鷹の6本のツメ   作:ひとりのリク

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今回からリカルド千堂の勝敗アンケートやります!
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無敗神話との差

 

本日は快晴、絶好のランニング日和。

日本中のボクサーがダッシュに精を出し、(きた)る戦いに向けて足腰を鍛え上げている最中に。

太陽を呼び込んだ男が1人、鴨川ボクシングジムのリング上で、黙々と左ジャブを打ち込んでいた。

鴨川ジム前を通る地元の人間は、すぐさま鷹村のものではないことを聞き分ける。甲高く布地を叩くキレの中に、ヘビー級の如き重低音あり。然し、やや丁寧さに重きを置いたリズム感が、日常とのズレを察知させた。普段は通り過ぎるだけの鴨川ジムの窓に目を向けると、向こう側には見るだけで息苦しくなる人口密度が作られていた。鷹村の試合前の公開スパーでももうちょっと少ないソレに驚きつつ、今度はリング上で件の音を鳴らすボクサーに目が移る。

地元の人間はようやく状況を理解した。これは、確かに人…マスコミが詰め掛けるはずだ、と。

リングの真っ只中にはリカルド・マルチネス。

東洋太平洋ランカーを左腕だけであしらい、後に控える他ジムのスパーリングパートナーを震え上がらせていた。その様子を窓の反対側の壁に寄りかかりながら見学しているのは、青木と木村、鷹村だ。

 

「なんで大阪のジムじゃないんだ?

会場は大阪のいつものとこだろ?

今日明日には移動しなくちゃ行けないだろうに」

「東京の方が世界ランカー多いからって話だ。2、3日置きにジムを転々として万全のスパー相手と調整してんだと。贅沢なやつだぜ」

 

ついさっき、公開スパー前に藤井記者から聞き出した情報を披露する木村。

彼らの横には鴨川と八木、篠田がいる。

鴨川は「漏らしたバカは誰じゃ」と憤り、八木と篠田は苦笑い。この3人を鴨川ジムから遠ざけたのは、この日の公開スパーを勘繰られないためだった。近隣のジムで練習していたのに、当日になってみれば当たり前のように居る。問題児らが不用意にリカルドに接触するのを恐れてのことは無意味に終わった。

 

「いっちょ日本チャンプの俺が相手になってやろうじゃねえか」

「どう思います、鷹村さん」

「よくて血祭りだな」

 

あまつさえ、無駄にやる気のある青木がこの発言だ。

篠田の顔は真っ青である。あと2ヶ月未満で伊賀戦だというのに、何を言い出すんだという顔だ。

 

「リカルドに小細工が通じるか見てみたいが。あんなもん出した日にゃ、命はないぞ」

「侮辱行為と思われて国際問題に発展するかもしれんですね」

「貴様、このジムを潰す気か! 大人しくしとれ」

「俺のボクシング全否定された…」

「ただし! やるのが青木なら、の話だ」

「…………? はっ!アンタ、まさか」

「鷹村、何を考えとる? もうすぐ…」

 

そう言うや鷹村は、手に持っている14オンスのグローブを肩に掛けてリングサイドのロープに腕を乗せた。

粗方のスパーを済ませ、鷹村とは対角のリングサイドでトレーナーと話しているリカルドは、鷹村の存在に眉をひそめる。

 

「よぉ無敗神話、調子良さそうだな。少しばかり刺激が足りないんじゃないか」

 

喉元を鳴らしたのは誰か。

言葉の真意を解いた誰かだ。

鴨川ジム、鷹村守。元々、ここには不穏な要素が多い。前々から、冗談半分で囁かれていた。「あーぁ、鷹村とリカルドでスパーしてくんねえかなぁ」と。パウンド・フォー・パウンドを語るように気楽で無責任な、夢のような戯言を。

一同が戦き、手に汗握る。注目するのはリカルド。彼は無言で振り向き、鷹村と視線を交差した。

シャッター音が鳴り響く。今生の一枚、ボクシング史に残る場面として残すべく。或いは、興奮で制御を失った指先が、記者魂だけで突き動かされて。

凡そ2秒の出来事。世界トップ3のうち2人が同じリング上に存在する鴨川ジム。熱気で鼻血を出す者が現れた頃に、トレーナーであるビルが割って入った。

 

「無理だ、受け入れられない。マモルとリカルドの体重差を知っているのか?

