騒乱とも言うべき青木のK.O勝利がホールの余韻を良きものとしている。
間違いなく、次の試合はタイトルマッチ。再びライト級王者となった王島 総司が相手。噂では彼に挑戦状を叩きつけているという。これを応援するほかになく、報われない結果が日の目を浴びる可能性に一憂する観客たち。
騒めきから数分、青木への興奮を語り合った彼らは次第に口数を減らしていく。
更なる激闘を求める熱が、観客の期待に応えて光を抑え込む。
反抗するように、一筋の注目を浴びる扉へと視線が惹きつけられた。
「いよいよだニ」
決闘の扉から漏れ出す光は、誰にとってもこの日で最も待ち焦がれたものと言える。
『ここまで白熱の試合が続きました後楽園ホール。先輩2人の勢いに乗るのは、いま最も復帰を望まれているこの男だァー!!!』
なぜならば、鷹村 守の世界戦以上に期間が空いていたからだ。
『ファンの間で引退するのでは?と不安の声が出ていました。世界前哨戦で敗北、リングの上から姿を消して3年が経とうとしています』
解説の声に耳を傾ける観客の脳裏に、3年前の幕之内の敗北が過ぎる。
『彼の敗北は2つ。最初の負けは日本ボクサー界を牽引してきた男、伊達 英二によるものです』
惜しくも、そして新たな幕開けになってくれる。そう願ってから3年、ついに来たこの日に思わず口元が綻んだ人は少なくない。
『その再起戦、我々は目撃した。一回り成長し、更なる武器を手に堂々と復活する姿を!』
扉が開かれる。
ゆっくりと、静かに、控えめに光がホールに差し込んでくる。いまから入場する人物のように姿勢の低い、不思議な感覚を漂わせていた。
『ならば、2度目はなにが起こる!?
今宵注目すべきは、その一点に尽きます!』
そして男は、光の向こうから現れた。
『風神、幕之内 一歩ここに帰還!!!』
朗らかな表情、落ち着きのある足取り。
両グローブを口元に寄せ、軽く左右に揺らしながら入場するさまは、いつか見ていた頃の幕之内と変わらない。
観客は、そんな彼を大声援をもって迎え入れた。
「幕之内待ってたぞぉぉぉお!!!」
「遅いんだよバカヤロー!」
「本物だ、ついに本物が帰ってきた!」
重なる声に、上半身を揺らしながら幕之内は応える。
「ありがとうございます、頑張ります!」
右に左に上に下に、深々と頭を下げながら身体を動かし続ける。
「不器用かーっ!」
「ウィービングしながら挨拶してるぜあいつ!」
「やる気十分じゃねーか!」
WBCから勧告を受けるまでの3年間、幕之内はひたすらに己と向き合い続けてきた。
ときには衝突もあり、なかには甘い時間もあった。3年という刻、多くはやはりボクシングと向き合う時間となる。
鷹村は言った。
″人外の者だけが棲む場所″
世界の頂点を目指す者たちをそう断言した。
幕之内に、お前は違うと言ったのだ。
″人のまま踏み込んでくるな″
悩んで、どうするのか分からない時間ばかりを積んだ。
再起戦に臨む前、その線の前に立った。
その答えは、試合の結果となる。
『彼が再起戦に選んだ相手は、同級世界ランク8位!』
続けざまに告げられる、世界の扉。
『フィリピン王者として1年と半年、5度の防衛後にタイトル返上。世界10位の選手と対戦。6ラウンドK.O勝利を納めてから注目を浴び、1試合ごとにランキングを1つ登っています』
光の向こうから、朗らかな顔の青年が姿をあらわす。
(僕たちには力が足りない。
お金も、経験も、そして大人たちの複雑な事情だって絡んでいる)
『
(あの
絶対に勝ってみせるよ、みんな)
悠々とリングに入り、準備を終えるゲバラ。
両者がリング中央へと歩み寄り、審判の話のあと、グローブを合わせる。それで戦意を確認するや、コーナーへと戻っていく。この試合、2度と挨拶を交わすことがないと確信したからだ。
『世界へ再始動する幕之内。
最終ラウンドまで長引くことがない意思確認。
K.O勝利で幕を閉じる気迫そのもの。
試合に臨む姿勢は、両者互角。
『試合開始のゴングが鳴る!』
リングサイド、先に行動を開始したのは幕之内。
相手がコーナーから離れていないうちから、リズムを小刻みに取り、全身を使い左右へと揺らす。距離が空いていることは些末な問題であり、0秒後にいかなる攻撃が降りかかろうと全て避けるつもりでいる。
すでに迎撃態勢が完了していることは、ゲバラですら理解できるほど。
「いつも通りの幕之内だ」
「あのウィービング見ると落ち着くな」
「あぁ、後楽園ホールに来たって実感するぜ」
再起戦、ブランクは3年間。話に聞くそれらはすでにゲバラの念頭から離れつつある。幕之内がみせる油断のなさは、同級WBAの頂点に君臨する男、リカルド・マルチネスに通ずる恐ろしさがあるからだ。
強固に閉じる両腕、止まる様子のない振り子運動。決して基本を厳かにしない、
静かに始動する駆動音が、両者の緊張を段階的に上げていく。
(
対角線上。前に飛び出すのは右腕。
鏡と向き合うような感覚は、幕之内にとって試合で初めての体験。国内ランカーレベルの左利き選手を呼び、経験を積んではきた。だが、彼らに共通することが一つ。幕之内の豪打を前にして、1ラウンドと持たなかった。
故に、世界ランカーともなれば別次元の話であり。幕之内が頼るものは、会長との左利き対策の猛訓練となった。
(ピーカブ・スタイル。聞いていた以上に圧が重い)
呼吸を繰り返すごとに前へ。
(先に僕からいく。大丈夫、いつも通り…)
的が大きくなる代償と引き換えに前へ。
(ここだ、足を止める!)
