鷹の6本のツメ   作:ひとりのリク

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されど未熟

 

リング対角線を見ると、意外にも水平に道が続いていたことに気づく。

事前の想定では、既に登り坂となり、傾斜は10度ほどで、心に並ならぬ負担があると思っていた。

 

(最後打たれちまったが、最後だけしか打たせなかった。すげェよ俺、間柴相手に出来なかったことだ)

 

神話の左拳を目の当たりにして、萎えるどころか気力が湧き出てしょうがない。同時に、危険な状態と隣り合わせであることも自覚していた。

 

(ボクサーの勘ってやつ? ビンビン働きやがる。早く慣れろ、長引かせるなってよ)

 

前借りだと思う。勇気と自信の前借りだ。

最後の2ヶ月間で蓄えたソレらは、元々は疾景に対する畏怖があったから、死に物狂いで身体を鍛え上げた。勝てないと思っている強い相手から、どうしてもベルトを獲る必要が出てきた。今は、鍛えた期間に積み上げたものを注ぎ込めている。神話の左を恐れつつ、抑えていた2分間が自信へと変換できている。

外から聞こえる声援が聞こえなくなった時、木村タツヤはきっと座り込んでしまう。早期決着が望ましい、彼らの声があるうちが前借りの有効期限だから。

 

(確かに、身体能力は俺より上かもしれねぇ。センスだってそうだ、俺より確実に強いんだろうよ)

 

開幕、左の差し合いで分かっていた現実を突きつけられて、それでも捩じ込んだ1発を篝火にして筋肉をほぐし、すぐにでも身体を地獄の底に適応させる。さもなくば、この次のラウンドで木村タツヤの身体は恐怖に支配されてしまう。そう思えるほどに、木村タツヤにとって柳洞疾景はおぞましく見える。

 

なにが?

行動の全てが、だ。

 

(だから経験の差で埋め合わせするっきゃない。この10年間は努力の数。俺が誰にも負けないモンだ!)

 

第2ラウンド開始の合図が鳴る。

肘に溜まった汗を置き去りにする勢いで飛び出し、悠々と構える対角線上の王者から先手を奪いに行く。

両者がかち合ったのはリング中央。射程圏内に入るまでにサイドステップを1つ挟み、お互いの精神状態を覗き見る。このラウンドで表情を歪めてみせる、と犬歯の如く鋭い視線を突き刺して、全くの同時に拳を打ち出した。

 

(右から入っても外してきやがった。慣れてんな)

(そのモーションじゃバレバレだってば)

 

通り過ぎた左右の想いは、盾に弾かれながらもそれぞれに異なる手応えを感じさせる。

左ジャブを放った疾景は、一秒差で自分が当てたことから、木村の右拳は自分に遠く届かないことを確認した。ガードしても身体の芯がブレることもなし、ならば左拳だけで徐々に差は開いていくだろう。

 

(この距離、位置、最高に絵になる)

 

目視、木村の顔面を直撃できるコースが浮かび上がる。左拳を構えたのは木村へのメッセージを込めるためだ。このラウンドで燕の両翼をへし折り、背中を丸めてコーナーに帰してみせる、と。

瞬きのうちに神話の左を打ち終えるや、着弾地点のズレに目を見開いた。目的よりも30センチ手前で弾けた左拳、その下から真っ赤な肌を押し付けつつ突撃してきた木村の左フックが強引に炸裂する。

 

(!?)

(左ジャブがヤバいのは体験した。あんなの差し合える気がしねぇ! 満足に打たせちゃならねェ!!

左ジャブに止められてベルト獲れねえのは御免だ!)

 

一方で右から入った木村は、左には左を。

疾景の神話が如き左拳を、右拳のパワーで捩じ伏せようと試みた結果、あの左ジャブは理屈で押し倒すには足りないものが多すぎることを理解した。

 

(今はな────!)

 

いずれにせよ。思考と工夫を凝らし、神話と謳われる左拳を、10年使い古した左拳で上回ること。

勝利するための絶対条件であることを胸に刻んだ。

血眼になって神話の左に喰らいつく木村を見ながら、鬼槍留の会長は再び焦りを吐き出していた。

 

「おい沢村! 調子戻ってねェじゃねえか!

