戦いの幕が上がり、瞬きの刹那すら視覚情報の遮断が許されない3分間が始まる。
向かい合う両者は、正四角形で囲まれた檻の中でありながら、構えることなく視線を交わす。重心移動、腕のリーチ、漏れ出る殺気までもを読み取り、先手をうかがう。
リング上の雰囲気に拳が慣れる。手のひらに空気を握り、最初に構えたのは鷹村。徐々に中央へと歩を刻み、いまだに観察を続けるフェザントへと飛び込む機会を待つ。
開始10秒、中央へと到達したとき。右足親指でリングを押し込み、仏頂面を崩すために駆け抜ける準備を整えた。傍目からはその挙動を見抜くなど至難であり、悟らせることなく懐に入り豪打を見舞う自信が鷹村にはあった。
飛び出す直前、フェザントの懐に入り込んだイメージを先に走らせた。
「──────」
同時に。
グローブの紐を鷹村へと見せて、頭部を隠すように構える。グローブの奥から覗かせる瞳に迷いはなく、構える時間内で懐に入る余裕はなかった。
(……んだよ、そこまで読めるのか。目は合わせねえくせしやがって、変な野郎だぜ)
コーナーを背負うことなど、不利な状況ではないという自信。狙っていたタイミングを逃し、その場で狙いなおす。
そして、多くの観客は困惑した。フェザントの構えが、これまで見てきたボクサーの構えとは似ても似つかないことに。
利き手を顎に、そうでない手を前に構える攻防兼用のスタイルが主流。どの階級だろうとチャンピオンの多くがそんなスタイルを選び、ボクシングの歴史を築いてきたのだ。
「直接見ると、威圧感が凄まじいですね」
ボクサーのスタイルに数あれど、″手のひらを相手に向け続ける″ボクサーはそういない。
ピーカブスタイルの幕之内 一歩とは真逆。そして、これこそフェザントが王者たる理由の一つ。
「ストッピング。相手のパンチを伸びきる前に止め、リズムを断つための技術。タイミングを間違えれば一気に攻め入られる、ハイリスクな防御じゃ。
下手がやれば伸ばした腕なんぞ弾き飛ばされる。しかし、フェザントは達人の域を超えとる」
プロアマ問わず試合のなかで数度使用する場面は見られる。しかし、フェザントは違う。ストッピングを軸に試合を行う。
「野性の勘を手綱にする男。
鷹村が挑戦した
鴨川は胸を張り、鷹村を真っ直ぐに見る。
前評判を越えてこそ我がボクサーだと信じているのだ。
「それでも、鷹村はスーパーミドルのころから準備をしておった。この開幕を打ち崩すために…。動くぞ!」
コーナーを背負うフェザントが1歩前に出る。
互いの射程距離が重なり、顔面を捉えるまでとなる。そこから鷹村も半歩刻み、ついに大砲が的へむけて装填を終えた。
都度5度、射程距離に入ってから鷹村が殺気を込めて打ち込んだ回数だ。フェザントは全てに手のひらを合わせてきている。そこには瞬きすら割り込めない遅延があった。
そして、6度目。
鷹村のイメージがフェザントを捉えたと同時、それは完了した。
(いくぜ────)
それ即ち、フェザントの
何百、何千と繰り返した先制。そのなかから選りすぐる鷹村のジャブは過去最高に澄まされ、光のような速さを実現する。絶対の自信を持って、コンマ数秒の拳を放つ。
『緊張の間を強烈な打撃音が吹き飛ばす!
鷹村が重い沈黙を──』
ジャブの発射と同時。鷹村の自信は、鷹村自身の勘によって否定された。否、それを肯定しては甚大な被害が出ることを解ってしまったのだ。
(─────っ)
左拳にのしかかる隙間なき壁。
殺意すら覆う技術。出鼻を挫く、その体現。懐に入った影を視認していない。対峙する男は、それをやってのける人物だという認識がある。だからフェザントの右拳が見えたのは、後付けに過ぎない。
繰り出したジャブは影。そう放てば理想という、それだけの偽物。鷹村の迫力が見せた幻影は、間もなく消え失せた。
(───ぢィ‼︎)
衝撃地点から響き渡る炸裂音は、瞬きの間に2度巻き起こる。不意の行動に解説は無意識に言葉を合わせる。だが、最後まで言いきれない。
『な、なにが起きた!?両者ポーズは変わらず!
