鷹の6本のツメ   作:ひとりのリク

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王島総司vs青木勝

 

後楽園ホールに集うボクシングファンは盛況時よりもやや少なめ。今夜開催される五試合に世界戦級に人を呼び寄せる力はないため、普段通りと言えばそれまでの客足だ。

ただ、今夜足を向けるファンらは惰性で通う者にあらず。世界戦で生み出される熱狂と同類に値すると知って、興奮に感化された勇士と勘の良い玄人が大半を占めている。

 

観なければ、後楽園を知る者として。

今日だけは、知る者だけの特等席で。

今宵、瞳の奥に熱狂を宿した観測者たちが集うここに、誰よりも熱い意志を潜める男が足を踏み入れた。

 

「やっぱり此処は変わってるよ」

 

後楽園ホール東通路まで黙々と歩いてきて、会場の雰囲気を確かめたあとの独り言。

侮辱のような独り言に突っかかる者はいない。ここに訪れた者の多くは同志だった。皆、それぞれの思い出を胸にこの場に集い、1つの結果を求めて心が纏まる。青木/木村に勝利を。俺/私たちに次を見せてくれ、と。

この一体感に加わる資格が男にはあった。赤々と刻まれた身体の打撲痕の数々が、2人を応援する同志の集いへの入場許可証となる。この男こそ、青木勝の要望に応え、ふた月の猛特訓で凌ぎを削った陰の立役者…今江克孝(かつたか)、元日本ライト級王者だ。

 

「でも、熱は確かだ。…いつつ」

「む、無理はしないでね」

 

彼の傍らには女性が1人居た。かつての今江なら、女連れでボクシング観戦する姿に怒りを表しただろう。両者の左手薬指には大人しい指輪を光らせているのは、そうではないということ。

王者の頃であれば、そもそも、青木との非公式試合で腫れた顔に湿布を額と顎に貼ってくれる女性…サチ子の心配に甘えることも、青木との防衛戦がなければ今の自分はなかった。

 

「見届ける義務があるんだ。リングを降りる彼の姿を目に焼き付けて、俺の糧にする」

 

小さく頷く彼女を今江は誇らしく思った。

今日、彼女の口からここに来ることを申し出られた。青木への感謝を、そして勝利を願う気持ちが重なっている。必ずこの恩を返すことを改めて誓った。

 

「なんだか異様な雰囲気を感じるね…」

「今日チャンピオンに挑戦する2人は、負けたら引退だ。公言こそしちゃいないが、復帰後の試合と練習中の気迫がそう物語っていた。

ファンはそのことを分かってるから緊張してるんだ。勝って、ベルトを巻いてほしいんだ。

……それなのに、相手はよりにもよって」

 

今江は口を閉じる。

研鑽を積み上げた国内最強のなかでも、王島は自分よりも強く、柳洞に至っては国内王者だった頃の間柴を優に越えている。

よりにもよって、などと言って相手の強さを評するのは、僻みでなくてなんと言う。リングを降りた者がして良い発言ではない。王者たちに無礼だ。

今江は口を慎んだが、事実、タイミングが悪いと殆どの観客は思っている。前代王者なら勝ち目は余るほどあったのに、そう考えている。

 

それは、当事者も同じ気持ちだろう。

故に、肩には人生大一番のプレッシャー。

2人には不利すぎる舞台だ。

 

「青木さんに厳しい条件なのは確かだよ…」

「そ、そんな」

 

だが、と。今江は続ける。

 

「あの人は必ず、何があろうと勝機を掴む。断言する、ボクシングで俺が絶対と言うのは今日だけだ。

青木勝は絶対に、王島チャンプを自分の壇上に引き摺り下ろす。勝利目前にまでは手が届く」

 

何が起きるか分からない試合のことを、最も強い言葉を使って宣言した。幻覚や夢、懇願に思われかねない発言を、かつての今江なら毛嫌いして発言者を猛批判しただろう。トレーナーとして、青木のパートナーとして、そして引退試合で拳を合わせた間柄が今江に確信を持たせた。

