ハンマーナオ、現役最後の試合の翌日。
幕之内は両手両足に重りをはめて、河川敷のランニングコースをゆっくりと走っていた。
ゴンザレスに負けてから、幕之内は鴨川に休養を言い渡された。期限は設けられず、とある疑惑が消えるまでは復帰もないと告げられている。
普通、休養なら身体を休めるものだ。リフレッシュとしてのスポーツは効果的ですらある。だが間違っても、筋肉を刺激して負荷をかける運動を指しはしない。
「これも違う…」
走りながら、時折デンプシーをゆっくり描いては頭を横に振る。幕之内は試合復帰に向けて、デンプシーを改良するためにあれこれとイメージする。
「縦………?う〜ん、なんか違う」
横に、更には縦に身体を動かして。
普段のトレーニングを知らない者が見れば、思わず顔をしかめそうな重々しい動き。
「先輩は相変わらずですね」
そんな憧れの姿を見て、直道は微笑を浮かべて幕之内に声をかけた。
「え、あっ!山田くん!?
どうしてここに?帰ったんじゃなかったの!?」
「お久しぶりです、先輩。お会いできて嬉しいです。
その、ご報告をしないと帰るに帰れなくて…」
幕之内は驚愕に顔を染めるも、すぐさま満面の笑みで直道のもとに駆けていく。予想以上の歓迎に照れながら、挨拶を交わすのだった。
「ほんとに嬉しいよ!日本王者おめでとう!防衛戦も凄かったよ!山田くんの成長が嬉しくて、僕何度も試合を見直してたんだ!」
「ありがとうございます…!
先輩の言う通り、僕、あれから強くなりました。今井くん、板垣くんを倒せるくらいに成長出来ました。先輩がいた日本タイトルも手にしました。やりました、先輩!」
直道の報告に目元が潤う。
自分に憧れたボクサーの報告だ。
我がことのように喜んで極まりまくっていた。
「今井くんと戦う前、オズマさんが特訓に付き合ってくれたんです。オズマさんが居なかったら勝てなかった…。彼、先輩のことを本当に尊敬していました。
沢山な人に支えられて、僕は……全てを出し切ることができました。僕が始まったここでハンマーナオを終わらせよう…。そう、以前から決めていました」
「そんな、僕の言葉を覚えててくれただけでも嬉しいのに…。うぅっ、ごめん嬉しすぎて涙がっ」
涙目の先輩と後輩。
最後の宣言はしっかりしたいと、後輩が目元を拭い姿勢を正す。
「ハンマーナオは今日をもってボクサーを引退します!」
「うん、うんっ…!本当にお疲れさまでした…!」
直道の礼儀正しさも幕之内を見て学んだ。
リングに上がれば観客にお辞儀をする彼の想いを、直道が忘れずに引き継いだ。その真面目さこそ、彼の本当の武器なのだから幕之内も誇らしくて涙が止まらなくなる。
成長と終わりを見届けた男が顔を上げる。
最後にどう言葉を贈ろうか悩みながら目を見て。
「だけど、1つだけ……1つだけ悔いが残りました」
「…!」
力強い眼光に息を呑んだ。
引退宣言に等しい意味があると直ぐに分かった。
「鷹村さんです」
「そ、それは…」
「気付いていますよね。なにかおかしいって」
だが予想しなかった。直道の口から、鷹村の様子が変わったことを。近く見ていないはずなのに、彼の口調は異変の確信を知っていると言わんばかりの自信だった。
「うん…。けど、鷹村さんは僕たちになにも話してくれないんだ。原因を考えても分からなくて…」
「異変に気付いたから、鷹村さんと会ってきました。そこでなんとなく気付いたんです。
鷹村さんはいま、”前を向いているフリ”をしているんじゃないかって」
「前を向いているフリ?」
「鷹村さん、いまの先輩たち……もしかすると、鴨川会長にも心を閉ざしているかもしれません。
僕は先輩との試合まで、負けが許されない橋を渡ってきました。励みにしたのは、ジムの皆さんとの時間です。
………そんな、遠い場所を振り返るうちに鷹村さんは迷ってしまったのかも」
幕之内は直道の戦績……その内容まで詳しく把握している。デビュー戦から相手は強敵で、次々と組んだ試合は格上だ。心が折れても肯ける逆境を跳ね除け、憧れの背中に追いつくまでどれ程の苦労があったのか。顔の変わりようだけでは想像もできない精神的苦痛があったはずだ。
そんな直道だからこそ、鷹村の異変に親近感が湧いた。
ここ1年弱、鷹村さんの様子が変わっている理由。
あと少しのところまで来れた気がする。
そんな表情を見て直道は大丈夫と思ったのだろう。
「僕は信じています。先輩の夢は叶うって」
右拳を胸に当てながら。
「僕は知っています。
先輩が正直な人だって。だから、だから…」
真っ直ぐに瞳を見て激励を口にした。
「がんばってください!
本当に、ありがとうございました!!」
最後まで礼儀正しくお辞儀をして。
ハンマーナオ、ここに引退を宣言する。
頬に伝う一筋の熱を拭い、幕之内もありったけの感謝を込めてお辞儀を返した。
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直道が帰ったあと。
幕之内はジムに様子見に行くか迷った末、今日が休みだということを思い出す。後日、療養を言い渡された身なので練習の邪魔にならない夕方に顔を出すことにした。
そして。
「鷹村さんいるかな」
幕之内はジムの窓から中の様子を覗く。
飛び込んできた光景には。
「えっ」
誰もいない……正確には、項垂れる鴨川以外の誰もいないジムを見て、幕之内は驚きに声を漏らした。
明らかに様子がおかしい。慌ててジムに入ると。
「小僧………。ワシは鷹村を止めることが出来なかった。本当に、不甲斐ない」
鷹村 守の亀裂はすでに、手の施しようがない場所に到達していると知ることになる。