幕之内が決闘を申し込んだ日の明朝。
鷹村は独り、イメージトレーニングに入り浸っていた。
暗がりのなかで響く、右頬が強打される音。
朧げに見えるリチャード・バイソンが左フルスイングを放ち、勝利を目前にして俺は無様に被弾した。
「違う…」
否定は叶わない。事実だ、この目で第三者として観た。
口で言うことは願望に他ならない。
だからイメージのなかで矯正しようというのに、どうしても最後の最後に被弾する。もっと早くに仕留めようとして、結局破れかぶれの一撃で後退、形勢逆転されてしまう。
「待て……投げるんじゃ……」
そして、タオルがジジイの手から放たれた。
今度は誰も取らない、俺のイメージがキャンセルを許さない。
何度目だろう、これを繰り返したのは。そして、どうしてもタオル投入が止められない。もう負けのイメージが脳裏にこびり付いてしまった。バイソンとの試合はここで終わり。
「ぐ、あ……!」
気づけば右拳を振り抜いていた。
荒れた呼吸を聞いて、顎から垂れるほどに汗を流していたことに気づく。部屋に明かりは無く、時計の針は0時を回っていた。
イメージに侵略される。
シャドウを止めればタオル投入の現実がのしかかる。
勝てば終わるはずの苦痛が手を掴む。終わりはないとタオルを投げ続ける。……馬鹿か俺は、勝っただろうが。この手で串刺しにしたじゃねえか。…違う、そんな話じゃない。タオルを投げられる前に勝てば良い。イメージなら出来るはずのことが出来ない。
「くそが」
汗を流すために立ち上がる。
どうせ深い眠りには潜れない。ここ数日、寝るたびにタオル投入の夢を見て目を覚ます。
汗を流して再び横になる。次こそは馬鹿げた事実を終わらせるために。…敗北という苦痛から解放されるために。
目を閉じて、バイソンと試合をして、やがて眠り、タオル投入を見て起きる。最悪の目覚めと眠りを繰り返して朝を迎えた。
今日もランニングが始まる/終わりはまだ見えない。
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鷹村が汗を流しながらジムの扉を開けた。
ジムには鴨川が立っており、早々に現れた教え子を見て渋い表情をする。
「お主、酷い顔色じゃぞ。寝ておらんのか」
「いいや、寝たさ。むしろ快眠だった」
ひと目で嘘だと分かるセリフ。
練習を休めと言っても聞く耳を持たない。
適当なセリフを吐きながらバンテージを巻く鷹村に、木村が引退したことを告げる。腕が止まったのも一瞬で、直ぐにグローブを手に取った。
「ワケを話さんと解決せんぞ」
「ンなものはない。結論なら木村が出したはずだ。
だからよ、そろそろ休ませてやれ」
吐き捨てる。優しいフリをして吐き捨てた。
「鷹村!それがここまで付いてきたヤツに言うセリフか!?貴様が突き落としたら終わるじゃろうが!」
せめてもの情けを最大限に与えた。
もう必要ないからと、鷹村は鴨川の説教を聞くだけに留まる。
鴨川は何度も会話を試みるが、鷹村が反応を示すのは練習メニューだけだった。
ぐちぐち、ねちねち、がやがや。
「うるさい」
「そんな寂しそうにふざけたこと抜かしてんじゃねーぞ」
「あ…?」
青木の静かな怒声によって、鷹村の集中力は切れていた。
通りの日差しが強い。かれこれ2時間は練習していたことになる。
「自分から逃げたやつに言うことはねえ」
「あいつの顔、なんにも晴れてなかった。ここまで来て、好きなもん捨てようとしてる。諦めさせるんなら、後悔だけ抱かせて行かせるんじゃねえ!」
浅いと言うには底が見えない。
深いと言うには足が着いている。
浅瀬にしては足取りは重く。
深淵にしては時の流れが早い。
ともに歩んだ人生は充実していたはずだが。
「それだけか」
吐き捨てる瞬間、歯止めとして作用しなかった。
青木の怒りが振りきれるには十分なセリフだ。
「その腐った顔に一発入れてやる!」
怒りそのままに殴りかかる青木。
「邪魔だ、失せやがれ」
単調な拳は鷹村に難なくカウンターを合わせられる。