 

「タイトルに手が届く直前。実力が拮抗しているほど、挑戦者には逆風が吹きつけるんだ。

その重圧を押し退けられないなら、負けた試合はなんの意味もなくなる。

…俺と戦ったドローの結果さえも」

 

両手を膝の間で抱き合わせる今江は、好敵手(とも)に心からの祈りを捧げる。どうか前に進めますように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『二大メインイベント。

こう銘打たれたのは10年の無冠に花を咲かせてほしいと願ってのことか。宣伝のためだけに用意された、お涙頂戴の舞台でしかないのか』

 

会場の空気が引き締まる。10年、無冠の2つに観客たちが息を呑んだせいだ。前回の試合内容は青木節の輝くものであり、王座奪取に期待を寄せるほどに強くなっていた。

彼の成長は順調といえよう。それこそ10年のプロ現役を通じて、モチベーションは過去最高だと取材記事には書き連ねてあった。

だから観客たちは怖がる、入場する彼の姿を見ることが。調子を整えることに不安の残る選手で、最も安定感がない選手だ。

 

「き、きたぞ」

「おれ見るのが怖ぇよ」

「たのむ…バカなことしないでくれ」

 

後楽園ホールに通い詰めて、古株と呼ばれるほど年季の入った観客たちが固唾を飲んで見守るなか。

青木勝は右腕を突き上げて観客に感謝を伝え、視線はリングだけを捉えていた。

 

『ご覧ください、リングに向かうあの背中、見慣れたガウンを着こなす顔つきを。

後楽園ホールの中心に立ち続け、古株となったボクサーに衰えが見当たらない!』

 

立ち居振る舞い、加えて心構え。

リングに上がりきり、ガウンを脱ぐ所作に至るまでが気負い無し。緊張を背負った果ての開き直りでは得られない、勝利に邁進する歴戦の背中がそこにはある。

 

「き、きた…」

「あぁ! これなら!」

「過去一に雰囲気あるじゃねえか!?」

 

『観客があの背中を見送る雰囲気から、次こそはという想いが聞こえてきます。

叶えられるのか、10年追い続けた夢を。

果たして手が届くのか、ライト級の頂点に。

青コーナー、青木勝。観客を唸らせてリングイン‼︎』

 

友に押された背中から熱を感じ、リングに立つことを恐れるものは呼吸とともに排出された。

同じ日に試合をすることは何度もあった。幾分か心細さはマシになっていたことを思い出しつつ、今日との違いを考える。答えは簡単なことだった。

 

(長く待たせちゃ調子崩しちまいそうだからさ。勝って勢いよくアイツに繋げたい。

もう俺たちは負けられないんだ。今江に手を借りて、篠田さんのミット打ち続けて、そうまでした練習を裏切るようなボクシング、漢として見せるもんかよ)

 

積み上げた想いを拳に宿し、心には戴冠の誓いを刻み込んだ。足りないものは今日の勝利だけとなった。

 

『二大メインイベントを飾る王者は2人。

謳い文句に嘘は有らず。10年間の宿願に立ちはだかるのは、2度もライト級のベルトを手にした男だ』

 

10年間のボクサー人生において、タイトルマッチと銘打たれた試合。考えるまでもなく当然の帰結として、その王者は青木勝の対戦相手としては過去最強に位置するボクサーだ。

黄色い声援が四方から飛び交う。王島の甘い笑顔、短時間で相手をリングに沈める華麗なる姿から名付けられた『王子』に相応しい声援の数々に、青木を応援する観客たちは一斉にたじろいだ。後楽園ホールでは聞く機会の少ない、女性がボリュームを最大限に振り切っても足りない想いを全身で表現する、鳥類の求愛行動に見受けられても違和感のない熱狂に反発する猛者がいた。

そう、彼ら鴨川軍団である。

 

「いやはや、ここまで五月蝿いと退場してってほしいですね」

「板垣くん、声おおきいって…」

「俺ぁ屁で黙らせる。オレ様の周りで騒いだら覚悟しとけよマナー知らずども!!」

「人のこと言えないと思うんですけど…」

 

