鷹の6本のツメ   作:ひとりのリク

137 / 137
ボーダーライン

雰囲気が変わった。

正確には、切り替わったことを幕之内は感じ取っていた。まるで、試合中盤で逆転の一手を打ち込んだ誰かのようで。ぴしり、と何かが裂ける音が聞こえた気がした。

次の瞬間には、京介はこれまで踏み込まなかった近接にまで迫っている。1分半の半端な距離はどこへと消えたのか。躊躇いもなしにアッパーから飛び込み、大胆な自己紹介から超接近戦が幕を開ける。

 

「────────!」

 

水面を跳ねる河川敷の石のように、足音を鳴らして日本最強のボクサーへと襲撃を仕掛けた。

直上から一転、幕之内の距離に入るなり急旋回。京介の強襲を打ち止めようと左ジャブを出している脇を潜り抜けて、水平に右拳を繰り出す。捩れながら幕之内の側頭部を狙う一撃は、彼の視線が軌道を捉えたことで外れることが確定した。

 

(躱した!? 違うジャブからフェイントだ!)

 

幕之内が右拳を見た瞬間、回避を確信。その理由を、理屈を飛ばして理解……左ジャブで飛び込みを誘った……即座に次の行動を脳裏に書き起こした。バックステップ、バックフックにロングアッパー、予備として幕之内を軸とする身体の入れ替え。

なぜ後退を前提としているのか? マトモに殴り合う気になったのでは? それは眼前にいた鬼神が視界から突如と消えても、同じセリフを吐けるのなら実行すればいい。

己の身体を消し飛ばす砲弾の発射すら視認できない状況で、突撃を仕掛ける気概は持ち合わせていない。

 

バックフックまでを実行した直後。

いずれ、その身を襲う暴風が駆け抜ける。

 

(っ!?! これが!)

 

両者、空振り。

京介はバックフックの動作で顎を引いたことで、幕之内のアッパーカットを頬の皮一枚断たれる被害で抑え込んだ。代償として、京介の懐を陣取った幕之内優位の超接近戦へと持ち込んだ。

 

(やっと自分の距離だ‼︎

まずは一撃、確実に入れるんだ‼︎)

 

その思いのもとボディブローを放つ。

1、2、3と激しい追撃に、降ろしたガードは瞬きの間に軋みを上げていた。ハンマーナオ程の強打持ちでも、脊髄が凍えるような痛みはなかったというのに、ものの5発をガードしただけで顎から首筋にかけて力んだ筋肉が千切れそうになる。

それでも、腕を退かす訳にはいかない。世界を練り歩く自信だってある腹筋だが、幕之内の前ではそんなものガラス細工のように粉砕される。超接近戦において、少しでも幕之内に手番を渡したなら、あとは走行中のトラック前に飛び出すように轢殺(れきさつ)される。

 

「………………………………」

 

そんなものは、()()()()()()()()()()()()

 

「………ここ」

 

呟きは、集中状態故に無意識から吐いたもの。

しかし幕之内の耳には、山頂の山びこのように残ってしまった。レフェリーにも届かない声量だったが、執念めいた想いが込められていたから。洗練されたその動きに思考が纏まらず、3発のコンビネーションを浴びていた。

 

(まるで、知っているみたいに動いた。

…知ってるところで出来る動きなのか!?)

 

ロープやコーナーを背負わせていた訳ではないが、左右に揺さぶるように打ち込んで逃げ場を奪う筈だったボディブローは脱出された。京介の脚が止まりかけていたにも関わらず、ひと呼吸でサイドへ回り、再び決死の形相で超接近戦を挑んでいる。

 

「常に小僧を見ておる」

「えっ、それはそうでしょうけど…」

 

感心の声を漏らす鴨川に、八木は当然のことをと言いたげに返した。

 

「視線と意識だけではない。恐らくは今日この日を見るために、ずっと昔から」

 

鴨川の追加の声にも八木は真意を読み取れなかった。篠田も同様で、鴨川は押し黙る。

「考える事はとうに終わらせている。今井は反射神経だけで身体を突き動かし、迷いを生まない」など、言って信じる人間はいない。それはつまり、鴨川でさえ京介のことを見誤っていたということ。楽とはいかずとも、打ち合いでは必ず愛弟子が勝つと、どこかで確信があった。

