ゴンザレス戦後の幕之内の練習方法、重りつけての日常生活を継続したことを前程に話をしています。
宮田 一郎が世界王者となり半年が経った。
世間の大賑わいは徐々に落ち着きをみせつつ、その熱の逃げ場として1人の男に注目が向けられていた。
事務所にて、注目を浴びる男、幕之内へと告げられる再起戦の相手。
「アントニオ・ゲバラ。フィリピン出身、フェザー級世界ランカー最年少のいま最も勢いのある選手の1人じゃ」
「一歩くんはもうすぐ3年も試合に出ていないことになる。それに、彼は生粋の
鴨川が手渡した1枚の写真。
好青年、誰もがそう言うであろう顔つきの男性が写されている。
戦績、相性、己の立場を鑑みずに幕之内は即答する。
「やります、やらせてください!」
「気合いよし。じゃが、それだけじゃ越えられん。これから半年間、みっちりと左利き対策を詰め込む。また、1からじゃ」
「はい!」
「下で準備をしておくように。無論、両手両足のおもりは外しておけよ」
元気に挨拶を返し、幕之内は事務所をあとにする。
見送った鴨川はすぐに椅子から立ち上がらず、ぽつりと。
「懐かしい感じじゃわい」
誰にも聞こえない声を出した。
▼
リングの上で鴨川と幕之内がミット打ちに勤しんでいる。
「
左利きの癖や基本となる動き。
「もし自分から行ってダメならば待ってみろ。ウィービングでパンチを空振りさせ、そこにガゼルを打つ!貴様ならそれだけで簡単に手が届くじゃろう」
応用による幕之内の立ち回りかたを、ひたすらミットで教え続ける。
「左利きを相手に、なぜ左回りをするかは分かっておるか?」
「はい、基本だけは押さえてあります!
右利きと左利きが向き合うと、それぞれの前足が飛び出します。このままだと打ちにくく、相手の内側に入り込むとストレートで迎え打たれます」
シャドーをしながら説明する幕之内。
ストレートで迎え打たれるときなど、顔がリアリティに溢れすぎて横で見ている青木、木村がひいている。
「相手の外側に踏み込めば、こちらのストレートが顔面に届くので、左利き相手には右拳をジャブのように使う!
ポジショニングの取り合いが重要です!」
説明に加えた動きを終えると、鴨川はひとつ頷く。
「そうか、よう把握しとる。最初は左に行けばいいが…それを封じられたときの話、お主は右に、右に回り込んでいけ」
「右に、ですか…?」
「そうじゃ、右じゃ」
幕之内の説明、左利きに対する立ち回りは一般的かつ最も合理的なもの。そこを、鴨川は逆の動きをしろと言う。まるで読み解けない意図に頭を傾げる幕之内。そして、リングの外でシャドーをしている2人が飛びついた。
「会長、右回りじゃセオリーと逆ですよ!?」
「そうですよ、左に回って安全圏から打たないと!」
「はじめはワシもそう考えておった」
それを制する鴨川。
「左利き相手には右拳を主軸に戦う。じゃが、小僧のことじゃ。ジャブのようにちまちま狙ってたら、いたらんダメージをもらうのが目に見えとる。
小僧の右を活かさないのは勿体ないわい」
無論、ここには左利きに対するポジショニングを出来ることが前提となる。
「向こうもそれは承知で来る。可能なら1ラウンドK.Oを狙ってな。
相手のビデオは観た。そのうえでワシはこれを教える」
鴨川は、セオリーだけでは世界を越えられないことを分かっている。その手段として、左回りが潰されたときの右回り。幕之内が不利に見える舞台で、迷わず進める道を伝える。
「左ジャブで相手を牽制し、剣道でいうところの鍔迫り合いの役目に徹底させる。相手が左ストレートを打ってきたところを、ダッキングでかわして左足横まで踏み込んでみろ」
言われた通りに右奥へと踏み込んだ。ふと鴨川のほうを見た幕之内は、ようやくこの意味を理解した。
「こ、ここは…」
「左利きへの2つ目の狙いどころ。右を思い切り打てる一瞬の死角じゃ、咄嗟に出すパンチは右のショートフック、或いはショートアッパー。
ほれ、小僧の左ガードで届かんじゃろう」
「…確かに、一歩の踏み込みに目が追いつくのは難しい」
「そこにウィービングしながら入り込まれりゃたまったもんじゃないな。けどよ、踏み込む足を入れ替えるのは難しいですよ?」
「ならば小僧、避けてみせろ!」
距離をおいた鴨川の声に合わせ、再び踏み込む。右ジャブを掻い潜り、ポジションを取ったところへと合わせてきた右を、大きく弧を描き。
「この2年間以上、一歩のやつ両手両足に重りつけてたな…」
「こ、こんな動きできるのか普通?ブライアン・ホークみたいな気持ち悪さだぜ」
辿り着いた瞬間を目撃する青木と木村は、驚きに声を震わせた。
「懐に飛び込んだが千載一遇、右を振り抜け!」
「…………はっ、はい!」
そこからは、ひたすらガードの練習に徹していた。
