「鷹村さん、腕相撲をしましょう」
「……………………………正気か」
河が凪ぎもしない
虫すら息を潜める不穏な舞台で、魔王も凌駕する殺意が土を踏みしめた。
「えぇ、先輩は正気も正気。
鷹村さんを本気で腕相撲で倒すつもりですよ」
「鷹村が本格的に減量する前じゃなきゃ意味がないとさ。まさか、ここまで来て逃げるつもりじゃないだろ」
この場における鷹村の本気度は、はっきり言って異常である。果たし状を突きつけられたことを加味しても、後輩に向ける感情としては人間失格。
青木と板垣は、鷹村の向けてはならない視線に冷や汗を流していた。それでも平静を取り繕い、この場から立ち去らないのは幕之内と同じ想いがあるからだ。
「………あの時とは逆だな。今回は3人じゃなくていいのか」
鷹村が思い出したのは、久美への告白を賭けた腕相撲3人抜き。幕之内が日本タイトル初防衛戦の前に起きた騒動だ。
「僕が申し込んだ決闘です。タイマンじゃなきゃ意味がありませんから」
「舐められたもんだ。負けてもいい、とか思ってるのか?
あの時は告白を賭けたな、今回もなにか───」
当然のように、確かに過ごしてきた過去を壊すような条件を提示しようとして。
「”僕が勝った”ときは…あの日、流してしまった久美さんとの話にケリを着けます」
「───どういうつもりだ」
鷹村だけではない。青木や板垣さえも驚きに目を見開いて幕之内を見る。2人も聞いていなかった賭けは、決して鷹村の迷いや手加減を誘発するものではない。
「ここ最近うじうじしてて、いまの鷹村さんには腹が立ちます。そんなに負けるのが怖いですか。そんなので、会長が見限るなんて思ってるんですか?」
幕之内が返事としたものは、理由ではなく鷹村の心情を揺するもの。自分は本気で勝ちに行くと言った。
遠回しに、さっさとかかってこいと挑発したのだ。
「─────────黙れ」
鷹村の殺意を高めるには必要以上であり、事実、鷹村が机に肘を置いた音で板垣が震撼するほど。
「2人とも、力を抜け。手を離したら開始だ」
青木が2人の右拳に手を置く。
込められる熱量に思わず生唾を飲んだ。
2人に声が届く手段は無くなった。集中の終わりはただ一点、相手の全力全霊を解き伏せたときのみ。
鷹村が向ける、人間失格にまで落ちた心を。
「アナタを連れ戻します!」
幕之内が向ける、分かったようなツラを。
「……腕、へし折ってやる」
2人の勇気/殺意が交差した。
青木の手が、離れた瞬間。
両者の右拳が力比べで意識ごと絶ちに行った。
「───ッ」
幕之内の両足が地面を抉りながら踏み止まる。
「───グ」
鷹村が歯を剥き出しにして殺意を右腕に込める。
鈍い音を散らして、幕之内と鷹村の渾身が凌ぎを削る。
(づ、ゥ………強い!)
重低音は幕之内の内部から漏れ出ていた。
まだ痛みはない。だが、この音は鳴ってはいけないものだ。1分と保たずに右腕が折れる。
(それが、どうした。
腕が折れても僕は負けられない…!)
上下の歯を擦り合わせる。
知らずに口の内側から血が垂れる。無意識に口内の肉を噛み、居場所を失う恐怖に立ち向かう。
流れる血はあってはならない、故に流した血だけでことを諫めるのだ。
神経の緊張が限度に到達した、なら千切れても構わない。力を緩めるよりマシだ、その痛みで一瞬先に飛び出してしまえばいい。
(だって…)
負けたら、鷹村を止める口実が底を突く。
負けたら、鴨川ジムに笑顔を取り戻せない。
…違う。
それは理由の1つにはなる。
本当はもっと単純な想いでここに居る。
(だって、前を向いてほいしんだ)
悩んでいることは分かる。
今の僕たちを見ていないことは態度で知っている。
じゃあどうする。なにが出来る。
悩んで、思い至った言葉。
(鷹村さん、僕たちを見てください!)
鷹村 守の意識をここに立たせる。
心がどこかで迷ってしまっているなら、彼の人生最大級の衝撃で居場所を教えるんだ。
決めた言葉を届けて、決着のときを目逃さないため。
幕之内は最後の力を振り絞り、鷹村の瞳に向かって腹の底から声を上げた。
▼
最初の1秒で勝負を決する。
さっさと帰って飯を食って、こんな不快な気分を忘れてしまおう。
真っ向からの反抗に対する苛立ちとほんの少しの慢心。
あと、カケラ程度のザワつきが胸のうちに出来ていた。
(ヂッ……見込みが甘かった……)
鷹村の多くの腐った感情は、最初の1秒で全て蹴散らされていた。
以前、腕相撲をしたことがあるのを忘れていたわけではない。ギリギリの勝負だった。
あのときは世界王者にもなっていない。だがいまは?地獄の減量も、世界最強だった男との対峙も乗り越えた。2階級制覇も成し遂げた。
そう、違うのだ。経験も実力も桁違いに積んだ。
(俺サマが、力比べで負けるはずが……)
目の前の男とはなにもかも違う。
こいつは国内ランカーに苦戦し、世界前哨戦で負けて、あまつさえパンチドランカー疑惑を掛けられている。
そんな奴に拮抗している?世界最強の俺が?
