幕之内とゴンザレスによる、時差ボケ解消スパーから30分が経った。死屍累々の幕之内、不調の千堂らが回復し、役者も揃ったということで、関係者一同によるミーティングの場が設けられた。
本来なら挨拶から始まり、今後の方針についての確認といく手筈だが。
「あ、あの……。他所でやっても、タネは明かすなと会長に言われてまして…」
「んな小さいことせんわ!
作ったんか、作ってないんか教えぇ!!
新しいデンプシーなんやろ、さっきの!!」
千堂のいかり盛る問いに言い淀む。
新型の開発をしている、或いは終えたことは明白だ。頷けば済む話なのに肯首しないのは、
「
「………はい」
ゴンザレスの言う通りだと幕之内が返事をする。
新型デンプシーの試運転を実行し、結果は4ラウンドまでしか続かなかった。デンプシー・ロールにおけるディフェンス技術の延長である新型は、短期間で捩じ伏せられていいものではない。
「理想には程遠かったです。
コンパクトに動けなくて、ジリジリと追い詰められました」
とは幕之内の弁だが、伊達と千堂は末恐ろしい宣言に生唾を飲んでいた。
リカルドを僅差で上回る
その言葉を信じるなら、年長者としての助言は1つ。
「経験値不足だな。世界レベルで条件の近しいボクサーとはやってなかったんだろ。
なら話は簡単だ。ゴンザレスとのスパーに時間を当てればいい。今井対策としても参考になるだろう。思う存分、試すんだ」
要は無敗神話級の拳による研磨。
完成した…と思っていた新型は荒削りの付け焼き刃だった。ここからゴンザレスとの怒涛のスパーを経験し、新型は遠からぬ日に無敗神話にも通じるものとなるかもしれない。
そうして幕之内の方針が決定したところに、
「ちょいちょい。ゴンはワイのスパー相手やろ」
千堂からの異議申し立てが入り込んだ。
せっかく幕之内、ゴンザレスとスパーが出来るのに、2人だけで盛り上がられては
「それはゴンザレスと話した。時間制だ、3ラウンドごとに交代し、休憩中に反省点を見直しもらう」
ゴンザレスの体力が続く限りな、という注意事項を付け足して解決したところで、次は伊達から千堂へ。
「そんで千堂。スマッシュ使いもんにならんが、どうするんだ」
次の試合、最大の最難関を問いかける。
ここには、直撃すれば試合をひっくり返すことも出来るが、そういったパンチを前回の試合で悉く防がれただろ? 攻撃面の課題は丸々残ってるんだぞ! の意が隠れている。
そんなことは百も承知。頷いた千堂は、こう返した。
「ポンポン打たへんよ。今のゴンにも当てられへんやろうし。
絶対に当たるスマッシュを考案中や。行き詰まり中やけど、幕之内見てると脳細胞が活性化しての? あと少しで形になりそうやねん」
「ンなもんあるかよ」
「無い! せやからワイが作るんや」
「あと1ヶ月だ、チンタラやってる時間はない。無駄に使う体力もない。ここからは2人とのスパーでモノにするしかないぞ」
「言われんでも分かっとる。ガードはみっちり準備した。残るはワイのゲンコツ当てる方法や」
唸る千堂。
迷走っぷりに苦笑いする幕之内。
眉間を抑える伊達、ときて。ゴンザレスは「そういや」と間に割って入る。
「とある選手は引退後、リカルドのことを語るために敗北は欠かせないと言った。敗北は通過儀礼だ、と」
リカルドに関する迷信や警句は数多ある。
ゴンザレスほど追いかける熱狂的なボクサーは、無数のむせかえるソレらに触れてきた。こうも積み重なれば恨み節と思えるソレらから、ゴンザレスが最も想いを感じた言葉を机に置いた。
「それは、勝利のためにですか?」
「そうらしい。馬鹿馬鹿しいと思わないか?
言った本人どころか、誰もヤツに勝ててないんだ」
敗北は通過儀礼。
これを気休めと思うだろうか。
敗者への慰めだと拗ねてしまうか。
「…それも、ワイが実現したる。
勝ったらんとゴンも浮かばれへんやろうし」
「死んでないが」
ちょっと口を尖らせる千堂に、そうじゃないと手を挙げて早とちりだと唱える。
「登り詰めろ」
駆け上がり、無敗神話に近づいて、敗れ。
敗れた者が、次の挑戦者を押し上げて。
敗者の土嚢を積み上げて、神話崩壊を願う者たちが無為に散らないようにと、数多の言葉を残す。
「もう一段駆け上がれ」
やがて選りすぐりの敗者が挑み、敗れてきた。
彼らは無敗神話へと怨嗟を吐くのみだったか?
