第1ラウンドを終え、絶好とも言える機会を手にできず。
観客たちは不安で表情が曇り、一方で千堂の応援団は勇気づけようと虎の名を連呼する。それも、次のラウンドが近づくにつれて勢いも落ち着く。
彼らが声を潜めたのは、椅子に座ったから目を瞑り、一言二言話し終えて刻を待つばかりの千堂を見たからだ。
「なんや千堂、いつもと様子が違わへんか?」
「ごっつ集中しとる……至らんことせんがええな」
「見てるだけで緊張感伝わってくるわ。震えるで!」
黙して観客の不安を拭う。
当の本人が果たして、周囲の音に耳を傾けていたかは定かではない。
だが、第2ラウンド開始の合図とともに立ったとき。
「────しゃ、やるで」
瞳の燃焼は下がらず、闘志は口元の笑みで上がり続けていると知る。
なら、見守る者たちは背中に想いを届ければ良い。
歓声を聞き届け、コーナーで佇み、右肩を横に上げて1回転させる。背中を押してくれる返礼を終え、意識は目前の最強を射抜く。
(
王者の更なる飛躍を味わい、頬が緩む。
釣られるように瞳をより注意深く凝らし、次は突破口を抉じ開けることに神経を張り巡らせる。
(ワイと戦ったこれまでのボクサーなら、ワイの一撃を知ればヒットアンドアウェイに切り替えよる。遅くとも2ラウンドから……。やけど───)
真正面、刻まれるステップは第1ラウンドと変わりなく、利己的な撃墜を目的とした攻めの姿勢。
至近距離の一撃を右腕に浴びながら、その損傷は次はないと行動で語る。勘に任せた千堂の単発を、むしろ駆り立てるようにゴンザレスはゆっくり近づく。
(その必要はないっちゅーことか)
誘いに乗るように、スタンダードからガードのど真ん中を開く。第1ラウンドの手前、観客たちからは不安の声が漏れる。
千堂にとってそれが指す意味は、最短の路で身体に慣れさせるため。
元より、被弾を恐れる男ではない。
第1ラウンドは少しでも左ジャブを観察するためのガードだった。短時間で理詰めに嵌らないことを確認し、ガードを左右のみに変えて攻撃態勢に移ったのだ。
相手が一撃を放った瞬間、堪らず後悔してしまうような威圧を振り抜く。それが千堂 武士である。
(圧力のつもりか?笑わせるな)
千堂の構えの意味を凡そは理解している。
だが、猛る男を沈めろと経験則が警告するのだ。
そうすれば、否応なく己の知りたい先が見えてくると。
この機会を逃す手などあってはならない、そう呟く。
(膨れるのは意識だけだと思い知るがいい)
片や、本能に従い。
もう片や、目標に向かい。
リングを蹴り、リング中央で射程圏に入り込んだ。
『緊張の睨み合いを破り、両者同時に拳を握った!』
先に拳を放ったのはゴンザレス。
その左に先手を取るのは世界中を見渡しても片手ほどもいない。至宝の域に達する、世界の頂点の瞬き。迷いなく、顔面中央を打ち抜くために放つソレを、千堂の眼は神経のみ確かに捉えた。
神経が脳、そして肉体に反映する間は無く。
「ぐっ…!」
瞬間、右頬が弾け飛んだ。
消えた肉片を探すように視線は左方向を彷徨う。
(こいつ、咄嗟に避けようとしやがった)
被弾の瞬間、僅かに動いた首。
プロボクサーといえど、速さに傾倒したジャブを見切るのは至難の業。それを見えず実行しようとしていた本能に警戒しつつ、追撃を実行する。
止まる前進、右に揺れる身体を反対へ殴り倒すため、踏み込んで右フックを放つ。
(効いた……!けど退かん、もっとパンチ見せぇや!)
右の一撃を左肩を寄せて受け、流れる身体を右足でリングを踏み締めて耐える。深く腰を落とした姿勢、それは虎の必殺が炸裂するモーションとなり。心が理解するよりも先に、身体が唸るままに右スマッシュを振り上げた。
対面、狩りに定められた男は野生児の行動を見ながら退がらない。必殺が炸裂する危険地帯に勇ましく飛び込み、左拳を握り、右腕で守りを固める。
「千堂のスマッシュに踏み込むやと!?」
「お前の判断なら何も言わん!いけ!!」
理性は確かにある。
狂ってなどいない。
ただ、王者には獣の必殺を前にして、退がる理由が見つからなかっただけのこと。
そして、甲高く乾いた音が轟いた。
受け流そうと側面を叩いた右拳は上空に弾き飛ばされ、左の打ち下ろしは軌道が逸れ千堂の頬を打ち損じる。
(ヅっ!?ワイのスマッシュに潜るんやなく、上からカウンターやと…!ごっつ肝が座っとるやんけ、おのれ!!)
