「会長! 見てましたか、当てられました!」
「うむ。貴様の実力はリカルドに肉薄しておる!」
コーナーへと戻ってきた幕之内へ鴨川は頷く。
「じゃが」と一拍置いて、肩を叩いて落ち着かせる。
「右を出さないのが通例らしいが、出してくるぞ」
「……僕もそう思います。リカルドからは浴びたことのない熱気を感じました」
「そこまで分かってりゃ上等よ。胸を借りるだけでないことを証明してこい。
くれぐれも臆するなよ。貴様の取り柄を忘れるな」
鴨川の激励と叱咤が飛ぶのを見ながら、リング下では記者たちが騒然としている。
「千堂の追い風にするんなら、ここで止めた方がいいんじゃねえか」
「いやでもさ、見たいじゃん? 世間じゃ幕之内の方がやれるって専らの噂だぜ」
「そうだよな。ここでダウンでも取ってくれたら…」
浮き足立つ彼らとは一線を引いた藤井は、眉を上げて何か言いたげな飯村を制した。
「リカルドが右を出すときは、一歩君を評価するときだ。右を出して噛み合ったりしたら、もしかする。
記者として想像するのは仕方がないことだ」
「………下品ですよ」
「ほれ、見てみろ。鴨川軍団の顔」
そう促されて見てみると、リカルドに直撃させたことを喜ぶ思いに紛れて、落ち着かない様子が見てとれた。
「何か知ってるって顔だ。リカルドにも通じる何かを。もしかしたら拝めるかもしれないぜ、とんでもない光景が」
「彼は本当に、胸を躍らせてくれますね」
全くだ、と笑って返したのと同時にブザーが鳴る。
鴨川軍団の期待通りになるのか、無敗神話には及ばないのかは次のラウンドで判明することを祈り、2人もまた息を飲んで見守るのだ。
▼
ブザーが鳴る直前にリング中央へと向き直る。
幕之内の脳裏に過ぎるのは、リカルドが伊達戦で顕にした暴力の姿。3ラウンド開幕から調子を転じ、伊達の出鼻を挫き、流れを一気に持っていった。
アレの解放条件があるのかも定かではないが、機会があれば惜しみなく打つけてくるという確信がある。
(右も出していないからか、バイオレンスは来ないのか? けど、千堂さんの例もある)
だが、余りにも杞憂だった。ブザー直後、リカルドはゆっくり歩みながら距離を詰めてくる。
公開スパー2ラウンド目。練習とはいえ、第2ラウンドだ。伊達然り、千堂然り、このラウンドで敗れた不吉のラウンド。鴨川ジムの雰囲気も心なしか重くなった。
(負けないぞ、自分から行くんだ)
ここにきて呑まれる幕之内ではない。
ピーカブを丁寧に繰り出して機を伺う。
相手はリカルド、生きる伝説。リングの常識なぞ、自然災害の前の人間が如くひっくり返す存在だ。
然し、先手を取らずして自分のペースを作ることは幕之内には不可能。中間距離に迫られた時点で何もしないのは、命を捨てることと同じだ。
大地を捻るように脚を伸ばして、リングから推進力を引き上げる。ひと息のうちに前進し、リング中央へと飛び出した。モーションはあからさまに起こしたため、不意を突くことは出来ない。するつもりも幕之内にはない。
「飛び出した!」
「バカ正直に!?」
接敵まであと、0秒。
リカルドは退がるでも、守るでもなく、真正面の勇敢なボクサーを左ジャブで迎え打った。
当然とばかりに幕之内はウィービング。寸でのところで躱したところには半分だけ開かれたボディ。だが、リカルドの左ジャブは既に戻り、再装填。
瞬く間の超接近を、2度目にしてリカルドはタイミングを合わせてきた。拳が点となり、眉間へと打ち抜く。
「………!」
この場面は既にゴンザレスと交わした。
ワンテンポアップ、今度はダッキング。膝の力を抜く程度の落差で拳を掻い潜り、ボディブローを────
「ッ!?!?!」
ゴン、と鈍い音を立てて頭部が弾かれる。
二重のフェイントを仕込んだにも関わらず、神の左ジャブが待ったをかけた。
(左脚だけ整えて打ってきた!?!