否、もう一度を成せないなりの言葉を綴り、太陽を見上げる者たちの背中を押して今日がある。
「ソレをアンタはそう解釈したのか」
「同じ状況なんざ無い。場面場面で捉え方は変わるさ。だから俺たちはこう言い換える」
リングに上がり、グローブを嵌めて、ゴンザレスが次のその役目を担う。最後の礎になることを願って。栄誉ある礎にしてくれよ、と発破をかけて笑う。
「でなければ、ここで殺す。
俺たちがお前を終わらせてやる」
「盛り上がること言ってくれるやんけ。
ゾクゾクするわ、っし! ほら柳岡はん、もう万全やさかい! ゴンの歓迎せなあかん! 行ってくる!」
「あぁ千堂! …はぁ、しゃーないな」
本気も本気の殺意に、笑い返してリングへ上がる。
幕之内、ゴンザレス、両雄との
全員がそう願っていた。
彼らなら、必ず成し遂げてくれると。
こうしてフェザー級の頂点たちが集結し、幾重に及ぶ拳を積み上げて3週間が経過した。
▼
「幕之内さん!」
晴れ晴れとした空模様。
真昼にジムを訪れた幕之内に手を振って出迎えたのは、伊達ジムに来るたび千堂に果敢に臨み、毎度毎度と返り討ちにあっている練習生。
伊達ジムの条件付き起爆剤こと伊達雄二。幕之内を慕い、幕之内が伊達ジムに来てからは毎日スパーをせがむほどの幕之内ファン。そして、千堂に毎日のように威嚇する困ったちゃんだ。
「雄二くん! 今からランニング?」
「はい! 今から練習ですか! あとでご一緒させてください!! 父さん、ミットをちゃんと持てるようになったので、今日は僕も打っていいんですって!」
ウキウキで話す姿に、とある後輩を思い出す。
彼は日本チャンピオンとなり引退したが、今も元気でいるだろうか、と。そこから雑談を交えていると、父親の話に移行していた。
「幕之内さんのお陰様でお父さんの負担が減って、お箸を持っても痛がったりしなくなりました!」
「ほんと!? 良かったよ。千堂さんとのスパーで痛めた腕も回復したんだね」
「もう、千堂さんには呆れ果てます! 練習の邪魔はしないって言いながら、父さんは疲れた身体で皆んなのミットを持ってるんです。精度が落ちているのは僕でも分かりますよ!
邪魔しないって言ったのに。嘘吐きは嫌いです」
伊達ジムに来てからというもの、雄二からは何度も聞いた千堂に対する不平不満。
父親の身体を心配するものが大半で、私生活での痛々しいコマをよく聞いている。
他にはやはりリカルド戦だ。リベンジマッチに対する不満だ。幕之内が挑戦出来なかったことに腹を立てている。様々な要因が合わさって、千堂との相性は宜しくなかった。
「でも、負けてほしくはないんだよね」
「……………………………………でも」
だが、怨敵のようには見ていないことも幕之内は見抜いていた。2人がスパーをしている姿は、小学生が鬼ごっこではしゃいでいるようで微笑ましかった。
リベンジマッチ、その意味を雄二は誰よりも理解している。父親の背中を見てきたのだから。
「約束、してくれたじゃないですか」
このセリフが滅茶苦茶なことも、我儘なことも、無力なことも理解している。
千堂が勝つことを信じての発言ではない。
リカルド・マルチネスがフェザー級にいる間に幕之内に倒してほしかったのだ。父親が敗れた、フェザー級の無敗神話を。もう彼は、千堂戦を最後に階級を1つか2つ上げる。
あの日、幼い雄二との約束が果たされることは無いのだ。
(あの気持ちを裏切ることも、僕には出来ない)
幕之内の本心だ。
『今の僕じゃ、リカルド・マルチネスには勝てないよ』
雄二への返答は約束となり、ここまで幕之内自身を引っ張ってきてくれている。
「約束って、身近な奇跡なんだ」
「奇跡、ですか」
だけど。
日本タイトルマッチ、決着後の約束を思い出す。
「約束してくれたんだ。『また会おう』って」
「……千堂さんと」
ここに来て、衝突が起きてしまった。
酷い事故だ。無敗神話に阻まれるなんて。
「2つが交わらない約束をした。
僕だけじゃないよ。千堂さんも、僕と戦うとき、色々な約束を交わしてた。この世界では約束を守れない方が悪いんだ。だから、ごめん」
言葉にしてはいないが、2人の再開の舞台は間違いなく世界だ。それも、とびっきりの大舞台。
千堂はゴンザレスとの試合を世界前哨戦と宣った。
それはそのまま、リカルドにも当てはまる。
どれだけ強い相手だろうと、幕之内との試合以上のものはない。だから幕之内は千堂が勝つと信じている。
「幕之内さんに言われたら、頷くしかないよ…」
喉元まで出かかった言葉を飲み込み、拳を握って気持ちを抑え込んだ。青年ながらに大人の事情を汲み取った精神力には幕之内も脱帽する。
「それに…なんだかんだ構ってくれますし」
「!」
「千堂さんにも、負けてほしくないんです」
「大丈夫! 千堂さんはきっと負けない」
「……けど! もし、次があったら」
