鷹の6本のツメ   作:ひとりのリク

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左ジャブ×左ジャブ

 

かあん。

ボクサー人生を賭した合図が鳴り響いて、ゴングに呼応した木村の心臓がここにきて緊張し始めた。

気持ちが竦んだわけではない。青木の王座戴冠を目撃して、より負けん気が心地良く木村の集中力を高めている。本人はこの現象をすぐに理解した。この試合で最も長い間がいま訪れているのだ、と。

 

(この時間は慣れなかった。先手取られたらどうするとか、出だし気にして。練習しただけ先制に拘っちまうんだ。その先だけは準備万端なのに、最初だけは情け無い自分見ちまって)

 

デビュー戦から今日(こんにち)まで、迷わなかった試合は数えるほどしかないだろう。それすらも覚えていないから、碌な出だしを切れた思い出がないのは確かだ。

だが。そんな迷いも1秒で消し去ってしまうボクサーがいる。いじめられっ子出身、鴨川ジム所属にして木村達也の後輩、そして今や世界を舞台に戦う、情け無い誰かが俯くときに映る男が。

 

(ゴング直後に飛び出せないのが俺らしいっ)

 

試合前に掻き出せなかった弱音をコーナーに置いて、たっぷりと緊張感を吸い込んだ足を上げてリング中央へと走り出す。

 

『ど、同時だ!! 両者同時に飛び出して──』

 

決して見逃していたわけじゃない。

王者の動向は一挙手一投足に気を張って観察していた。結論、やつは俺の出だしを待ち伏せていた。薄らと目蓋を開き、相手のつま先を見ながら、最後の1ラウンド目に踏み出す覚悟を決めるまで。欠伸を抑えるために足踏みを鳴らし、目覚めさせてみろと挑発していやがった。

 

(上等だよ覚悟しやがれ…!)

 

動じてなるものか。

これは最初にして最後の、木村タツヤが絶対に外さないパンチを当てられる機会。肝心の開幕を制するため、磨き抜いた左拳が王者の顔を捉えて。一方的に勝利へと進めるのは、疾景の左ジャブ1発であった。

 

「木村っ…!」

 

一瞬の差し合いで一段の実力差が露わになる。

同じリーチから同じ左拳を繰り出して、挑戦者は顔面ど真ん中に被弾、王者は頬を掠めただけ。

これまでの練習の成果を総崩れにして、挑戦者は絶望の淵で空を見上げ続けるしかない。ひたすらに己の無力さを突きつけるぞ、と教え込むためのきっかけを。

 

(痛!?────っ!!!)

 

即座に振り払い、玉座から見下ろす者に赤い線が走る。視線がそっぽを向かされた間に王者が気づいたことは、挑戦者が今日ここに立つ覚悟の度合いだ。

 

『王者先制のジャブを貰いながらのカウンターフック炸裂‼︎ この試合の波乱を孕んだ幕開けだーー‼︎』

 

(調子ノせねーーーー1発当ててやったぜ!!)

 

飛燕、炸裂。

引きの左拳に合わせて、グローブで隠すように燕を飛翔させた。疾景相手には何度も通じるパンチではない。タイミングを掴まれていない最初の羽ばたきこそ、飛燕が最も自由に空を翔けられる。ここで決めなければならなかった。

でなければ試合中、ずっと先手を取られたことを引き摺って具合が悪くなりそうだ。先手は取られてもいいが、タダで譲るつもりは微塵もない。この試合、そっちのパンチにしつこく付き纏ってやるぞってメッセージ付きだ。

どよめく観客を他所にガッツポーズをするのは幕之内と青木、板垣。木村の意図を汲み取って頬を上げる鷹村が、第1ラウンドの立ち上がりを最高点で評価した。

 

「開幕は先手を譲るのが柳洞のボクシングの流儀だ。これまでの挑戦者はその先手に手痛いカウンターを被せられて、尾を引くのがパターン化してたが」

「ざまーみろってんだ! スカしたもんが木村に通じると思ったら大間違いだぜ!!」

「カウンター貰うの覚悟してましたね。木村さん恐ろしい賭けに出たもんです」

「分かってたのさ。外せば一気にタイトルマッチに呑まれるってな。最高のスタートを切ったぜ。今のカウンターは景気付けだ、当てたパンチだけじゃねえ、受けたダメージも木村のボルテージを上げた」

 