試合前のボクサーを怪我させるつもりか…」

「ビル、そうじゃない」

 

抗議の姿勢にあるビルを宥め、ビルを視線で誘導する。その先はニッと笑う鷹村の後ろ。

ロッカー室に続く廊下のドアが開き、「おうっおせえぞ!」と鷹村が手を挙げた。

 

「スパーの相手を探しているとお聞きしました」

 

試合と同様、戦闘体制の幕之内。

小さく肩で息をしている様子から、ウォーミングアップは万全と見てとれる。

伊達ジムで1時間のスパーを終えた直後、伊達ジムから25分のダッシュで到着。

鷹村の投げたグローブをキャッチし、鴨川が横から装着を補助する。

 

「一歩!?!」

「いつの間に!」

「裏口から。記者さん多くて入り口から入れなくて」

 

青木と木村に挨拶を終えると、ぼそり鴨川が呟く。

 

「……強化は成ったようじゃな」

「ゴンザレスさんと互角までに」

 

同じ声量で心強い返答。

鴨川は伊達ジムに時折だけ顔を覗かせ、幕之内と打ち合わせやミット打ちを行っていた。大まかには調子を把握して、あとは伊達の報告を聞き、リカルドを迎えるための準備に奔走していた。フェザー級のリカルドとの試合を用意できなかった代わりに、5年前のスパーの続きを褒美とし、糧にしてもらうために。

 

「幕之内だ!」

「や、やるつもりだぞ」

「またボクサーパンツ、本気だ!」

 

先程まで、リカルドの肩慣らしの高すぎるレベルに見惚れていた記者らがどよめき始めた。皆んなコレを期待して鴨川ジムに訪れ、幕之内が居ないことを伝えた時の落胆具合は笑いものだった、と後の鷹村談。

盛り上がりを見ていたビルは、見覚えのある顔を見て顎をさする。

 

「マクノウチの所属するジムと知ってはいたが、来た時は姿が見えなかった。スパーをさせないためだと思っていた。あの様子だと、相当な練習を積んできたと見るべきか。良いのかね、試合前だぞ」

「構わない。むしろ、オーダー通りだ」

 

リカルドの返答、良し。

ビルの異論が無いことを見た鴨川は、幕之内をリングへ上がるように指示した。以前、見学のためにリングから離れて見ていた時とは違い、指示を出すためにロープ際まで見送りに登っている。

 

「前回を覚えとるな」

「左ジャブに完封されました」

「パンチを貰えばリズムが崩れて前回の二の舞じゃ。慣れるまではガードを上げろ、無理に攻めるな。

そして、チャレンジャーであることを自覚しろ」

「はいっ!!」

 

本気の師弟を見て、いよいよ記者らも手元を慌ただしくし始めた。既に試合が如き緊張感が漂うジムの壁際で、鷹村たちも黙ってはいられない。

 

「コアトルの神体、だったか。なんでも、身体能力が衰えないらしいぞ」

「冗談キツいっスよ。リカルドはもう35過ぎてんだ、全盛期を維持するどころか老いに脚を引っ張られる歳ですよ?」

「いくらメキシコ人だからって、伊達さんと試合した時よか体力落ちてますって。

今の一歩なら、もしかするとダウンまでいくんじゃないすかね!」

「いやいや、流石に無理だろ。ゴンザレスに押されてたとはいえ、倒しきれなかったんだ」

 

浮き足立つ青木たちを横目に、記者の群れから抜け出てきた藤井は、同伴してきた飯村に話しかける。

 

「前回、日本チャンプだった彼はリカルドの左に封殺された。今回もし同じ結果なら、千堂にとっては向かい風になるな」

「そんな訳がない。復帰戦で彼は世界ランカーを打ち落としました。世界戦の経験の差はありますが、それを埋めるために来たに違いありません」

 

同感だ、と言って。

鷹村が歩み寄り、飯村に言う。

 

