宮田との猛特訓の最中、なにもスパーリングを延々と繰り返していた訳じゃない。
スパーリング、基礎練習の合間、休憩がてらに柳洞疾景の情報整理を行っていた。
「にしても驚きの完成度だ。とくに左、あれは東洋でも随一を誇ります」
その最中、疾景の試合…日本ジュニア・ライト級タイトル挑戦のビデオを観ていた時に、背筋を正した宮田から発された賞賛。
意を唱える者はいないだろう。疾景の左ジャブ、打てば上体が仰け反ってしまうほどに威力が高く、警戒すべきパンチなのに王者はガードしたうえで直撃されている。非常にモーションが少なく、突然目の前に現れるソレは、メキシカンジャブと呼ばれる類いのものだった。
「宮田から見てもそうか」
「この目で確かめたから間違いない。伊達さんの左ジャブと遜色のない完成度だ」
まじかよ、と心の中で呟く。
感嘆ではなく、怖気から吐き出した。
伊達英二に匹敵する完成度というのは、WBAフェザー級タイトルマッチに挑戦する時のことだ。宮田はあの時、伊達さんのスパーリングパートナーに選ばれていた。減量無し、OPBF王者時代の宮田を圧倒した伊達レベルと聞かされては両拳に力が入ってしまう。
思わず天井を見た。
日本タイトルマッチに挑むっていうのに、疾景の情報を漁れば出てくるのは東洋王者級だとか無敗神話、世界戦の伊達英二とかいう、日本を飛び出した前評判ばかりだ。この5年間で日本ジュニア・ライト級の頂点は世界レベルのものになってしまったと言いたいのか。
冗談はよしてほしい、間柴だって俺との防衛戦のときに世界から声が掛かっていたというじゃないか。それでも喰らいつくので精一杯だったってのに。
「………でも」
「ん?」
「俺の方が強いから」
「………へ」
冗談みたいなセリフだった。
嘘っ気のない自信だった。だから可笑しくて笑いが溢れた。
伊達さん越えたって言ってるんだぞ、本当のことでも宮田が言うと堅すぎて笑っちまうよ。
「お前との特訓でも左ジャブが避けられなかったら、って考えちまうんだ」
「……………」
「気を悪くしたなら、すまん。だけど」
「いいえ、当然の思考です。全ての練習が身を結ぶわけじゃない。むしろ出来ないことが大多数だ」
そりゃ、まあ。
練習したこと全部できりゃ、負けることなんてないからな。
いや、気が抜けたついでになに吐露ってんだ。
「今から深刻になってどうするんです」
「だな。そのための練習だし」
「ですが、俺から言えることもあります」
ある、のか?
手詰まりになった状況からの打開策が。
「見えないパンチにぶち当たった時は、アイツのことを思い出せばいい」
「?」
首を傾げる俺に、宮田は元のスカした笑みを流しつつ、固有名詞を避けて親しげに好敵手を名指しした。
2人の間にある蟠りが消えていたことを、その時に目撃した感動とともに知ることができた。
記憶は、こういった意外性によって保持されていて。必要になったら過去から手渡してくれる、人間古来の救済措置なのかもしれない。
─
──
───
少しだけ目を瞑ると、宮田との会話が脳裏を過ぎった。試合中に思い出す必要があったらしい。
「戦意が消えかかっとる」
「無理もありません。疾景の左ジャブの完成度は怖気が立つほどのものでした。悔しいですが、あれを破る策をここで私は授けられません」
2ラウンド目が終わりインターバル1分の真っ只中、篠田さん達の声音が暗いのを聞き取って、でも俯いた顔をすぐには上げられない。
この雰囲気に似合わず、俺は…。
「既に、彼は知っています。彼のところへ送り出したのは何も、左ジャブに慣れさせる為だけじゃない。
宮田とのスパーを通して、行き詰まった状況から脱する方法を見つけだせるようにするためなんです」
胸を張ってくれる篠田さんをこれ以上待たせるわけにはいかない。
神話の左と謳われる所以は理解していた。
自分の力が及ばないことを早々に認めて、そして木村タツヤは神話の左に対応出来ることを信じて、勝利の可能性か最も高いボクサーに教え子を託したのだ。
「精神統一、終わりました」
「木村!! 大丈夫なのか!?」
頷いて立ち上がる。
ちょっと神話に消し炭にされそうになったくらいで、彼らの努力を無駄にする訳にはいかない。
「取り敢えず、このラウンドで仕切り直します」
「……! あぁ、しっかり見てるからな!!」
師に背中を押された。
これに応えるのが弟子の恩返しだ。
▼
リング中央に駆けた。
リング中央に居座る気概だ。