ずっと相手が主導権握ってるよ、やばいぞ!」

「そうですよ、やばいんです」

「いやっ呑気なこと言ってる場合か!?」

「疾景の悪癖、出てるんですよ。ソレを糺させるのに鴨川ジムのボクサーはうってつけだ」

「お、お前……なにを」

 

会長は沢村の顔ではなく、口元を見ながら問う。無礼極まる企みを見守るその、隣に立つことを後悔してしまう悪魔の笑みを恐れながら。

返答のないことに何も言わなくなって数秒、疾景の意識も目の前のボクサーに集中を始めた。

 

(身体1つ分程度のサイドステップだった1ラウンドの攻めから、スライドしてリング全体を使ってきた)

 

神話の左、リカルドに倣う左ジャブはキレこそ遜色はないものの。リングを滑空するように駆け、常々勝機を探る男には精度がイマイチ奮わない。

 

(ここで打つと決めつけて、瞬間瞬間にダッシュを入れて左ジャブを外すのを待ってるのか)

 

どっと息を飲む風圧は木村の顔の真横を通り過ぎて、その度に観客席の誰かが小さな悲鳴を漏らす。お返しにと飛び立った燕が流れに乗れば、芯は外しても頬や額に爪痕を残していく。

減量苦を度外視したステップに目を向けて、相手の意図を読み上げた。

 

(ちまちま鬱陶しいね。頭ならそりゃ外すかもだけど、面積広いボディなら当たるってば)

 

すばしっこい燕の頭部破壊は合理的ではない。外せば外すだけ、本当に不調なんだと思い込まされてしまう。嘘が本当になる前に、流れを止めるに相応しい、この試合では初となるボディージャブを突然繰り出せば。

 

(そんなの想定済みなんだよ!!)

(はっ!?)

 

既に下がっていた直立の左腕に阻まれ、反撃のアッパーカットに打たれて顎が天井を見上げた。

 

『挑戦者の返しが綺麗に突き刺さる!

どうした王者!? どうした挑戦者!! 今日は何もかもが想定外! どんでん返しもありえるぞ!?』

 

顎から脳天へ突き抜けた痛みに浸りながら、疾景の意識は中空に滞留するような時間を過ごしていた。

初めての経験じゃない。沢村とのスパーで数々の敗北を喫するうちに、スパー中に流れが悪くなった時に陥るようになっていた。そんな時は考え事が捗るのだ。

 

(……………………今日は、なにかが違う)

 

リカルドと遜色ないと自負する左ジャブが、原因不明の不調で燕に拮抗を許していることを表題にして、疾景は首を傾げた。

 

(コンディションは万全、実力は俺が上だ、なのに相手有利のまま2ラウンド半ばまできた。

1ラウンド後半の勢いはどこに行った? あれから調子は落としていない。それなのに、なぜ)

 

疑うべきは開幕のカウンター返しの飛燕か。

あれをされたのは沢村だけだが、既に吹っ切れている。これは違う。

以降、身体を丸めてもいないためカウンターパンチャーの本番は忘れていない。

それならば、なぜ。

『お前はまだ本領を発揮できていない』

正しいことを教えず、間違いだけを伝える他人(ひと)が、なにを理由にあのセリフを吐いた?

 

(──────ぁ)

 

確か木村が国外王者との試合を観た日、『勝つヤツの目を知っておけ』と言っていた。アレは自分が負けるくらいに強い相手だと思っていた。見当違いだが警戒すべき、で留めていたが、この状況を指すものだとしたら。

 

(……沢村コーチも人が悪い。いや、良心を求めた俺は彼のなにを見てきたんだか)

 

知ってほしかったんじゃないか?

自分が幕之内に攻め立てられている最中に感じた、膝や脚(反則技)で表したほどの激情を。

思い通りにいかない、この状況を。

柳洞疾景が沢村竜平に勝ちきれない理由を、目の前のボクサーは知っているんだ。その点だけは先を越されている。調子が乗らない原因はここにあった。

 

(こういうタイプのボクサーもいるってのは、前々から知ってたのにさ)

 

自問自答、沢村の狙いに気づいた瞬間、脳から発された信号が精神を駆け抜けた。

直後、木村の右側の視界は。

 

「────な、っ」

 

一分の隙も油断もない状態から、視認不可の攻撃によって閉ざされていた。

 

(なにされた今!? どうして左目蓋が開かねえ!? なんで涙流してんだよ俺ぁ!?!)