「千堂がリカルド倒しちまえば、リングで巡り合うことはなくなる。

そう信じてるからこその気合いだろうよ」

「千堂武士が勝つと、信じているのね?」

「一歩はな。あんたは記者として、どう見てる?」

「…9:1でリカルド優位。千堂選手の仕上がりは前回以上だけれど、新しい何かは見受けられなかった。

足し算になる要素が私でも見つけられない以上、1でも希望的過ぎると思っています」

「まさか本人に言ったのか!?」

「いいえ。練習の気を逸らすのが憚れて」

「言えば良かったのに」

「えっ!?」

「一歩が言ってたんだがな? 千堂が言うには、リカルド相手に一割の勝率があれば十分だってさ」

 

鷹村の話に頭を抱えそうになるのは仕方がない。普通は罵倒や嫌味でしか受け取られない内容だ。

 

「…頼むぜ一歩君。君がボコボコにされると千堂の勝ち目は無いに等しいんだ」

 

1週間前、伊達ジムに取材に行った藤井も飯村と同じ見立てだ。だから懇願する。藤井は現状、千堂と幕之内を同格と見ている。ここで幕之内が奇跡的な善戦を見せれば、或いは。

藤井の懇願が大気に消え、リカルドと幕之内の準備が整った。鴨川が合図を行い、公開スパー第1ラウンドのブザーが鳴らされる。

 

(……………大丈夫、落ち着いてる)

 

5年前をなぞるように左拳同士を合わせる。

日本王者に成り立ての頃と変わらず、恐ろしく大人しい拳だ。手合わせをする此方に無関心に見えていて、何を仕掛けてくるのかが読めたものではなかった。

今にして思う。最初の大袈裟な飛び退きから心理戦への興味を失い、技による戦意喪失を見据えていた。

最初から見られている。最初が肝心だ。最初の行動を誤れば、前回の二の舞になって終わりだ。

 

(リカルドから目を離すな…。気持ちで圧されるな)

 

拳を離す直前、リカルドの眼を覗いた。

WBAの玉座に就き続けて、終わりの見えない責務に忙殺されていたゴンザレス戦前とはうって変わり、次の強敵を求める向上心の塊の如き高揚が滲んでいる。

 

(前回とは、違う。……本気の眼だ)

 

自分が5年前に完敗した伝説は、更に強くなっている。下手をすれば、誰よりも。そう感じているのに、左拳を離すことさえも待ち遠しくて仕方がない。これが試合でないことを悔やみ、はしたなく喉を鳴らしそうな心を落ち着かせて、練習試合開始の挨拶を終えた。

とん、と触れた左拳を引っ込めて、肩幅半分だけバックした位置でリズムを刻む。既に何段階も優位にいるリカルドと波長を合わせるための、普段よりも特別に近い場所でのウィービングに、周囲はどよめき立つ。

 

「なんだよ一歩のやつ…! ちょっと前に出たら滅多打ちされる場所で止まりやがって!」

「緊張で動かないって訳じゃなさそうだが」

「誘ってるのか?」

「整えているのか」

「後手を選ぶような教えは受けてないぜ」

 

息を呑む一同に、鷹村は腕を組んで言い放つ。

その通り。幕之内は左ジャブを待つために近場でリズムを整えているのではない。

ゴンザレスとのスパーの数々で鍛え上げた自信が、対無敗神話戦闘衣装となって距離に現れた。

 

(射程距離が見える。頭は冴えている。雰囲気に身体が慣れてきた。落ち着け、向こうも同じなんだ)

 

お互いが観ている。言語化を飛ばし、電気信号となって身体全身に巡る予測。先手を取ると決めている幕之内を理解し、リカルドも先手を取るために機を探る。

復帰戦のゲバラ戦とは大違い。影に潜む轟音は軋みすら上げずに爆発間際を巡回している。

何がキッカケか。何を隙と見るか。ハナからそんなものは無いのか。両者の思考を理解しようと記者らは手元のペンを止めて、距離間や視線に注視した。

 

(────────────、)

 

身体を揺らしていた幕之内がこうべを垂れるのと、リカルドが左拳を打ち終えたのは同時だった。

 

(……なんて洗練された動き!)

