ブザーの音とともにセコンドがリングの上を降り、再び二人だけの死闘の舞台が仕上がった。
一呼吸を終えたであろう間を挟み、2度目のゴングが鳴る。
(まずは、その足がどこまで動けるか見極めるぜ)
コーナーを飛び出した木村とは反対、エレキはガードを固めて警戒心を剥き出しに歩み寄っていく。
ダメージを負ったはずの身体だが、まだ芯から崩れる段階ではない。強引に行くことは即座に辞め、カウンターを取られないためにヒットアンドアウェイへと切り替える。
ジャブ、ストレートにフェイントを交え、揺さぶったところを一つ一つ当てていく。クリーンヒットではなく、蚊が刺す程度のもの。時折、エレキはストレートに合わせて踏み込むが、その分だけジャブで距離を取られる。
ポイントを稼ぎながら自分のボクシングを行わせない。間違いなく、リング上の流れは木村が掌握しつつあった。
(…俺の動きを見てやがる。ダウン取られたくせに恐ろしく冷静だ。
ガード越しの拳がタイミングを計ってんのが嫌な味出しやがる)
(この男、前半から積極的に攻めてくるボクサーではなかった。この数ヶ月でパターンを変えている。それもおそらく、私への対策だ)
打ち終わりに小さく腰をつかむモーションは、木村の内心に大きく冷や汗をかかせている。
───
──
─
-半年前、鴨川ボクシングジム事務所-
「これが、エレキだっていうのかよ…?」
口をあんぐりと開け、テレビの枠を思わず掴みながら映像を観ていた。
「事実だ。この目で見てきた、そしてお前と戦った頃の粗は限りなく克服している。間柴と遜色ないくらいの強敵だ」
5試合、全てカウンターKO勝利。
一瞬でも宮田に重ねて見た自分がいる。
宮田ほど速さはない。目で追えるし、まだ付いていけるだろう。
だがその分、打たれ強さは上だ。
「カウンターが決まればほぼ一発KO。腕力というより、足腰を鍛え上げたボクサーだ。減量している宮田にはない耐久力もある」
打たれた分、タイミングを計り調整を加え、乱打や渾身の一撃に合わせてカウンター。
忍耐強く、最適のカウンターを仕掛ける行動力は恐ろしい。打たれ強いせいで強引な踏み込みもやってくる、相討ち覚悟のカウンターなんて最悪もいいところだ。
「
篠田が呆れながら笑う声で、自分の頬に触れる。
すると、気づかないうちに笑っていたのだ。
「だがな木村!お前だって負けず劣らず成長している。だからこそ、日本タイトルマッチに向けた最後の調整として、エレキ・バッテリーを選んだ」
「言いたいことは分かってるぜ、篠田さん。確かに、エレキを倒せりゃタイトルマッチに向けた対策も取れそうだ」
視線は合わずとも、挑戦状が叩きつけられたことはよく分かった。
「感謝するよ。だから絶対にKO勝利してみせる」
─
──
───
(せいぜい覚えて、様子見してろ。まずは基本から身体に刷り込ませてやる。木村 タツヤって男の根本を呑み込め!)
(まさか、1ラウンドの貯蓄を10ラウンド持ち逃げする気か?)
エレキの試合を観たからこそボディを打ち込む距離に入り込まない。
ビデオ越しにカウンターの速さを知っている。どこに顔があれば一発で負けるか。ボディを叩き込まれたとき、起き上がれない選手を見てきた。
映像を観ているときも、その後も寒気が走った。2回のドローに持ち込んだ相手だとはとても思えない。映像の中のエレキ・バッテリーが、まるで自分を倒すために成長している気すらした。
(落ち着け…。いまの私のカウンターなら、多くても2発で仕留められる。だと、いうのに…!)
