朝日が地上を照らす晴れ模様。
鷹村を中心とした鴨川ジム崩落危機からひと月が経った。
鴨川軍団はあれから以前の雰囲気を取り戻し、各自の目標に向けて走り出していた。鷹村はスーパー・ミドル級挑戦に向けて。木村は復帰のため、青木は伊賀との再戦を目指して。板垣は東洋ランカーとして。
そして幕之内と言えば。
「母さん、行ってくるね!」
「気をつけるのよ?」
明朝から家業を手伝い、1日の始まりを朝焼けとともに実感する。
朝の香りに肺に取り込みながら、復帰に向けた練習に心躍らせて家を飛び出していた。
───
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─
鷹村のミドル級防衛戦から数日後。
鴨川ジム事務所にて、幕之内と鴨川は今後の方針について話していた。
「僕はボクシングを続けます」
「そう言うと思っとったわ。だが復帰はまだ先じゃ、貴様は暫くのあいだ休養しておくこと」
「えっ!?でも僕、かれこれ半年以上は試合していませんよ?」
「世界ランクのことなら安心せい。千堂が暴れておるお陰だろう、相対的に小僧の評価も大して落ちとらん。話題があるボクサーは必然的にランク入りする、もう暫くは回復に努めるんじゃ」
世界ランクは強さそのものではない。
人気がある、単純に強い、噛ませ犬として祭り上げられる、はたまた王者の調整相手として。その時々によって変動するものだ。
現在、千堂が世界王者として君臨、リカルドとの試合が決定している。彼が敗北した唯一のボクサー、幕之内は本人の知らないところで株が上がり、試合をしていなくとも世界ランカーとして席を置けていた。
「じゃがワシから1つ、復帰の条件を与える。選手どころか私生活も過ごせんのでは、親不孝にもほどがあろう」
「復帰の条件、といいますと…?」
窓の外、快晴の遥か向こうを見ながらの宣告に喉を鳴らす幕之内。
「デンプシー・ロールを使い
思い出すのは沢村戦で完遂されたデンプシー破り。
デンプシー・ロールという強力な連続フックには、相手の視野の死角から死角に移動する特徴があった。沢村はそれに対して、バックステップすることで死角を無くし、無傷でカウンターを決めたのだ。
「それは………。えぇ、僕もそう思っていました。きっと、ただ止まるだけじゃ、いつか止まった時にカウンターを合わされます」
恐ろしいことに、幕之内は沢村のデンプシー破りに対して対処した。一定のリズムを刻むデンプシー・ロールを強引に止める。それだけで靭帯にダメージを負いながら、辛くもデンプシー破りを攻略してみせた。
「ワシらは間違った道を進んでしまった。本当なら、もっと早くに立ち止まるべきじゃったよ」
幕之内の必殺は既に攻略法を見つけられた。対策される必殺はただの自害である。長期戦、失敗すれば再起不能の技に恐れる者はいないだろう。
「では、その条件はデンプシー・ロールのカウンター対策になるんですね」
「……半分正解じゃ」
「えっ」
ならば、鴨川が伝えることは1つ。
「カウンター破りのデンプシー・ロールは縦に
本当の意味での無傷によるカウンター対策。
「無限の可能性を切り拓いてみせろ、小僧」
デンプシー単体という自傷行為の封印をいま、最大限の助言を以って幕之内に課した。
─
──
───
以前から考えてはいた。宮田と会話したときから、幕之内は自分のボクシングを見つめ直し、ようやく考えが纏まってきたところ。
(僕の持ち味を活かすなら、それは───)
その男はふらりと現れた。
「おう幕之内、おはよーさん」
にへら、と笑う千堂 武士が呑気に腕を伸ばして挨拶してきた。
「せ、千堂さん!?どうしてここに!?」
あまりの衝撃に大声で返事をする。
幕之内は東京住みであるが、千堂は大阪生まれ大阪育ち、現在も大阪をホームにする生粋の大阪人だ。
加えて、WBCフェザー級チャンピオン。二週間後に迫るリカルド・マルチネスとの王座統一戦を控え、最終調整中の身であり、東京をふらついていい人間ではない。
あんぐりと口を開けて驚く幕之内に呆れながら。
「どうしてもなにも、幕之内訪ねた理由なんか大体予想つくやろ。リカルドとやる前にスパー頼もう思うてな?」
彼はヴォルグが世界戦をするときも幕之内と観戦するため、トレーナーである柳岡に言わずに来たことがある。あの時でも怒っていたのに、今回は統一戦前ときた。
「え、ええ!?言ってくれたら僕がそっちに行ったのに……っていうか、柳岡さんとかは知ってるんですか?」
幕之内の不安に大丈夫と繰り返すのみ。
絶対に言ってないと思っていると。
「どうせ現地で落ち合うんや、大して変わらへん」
「え、現地っていうと?」
「まーまー、せっかく迎えに来たっちゅーのに話進まへんわ。ほら、さっさと行くで鴨川ジムに!」
ジムとは反対方向に駆けて行く千堂を追いかけながら、幕之内は混乱する現状を纏めるのだった。
▼
リカルド・マルチネス
現WBAフェザー級チャンピオンにして、70戦を超える試合全てに勝利してきたボクサー。王座戴冠後のK.O率100%、ダウン未経験という恐ろしい王者だ。