先手を取った王者、初めから手筈通りの挑戦者、珍しくよろめいた王者ときたら、試合の流れは挑戦者へ。

カウンターを恐れずに中間距離へ飛び込み、左拳を解き放つ。たちまち現れる燕は王座の真上を飛び回り、玉座で輝く王冠目掛けて旋回を開始した。

燕の羽ばたきは縦横を切り裂くが如く、王者の眼差しを受けて直前に軌道を変えていく。

 

(最初っから狙われてんのは分かるんだよ)

 

玉座を突き抜ける直前、王者の瞳が燕の姿を捉えた。同時に右拳が動く。自分の頭を軌道から外し、燕の両翼を捥ぐ竜の顎の如き一撃だ。擦るだけで地に落ちる小さな拳はくるりと翻る。

 

(タイミング合わない……)

 

右拳の外側を滑空し、寸でのところで切り替えた軌道から敵を打つ。

宮田一郎のカウンターに沈み続け、やがて掻い潜るまでに至った飛燕だ。中心を捉えた程度で落ちる翼はエレキ戦までで別れを告げた。

 

(厄介な練習相手を見つけてきたね?)

(ちょいとカウンターには肥えてるぜ)

 

左腕一本、一辺倒で王者疾景を退(しりぞ)ける。

その困難な業を披露した開幕の難易度を最も理解しているのは、他ならぬ当人である。真っ当な技の至極純粋な増強。カウンター対策となり得る最高にして厄介な左拳、ここにお披露目だ。

 

『これまでと真逆の立ち上がりに王者リズムが狂わされたか!? カウンターを狙う余裕が見当たらない!』

 

3度、疾景の頬が打ち払われる。右腕をガードに集中させているが、木村の飛燕がフェイント混じりに放たれれば滑空するソレを防ぎきることは困難だ。堪らずといった様子で2歩退がった疾景に対して、コーナーでその背中を見る沢村はひと言だけ吐き捨てた。

 

「ざまあねえな」

「なっ」

 

驚愕の声は鬼槍留(きゃりる)ボクシングジム会長だ。

疾景のチーフセコンドは沢村に託してあるが、よもや開幕劣勢となった自身のボクサーを罵倒するとは思うまい。ボクサーとしての才は確かに認めてはいたが、人間性は会長でも擁護しようがないクズっぷりをここで発揮するとは。

 

「テメッ疾景が初めてやられてんだ! 見てないで激励の1つでも飛ばすのがお前の仕事だろうが!」

「試合じゃあ確かにな。だがよ、会長さん」

 

怒りに声量大きく叱責したが、沢村は微動だにせず。リングから目を離すことなく言葉を返す。

 

「あんなカスのパンチに流れ持ってかれただ? 俺に這いつくばるまで殴られるよりマシだろうに」

「練習と本番じゃ訳が違えって‼︎ 緊張感と無縁のお前じゃないんだよアイツは‼︎」

 

劣勢の疾景を想う会長の言葉をため息で一蹴した。

 

「天才だ最強だと持て囃されようと、打てなきゃ意味ないんだよ。丸まったカウンターパンチャーはカスだ、怖くねえ。木村ってのはソレをやってるだけだ、狙われた疾景が悪い」

 

だからって傍観するな、と捲し立てる会長の声を聞き流しながら、沢村の観察は依然と木村に注がれる。

最初の狙いはこれ以上ないタイミングだった。アレをすかさず返すパンチを繰り出せるとなれば、自分(沢村)に匹敵するカウンター使いに身体を磨かれたと考えるのが妥当だ。

 

(けどなあ、所詮はロートルだよ。腐りかけの肉だ、臭いに躊躇うのはそろそろ終わりにしろ)

 

リングの上の真実はなにも変わらない。

木村が大きく成長を遂げようとも、疾景は王者であり続けるし、木村の弱点が消えたわけではない。この試合で最も重要なことは変わりなく、自分の目的にズレはないことを確信した。

 

(初めてだ、試合中に調子狂うの。ここまで合わないってある? それに向こうは絶好調。

いまはカウンターのリスクが高すぎる)

 

会長の小言に釣られて沢村の眼力を盗み見た疾景は、木村の成長度合いが自分の予想と大差ないことを察する。会長の小言がここまで聞こえてくるのは、沢村の戦略の1つだ。対戦相手よりもこっちを見ろ、という沢村なりの指示で、声を出すのが面倒だから適当なことを言って会長を怒らせたのだ。

疾景には迷いが生まれていた。強引に流れを取り戻そうとして出した拳に、またカウンターを重ねてきたら。次のラウンドで多少なりと躊躇いが生まれてしまう。ならばいっそ1ラウンド目を捨ててしまおうか。

攻め方を改めるのは2ラウンド目でいい、と。

 

(あ〜。ザコはザコのまんま、って感じ?