試合前からあった実力差を埋めるには、鴨川の課す地獄の特訓と、幕之内が持つ肉体強度といった、蓄えてきた何かが基礎になければならない。果たし状を受け取った時、試合から観てとれる京介の実力は幕之内には遠く及ばなかった。3ヶ月近い期間があっても厳しいと言わざるを得ないほどに。

 

(鷹村と似たようなことをせねば、現状に説明がつかん)

 

埋める方法に鴨川は1つだけ心当たりがある。

ティム・フェザントとの実力差を埋めた、鷹村のイメージトレーニングだ。

あれは偶然の産物だ。凄まじいストレスとドン詰まりから見つけた活路。

勝ち筋が無かった鷹村が勝つために、ボクシングの情報の海に埋没しながら編み出した練習方法。

 

(……今井にも、当てはまるのか?!)

 

喉を鳴らし、汗が流れる視界の向こうで。

京介の左右のコンビネーションが幕之内の顔面を強打していた。

 

『まただ‼︎ 幕之内の強打を掻い潜り今井が連打連打、連打‼︎ 過去類を見ない調子で今井が攻め立てる‼︎』

 

拮抗までなら京介に分がある。

そうなるために食いしばってきた。ウィービングで幾重にも拳を見切られようと、膝を少しだけ落としてカウンターだけは躱す。直後、足場を無くすほどに接近される。

押して退ける相手ではなく、退けば退いた以上に近づかれる。ならば、基軸とする。

 

(精魂尽きるまで殴る覚悟は出来た。あとは、精魂尽きる前に打ち崩す)

 

幕之内打破の理論。

恐怖心をも凍りつかせる暴論。

超接近戦を戦うにあたり、泰然とした態度。この理論は、凄惨な一撃を浴びなければ木っ端微塵になることはない。なにせ……。

 

(強引に前に出てはいる。けど今井君はソレを見越して後退する。そこに小さく、深く一撃…!)

 

幕之内が知っている京介の姿はそこにはない。

鴨川の予想は大当たり。

幕之内一歩を相手に想像したシャドウボクシングは数知れず。プロになる前から、今日の待機室に至るまで。好敵手(いたがき)との試合前を除けば、ずっとリングの上で戦っていた。

 

(大変だった。何度も俺の中のアナタは泥のように崩れていった。

所詮、後追いのイメージなんてそんなもんさ。泥を固めて魂を宿した、あの猛特訓がなければ、な!)

 

京介は鷹村と同じように、イメージの中で何度も幕之内とボクシングを続けてきた。

そして試合前、最後の1ヶ月。()()()()()を重ね、ついに執念が身を結んだ。

幕之内限定の見切り。

幕之内一歩へ勝ちたいという執念。それだけ?

いいや。勝てるという確信があった。今井京介は今井京介に期待している。期待だけは勝利に到達している。あとは、身体が追いつくだけなのだ。

 

(小賢しいステップで凌げるのも1ラウンドが関の山。今だけなんだ、足が生きているうちに仕込む!)

 

ここまで押しておきながら、3ラウンド先の結末が見えている。どこまで強くなろうと、見せかけだ。見切れているうちが京介を強く見せている。この優位性はいつまでも続かない。幾つかの条件下でのみ成り立つ荒技だ。

早々に決着をつけなければ、いずれはボロが出る。あまりにも高いハードルを越えるため、必死に手を伸ばす。

 

(挙動が少ない。何をするにしても芯が通っている。リカルドみたいな安定感のある体幹!)

 

荒野の中心に現れた暴風に飛び込むのは何度目か。向かう先は中心を突き抜けて、遥か彼方。

血流の迸りに身を預け、同じ攻撃を繰り出していく。

 

(そこから繰り出される、横っ腹を叩くボディ打ち! 合宿あとのスパーと同じだ、このボディ攻撃からリズムを作って攻めてくる!)