ただ1人、肩身の狭い幕之内は耳を塞いでリングに意識を集中させる。

先輩の勝利に貢献するため、度の過ぎた声援にはプロボクサーの熱気で対抗する所存である。

 

『全試合5ラウンド以内のK.O勝利を納め、情緒的な視線に反したファイトスタイルに性別年齢問わず目を奪われた人が後を絶たない。

日本で最も魔境のライト級の頂点、王島総司。

いま挑戦者の前に立ち、堂々の睨み合いに応じた!』

 

両者、レフェリーを間に入れて眼差しを交わす。最初の一手はここで使っていく気概だ。

 

(贈呈を断ってよかった。気持ちが途切れないでいられる。オレが勝つことを、自分がこんなに望む日がくるとは思わなかった。…感謝を伝えるよ)

 

拳を合わせて、もう会わないことを確信する。

目先のラウンドだけに拘る。そうしなければ足元を掬われて、一瞬の出来事に目を回すから。

全力を1ラウンド目に振り絞ることに目標を定め、対角線上の対戦相手に注視した。

 

『さあ!! いま第1ラウンドが開幕だ!!』

 

天幕に吊るされた決戦の火蓋が切られると、1人のボクサーがソレと同時に舞台へと落ちていった。

 

(君に心血を注ぐ半年間だった)

(はやっ───)

 

着地音けたたましく、先に脚を地に着けたボクサー…王島は続けざま風を切り、挑戦者の選択肢をコーナーに押し潰す。緊迫した距離感を押しつけられた挑戦者…青木は、王島が開幕狙いに来ることを意識していていたにも関わらず出遅れたことを理解する。

 

(挨拶ついでに確かめたいことがある)

 

視線を合わせるだけで精一杯の男に、瞬きを1秒禁じて酸素を出し切った。

誰かが呼吸を吸い込むまでに、誰もが呼吸を忘れてリング上の王者に言葉にならない賞賛を送っていた。

 

(5……! けど、見えなかった………)

 

両腕に熱い摩擦を感じつつ、青木は顔をしかめて数字を叩き出す。いま、リング中央に下がって様子見している王島が、ガードの上から打ち込んだ数だ。

次に思ったことは、目を閉じていなくとも見えなかったと慄いた感想で。最後に至ってはガード越しの威力に押されて思わず目を閉じたことへの悔いだ。

 

(その目、閉じるクセは治っていないね)

(バカ正直に俺の目を見にきやがったな)

 

先制、王島の解き放った最高速度と最速のコンビネーションは、篠田や八木にさえ答えを出させるほど単純な確認作業だった。瞬く間の五連撃、かつて見たことのない超攻撃的な王者の幕開けは、相手の弱点が健在かを問う拳の調べだ。

あっという間の目視確認は終了した。答えを得た王島がリング中央で待ち構えるのを見ている幕之内は、自身が千堂戦の開幕に速攻を仕掛けたことを思い出していた。

 

(2度目だった千堂さんは気負ってたから、僕の先制デンプシーは綺麗に決まった。だけど青木さんに油断は見えなかったし、“そのつもり”で待ち構えていた!)

 

ゴングが鳴るまで背中を見せていた千堂に、デンプシー・ロールを繰り出してダウンを奪い取ったこと。試合の流れを引き寄せる奇襲だった。あれなくして勝利はあり得なかったからこそ、王島が仕掛けた速攻の重要性を幕之内は知っている。

そして、青木は尚のことだ。王島は開幕から仕掛けるボクサーで、あの手の攻撃を仕掛けるのは何度目のことだろう。幾度と同じ手を使い、先制を掻っ払った実績がある相手に、青木は特訓で完成させた技術をぶつける気満々でいた。

そこで試合を終わらせる気でいたのだ。

 

「見てたのに反応できてない!?」

「走ってる途中でギアを2回入れ替えましたね」

 

隣で前のめりに板垣が言う。

王島のステップには違和感を感じていた。やけに大きな音を鳴らして踏み込むと思っていた疑問は、板垣の言葉で解き明かされた。

鷹村も頷きつつ目を細めた。

 

