「そんなことが……」
「様子を見ていた後藤の証言じゃ。練習生はそのまま帰り、板垣は鷹村のあとを追っていきおった。
青木たちを振り解いた鷹村の表情は暗かった。そんな顔で、『俺は負けねえ、ジジイ。だからアイツはもう見るな』と呟いたんじゃよ」
ボクシングの熱意に欠けたジムを見渡して、力なく鴨川はことのあらましを説明し終える。
間に合わなかった…?
いや、自分がいたとして、なにが出来ただろうか。こうして考えている時点で鷹村さんを止めることは叶わない。ジムに来たのは、鷹村さんが何処を見ているのかを見極めるため。彼を引き戻す言葉は手にしていない。
悔しさでぐっと拳を握る。
励ましの言葉も見つけられないまま、鴨川が話題を持ち出した。
「知っておるか、タオル投入疑惑を」
「え、えぇ。数日前に出た記事なので目は通しました。ですが、バイソン選手側から抗議の声は出ていません。完全な言いがかりですよ」
「数年前から様子のおかしかった鷹村じゃが、あやつの言葉を聞くにあの記事が最後の一押しと見るべきじゃ。
………これなら、説明もつく」
首を傾げた幕之内に説明を続ける。
「あのとき、鷹村の負けと判断した。全てを覚悟のうえでタオルを投げた…つもりでいたんじゃ。鷹村が勝ったことで、その覚悟を有耶無耶にしてしまった。
責任を先延ばしにして、ワシは鷹村を虐めていたに過ぎん……」
「そ、それは───」
考えすぎ、と言おうとして口を閉じる。
励ましたいからと簡単に否定するものじゃない。会長が感じたままを口にしたのなら、遠からず当たっているものだ。鷹村さんと会長のこれまでの絆を見てきたからこそ断言する。
会長がタオル投入に想いを注いだように、鷹村さんも沢山思い悩んでいるはずだ。望んで苦しむなんて、鷹村さんは絶対にしない。
「のう小僧……こんなワシの言葉が、あやつに届くと思うか。ワシの手の届かぬところにいる、鷹村に」
「そんなの、当たり前じゃないですか。
会長にしか届けられないものがあります!」
嘆く鴨川に、間髪入れず返事をする。
だって鷹村さんは、会長のひと声で動いてきたんだ。
そうだ、いつも鷹村さんは会長のために走ってきた。
鷹村さんが忘れてしまったなら、思い出させるしかない。
「会長、ちょっとだけ待っていてください。
鷹村さんは僕が必ず連れて来ます。
僕も、伝えたいことが沢山ありますから」
おぼろげな手掛かりを探すことを、幕之内は力強く宣言した。
この日の夜、木村 タツヤが引退した。
▼
『前を向いているフリをしている』
直道の言伝を思い返した幕之内は、鷹村がいま何処を見ているのかを探すことにした。本人に直接聞くわけにもいかないため、鷹村の試合を過去へ辿っていく。
辿って、辿って………。
丸一日、鷹村のデビュー戦まで穴が空くほどに観た。
「ちょっと、目の下に隈が出来てるじゃない。
やりすぎよ……」
「け、けど成果がなにもなくて」
「ワガママ言わないの、布団は準備したから寝なさい」
画面に一日中張り付く我が子を叱る。なんとか話を逸らそうとする幕之内だったが、母親が心配する顔を見てあえなく折れた。
軽く食事を済ませ布団に入る。すると目蓋が重くなり、驚くほど直ぐに眠りへとついた。
───
──
─
ずっと鷹村さんの試合を観ていたからだろう。
夢を見ていると自覚したとき。
”これが出来たら、ボクシングを教えてやるよ”
早朝の河川敷で立つ自分と鷹村を認識した。
『…葉っぱ、10枚…』
ボクシングを始めるため、プロになりたいと鷹村に伝えた日。鷹村が素人には不可能な壁を用意した瞬間から、幕之内の可能性は拓いたのだ。
『も、もしですよ…?いま、出来ちゃったりしたら…?』
『どあほ。いじめられっ子のお前に出来るもんか!