 

耳に聞こえる程の呼吸を漏らしながら、京介はボディ狙いを断続する。何度も何度も継続して、もう慣れただろうに幕之内のカウンターを貰う気配もなくソレはガードでのみ凌いでいる。

動作の起こりは見えているし、カウンターを合わせる技術は新型の開発とゴンザレスとの特訓で磨いてきた。それでも標準が合わない。幕之内のカウンターの軌道を読んで、京介はボディ打ちにロングバージョンを混ぜて被弾から逃れていた。

 

(縦横無尽に動かなければ幕之内を捉えることは不可能。幾つもの死力を重ねて近づく)

 

試合の結果を揺るがす一撃はないが、結果に繋がる大きなポイントは京介だけが生み出している。

何十とソレを重ねてやっとゴールが見える京介に対して、幕之内のポイントは片手で足りる。それを打ち込まんと殺人級のブローを繰り出し、またも距離がズレて空を切った。間髪入れず、狭い曲がり角を駆けてまた1つ、手を届かせる。

京介が豪快に攻めきれないのは、想定を遥かに上回る幕之内のディフェンスがあるからだ。以前なら大振りと見るや大砲を叩き込めたが、今の幕之内はワザと大振りを放って攻撃を誘っている。

見慣れないからこそ罠だと見抜けた。空振りする時の京介を見守る眼差しが空虚すぎる。気配で相手の行動を感じ取ろうとしているからだ。その隙だけを避けて、京介は着実にボディを積み重ねていく。

 

「………っ!」

 

直撃と回避行動を瞬きのうちに実行して10度目、幕之内の薙ぎ払うフックをボディブローで返し苦悶の声。

ここに来て、試合初めての衝撃が京介を襲う。

深い断層をなぞるようなフックが、スウェーを実行した京介の頬を打ち抜いた。

 

「…………ぐ!」

 

同時に、右拳に伝わる肉に沈み込む手応え。

幕之内のハラワタを襲い、振り抜きざまに追加の衝撃が加わった。腹筋を掠め取る一撃も入ったのは、幕之内のカウンターが京介の身体を捻り、強引に京介が腕にも連動させたからである。

 

「────────ぁ」

 

これも、ずっと待ち構えていた。

京介は、幕之内のパンチ(ちょくげき)を一方的に浴びることは許されない。京介の10発を一撃でチャラにするのがこの男。ならば、その一撃に1発を合わせて迎え打ち、少しでも差を広げるのだ。

 

(真正面から受けずとも、脊髄から魂が引き抜かれそうだ。怖い、こわいが…止まらない!)

 

怯む様子を表に一切出さずに打ち返す。

心臓が破裂しそうだ。もう限界が迫っているのかと冷や汗が滴る。

胸の高鳴りは警鐘と同義。この高揚感は幕之内がノッた時の姿を見ている時の自分だから。

 

(ここまでして、コレか。だが、間に合わせる)

 

あわや頭突き合うスレスレで身体が入れ替わる。この距離に目が焼かれてしまいそうだった。

あまりにも眩しい景色だ、少しだけ私情が混ざりすぎている。沈まないように記憶に焼き付けながら、喝を入れた。

 

(この身体が涸れてしまう前に)

 

怯みも恐れも許さない。

畏れなど以ての外だ。畏敬の念を胸の奥に押し返し、締めへと突っ走る。

幕之内の踏み込みは一段と深い。京介の背後にはロープ。肩幅の二倍はあろう位置に脚を置く。違和感は踵にあり。浮かさずに拳を握った、理由は明白だ。旋回すれば追いかけて撃退するため。

この先、どうせ訪れる場面だった。このラウンドにおいて唯一の悪手だと評価して、集中の二文字を脳裏に起こす。

 

「───────っシ」

 

ボディブローとボディブロー。

2人は同じ構えから、鏡合わせにパンチを繰り出した。始発点は同じだが、京介の軌道はやや内側にあり。

京介の逃げ場を埋めながら繰り出した幕之内のボディブローは、身体ごと捻じ込むことで回避不可能に近しい反則級のものとなった。そこへ京介も踏み込み、先に腰を前へと押し出す。そこには、本来なら幕之内がボディブローを繰り出すのに最適な身体の芯が突き刺さる場所がある。それを自身の芯で衝突事故を起こし、ズラした。

 

「なっ!?」

 

間髪入れず、両者の一撃が放たれる。

本来なら線路に飛び出した小動物となり、列車に轢かれてしまう生命は。小さなエネルギーと大胆な勇気で最低限の負傷を浴びて、幕之内の横っ腹へとこのラウンド最も深いボディブローを突き刺したのだ。

 

「小僧!!!」

 