 

リカルドが懐に視線を落とす。

見上げる眼差しは高低差60センチ弱、土下座するが如き勢いで左ジャブを置き去り、そして脊髄を捻る。

前のめりの影響で身体の下に隠れた左腕をリカルドは見た。次の手を予測する。身体のバランス、両脚のポジショニングから放たれるボディを。

幕之内の狙いは後の先、というやつだ。

 

「いきなり潜り込んだァ!?」

「踏み込みワンテンポ早い‼︎ 狙い通りだ‼︎」

 

リカルド相手に踏み込みだけは通用しない。ワンアクションにプラスワン、次の一手を上乗せしなければ、80近い戦績を誇る相手との距離など縮まるものか。

工夫を凝らした踏み込みから、ボディの着弾までは拍手喝采のテンポ感だ。タンタン、ミット打ちなら兎も角、実践で。リカルドを相手に実行した時点で満点を与える。

だが鷹村は、幕之内の驚異的な胆力ではなく、リカルドの対応に対して震撼していた。

捻じ上げるドリルのような一撃を、右腕を身体に引き付けて、受けた衝撃を踵へと流した冷静さに。

 

(千堂でもグラつくだろうアレを、微動だにせず受け止めた。オッサン(伊達)のパンチが効かないのも頷ける)

 

右腕に走る衝撃を冷淡に見つめて。

次の手を選択する余地が無いことを知る。

幕之内はダッキングの途中で半歩手前に脚を起き、速きに足場を作り上げた。リカルドの左ジャブの軌道の真下に頭が置くように調整し、ボディブローをカウンターで当てるため。…だけの為ではなく、次を繰り出す準備を兼ねている。

肩幅の位置に置いたポジショニングは、前後左右よりどりみどり。ここから右拳に乗せる右ボディがリカルドの左腕に減り込んだ。

リカルドは半歩、後ろに下がる。幕之内を勢い付かせる行為だが、彼もよく見ている。

 

(ボディを嫌って下がったんじゃない。

自分の打つスペースを確保するためか?)

 

追撃の体勢を取りながら、リカルドの黙々とした眼差しを視界の隅から逃さない。次に何を仕掛けるのか、空いたスペースをどこまで活用してくるのか。左拳をボディの角度に変えながら考え、ガードの上にお構いなしに打ち込むために後ろ脚を捻り。

ボディの挙動の最初、脚から力を捻り出す動作へ、リカルドの左ジャブが幕之内の顔面に放たれた。

 

「…うっしゃ」

 

小さな歓喜。鴨川が握り拳を作りながら必死に声量を抑えたことを鷹村は気づき、同意していた。

モーションの隙間を縫うようにして放たれた左ジャブを、幕之内はウィービングで躱して左脇に足場を移している。前回、中間距離で滅多打ちにされ、1発も回避出来なかったあの左ジャブを、だ。これに頷かずして師弟とは呼べまい。

 

(以前とは動きのキレが段違いだ。既に世界(フェザー級)指折りのインファイターと見ていい。

然し、私のあのカウンターを躱すのは、修練を積むだけでは説明がつかない)

 

打つ体勢に入った幕之内を止めるのは容易ではない。

だが、リカルドの拳はそういった理屈を捩じ伏せる暴力性で出来ている。仮に気づいたとして、紙一重で躱そうなどという甘い考えは通用しない。

出ない答えを脇に置いたリカルド。彼がもしゴンザレスの来日を耳にしていたら、即座に点と点を繋げていただろう。幕之内は圧倒的理不尽(モード・ダイオス)に削られ、磨かれて、インファイトでの狙われ所と、回避のための重心移動を心得ている、と。

 

「一歩のやつ、すげえな!?

リカルドの左ジャブを躱して前に進んでやがる!」

「ああも左右に頭振ってりゃリカルドとはいえども捕まえるのも大変だろうぜ!」

「一歩はここんとこ伊達ジムでスパーしてきた。ゴンザレスとやって相当慣れてんだろうな、左に」

 

青木と木村の驚きに鷹村が補足する。

これがもしゲバラ戦後であれば、左ジャブをどうにかするだけで一日が終わっていた。突破のキッカケが見えている状態から始まる程度の実力だ。

元より土台がしっかりしていたお陰もあり、皮膚を擦りながらも被弾なしで1分を過ごせた。

 

「…………いや、いやいや。ちょっと待て」

「こ、これ、なにかの冗談か?