お前は独りで試合してんだ、とかなんとか練習中に言ってたのに、まあ易々とひっくり返すね。

インターバル、リングに上がりもしないのに!)

 

沢村のメッセージを受け取ると、本番で初めての劣勢で狭まっていた視野がリングの外まで拓けていく。疾景はガードを緩めて、広がった視界に追いつくための深呼吸を1つ。肺に溜まったものを吐き出して、打開策を立案、次へと繋ぐ一手を見定めた。

 

(ならさ、俺も。やり易いように(なら)すだけ)

 

交差した左拳と左拳。

これまでとの違いは1つ。

お互いの頬に減り込み、捻る。

間断なき正真正銘の相打ち、1発。

 

(こっ、こいつ────)

 

大したダメージは生じない。

本腰を入れないまま打ち込んだパンチ同士が行き交い、1つ、1つと左拳の差し合いで同時に着弾する。

2、3発と続いた相打ちを断つため、旋回する燕が急降下し、1つテンポを変えて襲いかかる。力任せの速度違反ギリギリの飛翔は、再三の相打ちと変わらずに五分五分の結果に留まった。

一見すれば互角、まだ木村が優位。そう思われる状況で木村は、相打つ向こうで王者が何かを狙い澄ます気配を感じていた。自身が疾景のカウンターを封じ込めている状況は、間もなく崩れていくことを知る。

 

『ああっと相打ちィ‼︎ やっと王者のパンチが当たり始めたがいつもの無情なカウンターには程遠い‼︎』

 

相打ちだけが繰り返される様子を見て、鷹村は。

 

「………わざとだ」

「えっ、どれがスか」

「カウンター狙うタイミングでワンテンポ遅らせてんだ。避けられるパンチをもらう理由は、さて」

 

繰り返される気味の悪さの真意を奥深くまで読むことは鷹村でも叶わない。なにせ沢村に師事を志望したという男だ。品行方正、正々堂々な当たり前の試合を続けている事実を前提にイメトレ出来るとでも?

 

「木村のリズムを覚えるためか、はたまた開幕やられた分の八つ当たりか。或いは」

 

疾景の狙いを探るが、このスタイルは今まで見たことがない。当然だ、疾景相手に優位に立てるボクサーがいなかった。だが、疾景でなくとも相打ち連打は異常すぎる。次の狙いを予想するのが無理な話だ。

 

(またかよっどうする絶対まずいぞ!?)

(あぁ、思い出してきた。コーチのジャブは…)

 

幾つかの変調も効果はなし。されど様子を見るには相手の様子が可笑しくて踏み切れない。相打ちを強いられていることに気づいた時には流れが傾いていた。

 

「あっ!?」

 

誰かの驚愕は、リングに到達すると中心部からの恐ろしい気配によって相殺、2人のボクサーの集中力に触れることはない。

いつまで経っても静かなままの足元。ボクシングシューズの鳴き声が1つリングに溶けていき、目の前で対峙する者に陰さえ見失わせた。

雨粒のなかを移動するように進み、音のない雨に紛れて挑戦者の連打が通り過ぎていく。

 

(か、躱されたっ)

(見ても意味(モーション)ないからリングを俯瞰した気になって躱すんだ。アンタは肩動いてて余裕……そうに見えて死角からくるから、死角を俯瞰するイメージでいく)

 

両国国技館の館内に雨が降るなどあり得ない。

疾景がリングを俯瞰する視線が雨粒のように木村の肌を叩き、木村の脳がソレを処理するために雰囲気を雨天に変換しただけのこと。疾景への警戒心と畏怖が巻き起こす危険信号だ。

鷹村の最後のセリフが的中した。「或いは、練習(スパー)を思い出すために」と。スパーの相手は言うまでもなく。その思い出し方の異常性を除けば、師弟として積み上げた時間が並ならぬほどあることが伺える話になったというのに。

 

(落ち着け! 流れを変えるために相打ちしたに過ぎねぇ。目的達成して切り替えてきた。

ヤツの本領は巧妙な足捌き。そして)

 

本能が逃走を喚起する。

逃げ場のないリングで、全く無意味の警報だが、絶対にそうするべきだと分かっていた。

 

(そっから繰り出される、ただのジャブ…)

 

相打ちが出来ないことを悟る。一瞬で調子を整えたいまの疾景に攻め入るのは逆効果だ。

恥も外聞も捨てて大袈裟にスリップした瞬間に1ラウンド2分を過ぎて、真横を疾るのは疾景本領の左拳。

柳洞疾景を王者たらんとさせる、宮田一郎に助力を求めなければならない理由が、これだ。

 

(────────なんて綺麗なんだよ)

 

ありったけの賞賛を吐く。

日本にて灰にできぬ者なき、神の御業。

見る者の心を揺さぶる、神界の残響。

曰く、神話の左。

即ち、リカルドに倣った左ジャブ。

 

『つッ! ついに出たァーーーー!!