ガードをきっちりと王者に向けて、やや背を丸めて頭部とボディへの守りを怠らない。
神判に争う意思表明、1秒。様子を探るように、駆けた勢いの消失を嘆くような熱波が両腕を圧し退けた。
捻り込むように腕の皮膚を殴ったのは右拳。溜めた1発だった、試合を決めるための一撃に近い。両腕で分散した威力は肩に響き、脊髄を揺らして心臓の鼓動を叩き返し、腰足に轟いて後退の信号を伝えた。極めつけは力づくで開け放たれた真正面、踏ん張ってガードを閉じるのに要する2秒の隙間に、何発かの左ジャブが豪快に放り込まれた。
(丸まって左ジャブ誘ってる? 間柴のように左腕の精度落ちるまで一辺倒に使わないよ。
満遍なく使ってこそ左ジャブが活きるから)
じっくりと両脚を動かし、リング中央に惹かれるように戻っていく木村を眺め待つ。中央から離れたくない理由は察しがついていた。相手に中央に居座られて、自分がリング外側を旋回しながら試合を進めていけば、旋回するだけで体力を余計に使い、何かの拍子に怯んでしまえばロープ際に追い込まれて逃げ場を失うからだ。
疾景は中央を譲った。だが無駄にステップする気は更々ない。最低限のステップをしてインアウトを重視し、中央で構える木村をサンドバッグの如く殴り倒していく。
ガードを崩しては左を叩き込む。その行動を3回繰り返し、物と成り果てつつある相手に再三の右を放つ。
(そこに縋り付くしか無くなったら最後だ。まさか5年前の戦法を繰り返すつもりか)
(何度、自信をへし折られたって足を止めな。俺はベルトが欲しいんだ、思い出作りに来たんじゃねえ)
(そうだとしたら、ガードぶっ壊れるまで叩いて抉じ開けて───)
疾景の見立て通り、木村は逃げ道を潰されることを最も恐れた。だがそれは時間を稼ぐためでも、左ジャブを疲弊させる作戦でもない。
抉じ開けられたガードを見上げて、見えた姿に笑ってみせた。
(こっちにゃ上を見れば世界で羽ばたく最強の男がいる。前を向きゃ肩並べて歩いて来たダチが待ってる。ちょいとヘコたれたら虐められっ子だった後輩が背筋伸ばしてんのが見えんだ。
後ろ向くと、「諦めんのか」って俺を叱咤する男が河川敷の土手で見張ってやがる)
理由は1つ、神話の左の通り道が作られた今、この瞬間を作り出すために。
『よ…、避けた! 神話の左と謳われる王者の左ジャブを早くも見切ったのかァーーー!?』
叱咤、続く激励の想いに弾かれて、神話の左を紙一重で躱した。デタラメなステップではあったが、ダメージの抜けきれない脚でも実行できたことは今後の参考になるだろう。
(どこ向いても勇気貰えるぜ。もっと神話の左とやらを打ってこい、ジャブの攻略なら一家言あっからよ‼︎)
間髪入れず、疾景の真横に躍り出た勢いを利用して右フックを叩き込む。身体ごと当てた1発にたじろぎ、リング中央の死守は継続中だ。
(しっ…!? 捻りすぎた……!)
左ジャブを躱された精神的ダメージに加えて、カウンターの右フックは脳の奥に届く肉体的ダメージ、一瞬の攻防で心体の重複ダメージ。反省の余地がないほど完璧なコンビネーションに素直に拍手をして一連の失敗を受け止めた。
返しの右に視界を回され、視界を戻した時には、一風変わった木村の姿を目撃する。
「あ、あれは僕の…!」
両グローブを口元に寄せ、軽く左右に揺らしながら大袈裟にウィービング。大きく揺れ、重心移動は小刻みに。身体の軸がブレることはない。それは観客席にいる幕之内が最も驚いた、幕之内を象徴する構え。
(幕之内のピーカブか!? だけど見様見真似だ、恐ろしさを感じない、圧がないよ。無駄な抵抗だね)
圧が…迫力が足りないのは事実だ。
しかし、木村が迫力を求めて何になる。迫力は足りなくて良い、ここでは迫力が欠けた方が良かった。
その方が足りない部分を補おうとして、身体が練習風景を鮮明に思い出してくれるから。
『最初ですよ、肝心なのは。ジャブに捕まって流れに乗れないことは俺もありました。場の雰囲気に飲まれたり、相手のペースに捕まった時なんか、ジャブを見ようとしてドツボにハマる』
宮田とのスパーを重ねるうちに、ジャブが見えなくなる事態に陥った時間がある。たったの数時間、されど焦りが降り積もる。そこで宮田は言った。
『1発でいい。たった1発、相手のジャブを感じるんだ。相手が外すのを待つのでも、突っ込んでガードするんじゃなく。自分で動いて避けて、ジャブの風圧を肌で、無傷で感じてみてほしい。
木村さんならきっと、それだけで世界が変わる』
(ってよ────!)
