直道の引退を見届けたあと、鷹村は湧き上がる怒りを抱えて帰宅した。シャワーで汗を流して、乱暴に布団に潜る。あとは寝るだけというところで、天井に目を向けると。
”どうして、自分のことを虐めているんですか?”
影法師が右拳を打ち出してきた。
それを左手であしらう。
「ちっ、うるせぇよ」
乱暴に振り払うだけ。
もっともらしい理由は言えるものの、それでは直道に見破られてしまうだろう。だから腹立たしい。
…何故、ジムから離れたヤツの方が分かったのか。
「オレが虐めてんのは…」
無意識に思ったことから目を背け、ゆっくりと目蓋を閉じる。
───
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ここ数年、目覚めは気分の良いものではなくなった。
理由は、なんだろうか。
ボクシングを始めたての頃、鴨川に無理やりにでも連れて行かれた早朝ランニング。眠くて怠くて、しかし嫌いにはなれない時間。毎朝天候問わず、前日に疲弊していようと走り続けた道。
ジジイが煩いだの、家の前で待たれて迷惑だと思いながら練習着で玄関を飛び出していった。そこには少しだけ…最初は米粒以下の楽しさが混ざっていて。日を追うごとに量は増えて、いつしか握り飯が出来るくらいにやり甲斐は形を成していった。
添え物にはバカ共のバカ騒ぎ。握り飯を味わうために大切な後輩が1人、2人と増えていった。後輩たちも同じ握り飯を食べて、志し同じく前へ突き進んでいく。そこには微塵も不満はなかった。
そのはず、なのに。
いつしか握り飯は皿の上から消え、暖かみで包まれていた場所には分かち合えるモノが消えていた。
そう、いつの日か気づいたのだ。
「オレの恩返しは、もう終わっていた…」
鷹村 守が与えられる恩返しは頭打ちになった。
鷹村が望んだ恩返しを出来るボクサーは、世界山の麓で撃墜されたのだ。
だから、期待させてしまった責任として、鷹村は幕之内に限界を示したのだ。自らが招いたボクサーを、これ以上苦しめないよう。パンチドランカーという疑いを確定させないまま、好きなものから去ってもらうため。
幕之内を共に連れてきた鴨川が見せるあの心配顔……膨れ上がる期待が少しでも小さなうちに。これが優しさと言えれば良かった。純粋な気持ちで提案出来たなら、もっと晴れ晴れとした気分だった。
だが、幕之内に吐き出すセリフが鷹村を苦しめる。幕之内がゴンザレスに敗れ、それでも期待を寄せる鴨川を見たとき。漸く鷹村は、この感情が誰に負けたものかを理解し、同時に嫉妬心を拡大させていく。
嫉妬心を向ける相手は、鏡の向こうにいるというのに。
(そうか、目蓋を閉じたらオレがいるからか)
ここ数年、目覚めは気分の良いものではなくなった。
これが、理由か…。
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「あぁ、無性に腹が立つ…」
寝起きの鷹村が呟く。
どうして今更、
「くだらねぇ。忘れろ、あんなヤツ」
不満を吐き捨て、それでも残る苛立ちとともに立ち上がる。
早朝ランニングをするためだ。もう楽しさは感じない。見失ったのか、いまは品切れなだけかは分からない。ただ勝つため、嫉妬心に呑まれないように玄関を出た。
”はじまりの分岐点”があるとは知らずに。
その日、日課を終えた頃にはあちこちの店が営業を開始していた。少しだけ長かったランニングを終えて、帰宅途中の鷹村の目に留まったもの。
「けっ、大スターは勝手に記事にされて困るねぇ」
書店に並ぶ1冊のスポーツ雑誌。
その表紙には自分の名前があり、あからさまな煽り文句を謳っていた。雑誌を手に取って出版社を確認すると、ガセネタで有名なところだ。構っているほど暇じゃないと雑誌を置こうとする。
「…」
脳裏に、直道の表情がチラついた。
あんなもので心を乱されては堪らない。少しだけ、この雑誌を読んで文句の一つでも言って憂さ晴らししよう。
くだらないことを求めていたのかもしれない。
そうして鷹村は気まぐれに雑誌を広げて。
『リチャード・バイソン、不名誉な敗北?
鷹村 守は嘘っぱちの統一王者!?』
ミドル級王座統一戦の記事に貼られた写真には、鴨川のタオルが投げ込まれる瞬間が写っている。
『本当は負けていた!壊れる王者を戦わせる後輩たち!投げ込んだタオルのキャンセルは有り?無し?』
次に貼られているのは、宙に放られた敗北の証を、協力して叩き落とす青木と木村の姿。
「んな、はずが…!」
確かに記憶の片隅に、鴨川がタオルを投げようとしたことは覚えている。だが、投げられるよりも先に勝負を決したと思っていた。まさか、タオルが投入され、回収されたなどとは思いもしなかったのだ。
「ば、馬鹿な!?」
『鷹村は最強なんかじゃなかった!WBC・WBA両団体、回答を先送り!日本最強の鷹に黒星は付くのか!?』
「この写真……マジ、なのか?」
感情の正体を掴めないまま、手にしていたスポーツ雑誌はビリビリに引き裂かれていた。自分の手で破ったことを自覚するよりも先に、もう1冊同じものを手に、会計を済ませて走り出した。
▼
手元には『鷹村VSバイソン』と書かれたビデオケース。藤井記者が務める会社に突撃して借りたビデオはいま、鷹村の部屋にあるテレビで記録を再生していた。
そこには、保ってきたプライドを壊す映像が流れている。
「負けた………?