けど、そうだな。もし出来たら…
こんな会話はあり得ない。
当時の幕之内が言えるセリフではない。
現に鷹村のセリフは後半聞き取れなかった。
だが、幕之内は喜んだ。鴨川の名前を出す鷹村が曇りのない笑みを浮かべていたから。……だから、この夢に身を委ねてみようと思った。
木を揺らして、落ちてきた世界を───。
『で、出来た、出来ました鷹村さん!』
嬉しくて顔を上げる。
幕之内の両手に溢れるほど掴まれた葉っぱを見て、鷹村はゆっくりと目を瞑り。
『──────』
感嘆の言葉を呟いて、感慨深く幕之内の手のひらを見つめる。鷹村からの信じられない称賛を言われた気がしたが、いまの鷹村と乖離しているのかなにも聞こえない。なにを言ったか聞こうとぐっと近づいたとき。鷹村の視線に少しの妬みを感じた。
『え、あ───』
夢が終わる。
早すぎる幕引きに逆らうことは出来なかった。
幕之内は夢にも思うまい。
かつての鷹村が言ったことは幕之内へ向けたものではない。
鴨川が自分を拾ったとき、喜びがあったのならコレなのだろう、と。恩師にしか分からない喜びの共有。
そして、いまの鷹村が向ける嫉妬心への理解だった。
そうして、IFは夢ごと霧散した。
▼
夢を見た。
確信したのに内容はうろ覚えだ。
ボヤけた内容を忘れないために必死に感想を探して。
「…いまの鷹村さん、寂しそう」
ぼそり、出てきた言葉。
心があれば、日を経てば変わるものもある。思想、夢、目標、そして人間関係。鷹村の人間関係は出会った頃と比べ、ずっと広く深いものになっている。そのはずなのに、いまの鷹村を見て、ふと”寂しそう”と思った。
「どこかに行っちゃうんですか」
あり得ない話じゃない。
事実、鷹村との心の距離はぐんと離れている。
「そうだ、木村さんは大丈夫かな」
とにかく動こうと思ったとき、木村の様子が気になっていた。
凄く嫌な胸騒ぎがして、昼食を急いで掻き込んで家を飛び出した。
ダダっと走って数十分。
木村の家に着くと、顔に湿布を貼った青木が出てきた。
「青木さんも木村さんの様子が……って、その顔どうしたんですか!?」
「おぉ幕之内か。鷹村に文句言いにジム行って、殴りかかったらこのザマよ。まったく情けねえなぁ」
頬を掻きながら言うが、内容はとんでもないことだ。
青木はそれよりも、と言って続ける。
「あの人、なにか隠し事してるよ。それを言わず、木村に当たり散らしたんだ。ひとりで抱え込みやがって、くそ…腹が立つ」
「そ、そのことなんですけど…」
青木は鷹村の異変に気づいていた。
内容は分からず、話もしてくれないまま爆発した鷹村に。そして、止めることも出来なかった自分自身に怒りを抱いていた。
解決の糸口になればと思い、直道から聞いた話を青木に伝えた。
「ゲロ道のやつ最後まで格好良いじゃねえか。そうか、本当にあのゲロ道は成長したんだな」
聞き終えると、嬉しそうに笑う。
「山田くん、ジムのことを心配してくれてました」
「あぁ、手に取るように思い浮かぶよ。ここまでしてもらっちゃ、ずっと鷹村さんを見てた俺らがうかうかしてられねえ」
ばっと暗い顔を吹き飛ばし、青木は木村の家から出てきた経緯を語った。
「結局、昨日は木村のやつ顔を見せなくてよ。今日も来てみりゃ、どこかに出かけたってさ。俺は木村を探す。幕之内は休養の片手間、鷹村さんの異変を探ってくれ」
そうしてこの場は解散し、幕之内は家に帰った。
夕方、青木から電話がきた。
今日、疾景が両国国技館で試合するとのことで、もしかしたら木村が行くかもしれないとのことだった。疾景のことは知らない幕之内だったが、急いで合流して手分けして探すことになった。
───
──
─
試合はジュニア・フェザー級8回戦まで進んでいた。
木村さんの目当ての試合はもう終わってしまっている。だけど会場の何処かでまだ観ている可能性もあるから、急がなくちゃ…。
「やあ、幕之内くん。久しぶりだね」
「速水さん!?」
声を掛けられて振り向くと、そこには速水さんが立っていた。顔には湿布を貼っているのに、表情は穏やかで……なんだか懐かしい気分になる。
「こらこら、試合中は静かにね。ん〜、今日は君と当たりそうな選手は居なかったけど、誰か知り合いがいるの?」
「すみません…!えっと、僕というよりは木村さん…先輩を探してて」
「木村さんか、俺は観てないね」
首を横に振りながら答える。
木村さんを探したい気持ちもあるけれど、速水さんのことも…。
思い出したのは、8連敗中という現実。これか気になって、話を切ることは出来なかった。