しかし2度の打撃が会場に響いたのもまた事実!』
音にだけ反応したものの、リング上の景色はさほど変わりがない。狼狽えながら解説するのをよそに、鷹村は射程距離から離脱する。
(ジャブを…!
俺様のジャブを止めた挙句、アッパーだとぉ)
手応えのない左拳、刃を捌いたかのような痛さの残る右拳。
鈍い打撃音2発は鷹村の懐で鳴り響いた。
ジャブが発射台から打ち放たれる……腕の伸び始めを抑え、ジャブの力を利用してフェザントの手首が鷹村の顎へと上昇。鷹村は、それを右肩を内側に畳みこむことで小回りの利く拳で弾き飛ばした。
(くそっ、しっかり見てたのにストッピングされちまった。しかも1ラウンドのパンチに合わせてくるなんざ、今までなかったじゃねぇか!!)
目を見開き、オープニングヒットをいまかと待ちわびる観客は困惑した。どうして鷹村が退いているのか、理解ができないからだ。
仕方がない、ここは世界。
動作1つに理解を深める間もなく、戦況は常に進み続ける。
(そっちがどう来ようが、当たる弾を見極めてやる)
細かく刻むステップの1つに合わせ、先ほどよりも鋭さが増す。次こそは打ち抜いた、と打った瞬間の確信は再び虚無へと落ちていく。
『う、打ち始めを止めている!?なんと鷹村の超光速ジャブが、いとも容易く封じられたァーー!!』
前移動に注いだ左拳の力が、容易くフェザントの右によって押さえ込まれる。そして、鷹村が次弾を装填する間に打ち上がる赤い拳。右ロングアッパーを、スウェーにより紙一重でかわした。
『なんとそこからフェザントのアッパー!およそ人間の技とは思えないが、これが歴代最強の理由!』
(っ……!このアッパー、風圧だけでヤバいと分かる。下手に当たりゃ
だが、それ以上は退かない。
ストッピングの攻略こそが山場だ。1秒でも早くヒットを奪い、勝利の鍵を握るほかに試合を終わらせる方法はない。
2度目のジャブは見切られていた。
即座に判断を終え、1度目同様、
『鷹村再び踏み込んだ!果たしてフェザントのストッピングをすり抜けられるか!?』
ジャブの軌道に割り込むかたちで、ゆらりとフェザントの右が這い寄る。そのさまは形容しがたく、死角の外から近づかれたように反応しづらい。
覆い被さるフェザントの左。3度目、打ち上がる赤い花火はスウェーにより空振る。後ろに移動した重心は、大砲の射程距離が十分であることを確認。
(まずは、抉じ開けるっっっ‼︎)
右ならば、ストッピングが届く頃には押さえ込めないほどの威力に達する。一分の無駄なく放たれる、トップクラスの鷹村の右ストレート。
右足がリングを捉え、親指の付け根から回り、腰から脇に威力を伝達。最後に届く右拳は、装填完了時点で最大威力と遜色なく。命を奪い去る勢いで、右ストレートは打ち出された。
右腕が半ば伸びたところを、フェザントの左拳が打ち止めに割り込む。直後に轟く爆発音。
「〜〜〜
吹き飛んでいくフェザントの左拳。
しかし鷹村の右ストレートも伸びきることはなかった。左右の挨拶が済んだと、攻撃の手は次の動作に移る。
気味が悪いのは、フェザントは呟きを残しながらも表情を変えないこと。
(狙い通りだ、顔面吹き飛ばァす!)