精度が足りないと初見でも容赦無く打たれる…!)
同じ方法でも、通し方はボクサーの数だけある。
正攻法の中から、ひと工夫を添えて拳を直撃させることがリカルド打倒の鍵だ。最初だから通せた拳を、技術と精度で次も当てること。数限られたパンチの種類を届かせるためには、
相手のパンチが増えれば増えるだけ、カウンターの手数も増えていく。眼前の目標は、公開スパーで出したことのないリカルドの右を出させること。
(けど、踏ん張れる!!)
ならば、ここで躓く訳にはいかない。
「……む!」
打ち終わり、拳が引っ込む瞬間。
左脚を捻り、再び前進を。左ジャブの被弾の余韻が抜け切らないが、ならば捩じ伏せるのみ。
未だに慣らし運転を続ける、驕った神の麓へと目標を定めて。ギュル、ゴムを千切る勢いで回転した脚が推進力を得て前へ飛ぶ。併せて右拳を顎へ置き、コンマ数秒。
リカルドの左ジャブの戻りに引っ付いて、身体の芯は超接近戦へと設置した。
それすらも過去に見たことがあるのか、焦る気配もなくリカルドは両腕をガードへ回した。
構わない、ガードを固めた相手は此方も幾度と見てきた。それが規格外の強さを誇る相手というだけで、この場面でやることは何も変わらない。つまり、こじ開けるために繰り出す拳は、右。
「シッ────!」
リカルドは逃げない。これは千堂戦を見据え、日本で最高峰の破壊力を持つボクサーを相手にガードしなければならない場面を想定しているからだ。
「こ、れは、、!?!」
ひと呼吸の間に、両腕が吹き飛んだ。
想定を上回る異常事態に目を見開いた。右拳が役目を終え、目の前にはこの攻防の本命、左拳。
リカルドの誤算は2つ。
その右は既に自分の頬を打ち抜いていることと、破壊力を見誤ったこと。ツー・ワンのコンビネーションは、故に直撃を果たす。
「今度は左ジャブ当てた!!!」
「一歩のやつ、オッサンの戦いを覚えてるな」
「えっ!? あっそうか!!」
『強引な一発も時には必要なんだ』
伊達がリカルドとの立ち上がりに左ジャブを二連射し、強引にガードをこじ開けてオープニングヒットを掻っ攫ったこと。幕之内に左ジャブ二連射を当てるだけの速さはない。コンビネーションで速度を補い、ここで活かしてみせたのだ。
5年前は通じなかったフェイントが、届かなかった左ジャブが直撃。勢いに乗り、無敗神話へと迫るインファイトが再び勃発する。神の腹筋を
(忘れていた訳ではない。
だが、少しだけ精度が落ちていたらしい)
これを以て、流れは幕之内が手にした。
(あの高潔な魂が、時間を経て褪せていた。
それを彼が塗り直してくれている。このスパーは最も価値がある。君は最高のパートナーだ)
幕之内の猛攻がリカルドのディフェンスをいつ破るのか。一同が注目する中で、鈍く瞬く音が1つ。
腰付近から高らかに突き上がる右拳が、幕之内の頭部を後方に弾き飛ばし、猛攻を中断させていた。
「だ、出してきやがった!