「ところで、速水さんはどうしてここに?」
「あぁ、ジュニア・フェザー級の試合を観に来たのさ。
いずれ、俺が戦う相手になるからね」
「そ、そうだったんですね!………えぇっと」
聞きたかった。
どうして負けが続いているのか。けど、自分から聞くのは失礼だと言葉に出来ずにいると。
「君の後輩、板垣くんの試合を観に来てたなら知っているだろう?日本ジュニア・フェザー級王者、
試合を眺めながら、速水さんが聞いてきた。
勿論知っている。フェザー級タイトルのセミファイナルだったから観た。あのとき、剣哉選手のファイトスタイルが強く印象に残っている。
「俳優と兼業の彼はね、とあるボクサーに憧れてボクシング界に飛び込んだのさ」
「もしかして、その人って…」
「速水 龍一。俺に憧れてボクシングを始めた、だって。俺のボクシングが王者を生み出したんだぜ、嬉しい話じゃないか」
そう言う横顔は寂しそうで…。
促されるまま、速水さんから背くようにリングに視線を移す。
「やっぱり、あれはショットガンだったんですね」
「あぁ、すごい精度だったろ。
……本当に、すごいんだ。流石は俳優だ」
そう、印象に残った理由は簡単だ。
自分が知る速水 龍一のスタイルと重なったから。ショットガンという必殺技さえもが。
速水さんはもしかして、彼が王者になって満足しているのだろうか。剣哉さんを褒める横顔が辛そうで…。
「……ふ、ふふっ。幕之内くん、気を落としすぎだって!言ったじゃないか、俺は嬉しいって。それは本心だよ」
「あ、あれ?その、剣哉さんも凄いし、速水さんてっきり落ち込んでるのかなって……」
「剣哉さん”も”か、俺も褒めてくれるあたり優しいな。本当に、リングで相対した男とは別人に見えるな」
「えっ…」
「気迫とかの話じゃない。あの日のきみからは、なにがなんでも勝つという意志を感じた。だから今の逃げ腰を見て、なにか悩みがあるって思ってね」
軽快に笑って見せた速水さん。
気遣いを返されていることに気づかず、悩みがあることを見抜かれて驚いてしまう。
「その、ですね…」
隠す必要は無かった。
僕たちの問題だけれど、僕たちのなかで解決できなかったからここまで悪化した。なら、山田くんのような視点を持ってくれる人の意見は有り難い。
そう考えてから鷹村さんのことを話し終えたとき。
「無敗という誇りがある日、刃となって自分に突き刺さる。この怖さを味わったことがないか?」
俯いた速水さんが両手を見ながら問いかけた。
直ぐに反応出来ずにいると。
「例えばその刃が形を変えて、敗北以上の斬れ味になったら。幕之内くんは笑って過ごせるかい?」
「……いいえ、凄く辛いです」
敗北の傷は自分自身タイムリーな話である。
ゴンザレスさんに負けたが、それ以上に印象深いのは伊達さんに負けたあとのことだ。
久美さんが気晴らしにと遊園地に誘ってくれた。とても嬉しかったのに、負けた事実を忘れることは出来なかった。肉体へのダメージを凌ぐ、精神の栄養失調。
鷹村さんのタオル投入疑惑が脳裏に過ぎる。
負けたことがないからと、青木さんたちが負けた気持ちを小馬鹿にしていた。
会長が負けを認めたから鷹村さんは荒れている…?なんか違う。
「俺もだよ。だって、敗北は自分だけじゃなく、誰かの期待に応えられないってことなんだ。誇り高いほど自分に返ってくる」
「……あっ」
そうだ、見落としていた。
負けたことに対してばかり目を向けていた。
”喜んでほしかった”、”勝ちたかった”。
自分ですらこう思ったのだ。鷹村さんにだって、もっと強く、もっと多くの想いがあってもおかしくない。
きっと、負けたこと以上に悔しいことがあったんだ。
それこそ、ジムから木村さんたちを追い出してまで果たしたいこと。
会長への───。
「さて、負け続けても諦めない男の話は終わりだ」
「っ…」
この人は、本当にすごい。
僕が気づいたことを理解したんだ。そして。
(自分のことを話さないっていう強い決意が見える。
……信じよう、きっと僕の力は必要ないんだと)
引き止めることを望まない瞳が、暖かく見つめていた。
「頑張れ、幕之内 一歩。この速水 龍一を倒した男として、世界に駆け上がる日を待ち望んでいるよ」
「あ、ありがとうございました!」
結局、速水さんの連敗に触れることは出来なかった。
踵を返した速水は、最後に。
「ほら、さっきから興味深そうに聞いている東洋チャンプさん。俺はもう帰りますから、あとはご自由に」
「み、宮田くん!?」
「…」
宮田にとっては余計なお世話を。
自分にとっては盗み聞きされたお返しをして会場を去っていった。