後ろへと背中が逸れて不安定な姿勢。
これならばストッピングも意味をなさない。鷹村の左は小回りをし、間に合うはずのない
ストッピングの範囲…鷹村のポージングを乗り越える。伸びた左フックはもはやガードするしかなく、この距離、姿勢でその心配はいらない。
鷹村の左拳は最高の形で開幕を飾った。
リング上で描かれたのは、横と縦の赤いクロスライン。
『相打ちィィイっ!!オープニングヒットは両者同時!視線がリングの外を仰ぐ!』
(ぐっ、あ!?)
左フックの内側から突き上がる右アッパー。
手打ちではない。不安定ながらも、しっかりと腰の入った拳。その意味を分かるや、脳裏に過ぎる後輩の顔に再び背を押される。
視線が戻る。ひるむ様子は微塵もない。
様子見は終わった。当初予定していた通り、下積みの時間へ動きを転換する。
(強いだけじゃ、この境界線は越せないッ。図々しいヤツのテリトリーは、俺様の手元まで届きやがる)
弾数を増やし、徐々に回転を上げながらストッピングの限界を測る。
(それに……)
「フェザントは前半をストッピングで様子見し、試合のリズムを完全に我がものとするボクサーじゃ。それが、これまで後半でしかみせたことのないカウンターを挟んできた」
鴨川が過去のデータとの違いをあげる。
(野郎の気が早ェ。これまでのデータ全部覆した。
耳に聞こえずとも、鷹村もまた同じことを考えていた。
「鷹村を迎撃するために入念な準備をしてきておる。それほどに隙がないと判断されたのだ、いまのあやつは」
(俺様がそのことを考えないワケないだろ。
すぐにぶち壊してやるよ、その
拳の準備を整える。
狙うは一撃、そのために放つ数は千を覚悟した。
ジャブ一発足りとも同じものは用意しない。角度を変え、速さを変え、間隔を変えて。右を交え、あらゆる手段で壁を壊し、流れを手にするために。
『様子見もほんの一呼吸、すぐさまミドルレンジで勝負を挑む鷹村!』
赤い点が走る。
僅かに下から打ち込まれるジャブは、しかし。拳に手のひらを重ねる、たったそれだけの壁に阻まれる。次いで迫るのは、壁が槍となり押し寄せるカウンター。
打ち、止められ、首を回し、また打つ。鋭く、鈍く、真正面から打ち抜くすべを探す。被弾はカウンター、こちらは打つ手が不発。
(くそがっ。狭い箱んなかで拳振り回してる気分だ)
それでも、打ち続ける。
フェイント一切無しの正面突破に捧げる。
打った数だけ跳ね返る拳。
左右のコンビネーションは続かない。ストッピングとカウンターにより即座に寸断され、肌を掠めるたびに後退させられてしまう。フェザントがゆらりと詰め寄ったとき、勢いのないジャブを放った。
たちまち閃くストッピング。ハンドスピード任せのカウンターが飛び出す。鋭利な角度で顎を狙う拳を、腰を回して軌道から逸らした。頬の皮一枚掠め取られながら、右拳が王の顔へと駆け上がる。
響く重低音。固い感触を確かめる間はない。眼前に立つフェザントが肩でブロックしたと分かった。ヒットしていないという確証だけを得て、ならばと。
(ボディがガラ空きだ)
ストッピングが外れた左の1cm先はフェザントの腹。視線を落とすことなく、足腰を回せば捻れが生まれる。一気に最大出力に到達した拳は、一撃でボディを貫くため放たれた。
「───────」
ポス、という音。
わたで殴ったような、ボクシングに相応しくない衝撃。
(なんだよそりゃあ!?)
左ボディを止める可能性は考慮していた。それでも、ゼロ距離射撃をボディで吸収されるとは予想外にもほどがある。
『なんと!ミドル級でイーグルを悶絶させたボディが、フェザントには効いていないのか!?』
「違うっ!やつめ、ボディ打ちに合わせてさらに踏み込んでおった。いまのもストッピングの1つということじゃ!」
理解したとき、すでに遅かった。噴き上がる右フックに咄嗟に反応するも、勢いは流せない。
目に見えて分かる被弾。フェザントが先にクリーンヒットを奪い、追撃が幕を開ける。
左に揺れる鷹村の視線の先には、フェザントの左拳。危険だと分かりながら、避けられる余裕はなく。一直線に打たれるジャブは3つ。
(ぶぁ!クソが拳が硬え!)