向こうが本気じゃないからなのか?」

「避け続けてる…! リカルドの左ジャブだぞ!?」

 

幕之内の奮戦に記者たちの手元が突き動かされる。

前回のスパーを知っている記者は驚嘆していた。

ここまで数十発、リカルドの左ジャブを回避していることに鷹村はこう結論を出した。

 

「体力をバカみたいに使ってるからだ。試合じゃこうはいかないだろうぜ。あれはスパーリング仕様だ。

それに、そろそろ本腰入れる頃合いだろう」

 

鷹村が言い終えた直後、銃声の如き炸裂音が響いた。

スパー最初の被弾は、幕之内。大きく仰け反り、ドラムを叩くようなステップがなりを潜める。

 

(守りが硬い…! 反応が早い! そして同じ手が通用しない! 先にパンチ当てられなかった!)

 

幸いなことに追撃する様子は薄い。

警戒してのことか、公開スパーだからかは判断に困る。だが、時間がない。

何ラウンド出来るか分からないため、即座にピーカブを再開しながら状況を整理する。

太陽の日差しを浴び続けるのは悪手だ。

1分半で2ラウンド分の体力は使っている。

例え比喩とは言え、陰に潜むような安息の瞬間が欲しい。あの太陽に立ち向かうには、生身で耐えうる強度に仕上げるか、その他の武器を振りかざすしかない。

 

(攻め方は良かった。けどまだ大きい。もっとコンパクトに動かないと、パンチは届かない。

単純な工程で、度肝ごと打ち抜くようじゃなきゃ)

 

───目の前にあるのだ。

あの日、伊達英二から渡されたバトンを持って走り抜けるゴールテープが。

この一直線上、何万キロと離れた場所にいた伝説が、片手で足りる距離にいる。

板垣に渡しただろう? 次に託しただろうって?

確かに、彼はそのバトンを形を変えてゴールに持って行こうと頑張っている。今の自分はバトンを持っていないのかもしれない。けれど、ここまで走ってきた道のりには、あのバトンを持っていた場所がある。確かにあるんだ。

 

(……行くぞ)

 

心に燃料を注ぎ足し、再度の接近戦を試みる。

リカルドは迎撃のため、大気に拳を滑らせた。

 

(────────ほう)

 

心臓が高鳴るたびに幕之内一歩の亡き骸が転がる。

一撃、一撃、躱されると思っていた拳に確かな手応え。最小のピーカブで迫り、両腕を前に固めて、左ジャブを浴びながら久闊を叙して前進していく。

 

「この流れ、前も見たぞ!」

「あれで無理やり接近したんだって?」

「確かデンプシー・ロールを出すためだ!」

 

誰彼の記憶に再生される映像は、リカルド・マルチネスが世界王者たる所以を日本に知らしめた一幕。

幕之内の必殺技、デンプシー・ロールを左手一本で封殺したあの場面への導入が丸っきり再現されている。

 

「リカルドは右を出してないぞ!

不用意に近づいて大丈夫なのか!?」

「公開スパーで彼が右を振り抜かないことは数々の記事が証言しています!」

「スパーリング故の本気の戯れってか?

だが、油断はしてない。気を引き締めろ一歩」

 

鷹村の洞察通り、リカルドは左腕のみの本気に留めている。それがどうした、前回の再現なら願ったりだ。

ご厚意に甘えて、接近戦の距離に立たせてもらう。

 

(回避して潜り込むを繰り返しても当てられない。まだ僕には出来ない。だから、腰を据えて打ち勝つ必要がある。それが出来なきゃ話にならない!)

 

数々の豪打を爆発させてきた慣れ親しんだ距離、真正面には無敗神話。されど手が届くイメージは薄い。

足りないものはキッカケだ。この先、コンビネーションを当てるための、強引で大胆な一手が。

 

(デンプシーか、インファイトか)

(真正面か、横か、どうするか!)

 

静寂、一瞬。

リカルドは手を出さない。左ジャブの感触を確かめ終え、次に左のカウンターを狙っている。

技の精度把握に余念がなく、一点集中のため雑念がない。更にノり始めたとあっては幕之内不利。

全てを承知で左拳を突き出した。

 

「ノーモーションの左ジャブ!?」

 

幕之内の挙動と同時、カウンターの左ジャブが放たれる。幕之内の右目に最短距離を飛んだソレは、己に走る衝撃によって軌道が逸れていた。

両者の右腕に突き刺さる左ジャブ。驚くべきは同時の着弾であること。リカルドがカウンター狙いだったことを考慮しても、幕之内の着弾が追い越されず食らいついたことにどよめき。

