鷹の6本のツメ   作:ひとりのリク

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最後の日本フェザー級タイトル挑戦

日本フェザー級タイトルマッチから4ヶ月。

日の本のボクシング界では、複数の階級に王者クラスの新人が現れていた。若しくは新しく王座に就き、返上以外で王者交代はないと評されるチャンピオンが誕生。千堂の世界戦から勢いが上がり、彼らに対する世界挑戦への期待が膨らむなか。

夕焼けを呑み込んだ夜空に対抗して、後楽園ホールの周辺は今宵の戦いを燦々と激励する。

 

『日本最速の挑戦者、再びタイトル奪取に臨む‼︎』

 

迎える門を潜り、挑戦者はゆっくりと歩いて入場する。

 

彼もまた、王者クラスの実力を持つボクサー。

日本に留まらず、世界に手が届く日も遠くはないという声は多い。しかし、今井 京介という最高のライバルによって日本タイトル獲得は失敗。その後、不調が続いていたなか、ライバルの敗北によって実力を十二分に発揮するまでに至った。

 

『見える景色が常人の1つ上を行く、空間把握に長けた日本の天才児。相手が強者(つわもの)であるほど、その実力は試合のなかで急激に成長する』

 

対戦相手を侮れば勝てる試合を取りこぼし、格上であっても巧みな技を磨いて勝利を掴む。唯一の欠点と言えるモチベーションは、この場において最大の武器となった。

 

『日本フェザー級3位、板垣 学。

最高のモチベーションとともにリングイン!』

 

(勝っても負けても、これで最後です。

先輩の保有していたベルトを巻くことに誰よりも拘って、この試合で僕は次の場所に行く)

 

リングの踏み心地を足裏に馴染ませる。

日本タイトル挑戦者として立つことは最後。そう決めて、全霊を注いでコンディションを整えてきた板垣。その先は分からないが、いまはそれが良い。視界を広げすぎては勝てないボクサーを相手にするのだ。

未来の展望を考えず、1勝にひたすら拘ってきた4ヶ月間。その努力に報いるため、ゆっくりと深呼吸をして試合開始の刻を待った。

 

「リングに上がるまでも、これまでと違う。

ハンマーナオのことを強者だと認めてるからだ…」

 

会場、立ち見している幕之内は生唾を飲んだあと呟く。

これからタイトル挑戦を行う後輩よりも緊張しており、ただならぬ形相に近づく者は少ない。

今日は後輩のタイトルマッチだが、幕之内の周りにボクサーは誰一人いない。木村、青木、鷹村は全員が来ていない。声を掛けてもはぐらかされたのが昨日のこと。幕之内としては寂しさがありながらも、応援に集中しようと息を整えたとき。

 

「学のやつ、信じられないほど落ち着いていますね。

下手をすれば、俺との試合よりも気合いが入ってる」

「今井くん、やっぱり来てたんだね!」

 

背後から掛けられた声の主を知って、一気に表情が明るくなっていた。

 

「こんばんは、幕之内さん。それは勿論…俺のライバルと、俺を倒したボクサーの対決です。この目で決着を見届けないと、2人に失礼ってものだ」

 

和やかに挨拶を終えるや、京介はリングに身体を向けた。

手摺りに右手を乗せて、ただ勝敗の行く末を見守りたいと静かな目で語る。

 

「うん。どっちも強い。ボクサーとしてしっかりと自分の型を嵌め込んでいる。だからこそ、どっちが勝つか分からない」

「俺と戦ったときの学じゃハンマーナオには勝てない。それは本人が良く分かっているはずです。耐久性だけなら俺よりも上のハンマーナオに、学が攻略方法を用意しているのか…。しっかりと見させてもらいます」

 

いまから証明されるのは成長の物語。

ボクサーの1つの目的地、王座挑戦。

王座を獲得した者たちが、1人の旅の無事を祈るなか。

 

『今夜、最後の試合を飾るのはフェザー級新王者!』

 

最後の防衛戦に臨む、1人の男の物語に目を向ける。

 

『第1ラウンド連続K.O記録を更新する王者を、鮮やかに完成されたボクシングで撃破。

引退を撤回し、元鴨川ジム所属の先輩として、日本の天才を迎え討ちに再びリングへ!』

 

ガウンなど羽織らない。

憧れのボクサーがそうであるように、王者としてリングに上がる姿に見当たる装飾は勝ち気のみ。

 

『日本フェザー級チャンピオン、ハンマーナオ。

挑戦者、板垣に最初で最後の防衛戦へ臨みます!』

 

ロープを潜り、現役最後の舞台に踏み入る。

 