エレキが攻めあぐねている状況は、木村の作戦通りと言える。
ダウン後、エレキが慎重にカウンターを狙いに行くのは分かっていた。勇敢にも相手の距離に飛び込んで、足腰を駆使して一刀両断のカウンターを狙うのだ。
(エレキの試合を観て分かった。こいつの弱点はボディだけじゃねえ!KO勝利の9割がカウンターだ)
1ラウンドのダウンを取るまでの攻撃、その後のポイント稼ぎのアウトボクシング。
ボディは1ラウンド目で打ち込まれ、状況次第で5、6発で打ち抜かれる危惧がある。
そして、2戦目でドローに持ち込まれたドラゴンフィッシュブローが控えている。
中か、外か。
エレキの意識はリング上のあらゆるところへと向けさせられている。自分がいま何処に立っているのか、相手の射程圏までどのくらいか、次に繰り出すべきは?次はなにを狙ってくる?上か、下か?
(腕力にも自信がねぇってことだろ。フットワーク殺して腰を浮かせりゃ、コーナーほど背負いたくないよな?)
2度のドローが余計な力みを生む。
場数を踏み、国内に敵無しとされる男は、1ラウンドの奇襲で完全にリズムを狂わされていた。
2ラウンドも1分30秒が経過、徐々に擦り傷にも積み重ねてきたダメージを感じてきていた。右を嫌がり、空振りさせようと半歩引いたとき、小刻みにステップインする木村。
まるで想定していたかのように、即座に態勢を立て直した。
(なんていう、絶好のタイミングで!!)
木村が放つのは、ワン・ツーを嫌い顎にガードを置いたところを狙った左ボディ。左を見届けてから強引に左フックを打つエレキ。
(これに合わせてくるかよ普通!?)
両者の拳が同時に着弾する。
木村の左は綺麗なフォームで、ダメージを通す音が響いた。対するエレキは木村の顔面を捉えていたが、手打ちがすぎた。
『相打ち!しかし木村にダメージの様子はない!エレキ、先々を封じられ明らかに嫌がっている!』
(び、ビックリさせやがって!倒れるまで続けるのはしんどいぜ、こりゃ)
(ぐっ…、自分でも驚くほど被弾が多い…。そしてカウンターが、打てない…私の拳は、届かないのか?)
グローブ越し、手打ちの軽さを痛感する。
(……まだ、だ。当てるまで早まるな)
ダメージが入らない。いや、そういうボクシングをやらされている現状に、混乱を飲み込むほどの危機感が溢れる。
(このままではダメだ、狂ったペースを取り戻すには、守りに徹するなど愚の極み‼︎)
ゴングやダウンで仕切り直すことは不可能。被弾の隙間にこそ活路を見出す、肉を切らせて骨を断つ戦術へと気持ちが切り替わった。
(左は潜る、右はガードする。留守になったボディに、鋭く一撃をお見舞いする)
木村のワン・ツー、フェイントの癖は粗方覚えていた。雰囲気に心がのまれかける度に、打ち込まれる拳の音と衝撃が染み込んでいく。荒く、それでもリズムを変える即効性の薬としては十分であった。
ガードを上げ、ジャブの打ち終わりに合わせて一気にトップギアで踏み込んだ。
(タイミングは計り終えている…!)
(ヂィ!無理やり捻じ込んできやがった。
狙いは…右っ!)
木村のジャブは頭上を掠めていき、伸びきったときにはエレキと見上げる形で対峙していた。
残るは右拳だけ。万全の警戒態勢で待ち構える左腕があるため、重い一発を受け止めることができる。懐に入り込まれたら右で突き放すよう、木村の身体は組み込まれている。
エレキの勇敢な選択に会場中が息をのんだ。被弾の覚悟があり、木村の左はあと一瞬だけガードが間に合わず、放たれるカウンターの右はそれほど鋭い。
誰もがのんだ息を吐くよりも先に、着弾音が緊張の間を駆け抜ける。
「──────?」
言葉にならない小さな疑問符を声にしたのは、いったい誰なのか。
声を吐き漏らした張本人すら気づいていない、勢いを断つ一発。
『エレキの身体が左によろけた!完全な不意を突いたこれは!?!』
身体の重心が呆気なく左に傾いたせいで、狙い澄ました右は木村の鼻先を通る。エレキは訳もわからず、リングに近づく己の身体を止めるため、左足で踏ん張った。
(ぐっ、なんだそれは⁉︎私は潜り混んでいただろう…!)