「速攻狙いはそのままに、速さに緩急をつけてカウンター対策をしてやがる。……伊賀対策なんだろうが、こりゃ最悪だぞ」

「えぇ。青木さんはカウンターを主軸にした戦法を練ってきましたからね。焦って調子崩さないかな」

「思い通りにいかないのが試合だ。タイトルマッチともなりゃ尚のこと。

ま、俺はミスマッチとは思ってないけどよ」

 

鷹村の視線の先で、王島が2度目の接近を仕掛けていた。決して踏み込みすぎることは……。

 

「フッッ!!!」

 

ないと思った直後、大胆なワンツーが青木のガードを押し込んでいく。秒単位で近づいてくる不愉快な外野を見ないように、秒単位で戦力を拳にのせて。

奥行きを作りながら拳の軌道を一方通行する相手に黙っているほど、青木は無意味な1ラウンドにするつもりなかった。相打ち上等で左ジャブを合わせにいき、速度の差を思い知る。

 

(板垣並みの速さじゃねえか?)

 

殺気と見紛う気勢に相乗して、外から無数の拳が鋭く相手を攻め立てる。拳を返そうと青木がガードを解く瞬間、予備動作に2、3発と拳を打ち込まれていた。そして鮮やかな退避、返す拳は空振り、すかさず王島が踏み込んでいく。

 

(カウンター遅いけど、陰るほどじゃないのか。板垣を仮想オレにしてスパーを詰んだかな)

 

想定内の練習だ、王島にとっての問題はソレが玉座にどこまで通じるのか。最初の1分間は確認作業に費やすことにしていた。

その初歩、眼前に赤い影が飛び込んでいるのを視認し、真横に身体を潜らせる。猛勇と前に出た青木が、開幕の流れを取り戻さんと拳を突き出していく。

コンビネーション、ダブルパンチ、オーバーハンド、ロングパンチ。鞭を握る芸者の如く王島を狙い、不意の一撃を見舞おうと奮闘する。だが青木を研究してフットワークのキレに磨きをかけてきた王島にその攻撃は、カウンターを乗せるための奢りでしかない。

 

(踏み込み……ズラしてる。出る時は一気に)

 

身を打たれながら、目蓋が落ちながらも、青木は辛うじて相手の足元を見るだけの視界は確保していた。ダウンを拒絶するときの踏ん張りに匹敵するど根性だ。

王島が確認作業に費やしている最中、青木もまた以前の王島との相違の確認に注力していた。

 

攻撃の九割を王島が締めている。

既に勝敗の行方が素人目に見えてきた頃だ。

声援を飛ばす観客にも、王島には期待の黄色いものが、青木には懇願する古株たちの震え声と、特色が浮かび上がっている。様子見の1分間ならこうも悲惨な雰囲気は表れない。決着を急く試合となったせいで実力は明確だ。表面化したソレを読み取るセンスも時に必要とし、王島は深いダメージを与えるために更なる踏み込みを決断した。

リングを踏み締める反響音にあてられて、青木も光明を探して前に出る。

そうして前に進みながら被弾を重ねていき、昂りを抑えるために引き絞ったその眼差しを、強かな王島は見逃さない。

 

(────! 丸まってるように見えるけど、彼の資料を見尽くした知識が警報を鳴らしてる。

絶対に彼の射程距離で止まるな、と)

 

繰り出したパンチが悉く外れて1分間、ボクサーとしては絶望的な差を体験した筈だ。相性の差、不利だと分からない年季じゃない。無闇に突っ込まず、何かを探っている気配のする青木を挑発するために堂々たる接近を仕掛けた。

騒々しく拳を散らしてリズムを変える。青木の弱点を刺激し続けながら、距離は中長距離、いきなり近距離を織り交ぜて。常に青木のカウンターが届かないように位置調整を重心で行う。

