鷹の6本のツメ   作:ひとりのリク

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世界最高峰

1ラウンド後のインターバルとは思えない姿にセコンド陣は言葉を失っていた。目の前で足掻こうと息をする生命に、これ以上の狩りなどさせられるわけがなかった。

 

「千堂、よー頑張った。まだ1ラウンドとは思わへん、よくリカルドの猛攻に耐えてきた。それだけでも大金星や」

 

柳岡はトレーナーとして助言した。励まして、しっかりと宥めて、心の底から己のボクサー が強いと言う。リカルド・マルチネスに一泡吹かせたのだ、あんな芸当は100年に1人しかなし得ない偉業と言ってもいい。

 

「ゆっくりと……っ!?」

 

グローブの手のひらで言葉を止めて、まだ言うなと千堂が訴える。

 

「今しか出来へんことがある。一生後悔しないよう戦うんや」

 

息も絶えかけているのに、はっきりと言葉を繋ぐ。

リングに立ちたいと想いを告げる目頭に、この場から離れたくないという感情が詰め込まれている。

 

「柳岡はん、最後の最後まで待ってくれ」

 

限界すら餌でしかなかった。

相手がバイオレンスであること。難しいことを考えず、本能のままに動ける場所だからこその懇願だ。

 

「あぁもう分かった!思いっきりぶちかましてこい!限界ギリギリまで見守っとるからな!」

 

止めるすべはなかった。

最後の幕引きを手にしながら、死力を振り絞る我がボクサーの背中を押していた。

 

 

 

 

2ラウンド開始のゴングを前にして、地元のファンたちは珍しく騒めいていた。リカルドの試合とは思えないペース、芸術に等しいボクシングから遠い展開。これまで観てきたのは美しく、そして絶対に主導権を握らせない徹底した試合運び。過去を振り返れば確かに似たようなことはあった。しかし、ゴンザレスを相手に力で捩じ伏せたあのときは、全弾カウンターを合わせる余裕は見えていたのだ。

 

「いつもは鑑賞している観客たちが驚いている。今日の君のボクシングは確かに物珍しいからね。

どうした、随分とやる気じゃないか?」

 

セコンドのビルもまた、冷静な姿とは似つかわしくないリカルドに疑問を投げかけた。もしも、偶々気分が高揚し過ぎているのなら制御しなければならないから。

 

「彼を見ていると色々と懐かしいものを思い出す。少なからず浮かれていたんだろう」

 

最も、ビルがリカルドの気を宥めたことは随分と昔の話になる。

 

「安心したまえ。

いつも通り、このラウンドで仕留めよう」

 

もう必要がないと分かり、頷いてリカルドを見送った。

 

 

 

 

瞬きの摩擦音すら空に届くような静寂が漂う。インターバルの1分間、千堂を見守る応援団だけでなく、地元民すらもが試合継続はしないと思っていた。もう決着は分かっている、このまま若い芽を摘む必要がどこにあるというのか。

普通ならそう思うものの、異様な静寂が否定するのだ。史上初の統一戦はまだ続くと。続けてしまうボクサーがそこにいると分かってしまう。幕之内に敗れた男、ゴンザレスを越えた男だから。

どうか、逆転を。どうか、無事に。

 

相反する想いを叶えるように、千堂が立ち上がる。

 

肩で息をして、既にフルラウンドを戦った姿と変わりない。もう投げ出しても彼を責める者は多くないだろう。それどころか、渾身の一撃が通じなかった事実を浮き彫りにしただけで戦果は十分なはず。

 

「千堂がやるんや……ワイらが黙ってどうすんねん!」

「声出せ!応援や、千堂を励ませ!」

「千堂!大阪の底力見せたってや!」

 

応援団はそれでも背を押す。千堂を止めることを忘れて、人類未踏の地に踏み入れることに期待を込めた。

 

期待の熱が再び会場に溢れていくなか、2ラウンド開始のゴングが鳴る。

 

(────っ)

 

瞬間、リングの隅から肌を割るほどの冷気が侵攻を開始した。握り拳を両手に駆け出そうとした千堂を押し止めるほど、温度は目に見える形で白い息を吐く。

 

(………まさか、止めたんか?)

 

千堂の対角線上で神が暖気を吸い込んでいく。会場を暖めておきながら、一気に熱を奪い去るステップ。宴の後始末をする使用人の如く、摩擦を最小限にして黙々と仕事に戻る姿に誰もが戦慄した。

 

「お、おのれ…!あの男、流れを断ちよった…」

 

柳岡はリカルドの意図に瞬時に気づく。

しかし、千堂に届けるよりも前に試合が動いた。

 

「おい、勝ち逃げすんなや!」

「待て!落ち着くんや千堂!」

 

リカルドはバイオレンスを空の向こうに納める。手負いの獣が知性を捨てて、喉元を喰らうことだけを考えて疾るのだ。

 

(あと何発打てば終わるのか、君たち(ハボン)に対しては私にも分からなくなった。だから、せめて…)

 

携える武器は百戦錬磨の右拳。

 