(鼻先掠った…が、間に合った!)
会場がどよめくなか、右頬に残る拳の感触でようやく理解する。
(左、フックか!?)
(打ち終わり、合わせてこれるだろ。だからって易々とやらせると思うか?)
左フックまでを把握するも、それが視野の外側、ジャブから変形するフックまでは理解できなかった。
技の一つとして名前もあり、かつて幕之内 一歩がフェザー級タイトル初防衛戦で大苦戦したもの。
「あれは、真田の″飛燕″!小僧が真田とやるときの対策で真似させたが、あれを完成させていたのか」
「一人、ロードワーク中に黙々と練習していました。あいつもガムシャラなんです。減量中、気力を削がれながらも貪欲に己を研究し、相手のことを考え続けた結果をようやく手にし始めました」
直線、或いはボディのみで組み立ててきた試合で、初の
視野が狭くなるまで待ち続け、少しの力でカウンターを寸断できる一手を呼び寄せた。
「パンチが当たらずエレキは焦っていた。右のカウンターは木村が出させたもの。この時のためにミットを持ち、そして他にも考えられる攻防は全て覚えさせました」
篠田はフィリピンから帰国後、青木と木村を呼びミットを打たせた。打たせて打たせて、バカみたいに頭を振らせてダッキングさせ、弧を描かせてウィービングさせた。
『意識が逸れたところに右ボディが突き刺さる!』
(篠田さん、見えるぜ。どんどん視野が広がっていきやがる。ヤツの動きに、俺のイメージがびったり合わさり始めた)
練習が終わったらDVDを観せて、観せ続けて、持ち帰らせてイメージと打ち合えるまで観せた。
(もういっちょくらえやぁぁぁぁぁ!!!)
(コーナーに押される…ボディ…〜ッ!!)
木村 タツヤの視覚情報と脳裏に刻み込まれた、篠田のミットとの誤差が着々と埋まっていく。
考えるよりも先に手が出る。寸分の狂いもなく、フェイントに揺さぶられず、自信が確証へと変わる瞬間。
あるのは人間の奥底に眠るセンス。危機管理に根付いた瞬発力が、僅かな誤差だけを生んでいく。
「私の知りうる限りのエレキ・バッテリーの隙だ。練習で染み込ませたパターンは、エレキが試合中に必ずとってきたものだ。
お前の拳なら必ず大丈夫だ、自分を信じるんだ!」
浮上する身体が怯える。エレキの神経にヒビが入る。
積み重ねていくほど火薬を詰め込まれていく恐怖が、咄嗟にボディへのガードへと繋げた。
間に合った、間に合ってしまった。1秒も空いた守りを貫くことはなく、堅牢な檻は再び閉じられる。それは僅差の出来事で、檻が閉じた瞬間、木村の矛は打ち放たれた。
すれ違う新幹線のごとく、あっという間のこと。
『下がったガードを見破るようにストレートを叩き込む!!エレキ後ろに吹き飛んだぁぁぁ!!』
右ストレートは、エレキの顔面へと着弾する。
『この試合2度目のダウン!!!』
篠田に叩き込まれた経験がガードを見破る。先に経験している事実は、世界挑戦可能と言われる国内王者を凌駕しうるのだ。
2度目は仰向けにリングに尻を着く。木村は努力の成果を実感しながらコーナーへと戻った。
(スウェーで逃げてるところを殴っちまった。くそったれ、いまので仕留めたかったんだがな)
(ストレート、だと。ここはボディを狙ってスタミナを奪うところじゃないのか?)