王島の研究は身を結んでいる。視界を遮り、ガードを常にまぶたに付けるように意識させて、策士青木の得意な距離で全てを上回っていく。

その最中、王島の踏み込みと全く同時に青木がガードしていた腕が発射された。

 

『ああっ! 挑戦者の拳が二歩足りない! 王者のステップワークに追いつける気配が薄い!!』

 

不意を突け、と動かした一手は空振りを生む。

フェイントだ、王島はステップインをフリで済まして旋回、ジャブアッパーと左拳を回して優位性を主張していた。

 

(っ……分かっちゃいるが、試合でやられると歯ぎしり漏れそうになるぜ)

 

絶好調の対戦相手を睨むのは悪いことじゃない。青木の拳はまるで届いていないが、姿を見失うほどの速さではない状況だと教えてくれるからだ。

ここは無限に広がる荒野ではない。6メートル四方のロープに囲まれた戦いの孤島だ。勝者が決まるまで、逃げることは許されていない。

 

青木はガードを固めながら状況を整理する。

目蓋を刺激するパンチの数々を囮に、ボディに超速のストレートを打ち込んでいる。これは大した威力じゃない、少し肘を落とせば気にならない程度のもの。ガードを落とさせて顔面にストレートを叩き込むのが最終目標とみていた。

当初の予想通りの戦術だ。過去のデータとの食い違いもない。となれば、問題はただ1つ。

 

(ありゃ板垣のフットワークとはベツモンだな。

開幕ダッシュは板垣級だが、あれ以降は一段下の速さしか使ってない。使い所が限定的な切り札だ)

 

そう断じたもの。総じて切り札と呼ぼう。今日のために拵えてきたものだろう、あれのせいで“捕食”の使い所が難しくなってしまった。なぜなら、王島は切り札を有効活用するために、新しく緩急をつけたフットワークをも修得してきているのだ。

以前までは、相手の距離に入るとき、打ったあとの退避は単調な動きだが、ガードセンスでカウンターを避けつつコンビネーションを当て続けて殴り倒す、見た目には似つかわしくないほど荒々しく、ボクサーとしては満点の試合で観客を魅せていた。

はたから見れば圧勝かに見える展開だが、その問題では覆い隠せない事実もある。接近後退を繰り返すたび、打ち合いを避けたい意思が見えている。一発、狙い澄ましたものを見せれば流れを一気に引き寄せられそうだ。

 

目を狙ったパンチ、踏み込みのリズム、即興でタイミングを相手に寄せてしまえばいい。

物事を単調に書き換えて、合図は目蓋が落ちかけた直後。拳を落とすことを躊躇わない。

 

(ここなんて、どうだ?)

 

まともに相手が見えないまま放った拳は、無闇に呑み込まれるのが定めだ。だが、青木の攻撃は無闇に放ったわけでも、無意味に反撃したものでもない。

確信をもった一撃が、接近した王島の身体が止まる位置に先回りした。腹に拳が届く────

 

(………かすった、だけ)

 

チッと鳴った音は王島ファンの歓声で掻き消された。鷹村たちにも判断のつかない拳は、王島の表情を見ることで手応えを知れる。

 

「いま、当たりましたね」

「ダメージはないがな。

あれを避けるのは……二流なだけある」

「チャンプの目つきが警戒強めになりましたよ。いまのパンチ外されたのはまずかったです」

 

幕之内、鷹村が頬を上げた。板垣は他の観客のように厳しい意見を放つが、「でも」と続けて「流れが変わりました」と喜びに拳を握りしめる。王島の心境を察してのことだ。ハンマーナオにしてやられたからこそ、1分足らずで掠った拳との距離に身震いすることが手に取るように分かる。

 

(……確信した。特別な何かを拵えてきている)

 

なぜ当たったのか。

不可解な接近に王島は敏感に反応を示す。試合の流れが変わったことを察知し、大きく距離を置いて逡巡する。何をしたのか、それはどこで習得し、どんな技を使ったか。

 

(今江戦のよそ見、あれがヒントだ。この2ヶ月間、彼のところで特訓していたと記事に書いてあった)

 