(スマッシュは避けたはずが軌道修正しやがったッ‼︎
あの勢いで振り抜いて、ふざけた芸当しやがって…)
互いの被害は軽傷。
平衡感覚を無くすこともなく、右腕に残る痺れは巧くかわした。
休みも、距離を取る間も惜しみ。
全く同時にリングを踏み締め、前へ進むことを選んだ。
先程と構え、踏み込む瞬間は変わらない。
しかし、ゴンザレスの左は数種類のジャブを使い熟す見切り困難の拳。ほんの一瞬、ガードのタイミングをずらされるだけで、顔面はたちまちに打ちのめされる。
この攻防は長く続けば続くほど深みに嵌り、いかに千堂といえど先に身体が立たなくなる。
その分岐点と心得た邂逅。
さらに上の速さを誇るメキシカンジャブが、千堂の元で衝撃を音に散らす。
(最初だけ全力で止めるだけなら、全部来るつもりで構えとくだけや!)
光弾にも迫る拳を落とす、人外の盾。
急造、ちぐはぐだらけの理由を手に、研ぎ澄まされる神経が見るより先に行動を肉体に反映させた。
だが、次の動作に繋げるための余裕はなかった。
(やりやがったな……パリィで手の甲を捉えやがった)
削岩機の如く荒いディフェンス。
パリィを警戒していなかったら、拳を握れたかと思うほど手の甲に硬いものが触れていただろう。
(だが、その荒い捌きじゃ数はこなせない……!)
多少の痺れを加味し、それでも見劣りすることなく左ジャブを次々と放つ。フェイントを入れ、滾る深層を宥め、己の歩みを乱す男を刺す。
拳の調子に構う素振りなく、僅差で先に左を放ったことで千堂の踏み込みは浅く留まった。
止むことなく左が血を求めて吹き抜ける。
過去の誰よりも冷徹でありながら、正しく在るボクシング。誰もが知る理想のスタイルゆえに、その手のボクサーを粉砕してきた千堂は手が届かないところに追いやられてしまう。
(その左ステップが距離感分からんくさせる…!見とったんより10倍はやり辛いわおんどりゃっ!!)
パリィを1度見ただけで予測、回避され頬を打たれる。
それでも、前に進むことだけは止めない。
(こいつ……退がらねェ。俺のジャブを真正面から受けて、もっと寄越せとにじり寄ってきやがる)
スリップし潜り込み、踏み込んで突き放され、必殺を握っては右で牽制される。相手を観ながら、互いに渾身の一撃を爆発させるタイミングを探す。
(なんだ、お前。…いや、お前ら日本人ってのは、どいつもコイツも仕切り直しってのを知らないのか?)
黙々と、1℃たりとも下がらない信念を見て。
苛立つほど、呆れるほど、そして脅威と感じるほどに。
ゴンザレスは、己のなかで
無敗神話を知った、あの日のように。
(世界の顔色を伺わず、テメェのボクシングを貫く。
ハッ、大層な根性なのは認めてやる。だがなッ…)
左脚で距離感を狂わせ、左拳で中間距離の踏み抜く位置を確認する。次も選ぶのは左拳。混ぜる変化は縦。
「左の踏み込みが深いッ!」
一瞬のうちに整えた場に、慣らされた虎の反射神経は拳を見失う。
この試合初のアッパーカットが千堂の顎を捉えた。
(前だけ見りゃいいはずないだろ!)
(くそったりゃ!)
直線、曲線、そして縦が加わり攻防は複雑を極めていく。
もう1つ要素を挙げるとすれば、慣れ。
被弾を
(下も混ぜてきおったなら、合わせるまでや!)
再び、左ジャブに混ざり舞い上がるアッパー。
肉体が覚えたダメージが、飛び上がるように反撃の一手を実行する。
(ぐおっ!?ガラ空きの所にスマッシュか!
さっきのカウンター見て、もう合わせられるのかよっ)
最も、それはゴンザレス本人が意識して馴染み始めたものである。この試合が始まってから、理性は無意識のうちに恐怖を越えていた。いまの両雄に驚きこそあれど、悩む余地はない。
縦横無尽に、己の集中力が消え去るそのときまで。
互いが必殺の手段を構え、先に当てる機を抉じ開けんと荒ぶなかを進み続ける。
冷静さに攻勢を注ぎ、数を以って止まらぬ男を打つ。
対面、光ごと障害を跳ね除け、目まぐるしく広がる夜空へ手を伸ばす。
(次、次、次、次……次は、ここか!)
人が可能とする可動域を把握、反撃を封殺するための重心崩し。カウンターとなる手筈の右フックは、複雑さを深める景色に開き直り、潜り込んだ影によって巻き込まれた。
(ぐあっ……テメッ!?)
(ヂッ!!!あと少しやった!!!)