 

逡巡、閃光の発射を疑う。

否、今の自分なら見える筈だ、それはない。

 

(あ──────やば、──)

 

思考に囚われた時間、イコール試合で立ち止まった時間。片目の視界消失に焦りすぎたせいで、この試合の勝利への道筋を踏み外した音が聞こえた。

太陽の熱波が地上を焼き払うような、神々しい蹂躙の合図が1つの生命体から鳴り響く。

 

「────ッぐ──────!?」

 

瞬間的な停止を見逃さず叩き込まれた拳を、左拳だと思った時にはガードを上げていたにも関わらず、2発目が顔面を打ち終えていた。幸いに3発目を防いだガードの勢いに乗って後退し、デタラメにフックを放ちつつ視界の回復は果たされた。

無闇な追従を行わず、リング中央で悠然とリズムを刻む王者。その様子は雲の上から地上を見下ろす存在のように見えて、雰囲気が一変したことを知る。

 

「あぁっ!? 貰っちまった!!」

 

疾景の左拳が直撃したシーンに青木は両手を頭に抱えながら悲鳴を上げた。幕之内は1ラウンド目で目撃した筈の神話の左を見て唖然としている。その横で板垣が指摘したのは、その目で追いきれなかった何かだ。

 

「っていうか! リカルドの左の前に別の左ジャブ挟んでましたよね!? 速すぎて見えませんでした…!」

「そういえば! 閃光か!?」

「いや違う。ありゃあ手打ちだ」

「手打ちィ!?」

「ただの手打ちでアイツが怯むか!?」

「普通ならない。疾景のは何かしら工夫して途轍もないスピードを生み出してやがる。目蓋なんかに当たれば視界閉ざせるくらいわけないだろうぜ」

「…………!」

 

一直線に突撃、溜めた右ストレートでガードごと身体を押し止められる。

左右に回避、する直前に不可視の何かが飛んでくる。

神話の左を反射的に回避、2度は躱しても3度目で再び不可視の何かが調子を狂わせる…!

 

(だ、だめだ……。3発目で避けても次を躱せない。

神話の左に飛燕合わせようとしたら訳分からん左ジャブが飛んできやがって視界が奪われる…!

懐に飛び込めたもんじゃねぇぞ!?)

 

地上を焦がすほどの熱波を放つ太陽が昇ろうとも、意図的に雲をかけてしまえばいいと躍起になっていた行動も、風向き1つで土台から総崩れとなる。

あれは凡人にどうこうできる存在じゃない。凡人は種を繁栄させていくのが役目だが、神は天変地異を治ることがソレにあたる。手元にあるソレを気紛れで地上に振りかざし、試練だのと宣うのが天上の特権だ。

 

(くそったれめぇ!!!!)

 

目覚めさせてしまったのだろう。

先ほどまでの疾景は元々が本調子じゃなかった。過去、何かしらの葛藤があったのだろう。凡人で言う不調だとか、スランプ、弱点の類いだ。それが今、何かをキッカケに克服したらしい。神に対して進化は適切ではないだろう、ならば変革か。

その真実に気づいたせいで精神的ダメージに押し流されてしまう。日本の舞台だと思っていたここは、既に高度で表す程度には人離れした世界だ。

人の知恵を振り絞って、時間をかけて模索してきた策を一瞬で破られた。

たかだか左ジャブで? 間柴以上の差を見せつけられている? 宮田との特訓はどうした? 凡人の努力は神視点では遠回り未満だというのか?

第2ラウンドが終わろうとしている。6分未満の試合で、終わりに片足を突っ込んだことを認識した。なぜ試合で見せなかった隠し球を易々と出してこれるんだ。神の特権だとでも言うのか。神に見初められてしまったから、糧になれというのか。

だとしたら、これが死期というのだ。体力が残っていて、五体満足の人間から戦意をこそぎ落とすに相応しい一手だ。

 

「────クク」

「な、なんだ突然」

「いえ、思ったより早かったなと」

 

木村が萎んでいく様子を見て、疾景の左ジャブが相手を滅多打ちにする姿を見て、沢村はコーナー下で珍しくも口角を上げて喜びを零していた。

 

(オメェはいっつも人を舐め腐ってるのに小心者なんだよ。相手がミドル級だろうと殴り倒せるクセに、なぜだか俺にはめっぽう弱かった。肉質を見て思ったよ、勝利に異常な執着心を持つヤツが苦手だってさ)

 