「うん。改めて、約束しよう」
伊達やゴンザレス、他にもリカルドにリベンジした者らは見違える成長を経て試合に臨んできた。
そのことを雄二は否定しない。ボクシングに絶対はないのだ。だから、形を変えて約束を結ぶ約束も取り付ける。抜かりのないしっかり者だ。
余談だが、雄二はゴンザレスに対しても威嚇している。幕之内を敗ったことを引き摺っていて苦手意識があるそうだ。
▼
そんな日々もあって迎えた公開スパー当日。
ロッカー室で準備をしている千堂とゴンザレス、マスコミ対応中の速水から離れ、裏扉に足を運んだ幕之内。呼び出した伊達に「ちょっといいか」と連れられて、3週間弱のスパー三昧の成果について「で、どうだ千堂は」と切り出した。
「受け答えは普通ですし、リベンジに向けての意気込みは凄まじいです」
試合まであと数日。仕上がりは上々。それは幕之内にも言えることだ。同じジムで凌ぎを削り、幕之内の新型を沈める場面もあった。確実に幕之内以上の実力がある。然し「ただ」と区切り、唇の端を歪ませる。そして、逡巡の末に選んだ言葉は。
「まるで、抜け殻のよう…」
「幕之内から見ても、そうなるよな」
伊達も同意するほどに、悲しい報告を挙げる。
ゴンザレスが「バカがなに考えてんだ!」と言うや殴り合いの喧嘩に発展するくらいの気力はある。
練習に取り組む姿は真面目そのもので、ゴンザレスからも「肉体は言うことなし」とお墨付き。
「いまの千堂武士に足りないもの、分かるか」
だから、不足分を答えるのは簡単過ぎる。
「無尽蔵の自信です」
「無根拠の自信だ!」
「「確かに」」
その源泉は見方の違いで、自信は共通事項。
脂の乗らない自信でリカルドを前に何分保つと思っている? 闘志に点火しようとも、燃え上がる脂が無ければ、太陽の日差しにすら消し炭にされるだろう。
ありとあらゆる自信を兼ね備えた漢だ、これが無いことは脊髄を抜かれた人体も同じだ。
「ポテンシャルはゴンザレスに勝るとも劣らない。成長の実感が無いと言っちゃいるが、お前たちとスパーして理解している頃だ。同格との戦いに身を費やし、長い助走距離を経て爆発的成長を遂げたことを。
だから残りは自信。精神面の蓋を取っ払うだけだ」
3週間、自信ややる気、精神面を持ち上げようと色々と頑張ってきた伊達たちだが、その取っ掛かりさえ掴めていない。それを、伊達はアテがあると言う。
「蓋?」
「あぁ。お互いの思う千堂の自信、その源泉をあいつ自信が閉じちまってる。
枯れるのを恐れてるんだ」
「………それは」
簡単に言うけれど、難しい問題だ。
ひょいと開けられたら、ここまで悩みはしない。
「千堂はな、引退していないだけの俺だ。
リカルドに負けて引退して、屈辱をスーツで覆い隠していた頃の俺にそっくりなんだ。
無理もない。2ラウンド負けなんて、本人が一番信じられないだろう。俺以上の実力があったのに大して変わらない結果だ。本当に、よく分かる」
「あ…」
簡単に言うソレは、思えば難しい話ではなかった。
千堂の現状は、かつての伊達英二と共通している部分がある。
自信家であること。1度目の挑戦でリカルドに2ラウンドK.O負けしていること。そして、日本でリベンジマッチに燃えていること。なら、次に続く“こと”は…。
「俺とは違う点が1つある」
「いったい、なんですか」
「お前だ、幕之内」
「………………あ」
「2度、負けている」
もう1度、気づきを得た幕之内。
次の“こと”を思い浮かべかけたところに待ったを掛けたのは、かつての伊達と千堂の違いにある。
リベンジマッチの敗北だ。
だけど、と直ぐに足しになるものなのかと首を傾げていた。
「俺もゴンザレスも、リベンジ敵わずに引退した。
アイツの周りには悪い方向に同じ境遇のボクサーばかりだ。縁起が悪いにも程がある」
「そ、そんな…。概念の話じゃ…」
「ボクシングにも、時に流れは大事だろ。
それが全てじゃないが、見本がないのも事実。だからかね、いまの千堂は負けてもいい理由作りのために練習しているように見えてならない」
縁起云々は置いても、理由作りというのは同意だ。
千堂さんの身体能力はゴンザレスさんと同等で、リカルドに拳が届けば、その先があることは疑いようがない。だけど、心だけが何処かを彷徨っている。
違和感は他にもあった。
伊達とのスパーで磨いたディフェンス技術。
リカルド戦での反省を活かし、千堂の弱点を補ている。正解ではあるのだが、千堂さんらしくはない、と幕之内は思ってしまっていた。
スマッシュの弱点…守備を、より攻撃に特化させた超低空スマッシュのように、千堂らしい強化は前回と比べて今のところ見当たらない。
そのことを伝えると「それも同意だ」と言い、「だから」と千堂の弱気、行き場のない行末を見つけるための結論へと話を戻した。
「きっかけが必要だ。俺に幸子が居たように、千堂の背中を叩く力強いきっかげが!