サンドバッグが揺れるほどの音が響き、どかっと後ろに吹き飛ぶ青木。殴った右拳を見てなにも思わないように努める。もう必要ないからと、サンドバッグに向き直ったとき。
「木村が戻るまで、絶対に許さねえぞ鷹村」
よろめきながら立ち上がる青木。
明らかに効いているが休むことなく、歯を食いしばりながらジムを去っていく。
「もう来なくていいよ、お前も」
独り、サンドバッグをへし折りながら呟いた。
───
──
─
ふと、視線を横に向けたとき。
閑散としたジムを見て、哀しげに目を瞑る鴨川を見た。
(誰もここに居ない。足を引っ張るやつらは追い出した。おかげで広々とジムを使える。だから…)
考えてたまるか。
間違っていたなんて。
色んなバカがいるから、ここまで来れたなど。
まるで、俺があと少しで終わるかのような。
(そんな顔、すんなよ)
手遅れなことから目を逸らし、無能な自分を捻じ伏せるためにサンドバッグを殴り飛ばす。
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ジムから帰宅し、そのまま買ってきた飯を食べる。
試合も迫ってきて減量を始めたばかりだ、あれしきの練習では足りない。物足りなくなってしまった。勝ちたい、それだけが鷹村をイメージトレーニングへと誘う。
タオルを投げる鴨川を納得させるような試合を。
誰にも文句を言わせない完璧な試合を。
ダメージも残らず、故障のない身体で。
それだけを求めて、今日も可能性を突き詰めていく。
「くそ、くそ……俺は……」
負けないはずなのに。
負けていないのに、どうしても勝てない。
イメージが裏切る。自分の身体のくせして、負けてしまえと鷹村を嘲笑う。
敗北が下克上を仕掛けている。最強の鷹村に向けて、谷底へ落ちろと舌を出している。そこに落ちれば…認めてしまえば戻れない。これ以上、天上から遠退けば間に合わないかもしれない。1度付いたケチは一生落ちない汚れになる。
自分自身すら思い通りにいかなくて、怒りをぶつける先を探していたとき、それが来た。
『鷹村さん、決闘を申し込みます』
幕之内が言った。
決闘を申し込む、と。
「…テメェ」
『場所は河川敷。今から、人外の境界線のところで待ってます』
その意味が分からない相手じゃない。
鷹村 守に喧嘩を売ったのだ。
誰でもない、鷹村がいま1番会いたくない相手が、怒りの捌け口になる口実を持ってきた。
「今日で終わりだ、一歩」
断る理由はどこにもない。
幕之内の身体を気遣う必要がいまから無くなるのだから。
───
──
─
前へ進むことを考えて生きた。
前へ進む途中、沢山のモノを手にしていた。
どれも勝手に付いてきた。別に頼んだわけじゃない。なのに、いつしか大切なモノになっていた。
その筈だった。
『どいつもこいつも……俺サマの邪魔ばっかしやがって。
ちんたら歩いて、先に行くヤツの重荷になってんじゃねえよ。勝てないんなら退け、さっさとここから降りろ!』
自分の手で1度は握り締めたモノたちを、鷹村は罪悪感のカケラも浮かばずにそう吐き捨てていた。
自分の負けだけは特別だから。恩を与え続けるために、己の精神を孤高であれとした。
だが、孤高と呼ぶにはこの世界は雑味が多すぎる。
鷹村 守は孤高には成れない。
己の強さに固執し、輪を疎かにしていく男はいつしか絆に埃を被せる。
小さな島国、絶大な信頼を置き去りにした鷹は遙か上空で鳴く。誰にも届かない声、己も騙せない怒りはまさに、孤立を意味していた。
「舐めたこと吐かすから来てみれば。
青木に板垣までいるとは、3対1で殴りかかるつもりか、一歩」
幕之内の人生の岐路、はじまりの木。
そこから河に向けて一直線に引かれた線、人外の境界線を挟むように置かれた机。
人の側には幕之内が立つ。
間には青木と板垣が、まるで立会人のごとく静かに2人を見守っていた。
3人の視線が伝える。人外の側に鷹村を呼んでいた。
「鷹村さん、腕相撲をしましょう」
「……………………………正気か」
机に肘を置いて、1度握り込む。
訣別の手段を幕之内が提示した。