藤井さん、早々に右出してきたんですけど!!」
「見てたから! 分かってるよ!」
前触れは無かった。少なくとも、記者らにはそう見えていた。リカルドの内側の高揚に気づいた者は居ない。目の前にいる幕之内でさえ、だ。あの変化に眉を上げるのはゴンザレスくらいだろう。
「────────!」
改めて。これを以て、流れは幕之内が手にした。右を抜かれたのに? 右を抜かせたからこそ、だ。公開スパーで本気も本気のリカルドを引き摺り出した、これが幕之内、ひいては千堂の現在地を表す。
もっと慎重に、かつ大胆なボクシングを行えば、いま以上の好戦だって夢ではない。日本という地で、世界の念願であるリカルド打倒が崇めるかもしれない。
右を使うリカルドを一瞬でも上回れば良い。期待値を上げ続ける現状で、幕之内の表示は険しくなる。
「バックステップ!?」
その理由は、冷淡に距離を取り、幕之内を遠目に観察するリカルドにあった。お互いに格好の距離、場を包む期待値を霧散させるためのインファイトを捨てたことで、幕之内の背筋は凍る。一瞬だけ、リカルドに熱を奪われていた。
目が眩むほどの眼差しに射抜かれて、相手の実力がより鮮明に象られていく。
一度目のスパーよりも実力をつけた。日本チャンピオンの頃とは比較にならないほどに。あの頃は
「ど、どういうことだ?
なんで直ぐに攻めないんだ?」
「あのバックステップで仕切り直したんだ。
ヤツなりのゴングだった! 試合仕様に切り替えた!」
鷹村の導いた結論に驚く一同。
たっぷりと10秒の時間を使い、リカルドは場の熱を落ち着かせている。無敗神話のバックステップが、どういう意味を持つのかを理解している立ち回り。
あのリカルドが警戒している、何を仕掛けるのか。余計な勘繰りをしてくれる幕之内だから選んだ一手。
それだけ、幕之内の攻め方を評価している。
(君の後ろにエイジの面影が見えた。
彼の仇を討つためにここへ来たのだろう?)
だから、リカルドの内側の伊達英二像に評価の値が合致する。みすみす、この機を逃す訳にはいかない。
ならば選ぶべきは、暴力か?
(応えよう、尊重しよう、その熱に当てられよう)
否、せっかくなら熱を奪う化学で。
それが日本人に勝利するのに必要な心情。
伊達、千堂、2人との試合では膝を着く可能性が目前にまで迫っていた。暴力に噛み合う相手ならば、化学こそが試合の鍵となる。
という意思表示は、幕之内にも見て取れた。
(あくまでも、そっちでいくのか)
ゴンザレス然り、リカルド然り。懐に飛び込んでからが厄介だというのに、先ずは懐に飛び込むまでが至難を極める。一度通じた手への対処法を確立させる適応力がずば抜けている。
だから、次に位置を取った瞬間が最後のチャンス。幕之内はふんだんに脚力を前へと注いで、ステップインを刻み続けることを選んだ。
ジリジリと近寄るリカルドに対して、ウィービングを再起動する。状況の整理を終えて思考回路もクリア。
前に行かなくては。
まだ先があることを示さなければ。
(雰囲気に呑まれるな、自分から行け!
躊躇ったら僕に出来ることはなくなる!)
その決意が合図となって飛び出した。
右を使う以上、1ラウンド目とは勝手が違う。中間距離は別世界と考えて立ち回らなければ忽ちリングに伏せることとなる。これまでとは違う入り方、とくれば左ジャブ。
ガードに当たればコンビネーションを繋げ、翻弄していく算段で放った瞬間には、視線は天を仰いでいた。
噛み合いかけたところにリカルドの左ジャブ。尋常ならざる速さに、ウィービングをしていながら対処が困難だ。本当に乗っていなければ、ロクに躱せない。
(なっ…! もう目の前に)
さっき同様、踏ん張って無理やり体勢を元に戻したところを、リカルドの右拳が待ち構えていた。
勢い余って下を向いたのが功を奏し、右拳がボディ狙いであると見抜きガードが間に合う。それでも、身体が折れかけていた。ガードした両腕が身体に減り込み、痛みから逃げるために後退を余儀なくされる。
「小僧! もう後ろはないぞ!」
「────────!」
会長の声で、数センチ後ろがロープであることを知った。その対価として、自分の距離に身を置いたリカルド。ここなら拳は届く。然し、自ら踏み込んだ距離ではない。望んで作った場面ではない。
ガードを固めて前からの追撃をブロッキングしつつ脱出を試みる。
(引っ付いて、押し込みながらボディを…)
左腕に隙間なく両腕を押し付け、相手の姿勢を崩そうとして。拳を交える以上の出来事に目を見開いた。
(うっ…動かない!?)