ジジイは、タオルを投げなかったんじゃなく」
意識が飛びかける鷹村を確認した鴨川が、躊躇ったあとにタオルをリングへと放り投げる。その時点で鷹村は敗北した。誰がなんと言おうと、鴨川が負けを認めたのだ。
たとえ、青木と木村が必死にタオルを回収して、試合を続行させようとも。
「投げたタオルが、青木と木村に回収されただけって言うのかっ!?
なんなんだそれはぁぁぁぁぁぁぁあっ!!!
あのクソジジイ、んなことしてやがったのかっ!」
はっきりと記録された敗者の証。
「お、俺が……負けたと思われていた。
あの牛野郎に、俺が…………!?」
テレビがバイソンをK.Oしたところで、鷹村の怒りは頂点に達した。
「んだよ、勝っても嬉しかねえよ。
要らねえ…こんなベルト、なんの意味もねえ!」
WBAのベルトを壁に叩きつける。
無礼だのそんなもの考える頭はない。
敗者を讃える玩具など見たくない。
世界のベルトは床に落ち、それでも消えるはずがなく。横たわるソレが鷹村の敗北を指摘する。
「ッッ〜〜〜〜〜〜くそがア‼︎‼︎‼︎」
訳が分からなくなり、身体が動くままに部屋を飛び出す。
負けの烙印を認めない。
全力疾走で振り落とす。
落ちない、負けは消えない。
勝ち続けてきたように、負けがこの頭から消えてくれない。
霞む、走るたびに過去が埋れていく。
勝つために走ってきた河川敷が見ている。これまでの自傷を、当たり散らしてきた嫉妬が景色に染み込んでいる。走れば走るほど思い出す、この身体に染み込んでいく。
汗を流したはずなのに一滴も出ない。
嫌なものが頭のなかから離れない。
「あ、ぁ…」
気づけば1時間走っていた。
全力疾走が出来ないほどに体力をふり絞った。
どこを走っていたのか覚えていない。
嫌なことを忘れようと飛び出したのに、逆に逃げる手段が無くなっていた。次に訪れるものは現実。
寒気が身体を覆う。
気候は関係あるだろうが、これはもっと精神的なもの。ついに理性が敗北を見ようとしているのだ。
「誰が、負けるかよ………この俺サマが……!」
認めない。直視してはいけない。
精神に拒絶させるため、傍に聳え立つ木に右拳を叩きつける。揺れる木は枯れ葉を落とす。その光景のなにもかもが見たことがあり、記憶が直ぐに思い当たる。
”これが出来たら、ボクシングを教えてやるよ”
”これを、僕が…!?”
幕之内がボクサーとして始まった場所。
”鷹村さん、強いってなんなんですか。
強いって、どんな気持ちなんですか”
幕之内の問いに、答えの入り口を教えた場所。
「負ければ、次がいつ来るか分からねぇ。
強いってのはな、孤高なんだよ……一歩」
はじまりの木を見上げて、虚空に言い放つ。
帰路に着く前に振り返る。少しだけ視線を下げて、はじまりの木から川に向けて一直線に引いた線を見た。
幕之内に越えるな、と言った”人外の境界線”。
「…ふん。越えなくていいんだよ、休め」
僅かに沸いた感情を押し殺して空を仰いだ。
───
──
─
ゴミが散乱する自宅の隅に一人。
深夜3時を過ぎようという時間だというのに、眠気はまるでなかった。
窓から差す月のあかりに照らされる瞳には、人としての精気や覇気がない。現実を見ていなかった。繰り返し脳内で流れる、リチャード・バイソンとの試合。リングの中と外。自分視点とカメラ視点を照らし合わせながら、屈辱の瞬間は20回目を迎えた。
何度、試合を思い出したか。
そして何度、イメージを覆そうと足掻いただろう。
最後の最後、自分は足首の故障が原因でタオルが投げられてしまう。そんなイメージがこびり付いてしまった。
「ーーーーーーッ!!!」
歯ぎしりの音が響く。形にできない悔しさが胸の奥で暴れまわる。
「認めねぇ…」
負けを。勝ちながら負けたことを。
会長の期待に応えられなかった時間があったことを。
結果も、
世界を獲った自分が守れるものは無敗だ。
これを失えばどうなる?
鴨川は励ますだろう。
だが、もう無敗の鷹村へ向けた期待は薄れる。
ただでさえ少ないソレは全て幕之内へ行ってしまう。
「……ちくしょう」
現実から逃げるように、苛立ちをぶつけるために。
イメージトレーニングと称したバイソンとの試合を再び始めた。