無敗神話、軍神と世界から恐れられる。
息切れを見たことがなく、地元では
「だそうだぞ」
「ほーん、肩書きはいっちょまえやな。
まあワイが伝説終わらせてまうんやけどな!」
「一歩がどんくせえから特等席取られちまうぞ!?」
そう言ってゲラゲラ笑い合う鷹村と千堂。
(本人にプレッシャー掛かること言う鷹村さんもだけど、いまの戦績を聞いて嬉しそうにする千堂さんって……似た者同士だなあ)
呆れよりは尊敬が勝る。生きる伝説との試合を控えての落ち着きようを見れば、誰が言わずとも期待感が高まるというもの。
「んで?実際のところ勝てるのかよ。伊達のおっさんが完敗した相手だ、ゴンザレスとは訳が違うぞ」
「鷹村さん、心配しすぎでっせ。相手がアホ強いんは承知の上や。けどな────」
「えっ…?」
スパーの準備をする男に千堂は視線を向ける。
悔しさと敬意を込めて、獣が獲物を狙うように。
「幕之内より強い男はおらへんで」
牙が嬉しそうに鳴る。
気負うなんて似合わない笑顔に幕之内は身震いする。自分の喉元に牙を添えられている感覚に、自分自身の闘志も誘発されて試合のように意識が変わっていた。
「確かにそうだった。ほれ、さっさとリング上がれ。オレ様がレフェリーしてやるよ」
用事で出かけている鴨川に代わり、鷹村がリングに上がる。
2人も続き、グローブのみを着けてリングの上で向かい合った。
(千堂さんが僕なんかを頼ってくれたんだ。リカルドさんのときみたいに、全力で行くぞ)
(スパーはヴォルグの世界戦のとき以来か。その目…あんときとは別人や、お互い覚悟決めとるみたいやな)
いまから始まるものは漢同士の激励会。
先に往く者へ。勝ちたい
「行きます!」
「来いや!」
鷹のゴングがここに鳴らされた。
───
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─
「そこまで!」
2人の間に割って入る鷹村。
突き飛ばす形になりながら、相手をK.Oする勢いを止める。3ラウンド、正確には残り1秒を残したところで調整に終わりを言い渡す。
「ぁ……クっ……」
「ふ〜っ……あんがとさん、幕之内」
尻からリングに落ちる幕之内。
両腕に染み渡る気迫が抜けきるには1分では足りない。あと1秒あれば仕留められていたかもしれない。
(ブランクがあるとはいえ、一歩をここまで押し返すか。
こりゃあ、おっさん越えもあり得るぜ)
決して幕之内が不調というわけではない。ここまで休養に充ててきた時間が、王者にまで至った男との違いを浮き彫りにしていた。
(強い……悔しい……だけど!)
幕之内は無意識のうちに拳を握る。
彼はリングの上のリカルドを知っている、そして伊達とも死闘を繰り広げた身だ。千堂との本気のスパー、嫌でも比較してしまう。
「千堂さん」
だから、早く伝えようと思ったのだ。
「必ず、追いつきますから…!」
激励は送った。
なら、あと言うことはこれで十分だと分かった。
千堂も、伊達やリカルドと比較されていることは百も承知だ。勝算なんてものが目に見えるとすれば、幕之内の言葉に全て詰まっている。
「…あぁ!漢と漢の約束や」
2人はグローブを突き合わせて再会を誓う。
彼らが次に対峙する場所、それは世界。ベルトを獲り合う場所であるとお互いに信じている。
こうして、千堂はライバルに宣戦布告して日本を旅立っていった。
▼
時は進み、場所はメキシコ・シティ空港。
千堂は顔に貼った湿布のことを忘れて大きなあくびをする。18時間を超えるフライト中、ひたすら眠り続けたせいか、眠くもないのにあくびが出てしまう。単純に寝ることに飽きた意味だろう。
「少しは敵地に乗り込む気持ちが分かったか?」
「んぁ?」
どでかいあくびに共感してしまったことに頭痛を感じながら、1人の男が千堂に声をかけた。
「おー、待ったったで!半年ぶりやな、ゴン?」
「
俺のベルトがドでかい湿布に変わっちまったのかと思ったぜ、センドー」
「なんや、外人はんには分からへんか。
これはライバルの激励…漢の勲章やで!」
ニカッと笑う姿に、日本から持ってきた勲章が誰のものか聞くまでもなかった。
傷をつけてリングに上がろうとする千堂に呆れながら、アルフレド・ゴンザレスはメキシコの新しい風を歓迎する。数日前、千堂は国際電話で事務所に繋げてくるや、スパー相手を頼んできた。
”おうゴンか、スパーに付き合うてくれへん?”
”はっ、人に頼むならせめてスペイン語で話せよ。ま、通じるから良いけどな?”
喜んで返事したことを、受話器を置いたあとで自分自身に驚いたものだ。
詳しい打ち合わせはトレーナー同士に任せて、今日から千堂とゴンザレスの決戦に向けた調整が始まる。
「来い、まずは時差に慣れるところからだ。
今日は身体を休めて、明日からスパーするぞ」
「もう慣れたわ、そんなことより身体動かそうや」
「……はぁ。じゃあジムに行くか。お前みたいなヤツはどうせ言っても聞かんし」
「わはは!そんな褒めたかて手加減はせえへんで!」
普通を無視して行く後ろ姿に再び呆れながら、その牙に新しい可能性が宿ると確信して歩き始めた。