ギシリとも立たない。
目の前の壁は軋みすらしない。
山岳を楽して進む道がないように、山道に沿わない者に現実を知らしめる。登り始めたばかりの挑戦者よ、生き急ぐなかれと。
「バカ者! 腰を落としきれておらん!
そんな姿勢で何をする気じゃ!」
「────」
会長の怒号に、違うんですと内心で言い訳をこぼす。それを承知の上で、体幹なら上回れる自信があった。やや体勢不利だ、然し、押し合いで負けるつもりは微塵もない。
だが現実は、幕之内の自信と力量を見極めたリカルドによって阻まれ、右アッパーを捩じ込まれる始末。
「ヤバいロープ背負わされたぞ!」
「早く抜け出せ一歩!!」
「チッ、バケモンが」
ロープを背負い、ロープに背中を預け、ロープの弛みに揺られながら、脳裏でリカルドの右拳を反芻する。本当に運が良い、つくづく思う。リングの上から見ていたものより迫力が二段階は上で、射出角度がピッタリと急所に合わさる芸当をマトモに浴びるだけで肝が冷える。
生命に訴えてくる危機的状況を、千堂対策に持ってこいだと思うのは失礼だろうか?
(あぁ、上手いな、思うようにロープから離してくれない。押し付けるようなパンチって、こういうのか)
その思考は破棄しよう。
今も打たれながらリカルド伊達戦の映像が脳裏に流れている。事あるごとにリカルドと誰かの試合を身をもって体験している。ボクサーとして、これ以上の学びはないのだから。
目を向けるべきは現状のみ。ウィービング、ダッキング、ブロッキングにショートパンチ、色々と試しても脱出出来なくなった。そうして、突撃する幕之内を基点に、放たれる左ジャブ、右拳に押し戻されて数十回。
「お、おいアレから1分経ったぞ」
「あの幕之内がパワー負けしてやがる」
「左ジャブとボディ打ちで逃げ場を塞がれた!」
被弾が増えていく。
進めば的確な拳を当てて先を封じていくのは、伊達戦の頃から変わっていない。シンプルかつ最強の戦法に、成す術を刻一刻と削られる。
(あと1つ、やりたい事がある。試しておきたいことがある。痛いほどパンチは貰った。なにか突破口があるはずだ、何のための特訓だ!?)
だけど、どうやって懐に飛び込めばいい?
対リカルド用のブロッキングを使うか?
いや。多様は禁物だ。
右ストレートが当たる直前、リカルドはこっちの位置に反応しかけていた。次、同じ方法で真横に位置取りすれば、リカルドは確実に見切ってしまう。
それどころか、あのガードにさえ対処されてしまいかねない。そうなれば詰みだ、流れを呼び戻すどころじゃなくなる。じゃあ、どのパンチなら脱出出来るのかを考えろ。
左ジャブは腕が前に出ていて、距離が無さすぎる。タイミングを図る前に次が飛んでくる。何度も試した、左ジャブはピーカブあっての回避。いきなり対処は首捻りでもなきゃ難しい。じゃあ何なら出来るんだ?