青木には徹頭徹尾、隙がないと感じていた。

よそ見など、試合中にするものではない行為を試合で成立させ、堅実な王者今江をハメた男だ。被弾しているうちも計算尽くしたもので、自分はなにかを見落としているんだ。

だが、と。

 

(隠し球に臆しても倒せないからね)

 

立場を忘れてはならない。自分は王者、受け入れる者であり、撥ね返す強者。見えざる技を捩じ伏せてこそ、ここに立つ意味がある。そう心の中で総評を終え、恐れずに進めと足を上げた。

工夫を凝らして中間距離へ入る。ひと息で目前に現れた王者は、ガード越しに視認した相手に拳を浴びせる。有効打は1つ、相変わらず弱点は生理現象の如く起きている。

視認が封じられたボクサーが恐ろしいわけがない。自然界ならば跳躍力を奪われたカエルに等しい欠点といえる。

それでも旋回し、相手が攻めに転じようと動くまでに去り際の一発を浴びせて射程圏内から離脱した。

 

と、見せかけて。

近寄ろうと前進し始めたところを、すかさずステップインから縦に拳を打ち上げる。三歩分の距離が空いていて、ガードの隙間を開けた瞬間、顎を狙い拳を捩じ込ませる。

 

『強引っ! これが中々に痛烈! 鈍い音が会場に響き渡る、王者の不意打ちに堪らず後退した挑戦者!!』

 

ほぼ直立で顔を戻した青木の前に、危険域上等の王島が本格的な進攻を開始する。

王島が距離を置くことをやめた。『絶対に彼の射程距離で止まるな』と自分に言い聞かせたことを忘れたのか。警報音はそう訴えるが、王島は「いいや」と反論する。王島総司の誇りに懸けて、訴えを無碍にすることはない。

それは果敢さを忘れさせる呪いに落とさせるために聞くのではなく、相手を上回るための激励であってほしいから。王島は最初の好機を最後にするために、両拳を奮う乱打戦を仕掛けにいった。

 

(ダウンなんてさせないよ。

急所を滅多打ちして意識を捏ね回す)

 

体勢を立て直す直前に更に踏み込み、吐息の音が聞こえる距離から試合は赤い弾幕飛び交う戦いへと変貌を遂げる。

 

「ヅ…!? ────っ!!」

 

邂逅一番、左右から鼓膜を削るが如き弾丸を浴びて、青木の意識は一瞬だけ足場を失った。回避もガードも許さない超速の一撃は、浴びた方よりも浴びせた方が体力を削るほどの運動量を必要とする。それに見合うだけの成果を得たかは、王島の目にハッキリと表れていた。

堪らずにフックを繰り出したソレは、パニック気味の意識から打った大袈裟なもの。ウィービングで躱すのは訳ないものだ。瞬時に側面を取ったら即座に打ち返す。常に青木の弱点を意識して、腕一本分の安全圏…身体の構造的に反撃不可能な位置から滅多打ちにしていく。

 

「こっ……の────! ガッ!?」

 

がしゃん、青木の脳の中から頭蓋に反射して鼓膜に届く音は、信じられないほど痛い。

外から殴られて、内側から発生する異常事態。幻聴でしかないものの、僅か5秒で幻聴が響くようなダメージが身体に溜まったことの証拠だ。

 

「あ、あれって…」

「まるで、僕の…」

 

曲者を倒すため、王島が考えついた戦法。それは奇しくも、青木がハンマーナオと板垣の試合を参考に王島対策を練ったものと同じ発想からきており、乱打戦が得意な相手を完封するためにその試合を参考にしていた。

ただし、今江と青木はハンマーナオに着目したが、王島は板垣のボクシングに辿り着いた。

板垣が魅せたインファイター封じ。圧倒的運動量で超接近戦を制するインファイトだ。

 

「………………青木」

 

さしもの鷹村も生唾を飲む。

まだ1ラウンド、これまでも被弾は少なかった。ダメージが最も少ないラウンドだが、10ラウンド分のダメージが1ラウンド目に集中してしまえば何人であろうとも耐えられはしない。