射程圏が重なろうともさらにに前へ。
(行くぞ、絶対に譲っちゃいけない!)
二つの影が中央へ飛び出す。
音が鳴る。
響く重低音から連想するものは痛々しい映像。人が車両に跳ね飛ばされるような感覚を観客は味わう。だが、ここに通路はあれど道路はなく、当然だが自動車は走っていない。
ソレがボクシングという競技で鳴る音なのかとリング上に目を向ければ、ゲバラの
「な、なんつう音だ!?」
「相手の
「あんなの食らったら、いくら幕之内でも…」
もはや肉の音はどこにもない。
骨と骨が衝突した。試合早々でありながら継続できるのかと不安がはしる。3年間のブランクにより、試合感覚はとうに無くなってしまったのか、と。
事実、幕之内のウィービングには足りないものがあった。
左利きを相手にしたときの距離感を間違えていた。結果、ゲバラのジャブは最大の威力を発揮する地点で着弾する。
(〜〜〜〜ッ!?)
(も、もう届いた)
完璧なジャブを放つゲバラの口元は歪んだ。
触れたものの感触に、思わず表情に出てしまっていた。リングの上では決して触れるはずのない、鉄のように硬いもの。グローブ越しに、あってはならない鈍器が隠されているのではないかと。
(違う…これは、間違いなく手だ。手なんだ…)
全身に鳥肌を立てながら、目を見開いた。
そんなものはない。不正などの類いはないと理解できる。だからこそ、この拳で打たれた自分を想像して生唾を飲んだ。
(近づかせちゃいけない!)
(構うな、このまま入り込むんだ!)
迫り来る赤い壁は、恐ろしいほどに人である。
めり込んだ右拳を引いて、次弾装填とバックステップの信号を身体に入力する。思考の挟まる余地もない当然の行動、鳥肌も関係ない迷いのない状態から。
ステップインが巻き上がる緊張の音を散らし、閉じる両拳の奥から力強い危険信号が鳴る。
1ミリたりとも離れることなく、赤い壁はゲバラの目前で静止する。
ゲバラの右足より外、奥に踏み込んできた幕之内の左足が発射台の完成を意味していた。
(折り畳まれた!?
(気をつけろ、この人も世界ランカー。絶対にくる…)
ゲバラの右拳と幕之内との距離はゼロ。
緊張が走る。誰もが知っている。この距離で幕之内がどこを打ったとしても
『な、なんといきなり密着ゥゥウ!!
出るのか、いきなり決められるか幕之内!?』
ゲバラは、幕之内という選手のことを少なからず知っている。世界ランカーとなったことで得た情報網から、限りなく最悪に近い相性だとは分かっていた。彼ほどのパンチ力に迫るフェザー級ランカーはいない。
(開幕だ、退くな、左ストレートなら!)
(僕のボクシングを、やりきるんだ!)
パンチを受ければ敗北濃厚、だが。
ならばこそ、
その実績は、
「流石、世界ランカー。若くしてフェザー級8位に登りつめるだけの判断力じゃ」
「えぇ、勇敢なるゲバラ…。絶対に攻めどころを間違えず、勝負どころを逃がさない」
立ち向かうゲバラを見て、鴨川と八木は驚きの声を出した。
「一歩くんのデンプシーロールですら、彼は突破の糸口を掴んでくるでしょう」
「だからこそ、3年のブランクに相応しい相手と判断した」
右拳を握りしめる鴨川が見つめる先。
リングのなかでは、同じ拳を一歩が握っていた。
右拳の装填を終えた。
眼前で見るだけでも肝が冷える光景を前にして。
(ここだ!)