『左ジャブだけでは到底足りない』
それは、ガード越しの衝撃が走った時の賜物。ついさっき自分自身で結論したこと。
(! ────────よし)
だから、肩幅分だけ距離の空いた右ストレートに狙いを定めた。リカルドが左ジャブを様々なシチュエーションで使い、千堂戦を想定して動くように。此方も、ゴンザレスとのスパーで培った経験を元に、最も成功率の高い踏み込み方を選ぶ。
左拳を落とし、腰をロープに押し付けて無理やり体勢を作る。
(仕掛けてくるか? だが、動きが大きい)
さすればリカルドはソレを封じに動く。今度はボディ狙いの左拳に対して、その内側を走る右ボディを。
「こ、小僧……!」
交差した拳。
リカルドの右ボディが一方的に腹筋へと突き刺さる。外側に逸らされた左ボディ用の拳は中空に揺蕩い、視界が痛みに歪み始めた。試みは失敗、右ストレートは出してくれない。脊髄が震えて、身体が崩れていく。
(手応えはある。そして、見覚えもある。
エイジを沈めたと確信した、最初のシーンに)
瓜二つ、とリカルドが想起した直後。
リングを地鳴らし、痛みを燃料にする男が脊髄を回していた。左ボディの二連打、リカルドの右ボディが離れて空いた空洞を狙い澄ましたカウンターが発射。
(───────っ危なかった)
左リバーブローのカウンターは、リカルドの直感によって右ガードが阻んだ。
腹筋を差し出しながらの相打ちでさえ、無敗神話には届かない。
「今度は相打ちも通じねえ!?!」
「ヤバいぜ、こっからどうする!?」
青木と木村の嘆きに藤井たちも同意する。
寧ろ、ここまで戦えたことに称賛すらしていた。
(ガードしながら後退させられるとは、君の後続には驚かされるばかりだよ)
それはリカルドも同じで。
前に倒れかけることで、無理やりに腰を入れる位置を取り、ありったけの膂力を注いだ一撃。
こればかりは百戦錬磨の技術力を上回る破壊力と認めざるを得ない。靴底の摩擦熱がそう称賛した。
「よく見ろ、リカルドは身体1つ分退がってる」
「だからって何が出来るんですか!?」
「あるじゃねえか。とっておきのが」
だから、次を仕掛けてくる幕之内に右拳を狙い定めた。この出会いを祝して、あの夢を思い出すため、そして刹那の邂逅を胸に刻むために。
大胆にもリカルドは右を構えるモーションを見せる。見せたとて当てる強い意思表示に対して、幕之内は臆することを蹴散らすような踏み込みを選んだ。
そう、幕之内の思惑が叶った瞬間が、ここに。
気の遠くなる試みを経て、リカルドの本気を引き出した。心がざわつく。リカルドが捻り込んだ右拳は、最初の敗北を連想させる。だからだろう、なぜその拳を選んだのかという疑問よりも、彼でさえ力むことがあるんだ、と思った。
同時に、捻り込みを見せられて、この形のパンチだけは身体が躱してくれることを理解した。
コークスクリューブロー。伊達英二を下した2度目のフィニッシュブローにして、幕之内一歩に最初の敗北を刻んだハートブレイクショットの祖。ソレだけは、身体がタイミングを覚えている。
「…………なッ」
放たれた大砲は空を切る。
リカルドの目を欺き、引き出しに経験がある幕之内が僅差の賭けを制した。
即ち、此方が出させた右ストレートを回避し、ウィービングからデンプシー・ロールへと繋ぐこと。
右の大砲を戻すまでに回転数を最大にまで上昇させ、心臓が爆発的な負担に耐えながら、両膝が衝撃を逐一脳へと伝達する。全ては主人のため、安全性を確保し、数値を痛みに変換して、後戻りできる地点を報せる。
以上、節々からの伝令を預かりながら、小さな箱の迸るエネルギーを遠心力に変える主人、幕之内は全工程の完了を確認して継続を指示した。
「でっ、出た! デンプシー・ロール!!」
「あっこからよく持って行ったよ!」
「だが、リカルドに驚きはない」
「見えてるってことですか?」
「おそらく! 前回の二の舞になるぜ?」
「なら簡単だ。越えればいい!」
誰もが手に汗を握る。
ロール際から前へ出て、デンプシー・ロールを実行するためのスペースは確保した。だが、前回のスパーの結末を皆んな知っている。振り子運動の基点たる「∞」の中心点を左ジャブで穿たれ続け、幕之内が失神していたことを。
(以前と比べて力強さが増している。
以前と同じか、左から試してみるか)
つまり、デンプシー破り。
沢村のカウンターや、宮田が試そうとしたこと。その初出がリカルドであり、正確無比。
無傷で果たしたデンプシー破りが、5年越しに再演される。誰もが固唾を飲んで見守るなか、リカルドは左を構える。そして、甲高い炸裂音。弾かれる影、テンポ良く刻まれる左ジャブの数々が一同の記憶をくすぐり、やがて。
────上書き、された。
「………………………」
リカルドの左グローブが僅かに痙攣している。
表情こそあの時と同じで変わらないが、目の前の旋風が止まることはない。
デンプシー・ロールは継続中だ。
「はっ、弾いた!!」
「換気扇に弾かれる虫みてえだ!」
「パワーと回転力が上がった。いくらリカルドとはいえ、あの左ジャブとはいえ! がっちり固めたデンプシーならあの通りよ!」
ガッツポーズと答え合わせ。
これは単純な物理の話。勢いある回転体に不用意に手を伸ばせば弾かれる、それだけのこと。
だが、実現するためには並ならぬ努力が必要だった。
(見える! ゴンザレスさんとの特訓のお陰だ!