あらゆる姿勢から、驚異的な体幹を活かすために避け、回り、引く。デンプシーロールに似た動きは、その日続いた。
「それにしても、やけに避ける練習に没頭してるな」
「あぁ。今日はまだパンチ1つも打ってないしよ。なんかまた企んでるな」
こうして半年間、左利きとガードの練習を繰り返す日々を送った。
───
──
─
再起戦前日。
はじまりの木の横に、一直線に長く引かれた線がある。
鷹村によって引かれた線の名前は、彼曰く。
「人外の、境界線…」
人のまま踏み込むな。
そう言われたまま、3年間避け続けてきた。
線の前に立ち、深呼吸。夜の風が身体に染み込むのを感じながら、右足をゆっくりと上げた。
▼
再起戦当日、控え室。
青木の試合が終わり、次は自分の番が迫った。目を瞑り、最後に集中力を高める。
(思えば、僕が足踏みしている3年間で色々なことがあった)
千堂さんは世界中を激震させる試合をして、宮田くんは圧倒的実力で世界の壁を突破した。鷹村さんは大激戦区スーパーミドル級を制し、敗者の星と呼ばれるチャンプから大絶賛を受けた。
ほかに、山田くんや板垣くん、それに速水さんの2度目のタイトルマッチもあったんだ。
「そのあいだ…」
僕は、止まってしまった。
色々と答えを出したのに、前に進めている実感が湧かない。
「……ぽ、お…、一歩!」
彼の横、先程から声をかける男にも気づかずに。
ついに辛抱ならないとばかりに、幕之内の耳を引っ張り、彼こと鷹村が怒鳴り声を上げる。
「おい、俺様を無視するとは何様だっ!」
「うわぁーーっ!?ごご、ごめんなさい!」
反対側どころか、ホールにさえ響くのではと思う声量に堪らず悲鳴を上げていた。
「か、考えごとをしていました。久しぶりの試合なので、心頭滅却して落ち着こうと…」
「ほぅ、そのわりには顔がニヤけていたぞ。さては久美ちゃんかァー!?」
「ちちち違いますって!宮田くんのことでちょっと…」
「なにィ、男のこと考えてニヤけるなアホがぁ!」
立ち上がった鷹村に背中を蹴られそうになり、慌てて回避行動を取り床に転がる。ギャーギャーと騒ぎながら鷹村を宥めたあと、幕之内は話しかけられた内容を鷹村に聞いた。
「次は言わんぞ。
リングに上がってお前はどうしたいんだ?」
「………勝ちます。勝って、会長に僕はやれるんだって見てもらいます」
「なんだそりゃ」
鷹村はため息を吐く。
「ジジイがそんなこと頼んだのか?」
そして、天井を見上げながら幕之内に問いただす。
「そんな気持ちじゃ、がっかりするだろうな」
咄嗟に出た言葉。
だからこそ問う。
誰が、なんのために求めるものか。
「お前、負けるぞ」
「ッ…!」
鷹村が危惧していたことが1つ。
3年というブランクからくる、試合に対する姿勢の歪み。ゴンザレスに負ける前から見えていたものが、試合から離れることによって多少マシになっていた。
だが、やはり。
試合を前にした幕之内には焦りがある。
誰もが見ていてイラつくほど、昔との心意気が変わっている。小難しいことを知りすぎたのだ。バカの1つ覚えに頭ふって、基本を軸にボクシングしてる頃のほうが強いと言える。
そう内心で評する鷹村は、こういうときに発する言葉を1つだけ知っていた。
「バカ野郎!ウジウジ考えるのはテメぇの性分じゃねーって話だろうが!
リングの上から離れて忘れたか、いや忘れてんだなガハハハ!」
それは、単純な目標を与えること。
「1ラウンドだ」
「え…?」
ポカンと口を開ける幕之内に、大声で繰り返す。
「1ラウンドでK.O勝利してこい!!!俺様の4階級制覇が成る日だぞ、それくらいの気前の良さを見せやがれ!!!」
「は、はい!!」
眉間に人差し指を押さえつけ、出入り口のほうに放り出す。
バランスを取ろうとフラフラする幕之内に、ぽんと手を置く手が1つ。
「話は終わったか?ならばいくぞ小僧!」
鴨川は、もう次の試合の準備を整えて待っていた。
振り向いた鷹村に、先の声に負けじと返事をする。
「はい、行ってきます!」
通り過ぎる足音。
ようやく安息の時間が訪れる。
「一歩、踏み込んでみろ。″その覚悟″くれェしてんならよ、前が見えなくても立ち止まる暇なんざねえぞ」
ぶっきらぼうに吐きすて、鷹村はゴロリと寝転がった。
緩む口元は、いったいどんな予感があったのか。
見たものは沈黙のみだ。
沈黙に答えを聞けど、返事はない。
そのころ、ホールでは歓声が響き渡り新たな幕を開けようとしていた。
【次回予告】
幕之内の復帰戦に盛り上がるホール。誰もが彼の新しい変化に期待を寄せる。
しかし、ここは世界ランカー同士の戦い。
『竜巻のごとき幕之内の進撃を、ゲバラ真正面から迎え撃ちにいく!!』
誰もが望む試合をできるほど甘くないのは、誰よりも本人が知っている。
11/1(金)試合開始!