鷹の6本のツメ   作:ひとりのリク

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幕之内 一歩VS今井 京介

 

大阪府立体育会館。

当初予定されていた7000人に迫る観客席は満員御礼となり、3度の追加販売を経て9000人にまで膨れた。それでも会館の外には地元客が押し寄せて、どこかの家電屋がテレビを持ち出して商売を始めている。

地元の家電量販店の地上デジタル放送はボクシングリングのみを映している。会館に駆けつけられなかった人らは、拳を握ってその時を待つ。

彼らは一丸となり、大阪の命運分かつと言わんばかりに千堂武士の応援へと駆けつけた。

故に、前座を飾るこの男にも期待を寄せる。

我らが宿敵であり、盟友でもある最終目標へと。

 

『日本ボクシングファンが待ち望んだ復帰戦から早くも2試合目。27秒という強烈な復活劇に誰もが湧き上がり、頂点へと臨む姿に期待が集まる』

 

数々の声援は、下手な試合をすれば即座に怒号の嵐と化す。千堂武士の顔に泥を塗ることは許されない。

当の本人も、その気は微塵もなく。リングへと続く道を、ウィービングと共に進む姿は前回を連想する。

27秒のK.O劇。あの衝撃で千堂の背中を押せと、強く、強く望んでいる。

 

『この歓声、音量がその証左!!

我々は見たい、聞きたい、彼の豪打が世界の壁を切り崩す場面を! 今日を越えれば頂点はすぐそこだ!』

 

 

 

 

 

鴨川ボクシングジム所属

WBC・WBAフェザー級8位

幕之内 一歩

 

 

 

 

 

自分に注がれる声援の数々は、「おどれェ‼︎ 次ァ千堂が勝つさかい首洗って待っとれィ‼︎」「会場冷ましたら大阪総出でリング上がるけェの‼︎」「焼きそばの具ァなりとうなかったら分かっとろうなァ⁉︎」と散々な罵声に聞き取れる。

裏を返せば、「千堂の花道を一緒に着飾りましょう‼︎」「我々の熱量で盛り上げましょう‼︎」「祝勝会の準備はバッチリです‼︎」という有難い激励と受け取れないだろうか。

 

(流石は千堂さんの地元だ。声援の強さに何度来ても圧倒される。応えたいのは山々だけど…)

 

残念ながら、相手は易々と倒せはしない。

前座として設けられてはいるが、当人にとっては。

 

『さあ辿り着いた、ここが漢の夢の舞台』

 

自らに向けられるスポットライト、観客の事前の数々が気にならない程にリングに釘付けとなる試合だ。

今生の別れになるかもしれない。緊張感で舌は痺れ、時間の流れる感覚をどこかに落としていた。

 

『日本フェザー級タイトルを、東洋フェザー級タイトルを獲得。アジアの強豪に相応しい栄光を手にしながら、彼はその冠に足りないものがあると言った』

 

暗い感情を振り払うことは不可能だ。

夢の舞台を前にして全ての心が叩き割ったガラスのように飛び立っていく。同時に、積年の想いを掘り起こし、緊張感が輝く宝石のようにも思えていた。

そうして辿り着く境地は、喜び。

脚が竦んでリングに上がれないなど、勿体無い。

 

『憧れの風神、東洋の雷神とすれ違い続けてきた。その嵩張(かさば)る拳は今宵、ついに邂逅を果たしたのだ』

 

 

 

 

 

音羽ボクシングジム所属

WBAフェザー級4位

今井 京介

 

 

 

 

 

同じリングに立ち、視線が交差して。

2度と遭遇しない場面を記憶するため、網膜に焼き付けることに集中した。写真に納めさせてくれ、などと贅沢は言わない。記念として立っている筈もない。

ここまで駆けてきたことへの僅かな労いを込めた。少しばかり心臓が弱くなっていたが、至高のひと時に浸ったことで血液を正常に送り出してくれている。

 

「アナタより偉大なボクサーは沢山いる。

だけど、俺の憧れは幕之内 一歩をおいていない」

 

羨望の眼差しを向けていた。

プロになる前の俺が、プロのリングで相対した俺に向ける視線だ。嘗ての今井京介が送る羨望は、今この瞬間…試合開始前までで終わり。背中に受ける眼差しを見つめ返し、そして視線を切る。

 

「だから塗りつぶして来た。幕之内 一歩の宿敵となるために。目線を合わせて、俺が上を目指すために」

 