王島がやろうとしていることはソレだ。

あと先のことを考えず、1ラウンド目にしてラストスパートを掛ける。ここを凌がれればどうなるのかを知っているからこそ、鬼気迫るインファイトは10秒切れ間なく攻め立てている。

鷹村の見立てでは、既に3ラウンド分のダメージが青木の身体に打ち込まれた。あと20秒、青木の根性を含めても20秒が限界だ。それまでに打開しなければ────。

 

恐ろしい戦法、速攻にも限度を越した愚行をしてしまえる度胸に、当の本人は己の拳が熱くなるのを感じていた。

 

(地響きが心地良い)

 

全開全速で肉体を稼働させ、骨から痒みが生まれる程度の熱量を生み出しながら、王島は自分の足音をそう評した。不意に突き出される拳を置き去りにして、自分だけが1つ上の次元から殴りつける。錯覚も程々にしろと自責しつつ、昂る興奮で蹂躙を続行する。

青木にとっては不運なことに、王島の読み、動きのキレは過去類を見ないほどに冴えていた。

今なら、防衛戦時の伊賀を倒せる自負すら抱くほどに。

 

(なのに…。緊張感は高まるばかり)

 

頬が痙攣する。

両者の頬は、30分間も待ち受ける長い戦いに臨みながらも、既にラストスパートもかくやの緊張ぶりだ。

カウンター系の技を拵えてきた青木と、カウンター対策に心血を注いだ王島。ほんの一瞬の交差で、その全てに否を突きつける試合なのだ。

 

(────────)

「───────」

 

早々に戦いの転換点を見抜いた両者と、観戦する何人かの関係者を除いて、血走るリング上の生き様を理解する者はいない。

30分間の戦い、されど次の舞台には3ラウンドの猶予しか与えられなかった両者は、三流の教育者に対して3分間で答えを示そうと意気込んでいるのだ。

 

(視界が閉じる…。更にたじろいだ…!

ガードを避けてリングに叩きつけろ!!)

 

慣れないスピードにガードで延命措置を取りながら、左右にバラけそうな視線を集約したとき。

王島が目指す、全ての勝利条件が整った。

 

相手を圧倒────今、まさに。

弱点で前後不覚────視線が彼方へ。

急所に渾身の一撃を────ガードが落ちた。

 

肌を撫でる弱風を、向かい風だと思うことはない。

これは、そう、灯火に吹く冷徹な西風なのだ。

故に、渾身の右拳を握りしめた。

狙いは側頭部、急所を打ち抜く。

 

(俺のことを研究し尽くしたことが拳から否応に伝わってきやがる。すげぇよ、アンタは)

 

心からの尊敬を。

明滅する視界を手放しながら、勝負の瀬戸際に侵入されたことを察して、暗闇の向こうに目を凝らす。

青木が見るものは姿形に在らず。自分を倒さんと奮闘する相手の眼差し、狙い澄ます勝利の着弾点だ。

王者の目を離さない決意を辿って、右拳を繰り出した。

 

(な────)

 

王島に思考の挟まる余地はなかった。

青木が放つ右拳の向こうを過ぎる両の目が、獲物を捉えていないことを視認して、なぜ見えている方の拳が空振るのか、という嫉妬にも似た疑問を反射的に脳へと届けたばかりで。

赤く塗りつぶされた左目と、リングと並行に映る自身の左腕を脳みそが一連の事態を処理するまで、一切の感情に蓋をする。

 

(だから、俺たちの特訓にハマっちまった)

 

青木の勝機はリングの外から生み出された。

汗水の染みた河川敷が連綿と続き、拳の皮をすり減らしたミットがコーナーで見守る。

 

『…だうん、、、ダウン!! 僅か2分に怒涛の攻防を繰り出して、挑戦者が完全に優位に立った!!

誰も予想しなかった第一ラウンドいきなり王者のダウンで場内騒然だーーーー!!!』

 

様々な努力を背負い進んだ道が、このタイトルマッチを一足飛びで駆け抜けた。

 

 

 

 

 

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