思わずと鴨川は叫んだ。

久しぶりのリングでの呼びかけに応じて、幕之内が顔を上げた。拳に握り込まれた、今井京介の想いに顔を歪めて。この試合で2人は…京介が晴れて胸を張り、幕之内の視線を直視することができたことで…視線を交差していた。

 

『怒涛の第1ラウンド終了‼︎ 予想に反して今井大健闘です‼︎ この試合どうなるのか分からない‼︎』

 

レフェリーの介入により第1ラウンド終了を知る。

見事、と拍手が湧き起こる。京介の奮戦が観客の心に届いた証拠だ。

 

(板垣とは差し違えることばかり考えていた。俺は、意外性の文字もないボクサーだった)

 

それ以上に京介の心は昂っている。

これまでのボクシングではあり得なかった事態に頭を掻きむしりたくなるほどに。

前髪に滴る汗を払いながら、この高揚の原因を知る。

世界王者が相手でも、ここまでの実力を引き出すことは叶わなかった。どれだけ噛み合いが良くても、自分自身を押し上げるには背景が足りなかった筈だ。

 

(疑っていた。思い描いたことがこんなに実現する筈がないと。知った気でいた。理想に手を伸ばすのは辛くて苦しくて、向こうに行けば心が挫けるんだろうって)

 

現実は、どうだろう。

脳細胞が爆発して止まらない。

ボクシングへの理解が広がって止まない。

幕之内の一挙手一投足が京介を強くしている。

 

ここが板垣学に流れる勇気の源泉!

10発の直撃をたった1発でひっくり返される屈辱が、己の力となって100発を生み出してくれる!

 

「こんなに楽しい試合は2度目だ」

 

どこかの屋敷の中庭で、ティーセットを囲みながら談笑に耽るような打ち合い。たっぷりと自己紹介を拳に塗りたくり、何をしてきたかを語ってきた。

3分間を通して、前提は崩し切った。幕之内一歩が必ず勝てる試合、という固定観念を。

 

今井京介のボクシングが、新たなステージへと移行し始めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「研究し尽くして来おったな」

 

鴨川の第1ラウンドの総評を聞いて、半分は意味が理解できる。練習の積み重ねと幕之内対策の動きを徹底して身体に叩き込んできた。然し、過去には何度も、研究された上で全てを打ち崩しているが、その兆しはまだ見えない。

 

「…と、言いますと」

「公私を恐ろしく分けて来おった」

 

それが鴨川が示す残り半分。

勝負に徹し、勝利を望むプロの心構え。

 

「ピンときたか。ならば言うことはない。

自分自身を見つめ直してきた貴様なら分かろう」

「はい!」

 

鴨川の言葉を聞いて、京介の姿が誰かと重なった。幕之内を追いかけて、死に物狂いで試合に漕ぎ着けた、かつての後輩を思い出して立ち上がる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今井京介は、今井京介のままでは負ける。

どれだけ練習を積もうとも、例え勝ち筋があったとしても、肉体の限界だけは、拡張に時間が必要だ。

 

「……想定内です」

「想定以上だぞ! 自信を持て、お前は幕之内を圧倒した。この調子で行けば大丈夫!」

 

音羽が激励する。

タオルで必死に汗を拭きながら、ここからだと唱える姿が可笑しくて京介は笑ってしまった。

 

「あまり浮かない顔をするものですから」

「っ…そんなわけあるか」

 

顎に集まる大粒の汗を拭きながら否定する。

幕之内には苦しまられてきた彼のことだ。ここにきて選手以上に力んでいるらしいが、それが京介の肩をほぐしている。

 

「時間がないのも確かです。ギリギリの試合ですから、予定を切り上げて3ラウンドには打ち込めるようしますので」

 

最後に深呼吸をして立ち上がる京介を見て、自分が過去に打ち負けていたことを思い知る。

酷い失態だ、速水と同じ過ちを繰り返すつもりなのか。溢れた才能の受け皿すら作れない愚かさを、音羽は2度と味わいたくなかった。

 

「…ペース配分は任せる。お前以上に幕之内を知るやつは居ないからな。気張ってけよ今井!!」

 

この言葉が投げやりではないことを京介は理解している。余計なアドバイスを聞くよりも落ち着き、思考が晴れ晴れとなって調子が一段階上がる気分だ。

大手を振ってコーナーを飛び出した。

 

 

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。