最近まで沢村は、疾景の才能を見誤っていた。

疾景は達人に近しい。不良狩りをしていた頃にボクシングの技術を磨き、野蛮な攻撃力を綺麗に加工している。そんな人間の実力を更に引き出すために、ボクシングの練習だけじゃダメだと気づいた。

身体能力は既に沢村を超えているのに、練習を重ねているのに、一向に上達しなかった。元が強いから問題視はされていなかったが、沢村は疑問に思いつつスパーをすることにした。

一年経った頃のことだ、沢村は疾景を完封したのだ。鬼槍留の会長はそのことに激怒したが、翌日から疾景の動きにキレが増したことを知る。

経験値不足、と当初は考えた。そこからスパーを重ねても、一向に沢村に勝つ気配がみえない。

 

だから結論が出た。

痛みだ。挫折だ。窮地が疾景を成長させる。

理屈で説明できない強さだけが疾景を倒せてしまう。

 

(ドンピシャだぜェ、木村。お前なら疾景の肩肘を(ほぐ)せると思ったよ。

この試合は礼だ、最後に夢見て散りやがれ)

 

この試合は疾景自身に無意識の苦手意識を気づかせて、自ら克服させるために準備されたもの。

世界に点在する化け物と戦うために、沢村は木村達也と間柴了の試合に着目し、木村タツヤを幕之内一歩と同類と認め、世界戦への資金石と看做したのだ。

 

(彼は俺が試合したどのボクサーとも違う。沢村コーチと似てる、リカルドとは似て非なる熱意がある。

理由が分かった。俺は当てられてたんだ。沢村コーチの…木村タツヤの、本気に)

 

左拳に確かな頬の感触を確かめながら、5分以上続いた違和感が徐々に解けていくことを実感する。

精神的な問題だ、すぐに克服はしないだろう。だが、この試合が終わるまで木村タツヤを圧倒し、その壁を打ち壊した時、この拳はより神域へと達する。

 

沢村が警戒していた、は間違いだ。

沢村に勝つ材料を見に行った、が正解。

 

(俺が苦手意識してたなんてね。

何事も、過ぎれば毒になるってことか)

 

呆れた指導方法に吐くため息は、試合のあとにとっておく。もちろん、勝利を納めて。

 

(だから今日は何がなんでも勝つ。

下手すると手首痛めるから、時たま沢村コーチに当てて流れ作る程度のものだけど、特別に使う)

 

構えた、と、打った、が同時。

肘の滑りが心地良く心臓を圧迫し、着地した手応えに改善が加わった。気づきとは恐ろしいもので、当人が事態に対して納得しただけでも心の枷が弛み、身体能力の向上を後押しする。これは一種の覚醒と言っても過言ではなく。

これに遭遇した者は不運だった、と言ってよい。

 

(大丈夫だ前を固めて、いけ)

 

覚醒の鍵となったボクサーは、それを勘づきながら知らんぷりを極める。心境はこうだ、見えないところで強くなられるよりはマシだ、と。足場がはっきり見えているなら戦いようもあると、そう叫んでいる。

 

連打、連打、連打。

国内同級ランカーなら容易に吹き飛ばせる威力の弾幕から、全身の痛覚を通して活路を探る。

日本タイトルマッチに飛び込んだ筈が、気づけば一段上がったところにいた。それが痛覚を通した最初の気づき。焦げ落ちていく精神を足場に、もっとよこせと足掻き狂う。

 

(………! 腕がッ焦げる……!!)

(粘られてるのに興奮が止まらない。自信を失って心を貰ってる、まるで魂の貨幣市場だ)

 

そうして3分が経過して、木村は疾景の左ジャブに弾かれて後ろへと吹き飛んだ。

踏ん張りでダウンにはならなかったが、成果はゼロ。最小のダメージに抑えたものの、突破口はどこにも見当たらない。或いは、ないのかもしれない。

 

戻る直前に後ろを振り返る。

整地されていた舞台は3分間で荒野へと変わり果てていた。これから荒れ果てた大地を踏むのは挑戦者の義務となる。

 

(これが、リカルドに魅入られたボクサー…!)

(これが、沢村コーチの言う、美味い肉……か)

 

相互、歯を噛んだ。

悔い、発見、何かしら。

完封されて降りる恐怖心/興奮によって相乗された闘志、を胸に抑えつつ。

どう取り返すか/終わらせるかの時を待つ。

 

 

 

 

 

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