ここに立つ意味を改めて思い出した。

幕之内一歩に憧れて、幕之内一歩を越す。

千堂武士すら成し得ない偉業を果たしたい。

 

「受けて立つよ。僕も、全力で戦いたい」

 

例えそれが、早すぎると分かっていても。

今井京介が幕之内一歩と並び立つ機会は、次にいつ訪れるのか見当もつかないのだから。

 

「────────」

「────────」

 

もう、言葉では語れない。

踵を返し、通例を終えて、瞬く間に試合開始の鐘は鳴り響く。もう外の声は聞こえなかった。

 

(速攻だ、迎え打つな、僕から…)

 

両者、リングに長居するボクサーではない。

世界ランカーを3ラウンドで沈めた今井京介。

圧巻の27秒で復帰戦を飾った幕之内一歩。

 

この試合は先制の奪い合い。

一気呵成に飛び出した幕之内に対して、京介はリング中央手前でサークリングを描いた。

 

(………様子見!?)

 

飛び出した幕之内とは対照的に、京介は基本の構えからステップを刻むばかり。そうして幕之内の真横へと陣取ろうとしたところを見過ごす筈がない。

消極的な立ち上がりを見せる今井へ、急旋回した幕之内は地を鳴らす踏み込みで飛び込み、逡巡する。

 

(今井君が先制を譲る?!)

 

胸に引っ掛かる。妙だと言いたい。

確証はないが、自身の自惚れでなければ今井京介は礼儀として先制を奪い、挨拶をする。そう思っていた幕之内は疑問に思いつつ、拳を握った。

なにか思惑があるのは見ての通り。それごと粉砕し、世界の頂点へと駆け上がる。自分の背中を追いかけて、手を伸ばしてくる相手を沈めることにもう躊躇いはない。

 

(ボディから入って上下に揺さぶり…)

 

旋回先に先回りする、うねったボディを繰り出して。追従の腕が伸び切る直前、ガタンと音を鳴らして、腕の内側を瑞々しい影が駆け抜けた。

 

『鮮やかなフックが激動の鐘を鳴らした‼︎

初めから狙っていたのか⁉︎ 吸い込まれるようにテンプルを殴打し、不屈の塔の掘削開始だ‼︎』

 

旋回する勢いを身体に乗せて、幕之内のボディ打ちを外側に逸らして威力を殺し、威力の死んだ腕を滑走路にして今井のカウンターフックが走った。

三工程以上の緻密な行動を一瞬に落とし込む。そうすれば、今井京介の調子は最高潮に達し、モチベーションは勢い付いていくのだ。

その態度に対して、板垣は首を傾げる。

 

「変だ。アイツが先輩に先を譲った」

「先制は今井が取ったじゃねえか」

「オープニングヒットじゃなくて、出だしの話です。カウンター貰おうと、先輩に手を出させるのは後輩として礼儀がなってない。挑戦者の立場なら尚更だ」

 

プロボクサーである以前に、試合を熱望していた憧れの人との第1ラウンド、その開幕に手を出さない。

あり得るか? そんな事が。2度と訪れないかもしれない戦いに、誉れなき幕開けをなぜ選ぶ?

 

『さあ勢いが付いた今井、今度は前に出る!』

 

板垣の疑問は宙に上がり、歓声と解説の熱に変換される。答えは京介にしか分からない。当の本人はまさに今、そのことを内心で謝罪しながら幕之内へとコンビネーションを打ち付け、ガードの隙間を探していた。

 

(失礼な若輩者で申し訳ない…が。勢いだけで貴方と打ち合うことは俺には無理だ。

せっかくのご厚意、俺との打ち合いを望んだ前傾姿勢を利用させていただきます…!)

 

勝つこと。目標へと向けて、満足を越えた結末に至るための無礼を働いた。

板垣が抱いた開幕の違和感は、無我夢中で勝つことに執着するボクサー然とした態度を見たからだ。

本気の敬意、本気の勝ち気、それらを勝利の二文字で塗り替える。故にこの狙いは暴かれず、二撃、三撃と左ジャブが顔面へと直撃していく。リング中央でカクカクジグザグと、点と点を結べば円弧となるようなステップを刻み、京介は流れを掴んで離さない。

 

「おい、リカルドと互角だったって話だろ?」

「記事にはそう書いてあったけど…」

「ペース取られてんじゃねえか!」

 

