幕之内が木村を探しに来たとき、宮田 一郎は柳洞 疾景の試合を目的に両国国技館を訪れていた。
「全日本新人王を獲って2ヶ月。なかなか早いが、さて」
超大型新人に挑戦状を叩きつけたジュニア・ライト級5位の選手。最強の新人王に勝てば箔が付くと思ったのだろう。疲労が抜け、練習もままならないうちに潰そうとする魂胆が見え見えだった。そこを疾景は試合を快諾したという。結果、5位のボクサーは2ラウンドの間、一方的に殴られて敗北した。
1つ上の階級、いま時点で日本のベルトを楽々取れる逸材だ。自身が階級を上げたときの参考として観に来た……そう言える資格は、少なくとも自身にはないと思っている。
ゆえに、帰路につく直前で幕之内を見つけたとき。
「宮田くんも来てたんだ!誰の試合を観に来たの?」
「気まぐれだ。今日はジムも休みだからな」
その問いには嘘の答えを用意するしかなかった。
怖いのだ、怖くて仕方がない。
自分勝手な理由で試合を破談し、挙げ句の果てに階級を上げない。未練がましくフェザー級に居座る自分に、理由を聞かれるのが。
「悩んでるのは、鷹村さんのことか」
「うん、そうなんだ。タオル投入疑惑の記事が出てから、鷹村さんの様子がおかしくなったんだ」
だから宮田は話題を逸らす。
自分ではなく幕之内に。
己の小心ぶりに嫌気を感じながら、せめて力になれればと。欺瞞にしかならない罪滅ぼしを吐き出す。
「あの記事だけなら、鷹村さんは鴨川会長と大喧嘩して終わっていたよ。人一倍……百倍は負けず嫌いな人だが、負けを認めないほど器は小さくない。
なにより、実際には負けていない」
「うん、負けても鷹村さんは鷹村さんだよ。きっと、別のところで躓いちゃったんだ。おおよそ検討はついたけど、鷹村さんにどう言えばいいか…」
先ほどの会話で解決の糸口は見つけたようだった。しかし手段までは分からないと頭を抱える。
ボクシングでは勇敢なのに、日常では弱気なところが多く。今回も悪いところが出てしまっていた。宮田は呆れた口調で助言した。
「真正面から言ってやればいい。僕はついていく、と」
「き、聞いてくれるかな…相手は鷹村さんだよ?」
「聞かないなら胸ぐらでも掴め。
あの人に言い聞かせたいなら、その覚悟はしとけ」
自分を殴るように言った。
宮田の後押しは幕之内に勇気を与える。
鷹村のジム入会当初から知る人物の分析。それも敬愛と言っても差し支えない宮田からの言葉だからこそ、心強いと思えた。
「うん、ありがとう!」
間を置いて、幕之内が元気に返事をした。
(あとは、どうにかしてくれるだろう)
幕之内は感謝しているが、宮田は自己満足でしかないと嗤う。こんなことを言っても罪滅ぼしにもならない。自分が行く道が分からない。
羽はあるはずなのに、ちっとも動かないまま。宮田は立ち止まった理由を聞いて帰ろうとする。
「次は…再起の予定は決まったか?」
「ううん、まだ。半年経ったけど、会長からはまだ休めって言われてるんだ。それだけ激しい試合だったし、それに……僕のデンプシー・ロールじゃこの先で通じるか分からないから」
「………なんだと」
離れる足を地面に落としていた。
あははと笑いながら、自嘲気味に自分の評価をこぼす。これが大きな間違いだと分からない本人へ、ふつりと沸く感情。宮田はその感情の温度をコントロールしようと深呼吸して、しかし無理だと悟ったときには口が開いていた。
「デンプシー・ロールを破るのは課題だ。けど、目的はそこじゃない」
「えっと、宮田くん…?」
「それだけで良いなら、お前は沢村戦で負けている。だが、沢村は試合には勝てなかった」
脳内を、自分の想いを言語化するなと罪悪感が滅多刺しにしてくる。
「それはな、ボクシングが好きなお前が強いからだ」
「うん………反則を使われたら誰だって怒るよ」
ここまでならまだ許せる。
今際の際まで侵入を許したのは、まだ自分を許せると思ったから。
少しでも感情に譲歩したこの時点で、既に破談の罪に耐えきれていないとも気づかずに。
誰だって、と言い放ったボクサーは理解していない。宮田が内側をズタズタにしながら伝えた言葉に、
「俺が倒したいのは幕之内 一歩だ」
これ以上の想いがないことを乗せて伝えた。
告白のように甘い緊張感があれば良かった。
競争心を剥き出しに伝えられたら奮った。
言葉を伝えた瞬間、宮田は猛るものを押し潰す罪悪感で視線を落としていた。無意識だった、我ながら馬鹿なことを言っている自覚があったから。
(俺が…だと。それこそ、どの口が言う。自分で試合を断っておきながら、俺が言えることじゃないだろ…)
吐き気がする。
これ以上の迷惑を掛けられない。
吐き気が戻る。
もう土下座なんて通じない。
吐き気が……。
鷹村以上の我がままっぷりに嗤うしかない。
「本当、だね。僕、やっぱりボクシングが下手だ」
幕之内の言葉を聞く前に立ち去ろうと歩きだして。
「だから、また1から始めようと思う。
宮田くん、僕どうすれば良いか決めたよ!」
自分とはあまりにも対照的な感情で名前を呼ばれ、つい振り返ってしまった。
「待っててね」
「─────」
笑顔で手を振る幕之内。
喜びとか、楽しさが生み出す表情ではなく。
これから先の人生に臨む決意に満ちていて。
あまりにも壮大な返答が、宮田にとっては希望の兆しに見えていた。
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宮田と別れて、青木と合流した幕之内。
いまからやる事を話すと、青木は強く頷いた。
直ぐに準備すると言って走り去ると、幕之内は近くの公衆電話の受話器を手に取る。
相手は2人。
1人目へは直ぐ繋がり、そして要件を伝えた。
問題は2人目。
大丈夫、と何度も自分に言い聞かせる。
直道に後押しされた。
速水に励まされた。
そして。
『俺が倒したいのは幕之内 一歩だ』
宮田が宣言してくれた。
誰でもない、幕之内のボクシングを倒したいと。
デンプシー・ロールなんか目じゃないと言われて、不思議と嬉しくなったのだ。負けたくない……戦うだけじゃ物足りないと、既に試合が決まったことのように心が熱くなった。
だから、はじまりの場所に行って、1からやり直そうと思った。
ここまできて、失敗は許されない。
大丈夫、いまならやれると気合いを入れ直す。
「よし、やるしかない」
右手には受話器。
電話をかけた先で、相手が不機嫌を隠さずに返事をした。名前を告げ、挨拶を終えると。
「鷹村さん、決闘を申し込みます」
なりふり構っていられない決意表明を告げた。