ストッピングの柔らかさはどこにもない。貫通力に特化した左をまともに受け、頬から血が伝う。
ジャブの入れ替わりに来るものなど確認するまでもない。咄嗟に固めた顔の右ガードに、間髪入れず打ち込まれるフェザントの
ガードの意味を辛うじて果たし、鼻からの微量の出血と、後方に弾かれる引力で被害を押さえ込んだ。
『ガードごと弾き飛ばされる!
やはりストレートの音は寒気を誘発させます!』
もどかしい壁がそびえている。
攻撃力が晴天に届こうと越えられない、地の底のごとき壁。
(ふんっ。ひとまずは)
鷹の目は、着地地点を見定めるように標的を眺める。
どんな場所であれ、越えられない壁はない。両翼を静かに畳みながら視線がそう語っていた。
『ここでゴング。第1ラウンド終了です!』
(イメージの1割程度の誤差っつーとこか)
ぐるりと肩を回しながら、鷹村はコーナーへと戻っていく。
フェザントは無言で歩き、両手のひらを見て目を細めた。
▼
「間柴と沢村の攻防を思い出すな」
客席に戻った木村が呟く。
「沢村のやつ、間柴のフリッカーに最初はストッピングで処理してたな、そういや。けど、フェザントはあそこからもう1つ手が加わってやがる」
「ストッピングから間髪入れずにカウンター。手首の筋肉がもちませんよ普通は」
青木、幕之内も頷きながら、実物のストッピングに目を見開いていた。
「ブライアン・ホークの上体反らしよりは現実的だがよ、あんな綺麗な止め方は見たことがないぜ」
「筋肉の使いかたに無駄がないだ二。筋肉を余さず使っているから、腕力や脚力だけじゃ実現できないことやってのけてるだ二よ」
猫田は細めた目で王者の強さを再確認した。
そこに、体幹だけなら鷹村を越えている、とも加える。
「あのチャンピオン…。とんでもないモノを備えている。理屈を捩じ伏せる類の武器を」
───
──
─
「そう暗い顔すんな。想定の範囲内ってやつよ。ストッピングがちょいとばかし上をいってるくらいか」
コーナーに戻り開口一番、鷹村は言う。
「貫くのは難しかろう。フェザントのストッピングは、パンチを打つ瞬間を確実に抑える離れ業。そこから力を込めようものなら、さっきよりも重いカウンターを返してくる」
「あんまりに見惚れる動きだったもんで、見逃しちまった。しっかりとオレ様を観てきてる」
鷹村の感心が対戦相手の強さを示す。
フェザントの動きに面を食らったという様子。
「小僧のスタイルと似ておる。あれなら左右どちらも止めに入れるな。
それを、左の
「やり難くてしかたねぇ!」
「早急にお主をマットに沈めようとしておる。相打ちの右でも退かなかった。しかし…」
鴨川の顔を確認した鷹村は立ち上がる。
「オレ様だって無策じゃねえさ。そこんとこは実行してきてやっから、どかっと立って待ってろ」
練習を積み重ねてきた。
試合で成果を見せ、表情を曇らせないためだ。
それを実行すると視線で伝え、第2ラウンドの幕は上がる。
▼
客席の一角、さまざまな国籍の観客で埋め尽くされていた。
彼らはフェザントの知り合いやファン。
彼らは驚きの声を上げていた。
「フェザントが、1ラウンドから被弾だなんて」
「あぁ、私の記憶にはないよ」
「タカムラ、やはり格が違う」
フェザントが1ラウンドで被弾することは過去なかった。
みな、その事実を知っているからこそ緊張している。
今回の相手は普通ではない。とてつもない事件が起こるのでは、と。
それでも、声援を送ることはしない。
フェザントがそれを好まないと知っている。
ただ黙して、試合の行方を見守っていた。