想定外の立ち上がり。

京介優勢に観客たちはどよめき始めた。

踏み込んでジャブ、ジャブと打てば、1つ1つ当たらないよう慎重に下がり、また円弧を描きながら左ジャブ。20秒経過した今も幕之内は十分に実力を発揮できていない。

リカルド相手にやってのけた事が京介相手には出来ない。観客はこの不可解な疑問に耽るのではなく、幕之内の調子が悪いと決めつけて、迫力のない試合に罵声を飛ばしていた。

一方でセコンドの音羽は、京介の立ち上がりに深く頷いていた。

 

「良いぞ今井。その調子で身体を、精神を馴染ませるんだ。幕之内は並みの世界ランカーじゃない。リカルドを一瞬でも出し抜ける、上澄みの世界ランカー!

一瞬後に決着する試合だ。とことん不利を押し付けてペースを乱せ!」

 

その声援に応えるように、京介は27秒をリングの中で優位に過ごしている。ゲバラを仕留めた暴風をいなし、リカルドに超接近した影の侵入を許さない。

執拗に外から、丁寧に、丁寧に、付かず離れず、剛腕が目前を掠めても幕之内から目を離さずに、僅か4センチ弱のリーチ差だけで生命線を伸ばし続けていた。

 

(おかしい、ペースに乗れない! コンディションは万全なのに、勢いが軌道に乗せられない!)

 

リカルドの左ジャブにも引っ付いた脚力は、飛び出すぞと勇んだ瞬間に京介の横腹へのボディ打ちで沈下させられる。ガードの上からでもお構いなし。ボディ打ちの目的は幕之内の爆発を防ぐためなのだから。

脚力爆発の準備を台無しにされ、次にと即座に切り替えた幕之内。接近した京介にワンツーを繰り出せば、ダッキングとバックフックの併せ技で煙に撒かれる。

2、3秒の攻防を3回繰り返し、大したダメージもない筈なのに幕之内は大きく深呼吸をした。

 

次々と繰り出す突撃に、幕之内を詳らかに知らなければ対処出来ない距離、タイミングから動作の起こりを狙い打ち、勢いを沈める。精密と経験を兼ね備えたリカルドや、野生の勘なるもので見極める千堂、世界広しともソレが出来る人物は数が知れている。

 

(これまでそんなボクシングはやっていなかった。鍛えてどうにかなる技術でもない筈だ)

 

知らないだけ、ではない。

使わない手はないのだ。この技術があれば、ハンマーナオとの試合に勝てたのだから。

だから何か、タネがある。京介だからこそ出来るボクシングがある。意識が京介のボクシングから、京介の挙動へと比重を置いて数秒。接近した瞬間に起きた。

 

(視線が、合わない!? 足元に……?)

 

ウィービングの始まり際に視線がやや落ちる。そして躊躇いなく右ストレート。上げていたガードで防ぐが、またもリズムが狂わされる。

 

(そうか、距離と挙動だ! 今井君は僕の位置取り(ポジショニング)で距離を測って、当たらない場所を覚えているんだ。そうじゃなきゃ説明がつかない。だけど)

 

彼は打ち合うボクサーだったけど、測るボクサーじゃなかった。

そんなことが出来るまでに練習を重ねたのか。どうやって? 本人とスパーを重ねなければ不可能な芸当だ。いや、出来たとて。この結論に落ち着いて、背筋に悪寒が走る。

 

(どうすれば、ここまでのことが…)

(もう気づいた様子だ。さすがは幕之内さん)

 

怖気(おぞけ)た眼差しを感じて、浸け入るように中間距離で攻め込んでいく。

攻撃の主軸は横腹へのボディ打ち。素早く届き、ウィービングでは回避出来ない場所への有効打。幕之内相手には、余程の理由がなければボディ打ちに専念するが吉だ。一直線のパンチはダッキングで躱されて懐に飛び込まれ、直後に目が回るような連打を浴びてしまう。実に恐ろしいボクサーだ。

左右に身体を揺すり、指の第1関節程度の取っ掛かりから自分のペースに試合を持ち込んでいく。

世界前哨戦敗北後、長期離脱明けのゲバラ戦でそのスタイルは大幅に強化されていた。それまでは打ち合いにもつれ込むことばかりで、インファイターにも勝機は多かった。然し、ゲバラ戦ではどうだ。

 

《心持ちにおいて、ゲバラの行動は幕之内の先をいった。開幕最大級の火力が放たれる、その予感は幸か不幸か的中────。

────的中、していた。》

 

開幕10秒の出来事。

 

《(そこは、空いていたじゃ、ないか…!)