すぐに立ち上がったのは、座り続けていたら動揺によって心が押し潰されると分かったから。立って、フラつく自分を確かめなければ正気など保てる状態では無いのだ。
カウントを続けるレフェリーをよそに、視界の奥に映る2ラウンド目の残り時間を確認する。
『すぐにエレキが立ち上がります。しかし、その目には明らかに動揺が見えます』
目を見開いて、うめき声を漏らす。ボディ打ちを避けた理由がそこにはあったのだ。
(残り2秒!?ボディをガードするように仕向けられた?スタミナを奪えないと確信してのストレートか…?
最悪だ…いまのは勝負を決めに来たということだ)
精神がよろめきながら、身体は覚束なくボクサーとしての仕事をこなす。覇気に欠ける両腕が上がり、レフェリーが試合を再開させた。
『あぁ〜っ、試合再開の合図と同時にゴング。第2ラウンド終了です』
(…)
ため息が漏れる会場。歓声の声。
誰が想像しただろう。
(…)
あと10秒あれば木村はリングを飛び出し、エレキの顔面に渾身の一撃を放っていた。それだけの殺気で木村は、コーナーに戻るエレキと視線が合っただけで想像させていたのだ。
▼
自陣に戻る足取りは重く、成果どころか自身の誇りを欠けて辿り着いた。設置される椅子に座りながら、その意思を伝える。
「私のカウンターは、日本人には……木村 タツヤには届かないのだろうか」
カウンターを徹底的に封じられ、頭脳戦を仕掛けられ困惑する姿に、エレキ陣営は勢いを失いつつあった。
「2ラウンド、クリーンヒットがないことは驚いている。キミのフットワークを殺し、必殺のカウンターを封じる。
彼は、物凄く頭を使っているのだろう」
「……それを実行できる時点で、もう」
セコンドはエレキの言葉を遮る。
「覚えているか、エレキ。タツヤは減量をしている。いまのペースは間違いなく6Rすら戦う体力が残っていない」
「……あぁ。だから、それがどうしたんだ」
「うかうかしていられない。キミが全力のタツヤと再戦を熱望していたのだ、5RまでにKOするプロセスを立て直す必要がある」
会場の中でただ2人。
エレキの心中を知る者だけが出来る、メンタルリセットがある。
「次のラウンド、カウンターをするな」
「…冗談か?」
木村は倒さなければならない。この男にドローしたから世界に飛び出せない。ランカーとて倒せる、だが日本に住むあの男だけは越えなければ話にならない。
そう国内で言われ続けた。
あの日々から抜け出したい。
打開策は、簡単な言葉だ。
「打て、打ち負けないようにフットワークを活かし、ひたすら打ち合いを身に浴びせるんだ。そして、思い出してこい」
瞳に宿るのは、純粋な心。勝ちたい、それだけの意味。
「
トレーナーには、もう一つだけ見抜いていることがある。
木村 タツヤがカウンターを封じるため、理詰めをしていること。エレキの一挙手一投足に全神経を注いで、確実な一手を実行している。それを逆手に考えると、体力と精神の消耗は想像を超えている。
(それをキミが調べてくるんだ。ラウンド
木村 タツヤの燃料は、半分を切っている。
【次回予告】
カウンタータイプと聞いて、思い出した人物がいる。
沢村 竜平。
一歩と激闘を繰り広げ、デンプシーロールを
そいつがジュニアライト級に上がり、間柴 了とのタイトルマッチが決まったとき、どう攻略するのかを考えた。
(どう来る、なにを選ぶ、私は攻めるか、逃げるのか!?)
(大人しく打ってこいよ、ぶっつけ本番だ来いやぁッ!!)
エレキ・バッテリーの戦術を打ち砕き、勝利を掴むことは出来るのか!?
7/24更新予定。