繰り出された神話の左は従来通りの精度、速度、モーション無しで放たれた。この試合、2ラウンドたった6分間で2度の補正が入った、疾景史上最強の熱波を、燕の新しい飛翔によって躱す躱す、躱していく。
(また!? 小細工なしにかわした!?!)
(っしゃあ、来たぞ!! ノッてきたァ!)
例え神の手で災害に見舞われようとも、太陽が地上を焦がそうとも、凡人は決して立ち止まらない。
その象徴たる幕之内一歩の歴史を重ねるように、神と対峙した彼の写し鏡となるような展開を繰り広げる。
「た、鷹村さん!!」
「練習してやがったな。意表を突いて初動を躱してリズムに乗った。効果は抜群だぜ」
「器用すぎるだろ!?」
燕の羽根を休め、暴風に倣い神話の模倣へと立ち向かう。ただのハッタリと思ったのは大地から風が吹き上がる10秒まで。ぐんぐんと風は舞い、気流に乗って燕は高度を上げていく。
自力で飛べる場所から遥か上空、神域と呼ぶに相応しいそこは、まさしく飛燕の主戦場。
(ここまでくれば、あとは自力でいける)
勇気に後押しされた両翼を広げ、勇気で育んだリズムに乗って最後に暴風をその両翼で吹き飛ばす。
さすれば標的は目前。
交差した左拳が指し示した目と鼻の先で、神話に魅入られた男が汗を滴らせているではないか。
『第3ラウンド終了‼︎ またしても挑戦者が魅せてくれました、あの疾景相手に左ジャブで互角、いやそれ以上の戦いを披露‼︎
挑戦者の血の滲む10年間が顕われています。次のラウンドにも会場中の期待が高まるのを感じます‼︎』
身を翻す挑戦者に惜しみなき拍手喝采。
誰もが認める神話の左に、沈むどころか並び立った。神本人ではない? いいや、重要なことは凡人が神の座に近づいているという奇跡。自分たちの応援が神越えの後押しをしているという一体感。風神の暴風から生まれた乱気流が、この試合、本当の意味で戴冠間近まで挑戦者を押し上げた。
(左ジャブが連続で躱された。このラウンド、殆ど当たらなかった。…これは効いたな)
最後の30秒はピーカブを解いていた。
試験的なものを感じ、疾景は頬を喜色に染め上げる。コーナーに戻り、会長の出した椅子に座るや。
「お前の調子が狂ったわけじゃない。1回ダウンでもさせたら元通りのボロ雑巾になるさ」
「………………明日は竜が降りそうですね」
ロープに寄っかかりながら、沢村は現状を大したことないと言い切った。
「大事にとっとくもんじゃねぇだろ。
さっさと出し切って帰るぞ。俺は腹が減った」
身勝手な主張のように聞こえるが、沢村には珍しく指示を出す。怒涛の試合に流されないために、未熟な神子を導くように。疾景は無表情を貫き、次のラウンドに向けて目を閉じた。
▼
第4ラウンドは始まった。
ゴングは鳴り響き、王者と挑戦者はステップを刻み、レフェリーは2人の視線を躱して試合を見守っている。
王者の眼差しは真っ直ぐに挑戦者の企みを注視し、挑戦者の意識は王者の腹の内を探っている。
ピーカブを木村は真似ない。もう見切っていると判断した。じゃあどうするの、と疾景が無言でにじり寄る。ジャブが届かない直前まできて、待ちの姿勢を受け入れた。
ただ、恐ろしく慎重だ。
静寂の音を聞いている観客は、今を第1ラウンドと勘違いしそうになる。
疾景も手を出さない。
冴え渡る神話の左、カウンター、その悉くを木村は抑え、躱してここまできた。絶好調の第3ラウンドはお互いに被弾が数える程度だ。分が悪い、と感じている。何かの拍子にカウンターがズレれば、倒れるのは自分だと警戒し、このラウンドの初動を間違えたら敗北が見える気さえしていた。
両者無言の雰囲気に、野次を差す者はいない。
発声する隙間は、リングの上の緊張で蕩けてしまっている。
「───────!」
意表を突いて、突発的なジャブが相手に着弾した。第4ラウンドの開幕は、疾景の手打ちから始まった。
(まともに触れた、こりゃ握ってねェな)
木村のガードに阻まれた手打ちは、グローブを真っ向から叩くことなく横へと逸れていた。壁をこそぎ落とすような軌道を描き、表面を削りもせずに撫でていくパンチ。表現はアレだが、セクハラをするようないやらしさがある。
マグレにもガードしたことで、神速のジャブの中身を知ることはできた。
(ただ、さ)
知ったところで見えはしない。
知られたところで予測回避がせいぜい。
解剖した原理には身体能力の追いつく余地はないと判明し、今後とも理屈で説明できない強さだけが木村の生命線だ。
それを知っても迂闊なパワープレイは避けたいところだった。疾景は既に、神話の左と呼ばれ、自分自身でも目指した最高峰の左を躱されてプライドに瑕が入っている。
(どんどん趣向を変えてきやがる……!)