突き刺さったのはガードの上。

渾身の一撃は起き上がる幕之内を怯ませるに至らず、ならばと。ねじった腰を勢いのままに振り返した。

想像していなかった反撃を前に観客が息をのむなか。

堅固に守られる頭部を横目に、ゲバラは限界を迎えた。》

 

そして、27秒の結末。

 

世間は熱狂した。

幕之内の帰還に諸手を挙げて歓喜した。

 

世界は褒め称えた。

強引な超接近がリカルドに届くことを願って。

 

(俺は、愕然とした)

 

アントニオ・ゲバラ。

国内王者となり、堅実に戦績を重ねて、世界ランカーと3度の試合経験かつ左利き。実力なら自分と同等のボクサーだった。それが27秒、相打ちすら叶わずにK.O負け。

幕之内一歩の防御力は格段に成長していた。

その姿は紛れもなく、インファイター殺し。かつての同門、速水龍一の二つ名を思い出す程に、この言葉が浮かんだ。つまり、今井京介の拳が届かないことを意味する。

 

(今の自分に勝機はないと悟ったが、挑む決意だけは揺るがなかった。あの日の決意が今、結果として現れている。押し留めているぞ…!)

 

だが京介は都度8度目の超接近をやり過ごし、1分間を生きている。絶え間ない移動と正しい距離感覚のお陰で、京介は防御面での立ち回りを早々に確立しつつあった。

ずっと、崖を登るように。命綱無しで、慎重に足場を選びながら、ゆっくりと上を目指す。呼吸する時の肺の膨らみすら惜しむほど狭く、手を離せばどこまでも落ちていける広大な世界に張り付きながら。頂点にある景色を見るために。

異様な執着を目の当たりにして、鴨川は褒め称える。

 

「ボディ打ちを重点的に鍛えておる」

「みたいですね。一歩君の対策でしょうか」

「デンプシーを出させまいとする姿勢と見えよう。それにしても悉くタイミングを潰してくるのは勘か、見切っておるのか。これまでとは画したスタイルだ。

じゃが、この見解はなにか、引っ掛かる…」

 

言葉の終わりにつれて唸っていく。

ピタッと棒状の何かで2人を繋いだがごとく距離が一定だ。幕之内が状況を打破しようと拳を打てば、既に京介は当たらないように対処している。迫り上がる一撃を不意に放つと、踵を滑らせながらアッパーカットを返して元の距離に戻す。

 

「まるで、小僧を真似ているかのよう…」

 

今井京介の身体に幕之内一歩の節々を着飾り、試合運びを思うがままに運んでいる、という仮説。

でなければ考えられないと、鴨川が突飛もないことを吐いているうちに、京介は前へと踏み込んでいた。

 

(間もなく打開に動くだろう。だが、お陰様で心も追いついた。技術なら劣っちゃいないと確信がもてた)

 

それは、悪く言えば時間稼ぎだ。

 

どれだけ言葉で宣誓しようとも。

 

猛特訓で実力を伸ばそうとも。

 

周囲が互角だと激励しようとも。

 

やはり、試合の最中の幕之内に対して、京介の中の偶像…幕之内が遥か高みにいることは覆らなかった。

 

1分30秒、長い時間を使って身体と心を(ほぐ)した。

勝利に徹する、この方針は継続中だ。

ここに、自分のボクシングを解き放つ。

試合前まで押し殺してきた、幕之内一歩と試合が出来る喜びを、精神へと止めどなく与える。

死なないように立ち回ってきた退屈な時間は終わり、これから景色を満喫しながら頂上へと駆け上がろう。

 

(ご挨拶が遅れました!)

(────────!?)

 

ばこん、と祝砲が鳴る。

一寸先の奈落を恐れる心を振り切ったアナタへ、天に捧げる拳が奇跡に混じって偶像を打ち上げた。

アッパーカットのカウンターに、さしもの幕之内も後退する。それほど綺麗に入った一撃が、被弾者の身と心に強い芽を咲かせながら。京介はそれを上回る勇気を手にした。

 

「今井 京介。幕之内 一歩を倒すボクサーだ」

 

ゴールは未だ上空にある。

だが、壇上だけは一致した。

同じ立場へと引き摺り下ろせた。

その思い込みだけで駆け出せばいい。

何より初めから、無謀な挑戦なのだから。

 

 

 

 

 

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