(ここに来るたび、リングに上がるたびに周りの景色がこれまでのことを思い返させてくれる。泥沼のなかを走るボクサー、ハンマーナオの姿を)

 

下を、上を。そして左右を見回して、最後に八戸会長を見る。どこを見ても心の底から思い出が溢れ出てくる。

その刻に見ていた光景を思い出し、自分の努力が実る過程に微笑ましさを感じた。

 

(先輩が教えてくれたボクサーの生き方で、僕はここまで来ることができました。次は、この道を僕が教える番だ)

 

方々に最後の挨拶を済ませて。

視線を落ち着かせた先は挑戦者。

 

(新しい武器はない。僕が練習してきた集大成を手に、板垣くんを捉えてみせる。だから、絶対に限度は越えない)

 

リング中央で散る光。

音のない声で語る熱意。

 

(勝機は多くない。結局、僕には今井さん以上の板垣くん攻略方法を思いつかなかった。

最初の勝負は開幕、コーナーを狙う)

 

2人だけの荒野、物語の1ページ目が開かれた。

いま、試合開始のゴングが鳴る。

 

日本フェザー級タイトルマッチ。

第1ラウンド、その重さをここで噛み締める。

今井 京介の1ラウンドK.Oから始まり、ハンマーナオがタイトル奪取するまで4試合連続1ラウンド決着。そのなかには板垣が下された1敗がある。

 

(逸るな……落ち着け……)

 

だからと、板垣が第1ラウンドでハンマーナオをK.Oすることは不可能。全弾カウンターを狙い、顎にキメることを視野に入れれば話は違ってくるが。

試合前、板垣はその可能性を驕りだと断じた。

第1ラウンドK.O、それを狙わないのはモチベーションの最高潮にいるからこそ。それよりも価値のあるものを手に入れるべきだと…。ボクサーとしての勝利を渇望していた。

 

(まずは、第1ラウンドを制する!)

 

過去の敗北をこの手で乗り越えること。

一か八かの可能性は極限の状況で選ぶもの。

 

即ち、記録の上塗り。

己を貫く、板垣 学の誇示こそ勝利への第1歩。

 

(さあ、僕の()()わってください)

 

大激闘を予感する観客の視線を横切る影。

人間の動体視力が人間の脚力に反応が遅れる。純粋な速さだけで緊張に目を見張る観客を追い抜き、板垣の拳は僅か2秒でリングサイドに立つハンマーナオの眼前に浮上した。

 

(もう、目の……!?)

 

その光景は板垣と今井の日本タイトル決定戦、第1ラウンドとは逆の立場。開幕、コーナーに進撃して試合を終わらせた撃墜の始まり。あの怒涛の決着を知るからこそ、ナオは即座にガードを上げて守りに入る。

左脚を軽快に使う左ジャブをモーションの入りから予測し、軌道上にガードを構えた。

 

先手必勝と放たれる板垣の初撃。

左拳が突き出される瞬間、ナオの視界には4つを超える拳が左右から現れていた。ほぼ同時、すべてを実弾と認識した矢先。前に身体を出すことで軌道を逸らして半分を躱し、残りをガードした。

 

(相打ちで勝てる威力だ、これなら!)

 

ナオはガード越しに、次の動作を確認する。

すると、飛び出すことは予測済みだったと、即座にアッパーを混えた反撃が左右の数を増やして迎えてきた。

手始めに左拳を握り、右腕はガードへ。

一撃で仕留めるため、相打ち覚悟で左ボディを打ち放つ。

 

「ズッ!?」

 

そんな鈍い被弾を溢し、ナオの拳は空ぶっていた。

誰もが状況に追いついたとき、3度の打撃音が鳴り終える。

 

つぅ、と口元から垂れる極少量の血。

 

『お…王者の口から流血。挑戦者、細かい足捌きでボディを躱してチャンピオンにカウンターを合わせていた!』

 

会場にも分かるほどに響いた3つの打撃音とは別に、左右を打つたびに1、2度のフェイントが挟まっていた。当てるつもりのパンチがフェイントに切り替わり、相打ち狙いは見事逆手に取られる。

 

(避けるのも上手い。ビデオを観て、当てる自信がつくまで練習したことを軽く越えてきた…)

 

ビデオによる研究も限度一杯まで確認し、最も調子の良いパンチも把握している。

 

京介を倒すきっかけとなった左フックのフェイント。ナオがインファイトの末に錯覚させたソレを、板垣はセンスだけで惑わさせたのだ。

 

「今の板垣のフェイントさ、間近で見ちょったワシにも半分しか分からんかった。分かるか、ナオ。相手が最初にソレを見せた意味を」

 

八戸は冷や汗とともに、投げつけられたパンチの意味を理解した。

 

(えぇ、分かりますよ会長。彼は僕の十八番、フックでも負けないと宣言してきた。全部を越えて、ベルトを取るつもりなんだ)

 

フックのフェイントを見て、ナオ自身が真っ先に気付いた。ナオの技を上回り、京介ごと一気に突き放さんとする攻防。力と技の誇示、それも慢心ではなく尊敬を以って繰り出されるもの。

K.O宣言を確かに受け取ったのだ。

ならば、王者は跳ね除けるのみ。

 

(重圧増した…京介を破ったときと同じだ。

来る、日本の頂点が押し寄せるぞ、気を張れ!)