世界の頂きに足先が触れる千堂により、便宜上の無傷であったゴンザレスに傷を与えた。
『相打ちィ!千堂この試合初のクリーンヒットだ!』
溢れ出す予感。
照合し終える実像と想像。
千堂を抑え込める時間はそう長くはない。
このまま負けることはあり得る。
だが、自分の腕を信じずに勝つことも出来ない。
(先に膝を崩すまで……!)
相打ちの覚悟はしていた。
幕之内との試合で均衡が崩れるのも、この執念と己の未熟さゆえ。だからいま、ゴンザレスは己を信じ回転力を1段階引き上げた。
1つ、左ボディが千堂に突き刺さる。
続けて、返す右フックに左フックが重なり相打ちとなる。
先に、吹き飛ぶ身体を力任せに起こし、左アッパーを届かせる。
笑い、踏み込んで攻撃態勢に移る千堂へ、侵入を挫くための右ストレートを開放する。それは実直が過ぎ、パリィの餌食となった。
ならば、と。
ボディ、アッパーにフェイントを多用する。
『リング中央、立ち止まらない!恐ろしく速いパンチのやり取りが2人を掴んで離さない!!』
肩の動きを見せ、反応速度を伺う。
距離を取りながら、頭部、ガード、顎、ボディを左右で混ぜていく。
神経を削り、飛び出す豪腕を紙一重でやり過ごす。
精神が磨耗しながら、被弾を推進力に変えて危険地帯を横断していく。
(パリィと相打ち狙いが判別つかねェ‼︎
少しでも下に行けば…こちらの顔が喰われる)
(ボディのフェイントがうざったいわ‼︎
理論立てた攻防ッ、厄介にも程があるやろっ‼︎)
口元から滲み出る鮮血を舐めながら、千堂がさらに猛進。
ガードを固め、岩壁の如く迫る相手を、横にステップして周りこんだ。
去り際、打ち込むは渾身の右。
千堂が真横に現れる標的を視認し、方向転換のために軸足を回したとき。最短距離をゴンザレスの大砲が走り抜けた。
華麗なフットワークは、千堂のガードを乗り越えていく。振り抜いた右の感触は、過去のK.Oと同じ感触であった。そこに、ゴンザレスは油断なく左拳で追撃を狙い澄ます。
きっと、次があるから。
確信めいた限界点を見据え、打ち込む直前。
(────やはり!)
打つはずの左腕を、肩から内側に丸めこんだ。
瞬間に身体は後方へ弾かれ、衝突の余波がロープを伝う。
(この速さに追いつくかよっ!?)
(おんどれの考えそうなことくらい想像できるわ!!)
ガードの下から垂れる血液。
スマッシュの一撃を防ぎきれず、ゴンザレスの鼻から汗に混じりダメージが口を濡らす。
(警戒し過ぎて損をしない男だ……。
これは、長引けばこちらが根を上げざるをえん)
向かい合い、ほくそ笑む両者に割って入ったのは第2ラウンドを終えるゴング。
(次のラウンド、覚悟しておけ)
(最高や……存外飽きん男やないか)
コーナーに戻り際、交差する視線が魂を狙い定めていた。
▼
よっこらせ、と悠長に呟きながら座る千堂。
普段通りの様子だが、流石の柳岡も先程の攻防は拳を握るくらい緊張していた。
「最後の1発は大丈夫かいな千堂!?」
ラスト10秒に至っては明らかに大ダメージ級の1発を貰ってしまった。強がりかどうか確かめるため、視線を合わせて覗き込む。
「問題ない。むしろ第1ラウンドより元気出てきたわ」
そんな心配を他所に、ハツラツと笑い答えてみせる。
第1ラウンドは物足りず、不満げだった。
柳岡は相手が技術戦の最高峰であることから、いつかは痺れを切らして豪放なスタイルで押しかけると心配していたが。その予想は大きく外れ、相手は千堂の舞台に上がり込んできている。
「そら良いが、あの左ジャブのバリエーションは相変わらず厄介や。中距離から少しでも離されると滅多打ちにされる。アッパーに警戒してインファイトに持ち込め!」
中距離のスマッシュに対する警戒心は高すぎる。
現状で当てることは難しく、しかしガードの上からでは直ぐに逆手に取られて武器を失ってしまう。
そのための近距離戦法だ。
「ワイの勘の良さ知るや、速攻で戦法組み変えてきおる。ゴンの頭ン中じゃ、ずっと先が見えとんねんやろな」
「……この狙いはバレバレやろうな。けど、あれは下手すりゃリカルドより厄介やで」
「こっちも無策やあらへん。何度も観たさかい」
柳岡の忠告を頭に入れ、1分間のインターバルが終わる。
椅子から立ち上がり、リングから降りる柳岡へ向けて。
「ほな、理詰め打ちのめしてくるわ。
そのあとは、文字通りの祭りが始まるで」
沸き上がる感情を隠しもせずに伝えた。