地上から舞い上がり、太陽に並んだと思い上がる愚かな凡人を叩き落とすべく、王者の拳はか弱き生命を一直線に狙い定めた。
これまでとは違い、冷静さの内側に怒りを滲ませている。絶好調の燕が、雷神のカウンターに追従した左右が放たれようとも、強引にカウンターを被せにいった。
相打ちとなろう一撃を、木村は容認できない。あれに巻き込まれれば内側が瓦解しかねない。いま足を止めかねないパンチを貰うのは、怒りに奮うボクサーの思う壺だ。
相手の熱風に乗るつもりは更々ない。真横を通過際、ガラ空きの側頭部にフックを引っ掛ける。
『ここでも挑戦者が魅せる! フックの反動を利用して身体を入れ替え、王者のパンチの直線上から離脱!』
暴威の直射日光を避け、噴き上がる意欲を逆手に利用しようと画策した矢先。グローブの向こうから怪しい気配を察知した。
「────っ!!!」
「油断しないね…」
頬を削るような左ジャブに顔を顰める。グローブで見えないであろうに、相手の顔面目掛けて右の雑なストレートを放り投げてきた。首を倒さなかったら、カウンターで……その先のことは考えない。
これは疾景の策略だ。先ずは左ジャブで場を制する、失敗すれば相打ち上等でリズムを整える。
それを東洋圏…下手をすれば世界クラスの実力で行使してくるのだ。慎重になることは冷静な証だ。
(飛燕の当たりも悪い、かなり慣れてきやがった。燃料こっちが少ないんだ、おいそれと相打ちに乗ってらんねぇよ。これまでの自分を餌にして、ズバッと綺麗に……!?)
ごつん、と。
思考を叩き落とす1発がガードごと捩じ込まれる。
守りなどお構いなし。装甲が硬くとも左拳に歪みなく。大空を舞う不届者を相手に、重心を高くして小刻みなスタッフを刻み、踊るように熱波が迫り来る。
貫通してくるジャブだ。あの左はラウンドが過ぎるほど、その貫通力でガードの上から無視して暴威を奮うのだ。万全でなくなってきた今、真正面からのガードは避けなければいけない。
(自分からいけ、手を出させるな!!)