(前に出るしか勝つ手段はない。

打たれろ、身体でタイミングを掴むんだ!)

 

次に動き出したのはナオ。リングを蹴る音は軽く、先ず追いつくことに注視している。

反して、板垣はフットワークを忘れたように対峙の意思を示す。

 

(さあ、集中!!)

 

左腕をL字にして腹を覆い、万が一(鳩尾打ち)の保険を備えたうえでハンマーナオとの近距離戦に臨んだ。

 

「まさかナオと打ち合うつもりか!?」

 

ナオが距離を詰め、両拳の準備を整えても板垣は退く様子を見せない。誘いかどうかを判断する間もなく、相手の思惑を振り払うべくジャブを打ち放った。

 

(……いや、違う)

 

空振りするジャブを見届けて、ナオは挑戦者の目的に目星をつける。

上半身を左に倒し、一瞬の足場修正を行う板垣。驚くほど鮮やかに姿勢を正した。彼の腕をもってすれば2発は打ち込める隙がある。だが、ナオが軸足を踏み直してフックを返すまでの間、その眼はただ見ているだけだった。

 

「…見てるんだ」

 

幕之内が行動の真意を理解したとき。

突き抜けるフックをダッキングし、頭髪を擦る距離で潜り込む。そして再び構え直すと、静かにステップを刻むだけで反撃の隙間を見逃す。

 

「えぇ。腕の長さ、肩の入れ込み、足の動き……。恐らくはもっと多くの部位節々を見て、自分がどう動けば良いのかを考えている」

 

近距離で飛び去るナオの拳を見て、京介の瞳がその光景を焼き付けようと視野を狭める。

 

右から左へ、ダッキングに間髪入れずアッパーを返す。普通なら躱すことも困難と思える王者のコンビネーションを、板垣はフィジカルを使いかすり傷無く観察を続ける。

 

(僕の射程距離を測っているんだっ‼︎)

(先手必勝は決めた。なら次は情報収集。

いま王者に出来ること全部見透かしてあげますよ)

 

小さく、モーションを意識して抑えながら拳を打つ。試合前から練習してきたことの1つだが、板垣の目には見分けることは容易く。宙に放られた左に続けざま、死角となった右拳をロングフックで当てにいく。身体の奥から飛び出す曲線を、見てからダッキングで対処。

 

細かく足を動かし、身体に任せて拳の数を増やす。荒く無作法な左右の連打は、それを上回る洗練されたステップによって宙を過ぎる。

 

無数の可能性を打ち続け、悉く空振る。

果たしてあと数百、数千の拳を打ったとして命中するのか。逡巡ののち、考えるまでもないと結論する。

 

(このままじゃダメだ)

 

打てば打つほど命中率は下がっていくと知り、王者がバックステップでロープ際に下がる。

 

「ハンマーナオが追うのを辞めた…?」

「いや、違うよ。まだ板垣君を追ってる最中だ」

「成る程。つまり────」

 

見る者の舌を痺れさせる接近戦から一転。

荒れる大海を無理やり鎮めたように、王者の次の行動に目を見張る観客たち。

 

(諦めるには早すぎる。さて、次はなにを──)

 

板垣が注視した直後、彼を含めた会場中の目が見開いた。

 

驚くことに、ナオは構えを解いてゆっくりと板垣の方に歩いて行くのだ。

 

(なっ……えっ!?)

 

試合中、相手の動きがスローに見えてしまうほどの集中力。それが板垣最大の武器にして、多大なスタミナ消費という大きな欠点を抱える課題。

いま、その状況と似た現象に思わずステップが落ちる。正確には、ナオがゆっくりと歩き出すという試合中とは思えない行動に意表を突かれた。無論、セコンドの篠田含めてである。

 

「ハンマーナオは攻め方を変えてきた」

 

そして、ナオは握手を求めるように左手を上げる。

スッと伸ばされる拳があまりにも自然に過ぎて、時間をひととき忘れてしまう。左拳が眼前に迫り、漸く意識が現実世界の時間と結び付いたとき。

 

(これ、は……)

 

視界は赤一色。

血色ではない。出血よりももっと危険な、拳という凶器の先端。相手を沈めるための刃を、血を出すことすら目的としないままに差し出された。ほんの一瞬、呆気に囚われて、そして相手の行動を理解したとき。

 

(っ、しまっ!?)