無敗神話に倣った天上の左ジャブ!!!』

 

燕の軌道を切り裂いて、これから飛翔する進路を一掃するようにして、神話の宝箱が開け放たれた。

 

(躱せたのはマグレだバカっあれは…!!)

 

思考の文字起こしは失敗した。

眼前で炸裂した衝撃に意識が散らされて、気づけば千鳥足を制御して立ち直る自分がいた。

頬から薄ら紅、神の威光を浴びた者の定め。

あれを人の拳だと思うなかれ。1発浴びて空に飛び上がった気がした。鋼鉄の物体を投げつけられたかと錯覚して、ここには2つの武器しかないことで勘違いを正す。

本物を目撃しただけの、無敗神話の威圧感しか知らない一介のボクサーが断言しよう。目の前で構えている左拳、いま放った、これから放ってくる左ジャブは紛れもなく神話のものだ。敗れていったボクサー達の伝言に嘘偽りはない。

 

(ん〜し、自分を平した甲斐あった)

(連射してくんぞーーーーー!!!)

 

2発目、カウンターの脅威を轟かす左ジャブが木村の左拳の挙動に連動して放たれる。

3、4、見えない。5発目、ガードを圧し退けて6発目が頬から口内の皮膚を切り裂いて、7発目で歯茎、8、9を見失い、10発目が頭蓋骨を殴り壊しにきた。

首の筋繊維が千切れる音を聞きながら、ガードを固めて着地面積を最小限に抑える。天空の暴威に耐えながら、余計な思考が働いて現実逃避を始めていた。

あれほどの威力を生み出しておいて、自身の左拳を痛めないのだろうか。これは心配ではない、当然の疑問だ。彼の左ジャブの威力、キレ、芸術性は世界でも5人といない。人間の限界点を超えたものだ。それが日本にいて、国内王者の器に留まっておいて、主力武器として戦っておきながら無傷??

 

(余裕綽綽としてやがる、バケモンかよ)

 

武器が一級品なら頑丈さはそれ以上。

左ジャブ一辺倒でも防衛した実績は伊達ではない。間柴の左ジャブがガード困難な鞭であれば、疾景の左ジャブは破損しない杭だろう。打てども打てども次を装填し、生命果てるまで終わりの見えない断罪に怯える吸血鬼の気分にさせられる……!

ならば柳洞疾景は、身体能力すらも神話級ということに…。こいつを倒さなければベルトを巻けない、そう考えたら意識が遠くなりそうだ。

 

「ッし──────!」

「───ぐ、ゥ、ッッ」

 

変哲のない構えからバカみたいな威力のジャブが生み出される。そのうちの1つがガードの緩みに突き刺さり、鼻っぱしを叩いていった。面でぶつかってきたクセに引き際で鋭く貫いて、即座に第二、第三と神の拳が浴びせられる。

 

「────っの、」

 

背中にロープを食い込んだ感触で、自分の現在地を把握した。目の前に集中し過ぎて、そうする以外の余裕を生み出せずに自ら窮地を背負ってしまう。

ガードで受け続けては腕がぶっ壊れる。開幕のように、カウンターで勢いを断って流れを引き戻す!

 

(何度もやらせないってば)

 

繰り出した左ジャブ…飛燕の一翼に、渓流を流れる水のように疾景の左ジャブが奔る。

冴えかえるキレ、目の前に見えた拳に肝が冷えたのは、跳ねた視界がリングを見つめる最中のことだ。

 

(カウンターにカウンターかよッ)

 

テンポアップした疾景の左ジャブは、残像しか見つけられない。神話に取り込まれた現代人の気分だ。

 

『王者のワンワンツーが挑戦者を近づけない!!

相も変わらず一直線! それが人々を惹きつける!』

 

解説の言葉は綺麗(どころ)を抽出したものだ。

惹きつける? そう勘違いしているだけだ。燕は幾度と翼をもがれ、飛翔と同時に地に堕ちた。命が散りゆくザマを、容易く翼を燃やす灼熱の一瞬を目撃して恐々と推し黙ってしまう。

そのことにも気づかずに、動けないことから目を背けて神の左を凝視している。ただそれだけだ。

 

(珍しくコーチが警戒してた。あの敵意は幕之内さんに向けるものに匹敵する。だからアンタは俺と同格だ、必死こいて倒すからね)

 

赤い眼差し。

両眼を合わせるだけで、心臓が止まりそうだ。

警報? 脳内赤ランプが回りっぱなしだ。

警報音は? 鳴り止んだよ。やつの拳で…!