ゲバラは、覆い被さるように左拳を振り抜いていた。
相打ちだとしたら、意識を繋ぎ止めるための心が必要だ。リング中央から弾き飛ばすつもりで左を握ったのだ。それだけの覚悟を胸に秘めなければ、真正面から迎え入れるなどできはしない。
心持ちにおいて、ゲバラの行動は幕之内の先をいった。開幕最大級の火力が放たれる、その予感は幸か不幸か的中────。
(いくぞ!)
────的中、していた。
リングを踏み捻り、目下の火薬庫が最大速度で谷を描き、急停止する。
間一髪、真下を通り過ぎる黒い大砲。不発の左が物語るものは、グローブの色と同じ危険信号。
世界は広く、我流のボクサーもちらほらと点在する。異色な存在である歴代の人物と比較しても、いま幕之内が見せる姿などリングの上で見たこともない。
左足が飛び退いたかと思えば、右足で懐に踏み込んだ。ここまでならよくある話だ。しかし、ゲバラの左ストレートを避けるためにウィービングし、右足一本でバランスをキープするなど。地面スレスレを頭が滑空し、浮上する姿にゲバラの脳は追いつけていない。
(ウィー、ビング!踏み込んでたじゃないか!?)
試合前より幕之内が最も警戒しているのはゲバラの左。世界ランカー3人を切り崩した左は、映像越しですら直撃すれば敗北という確信に至る。
「ゲバラの判断力はピカイチじゃ。
しかし、だからと手が出せないほど小僧の踏み込みは甘くはない」
左を被弾することなく打つ。これに尽きる。
ゲバラの予感的中が逸れた原因は1つ。
幕之内には、鴨川との練習の積み重ねがある。
たったそれだけのこと。
これまでと、なにも変わらない。
(しかも、なんだその体勢は…!まさか、右足だけで打つつもりか!?)
(会長のミット目掛けて!)
幕之内の脳裏によぎる、練習風景。
″左利き相手でも自分のボクシングを押し通してみろ。
左回りでダメと思えば右に行くんじゃ。
思いきりぶつかれ!″
「いけ、小僧!」
練習の成果は、こうして現実と重なる。
視線の先。
(右!!!)
幕之内の拳を受け止めた鴨川の顔が、ふいに綻んだ。
(─────────────────────────────────────────────、)
ボディの内と外で、拳大のモノが爆発する。
人間の生命機能はあっという間に泥と化す。肉片でもなく、部位欠損でもない。いっそ失くなってしまえと思うほど、イタズラに課せられる荷重。
一瞬、なにが起きたのか分からない。
取り返しのつかない事態に、恐怖だけが脳髄に突き刺さる。
(─────────────────────────────────────────ガ、ッ!)
一瞬、宙に浮く。
それでようやく、内側から昇る衝撃に気づく。
なにをできるものでもない。揺れる景色の向こうは、砂嵐を映していた。
ことの末端を地獄の苦しみによって知った身体は、うつ伏せにリングへと沈んだ。
『か、かか開幕ダウンを奪うぅぅぅぅッ!!』
3年ぶりのヒット、3年ぶりの豪打、3年ぶりのダウン。
一瞬に凝縮される幕之内の懐かしい姿に、観客が黙っているはずがなかった。
「この音だよ!これが聞きたかったんだ!」
「待ってた、待ってたんだよこれを!」
「まっくのうちぃぃぃぃいい!」
『たった10秒、大砲1発によって悶絶の世界
これが幕之内 一歩だぁぁぁーー!!!』
拳を突き上げ、ある者は立ち上がり、やがて波長が重なっていく。幕之内の名を呼び、ホールの外にも轟くほどの勢いを生む。
とうの本人は、歓声よりも先に鴨川のほうを向いていた。
(どうじゃ小僧。世界の波は見えたか?)
(見えました、会長。ありがとうございます!)
この調子で飛び込んでいけ。
はい!終わらせてきます!
そんな会話を終え振り向く。
ゲバラの状態は、レフェリーがストップをかけてもおかしくはない。
歯をこれでもかと食いしばり、首筋を浮かび上げながらも身を起こす。なぜ立ち上がれるのか、と。きみの悪さを漂わせながらレフェリーの顔を覗き込んでいた。
(来る…!ゲバラさんの目は、試合を投げ出した目じゃない)
幕之内の確信は、レフェリーの合図とともに現実となる。
『なんと続行だ!ゲバラ立ち上がるが、しかし足が覚束いていない。ダメージは深刻だ!残り時間でケリを着けに行けるか幕之内ッ』
早期決着の予感に、ホール中が声を張り上げだす。
ここまで試合開始10秒経過という事実。
次話、11/2(土)!夕方頃!