リカルドの左ジャブを、僅かなモーションが確認できたからガードが間に合う!)
デンプシー・ロールは一定のリズムを刻む。
このことを弱点と位置付けているが、ノーモーションのジャブに対してはメリットがある。
「∞」の基点である中心を狙い打つためには、中心に到達する前に左ジャブを放つ必要がある。デンプシーほど激しく速い動きには、視線の真正面から打つことは叶わない。リカルドの左ジャブの発射は、幕之内からは斜めから視認出来るのだ。
ゴンザレスの左ジャブとデンプシー・ロールをぶつけて見つけた利点。幕之内が神殺しに必要なパーツだ。
だが、神は見抜いていた。
(
5年前のスパーの時点で、幕之内の成長したデンプシー・ロールの姿を予見していた。ここまでは来れる、と。来て当然だと。これは想定内、そして対応策も手元にある。
(私の左さえパワー不足なら、右はどうだ?)
見えていても、どうしようもないこと。
商用電力で動く電動機に、土砂が雪崩れ込んだ場合はどうなるか? バカ言え自然災害を引き合いに出すな、と言われればそれまで。だから、リカルドの右ストレートが大振りだろうと、当ててしまえるのなら5年前と同じこと。
つまり、結果は何も変わらない。
「リカルドのやつ、右を振り抜くつもりだぞ!?」
「バカなっ、試合前のボクサー相手に…!」
「ひ、ひぃっ」
三度、運命の分かれ道に立つ。
ただ旋回ているだけではない。勢いを付けた連続ブローこそデンプシー・ロールの最大の強み。
ガード性能を確認した今、本当に試したいことを実行するのみと来た。最大の難所、最初から幕之内も予想していた危険地点…リカルドの右ストレートによるデンプシー破りを越えた先に、未来が待っているのだ。
(右が来る! ここに合わせるんだ!)
発射される大砲。モーションが大きくとも、リカルドは右ストレートを合わせる。タイミングが遅ければ力を込めて加速させるし、例え
幕之内のデンプシー破り破りをリカルドは知らない。知らずとも対処する身体能力を有し、そういうことを狙ってくる可能性をも見破っていた。故に藤井は、飯村は、デンプシー破り破りを知る一同は最悪の事態に表情を青くする。
伊達のハートブレイクショットを破った時のように、可能性を予見して詰みにいくのが無敗神話たる所以なのだ。だから中心点を狙い澄ましたリカルドは、衝突の瞬間に目を見開いた。
(なんて速さ…! とんだ発想…! まさか、)
魂をぶつけんとした右の渾身が、相手の魂の頭上を通り過ぎていく。神の右を欺くのは、横に広がっていく無限の輪。人間では成し得ない筈の軌道に乗り、自らの未来を輝かせる魂だった。
(私が二度も真横を取られるとは────!)
振り抜いた右拳の向こうから、星の瞬きのような光が解き放たれる。脳が理解していても身体が反応しない。リカルドの反射速度が置き去りになるなか、幕之内の左拳が横
幕之内、無傷のまま。
リカルドの右頬へと左フックを直撃させた。
リカルド・マルチネスVS千堂 武士、勝者は?
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リカルド・マルチネス
-
千堂 武士
-
引き分け