 

「───ハ、ぁ」

 

両腕に力を込めて、神話の左を受け止めた反動を利用してバックステップ。そこで深呼吸を挟む。

食道がジリジリと痛んだ。本当に喉が焼けたかのようだが、思考回路に集中し過ぎて警報ランプの意味を履き違えていた。呼吸をしろ、と叫んでいたんだ。

気を取り直して、目の前のバケモノを睨む。追撃をしてこない、それどころか。

 

「………?」

「───────ふぅ」

 

両の腕の力みを解いて、顎を上げた。

同じく呼吸を忘れていた、という訳ではなく。アレは小休憩を挟むときに吐き出す息だ。今にも腰を下ろしそうな態度に、思わず前傾姿勢を取る。

 

「そこまで!! 1ラウンド終了だ!」

「なっ…」

 

油断大敵だ、と一泡吹かせてやるつもりでいたところにレフェリーが割って入る。

リングの内側に気を張ってはいたが、外側に耳を傾けていられなかった。

 

「やっぱり気づいてなかったんだ」

「────っ」

 

疾景はそれを確認するために、わざと息を吐いた。木村の心の余裕を測り、次の目安にするために。

パンチ以外でも恐ろしいボクサーだ。ボクシングを深く理解している、それこそ神の如く…。

 

思わず畏敬を抱きそうになった意識を振り払い、コーナーに戻りながら第1ラウンドを振り返る。

1つ。命拾いした、と思ったことがある。

 

神話の左ジャブによるカウンターを受けてしまった時、ダウンを覚悟した。だが結果は想定よりも軽く、何発か受けて第1ラウンドはダウン無しでコーナーへと戻れた。

ビデオで観た、天空から降り注ぐ隕石が如きソレではなかったのだ。さっきの左ジャブのカウンターは渓流を思い浮かべた、それが命拾いしたこと。

 

(想像の六割くらい、だけど嫌な予感がする。いくつか見落としがあるような、隠れた何がが)

 

底知れない不安を抱いて油断を殺し、1分後の3分間に向けて腰を下ろした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「王冠に縋りつくカスとは違え」

 

ロープに背中を預け、一番上のロープに両腕を投げ出しながら沢村は呟いた。それもリングの外側から。

観客たちは驚愕で言葉が出ない。セコンドが選手を励ますことなく、外で胡座をかいてる姿を見たことがない。疑問に思わないのは疾景、鬼槍留の会長くらいなものだろう。

 

「おい沢村‼︎ ここで口汚いこと言うな‼︎」

 

会長が注意することと言えば沢村の口調くらいだ。選手を前にしていい発言ではないから真っ当な指摘ではあるが、会長に汗拭きを任せて自分は放ったらかしも同等だろうに。

 

「沢村コーチが、喋った…!?」

 

疾景は疾景で、沢村が口を開いたことに驚く始末。観客たちは異様な雰囲気に野次を入れることを躊躇う。

あれが沢村疾景師弟の日常なのだ。

それを良しとして押し通せる戦績を残している。正しくはないが居心地は良さそうに見えるから罷り通る例外として、沢村を知る観客たちは目を逸らすことに決めた。

 

「カウンターが決まらない理由は?」

「その道のプロ中のプロと対策したから」

「相性だ。やり方が悪い」

「まぁぁた抽象的な」

 

疾景の回答にバツを付けて手段を変えろと言う。なにを、どうするのか、一番欲しいところは言わない。

抗議の声を聞かないフリされることに疾景はもう慣れきっていた。

 

「1つだけ言っておく」

「? はい」

「お前はまだ本領を発揮できていない」

「えぇ。理想には及ばないです」

「…じきに分かる」

「えぇー」

 

再びバツ。だが、これまでは殆ど会話らしいものがなかったために、練習風景のように感じて、疾景は正解を探す意欲を上げた。

疾景は沢村の態度に対して、とても文字起こし出来ない評価を下している。然し、見る目が最高評価を叩き出していた。大半の嘆かわしい評価と釣り合う指導に繋がれば、どこで何をしていようが構わなかった。

いつも通りに見送られることなく立ち上がり、確かに違和感のある調子をどう戻そうかと考えながら第2ラウンドに臨む。

 

 

 

 

 

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