幕之内、お前なら壊せると信じている」
とん、と肩を叩く。
再び首を傾げた。ここまで何かしてあげられた気はしないし、今井対策と新型の仕上げで大半を使ってきた。3週間、空いた時間で目一杯の気遣いをしていた。
劇的なものはなかったし、心を揺さぶる言葉も発想も浮かばない。「伊達さん、僕になにが出来るんですか」そう問い掛けた直後、後ろのドアが乱暴に開け放たれた。
「おいエイジ! テメッ、まさか!!」
「ゴンザレスさん!?
盗み聞きなんて人が悪いですよ!」
常識的な説得なんてどこ吹く風。
準備終わったことを言い訳にして、伊達に話を促す。
「
「それで幕之内に声が掛かったのか!?!」
2人だけで盛り上がるのを他所に置いてけぼりの幕之内。だが、考える。自分に関係があって、ゴンザレスが興奮する事態。彼奴、と因縁含みのある言い方。
「彼奴、というのは。……あっ」
「そうだ」
ここまで揃えば鈍い幕之内にも答えが出せる。
喉を鳴らし、聞き届ける準備もままならないうちに。
「今から鴨川ジムに行ってくれ。
そこがリカルド・マルチネスの滞在するジムだ」
───
──
─
伊達との話し合いを終えた幕之内が荷物を取りにロッカー室に入ると、公開スパーの準備を終えた千堂が腕を上げて、そして幕之内の表情を見るや。
「おう幕之内。
今から行くんやろ、リカルドんとこ」
どこから聞いていたのか。
言い当てられて思わずスタンディングのポーズになって、しどろもどろの言葉しか出てこない。
「えっ………! っとですね、これは、その」
「顔見たら分かるわい」
呆れた男や、と笑いながら言い放つ。
幕之内は恐ろしい勘の鋭さに身震いする。
千堂とはこういう野生味がある人だと、懐かしい思いに駆られつつ、どう言い訳しようかと思案する。
タイミング的には、敵に塩を贈りに行くように見えてしまうからだ。「慌てんなや」と落ち着かせ、「申し訳ない気持ちなんよ」と前置き。
「申し訳ない、ですか?」
「次の試合でリカルドは引退や。ここで渋ったらヤツと拳交える機会は永遠にないっちゅーこっちゃ。
公開スパーの数分しか出来へんってのは、ワイなら前菜だけ出されるみたいでモヤモヤするさかい」
幕之内の前に立ち、心臓に向けて右拳を突き出して。
「宣戦布告は譲ったる!!
せやからしっかりとリベンジ決めてくるんや。
ボコられて帰ってきたら承知せえへんで!!!」
不遜にも次はないと宣い、貴重なスパーであると意識させられる。背筋の伸びる激励を貰った幕之内は、しかと胸に刻んだことに応えるため、大きく頷いた。
「行ってきます!!」
リュックを取り出して、早々とロッカー室を出る。
去り際の挨拶はハツラツに。千堂に贈るものを手にするため、まだ手ぶらの右手を振りながら。
▼
幕之内の背中を見送った。
身近にいたライバルが遠くに行く。
無意識のうちに、手が伸びていた。
なぜ追わない? 呼ばれていないから?
焦燥が語りかける。
あと数日で戦う相手に会いに行って何をする?
知性が返答する。
そんなことは聞いていない。
分かっている。ただ見送っただけの自分が、手遅れにあることを分かっている。もう、自分を見失っている。
もう、あの頃の自分は居ない。
「あぁ…。地元のコナモン食いたいわ」
コーナーにへばり付いた、臆病な男だけ。
後退する余裕すら無い、無くしてしまった。
気絶しながら戦った千堂武士は、もう何処にも…。
幕之内一歩VS今井京介、勝者は?
-
幕之内一歩
-
今井京介
-
引き分け