 

咄嗟に右側へと飛び退いた瞬間。

左腕に向けて強烈な一撃が追いつき、板垣の身体を吹き飛ばしていた。

 

『王者不意の一撃!挑戦者のガードの上からお構いなしに打ち込んでいく!これは効いたか!?』

 

予め固めておいたガードを殴られた。

だからと、安堵感は欠片ほども思わない。

 

「グ、っぶねぇ……」

 

勢いを殺せないままロープにめり込む。

 

漢方をそのまま口に含んだが如く、序盤で貰いたくない認識を叩き込まれたことに歯噛みする。

 

(サイドステップしてなきゃ足が殺されてた。この威力、京介のように何度も耐えられない。なにより……)

 

ゆらり、変わる景色。

一気に現実に引き戻された感覚。

京介による、集中状態下での猛攻とは真逆。膝を崩されるような浮遊感にナオの仕事の早さを実感する。

 

「並のことじゃ動じない集中力を、たった一手で乱した。握った主導権を落とされたか」

「それに、ボディ攻撃は多少貫通している。板垣くんの左腕をガード一辺倒にさせるには十分だ。少しでも縮こまったなら、攻撃力は半減する」

 

傍から観ている2人も、ナオの判断力に舌を巻く。

たった一撃でコンディションを崩した。2人が同じ考えに至るのは、板垣のステップが乱れたこと。

 

「俺と戦ったハンマーナオはボクサーとして誇れるインファイターでした。けど、彼のこれまでの試合は多くがそうじゃなかった」

「うん。……いわゆる”噛ませ犬”として戦ってきた山田くんは、ダーティ・ファイター(生き汚いボクサー)だった。

卓越した技術を持っているのは板垣くんも知っている。集中力を切らせたことがもう凄い。だからこそ、これが最後のチャンスになる」

 

集中状態のとき、板垣はラフファイターの反則を全て躱し、相手に遅れを取れば即座に上塗りしてきた。

今回はそれもない。

 

(先輩のときのような反則はしない)

 

ナオは反則を選択肢から外す。

これは試合前、板垣からのタイトル挑戦を受け取るときに決めたこと。

 

最後の試合で定めた、噛ませ犬ハンマーナオの真骨頂の封印。京介戦では元より通じないと諦めていたものを、板垣戦では敢えて封じた。ラフプレー無しに勝てる相手ではない。

それでも、勝利への執着を上回る、勝ち方への拘り。

幕之内との試合とは意味が違う。今宵、汚い手を使った勝利は敗北以下の価値しかなく。

胸に秘めた想いに手が届くには、純然たる勝利でしか不可能。泥臭くなろうと、この場に規定外の行為があってはならない。

 

(あくまでもボクサーとしてリングを降りる!)

 

この場にいる誰よりも。

板垣以上の信念を持って、ナオは勝利へ向けてリングを蹴る。

集中力を断って間髪入れず。踏み込みの瞬間速度だけなら板垣に追随する速さで、体勢を立て直しきれない挑戦者の前に侵入する。

深く入り込み、右ストレートを構える。

ここから上体を逸らそうと、或いは左右に逃げようとも。即座にフックへと切り替えてリングに沈める準備が整った。

 

クイッと右拳を動かし、不格好ながら反撃の意思を示したのを確認。カウンターを狙い、ナオも合わせるように右拳を振り抜いた。

直後、ナオが目にしたものは無数の拳。

 

「グ、ゥ…!?」

 

自分の拳は頬を掠め取るのみ。

カウンターを狙ったはずの右が、逆に左右のカウンターを打ち込まれていた。フック、そしてアッパーがナオの顔を打ち、足をも止める。

 

『今度は挑戦者が目にも止まらない連打!

なんというハンドスピード。思わず王者後退!』

 

4度、深くはないダメージを受ける。

しかし、浅いはずがない。集中力を断った瞬間を狙う一撃…数少ないチャンスを逆に使われたのだ。少なくとも、戸惑いはある。

 

ナオが視線を戻したとき。

挑戦者たるボクサーの瞳を見て、受けてしまった反撃に納得してしまう。

 

「集───────中」

 

リングという不自由な空間で、圧倒的な自由を実現する。

板垣の本領が第1ラウンドから解き放たれた。

 

 

ハンマーナオVS板垣 学、勝者は?

  • ハンマーナオ
  • 板垣 学
  • 引き分け
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