まるで俺すら壊れかけと同じようじゃないか。
「んなわけ、ないだろうがッ‼︎」
否定を言葉にすると腹の底が震える。
交差した視線に釘付けになる。
「──────」
おんぼろの男は眼差しだけで声を上げる。
言葉のない拳で鷹村の頬を殴った。
そう錯覚させるほど、幕之内の心は愚直に歩んでくる。
来るな、折って蹴散らしてくれると右拳を睨んだ一瞬、幕之内の右拳に手が重なるのが見えた。
「っ、〜〜〜て、め!」
心が凍てつく。
少しでも押された事実に、この先がまだあることを本能で理解した。
負けは許さない、壊しても構わない。
鷹のツメが地上の障害物で転ぶはずなない。
ツメ跡が刻むものは勝利だけでいい。
猶予はない、ただ捻り潰す。
絶対のため、壊すのだ。
折ってでも、勝つ。
ガチリ、両者の歯が渾身の合図を鳴らす。
鷹村の殺意を、幕之内の勇気を。
互いが相手の本気を察知したからこそ、更なる限界を魂の底から捻り出す。
「ぐおおおおおおおおおおお‼︎‼︎‼︎」
「うおおおおおおおおおおお‼︎‼︎‼︎」
怒号が河川敷を震わせ、次に響いた落下音が心音すら聞こえる静寂を創る。
「──────」
勝敗が決した。
勇気を貫いた者がいて。
殺意に潰された者がいる。
「僕の勝ちです、鷹村さん」
月明かりが照らす河川敷。
幕之内 一歩の右腕が、鷹村 守から勝利を掴み取った。
───
──
─
ジジイへの恩返しを終えたと感じた俺は、気づけば後ろを振り返っていた。
世界王者になる前の、俺の背中を追いかける奴ら。
世界王者を目指して精進する、ジジイたちとの記憶。
あの頃が1番輝いていた。空を見上げれば何もかもが遠く、高くて、下を見下ろせば絶景が広がっていて。落ち込むときだって諦めなんか微塵もなかったバカ共を見て、また前に進もうと。俺が引っ張っていこうと固く心に決めていた。
やがて心は冷めていき、この想いが身体に溶けることがなくなっていった。
過去の栄光に目が眩んだ。
あまりにも眩しすぎて、見えなくなっていた。
あのとき、後ろを振り返ると直ぐそこに仲間がいた。
あの強い過去に、まだ浸っていたいと。
「あ、ぁ…」
無敗で、最強の男が正面から敗れた。
一気に醒める。半ば遠くを見ていた意識が、酷く雑な衝撃で引き起こされる。
ジジイが欲しがってるもの持ってるヤツに負けた…………これで、俺も終わり……。
「負けたくらいで終わるものなんですか」
「………なんだと」
それすらも許さないと、幕之内は意識を引き留める。
「会長は1度躓いたくらいで見捨てません」
「お前になにが分かる。この調子で試合すりゃ、6階級制覇する頃にジジイが健康な保証はどこにもない」
「あります!鷹村さんが立ち上がるから、どこまでも背中を押してくれます。だって、鷹村さんは最強の教え子じゃないですか」
鷹村の言う保証を提示することは出来ない。
誰にも示せないものを幕之内は言ってのける。鷹村の行動こそが証明になれると。捻れたら巻き添えを喰らうのは誰でもない、恩師である鴨川だ。
「僕たち、鷹村さんの背中を追いかけていたいんです。だから前を見続けてください」
「なに悩んでるか知らんが、いつもみたいに恩着せがましくやってくれよ。……俺たちも、ちょっと遠いけどアンタのことは見失っちゃいない。必ず追いついてみせるぜ」
板垣、青木も鷹村が後ろを向いたままで勝てると思っていない。しかし、彼の間違いに気づいても声を届けられなかった。誰あろう自分の不甲斐なさを最後にしたいと、この場で見届けに来た。
自分の才能に驕り、そして敗れたことを。
日々を浪費し、ベテランの名に縋ったことを。
結果は、弟弟子が全て果たしてくれた。
「これを観てください。
皆んな、鷹村さんが走り出すのを待ってます」
机から取り出した1つのビデオ。
内容を聞くことも忘れて、懐かしい視線に浸ってしまう。
「……」
立ち去る3人の背中を見送る。
青木は感極まって幕之内の頭を撫でくり回し、板垣は興奮冷めぬと拳を所構わず振り回す。
そこに足りない2つの影を幻視して。
「……………たく」
ぐでんと地面に寝転がり、四肢を投げ出した。
「子弟の強さはオレが1番知ってるはずじゃねぇか。
そりゃ、負けもするか」
下手くそな励ましだ。
不器用な言葉ばっかりだ。
あんなに力強く言われては認めるしかない。
鷹村 守は負けても最強であり続けられると。
「一歩、直道。てめーらの勝ちだ」
大声で、誰にも聞こえないように。
勝者を讃え、敗北を胸に刻み込んだ。
吹っ切れた表情は語る。今夜は良く眠れそうだ。
次回投稿は29日を予定しています。
ギリギリまでプロット見直してて、書き溜められなかったです。
interlude前半の完結後、色々とひとり言しますのでお待ちください。
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