焼かれた羽根のお返しとばかりに迎撃を開始する。赤い眼を向けられれば、その打ち所を察知して足先を捻り、上半身を連動させて相手の光線の如き左に自身の左を合わせる。
不発に終わろうとも、中間距離から離れはしない。長距離になった瞬間、あの左ジャブの真価によって木村タツヤが死に物狂いで掴んだ均衡は一気に崩れ去る。
先ほどと言っていることは真逆だ。だが、状況が刻一刻と変わるため、1秒前と違うことを平然と実行して、身体も心も立ち止まらないようにしなければならず。
(なにも、ね。出してきたパンチを待つだけがカウンターパンチじゃないよ)
その状況を把握している疾景は、流れを変えるために必殺級のパンチを惜しまない。当たれば上々、当たらなければ相手が上手、僅かな高低差がここでは命取りとなるのだから。
飛び出して旋回し、第1ラウンドよりも磨かれた燕の軌道が視界の隅に映る。そこに拳を合わせて頭を潰そうと、そういった構えを見せた。
(欲しいパンチを出させるのが至高なのさ)
先に出た燕を見切った疾景は、構えた拳を放たない。
「────っに」
「!?」
木村は、その不可解な行動に目を見開く。
前傾姿勢を崩さないことに驚き、次に。
構えた右拳を確認して、その距離、ガラ空きの一直線を見て、咄嗟にガードを上げざるを得なかった。
(ここにズンっと───)
その一撃は、相手の熱気を吸収して、我が物とする自傷の刹那。過敏にも反応できるカウンターパンチャー殺しを捉える、傲慢な右拳だ。
「閃光!?!?」
「違う!! 最初からガードが狙いだ!!!」
青木の声に鷹村が叫ぶ。
ガードを掘削するように肘を捻った一撃。コークスクリューブローには程遠い荒々しさでありながら、両腕の骨に響き渡る鈍重な熱波。これを受けた木村のガードは左側に仲良く傾き、胸元に釘付けにされるほどの枷を受けた。
(おッも……でたらめなパンチ打ちやがっ…)
カタカタ、と書き加えてもいい程に腕が痛みに震える。被弾はないが、これは盾に打ち込まれるためのもの。本命は、この次に構えられた第二射。目の前で装填を終えた左拳が、木村の顔面を狙い定め。
(間に、合えっ!)
訪れる終焉の幕を、抉じ上げた両腕で拒絶する。まだ高度を維持しようと足掻く凡人へ、微笑ましいものを見るように左拳を構えた疾景は、その抵抗を嗜めるように。
大空から伸ばした手のひらが大き過ぎるあまりに5度の圧壊を見逃した、神話の愚者へと。愛する花を、その手で摘み取るうちに身に付いた所作を染み込ませた。
(が、ガードしてただろ!? なんでジャブ5発ももらってんだ!? いや、それよりも!!)
ただのジャブを5回連続で直撃させる、ただそれだけの話を
花びらが五重に重なる椿が、地に落ちるまでに散り散りになるほど激しく駆ける勢いに
(
即ち、椿の落ちる前触れである。
(うで……うごけ、動けよっ)
曰く、閃光と名付けられた沢村の右。
それを初めて目撃したとき、瞬きすらしていなかったのに打ち終わりしか解らなかった…幕之内の談だ。
それ程に被弾したことを気づかせない、自然現象の如き一撃。
(う、ご、、、??)
時が止まったと錯覚したカウンター。背筋が凍るような威力、自然災害の如き暴威を。齢二十一歳の王者は我が物として、国内から世界への切符を手にしている。
「き、、きむら、。、?」
神経を絶たれ、仰向けに倒れながら。放たれた最凶の技を、ゆっくりと脳内で目撃していた。
『き…! 決まったァ!! 王者の必殺カウンターが挑戦者を捌いて落とす!
脚良し距離良し威力良し、ボクサー至高の三点セットが世界の扉に手をかけました!』
会場は悲鳴と熱狂が同時に混ざり合う。
あれだけ奮闘していたボクサーが、ほんの数秒でリングに転がっている。その受け入れ難い現実に目を覆う者。
この一瞬を待っていたと、ボクシングの髄に心躍らせる者。疾景のボクシングが好まれる理由だ。
「木村あああああ!!!」
絶叫する青木は前者だ。
落ち着け、と鷹村が宥める。
「倒れ方がちょいとオーバーだ。右が来ると知って、左肘を思いっきり引いたらしい」
「身体を無理やり捻って威力を流せた…って喜ぶのは難しそうです」
「本当に、沢村さんのと遜色ないパンチだ。けど、見えてたってことは、あっ立ち上がりますよ!」
木村はぐるんと身体を反転させて、右拳から肘を立てて身体を起こしていた。
(打つ瞬間が見えたのに……!
打たれた後に見えたのに……!)
あまりにも何もなかったから、これが閃光の合図だと分かった。それなのに、意識だけしかついてこない。
視認できたことは脳内に散らばる白い光。
その粒子こそが閃光の直撃だと理解するのに1秒。この衝撃は当たって漸く解るもの。
これまでの特訓がなければ、これを解明した時点で引退していたに違いない。
(ジャブとストレート。
これだけを極めたボクサーが辿り着ける強さ……)
通り過ぎた衝撃を頬に張り付いた鈍痛から知り、これで全ての拳を目撃したことを喜ぶ。
王者を烏滸がましく評価しよう。
その右拳を閃光と呼ぶのなら、疾景は才能という名のリングで咲く花だ。倒すべき相手の座標だ。