かなくなる指先、不意の眠気は起きているかぎり隣に付き纏っている。そんな、誰にも言えないという孤独と戦う毎日だニ」

 

生涯、言うまいとしていた猫田の過去。

鴨川と猫田は、拳闘家として凌ぎを削った仲。

ライバルとして互いを高め合っていたとき、ある試合で放った鴨川の拳が猫田のなにかを狂わせていたのだ。

 

「そうして臨んだ最後の試合は、言うまでもない。あのとき、リングのうえで積み上げてきたものが崩れていった気すらした。

誇りも、自信も、なにもかもが…」

 

言うまでもない。

猫田がパンチドランカーとなった原因の一端は鴨川にあった。尾を引いたまま″負けられない″試合に臨んだ猫田は、あと一歩届かなかった。

 

鴨川は、話を聞くなかで胸を痛める。猫田のことを、そして幕之内のことを考えると、これ以上の話を聞くのは失礼にあたると思ったからだ。

席を立ち、話を止めようとしたとき。猫田は、鴨川の考えを見透かしていたとばかりに声を張った。

 

「そして、それはすぐに取り戻せたんだ二」

「…な、なんじゃと?」

 

動きが止まる鴨川に、すかさず言葉を続ける。

 

「ワシの届かなかった拳は、やつに…アンダーソンに届いただニ。源ちゃんが、ちゃんと届かせてくれた。あのとき、リングの上だったからこそワシは納得した!

失くした自信は、失くした原因でしか取り戻せんだニ!男さそういう生き物だニ、拳闘に生きるヤツにしか分からない誇りさある!

リングの上で握った拳さ打ち込めんまま降りて、それで悔いが無いと言えるだニか!?」

「わ、ワシにも………」

 

鴨川にも、セコンドという立場がある。

 

それでも、即座に言い返すことはできない。

 

「ワシに、悔いはないだニ。

源ちゃんは、選手に悔いを残させてもいいだニか?」

 

猫田は笑顔で問いかける。

鴨川が思い返したのは、拳闘家としての自分の最後。

 

「いまは気づける者がたくさんいる。幕之内さ、幸せな環境下にいるのがよくわかる。源ちゃんの心配は、きっと伝わっているだニ。

男はこういうとき強くなる。それは、源ちゃんが誰よりも知っているはずだニよ」

 

その言葉に、鴨川は。

 

───

 

──

 

 

そして、幕之内 一歩の再起戦半年前。

鴨川ボクシングジム事務所で、鴨川は椅子に座り外を見つめていた。

 

「もし、小僧が望むならば。老いた誇りよりも優先すべきことがあるなら……」

 

ここまで、少なくない出来事があった。思うこともあり、そのたびに遠くなる自分の過去を振り返る。

 

「…止めじゃ。そのとき、もう結論は決まっとる」

 

拳闘家たる自分に誇れるような最期を。

そのために、不慮による引退などあってはならない。じきに、種は芽となる。幕之内の成長を、誰よりも確信するからこそ。

 

「悔いが残る試合など、させてたまるか」

 

鴨川の頬から小難しい(しわ)は消え、純粋な子供のように空を見つめていた。

 

 

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