藤井が言うノーモーションの左ジャブ…正確には捻りのない左ストレートは、事前にゴンザレスと練習していたもの。相打ちという幕之内の巫山戯た反撃のキッカケ作りを活かすため、ゴンザレスの提案で練習していたものが相当な威力となり、リカルドの芯を揺らす。

だが、2度目はない。威力は何方が上かは不明だが、ストレートの洗練さを越えるのは不可能。

 

「間に合うか!?」

「無理だ! 一歩のが遅い!」

 

真正面の奇襲は左ストレートの破壊力で成立した。だが、リカルドを驚嘆こそさせても、後退や動揺を引き出すには至らない。千堂と同等の破壊力を持つ相手へのカウンターを確認し終え、次は。

奇襲が失敗した相手を打ち滅ぼすための左ジャブ。その腕一本だけで防衛戦を何度も勝ち取ってきた、中量級最上位の理不尽。日本で最もタフネスな相手にぶつけたら?

 

(何が違うのか、見せてくれるかね…!)

 

疑念ごと砕きに、左ジャブが幕之内の顔面を今度こそ捉え、そして。

 

(ここだ!!)

 

肩口からぐるり、左腕のガードが左ジャブの打ち出し始めに触れて、僅か上方へと軌道を逸らす。

近距離、打ち戻し最中の左腕があるから可能なガード。隙である筈の場所を罠として、無敗神話の蹂躙劇をひっくり返す台本を急造した。

 

「こ、れは────!」

 

靭帯の雄叫びを目の当たりにしながら、視界の右隅に消える影を目撃する。左ジャブの衝撃を支柱として、幕之内が旋回したことを理解した。出鱈目な芸当だ、どんな肉体をしていたらあの体勢から潜り込めるというのか。

そんな疑問に、デンプシー・ロールの文字が浮かぶ。成る程、と納得する。あの技の持ち主の肉体強度を、左ジャブで封殺したせいで見誤っていた。

どんな過程を経てここまで来たのか、それは無敗神話の予測とて知ることは出来ない。だが、この靭帯あっての必殺技。強靭な精神あっての挑戦者。勇姿を見逃すまいと振り向き、彼の姿を追うリカルドの右頬に、赤い塊が打ち込まれた。

 

「いよっし! 前回を早々に越えおったわ!」

「い、一歩の右ストレートが当たった!?!」

 

リカルド・マルチネス初来日のスパー相手に指名された幕之内は、行きのタクシーで鴨川から「擦れば褒めてやる」と言われた。結果、擦りすら(あだ)し夢で終わり、伊達から形見(バトン)を預かることとなった。

それが今、直撃だ。右ストレートだ。リカルドが肩幅だけ退がった。特訓の日々が実りつつある。

 

(1発当てた、ここからが本番だ)

 

あの日、惨敗したスパーでの幕之内は1発当てることを目標にしていた。リカルド・マルチネスの風格に気圧されるあまり、望遠鏡から見る星のように遠い存在だと錯覚していたからだ。今はどうか。世界ランカーになり、世界王者たちとのスパーを重ねて、次を求めて止まない気迫。

左ボディ? 右ストレート? デンプシー・ロール?

肯定、然し正解にあらず。それらを踏まえて、幕之内はボクシングにおいての次を見据えた。手に届く星があるならば、掴みに行くしかあるまい、と。

 

(欲しいかね、私が見逃したものを)

 

前回のスパーの幕引きは、幕之内のデンプシー・ロールを左拳での完封。ダウン寸前の幕之内からリカルドが退き、1ラウンド未満のスパー…無敗神話の強さを思い知ることとなった。

あの時、若き王者のプライドを優先した伝説へ、感謝の念を最大限に込めて。

 

「次、取りに行きます」

「─────────」

 

勝ち気の上乗せを拳に乗せて、1ラウンド目はブザーによって終わりを告げる。

次のラウンド、どう立ち回るかを考える自分が止まらない。興奮冷めぬままなのは記者らも同じだ。鴨川ジムが騒然とするなか、間もなく公開スパー2ラウンド目が始まる。

 

 

 

 

 

リカルド・マルチネスVS千堂 武士、勝者は?

  • リカルド・マルチネス
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