(誇れるような敗北を贈ろう)

 

神体に向けて剥き出した牙。

絶滅危惧種に贈る称賛。

 

偶然にも呼吸が重なった一撃が両雄から繰り出される。

会場中の呼吸が止まる。間違いなく試合の決着はついた。もう語るまでもない結末に一瞬、軍神が笑みを見せたのは気のせいか。

 

「いま、勝機を逃したで?」

「────ふ」

 

決着をつける、そのための一撃だけは読み切ることが可能だ。ゆえに千堂は頭をずらして、頬の肉を犠牲にして生命を繋ぎ止めた。

 

リカルドの口元が上がったが、千堂は気に留めることをやめた。そんな余裕はここから先に持っていけない。一撃の被弾で体力をこれでもかと抉る男を相手に、隙を見せてはならない。

2ラウンド開始10秒、すでに試合は太陽に近づく蛮勇と化した。いつ、獣の肉体が灰となってもおかしくはないのだから。

 

 

 

 

長く、無敗神話の刻は歴史を積み重ねてきた。

永く、そう、何人ものボクサーを倒してきた。

 

「バイオレンスも駒だった。敢えてやる気を出させ、インターバルを挟んだ瞬間に出鼻を挫くためにな」

 

ゴンザレスが唇を噛みしめながら言い放つ。

 

「どうして……?これまでリカルドさんは、そんなことしてこなかったじゃないですか!」

「必要無かったんだよ。精密機械に徹するだけで相手は倒れた。だがセンドーはリカルドに脅威だと判断されたんだ。全力で、最初のうちに倒さなければならないとな」

 

ペースを崩される前に千堂の猛りを潰す。

合理的で、最も理性的な手段。

なにも、精密機械が本気ではないとは言っていない。精密機械でさえ強すぎるだけであり、バイオレンスでは相手を殺しかねなかったという話だ。

リカルドはいつも本気で相手を倒してきた。常人を相手に手加減はない。更に彼らを越える者に対して、更なる対抗手段を解放しているだけのこと。

 

「だがこんなのは初めてだ。

一気にバイオレンスで片をつけてきたはず…!」

 

ゴンザレスの困惑も、幕之内の悔しさもいまは蚊帳の外。

 

「ぐ、ヅっ!」

 

リングの上で2人の男が前進とサイドステップを複雑に繰り返す。いや────。

 

「千堂さんの動きが読まれてる!?」

 

勝機を探す千堂を、片っ端からリカルドが圧し潰している。

ゆっくりと前進してくる。関係ない、左を打ち抜いた。

外を回る。読んでいる、既に左を放って次に備える。

ならば内。冷徹に左で払い落とす。

 

『左を3つーーッ!打撃音はストレートの域だぞ!』

 

鼻血を出しながら、生存本能がけたたましい警告を響かせる。

踏み込んだ瞬間、積み上げた経験全てを落としかけた。

生存本能が叩き出した最適解に千堂が打つ拳は空振り、リカルドの拳だけが急所を突く。

 

「め、滅多打ち……」

「こっからペース取り戻すのは至難の技だ」

 

獣を躾ける鞭は世界最高峰の左。

生命を消し飛ばすほど速く、ゴンザレスとの試合の経験がなければ既に打ち破られていた。

 

「逆に、ひっくり返せたら勝ちに近づく!どの道こうなるんは想定済みや、このためにゴンを倒したんやからな」

 

1秒ごとに上がる心の温度を。

無敗神話の拳が1秒ごとに冷ましていく。

 

「王者のインファイトに付いていけてる!」

「スレスレだな。急がなきゃ見切られるぞ」

 

天井はない、底もない。

打ち上げるか、叩き落とすか。

栄光と絶望が交差する世界で、千堂の激情が白い牙を剥いて、常にリカルドの喉元を狙い定める。

 

「──────」

 

横に逃がさないと大きく踏み込んで右アッパー。…を途中でテンプルのガードに切り替えた。

 

「ぐっ…!」

 

最短距離を真っ先に駆けたのはリカルドの左フック。

 

これは失敗した。相手のカウンターを見ようとするあまり、先に打ち終えることに集中していなかった。だが、1つ教訓を得た。リカルドの観察眼は千堂を……いや、リングに立つ者の全てを見通せる。

大袈裟じゃない。でなければ数秒後、きっと自分はマットに伏せている。

 

前足が地面を抉る。

まだ意識がある、これじゃダメだと警告した。身体が心と混ざれていない、意識を繋げるものは経験のみ。

リカルドに近づくための攻防、受けてはならない攻撃を何度浴びただろう。

 

(まだ、立ってられる)

 

単調な突撃となり数度、意識が点滅し始めた。

肉も、骨も、削げ落ちて構わない。

 

(まだ、諦めへん…)

 

だから、心だけは渡さない。

幾千戦い、幾万倒れようと。

幾億、勝利へ手を伸ばせ。

 

(エイジ、キミが見せた執念をいま目の当たりにしている)

 

冷酷に打ち抜くリカルドは、攻め続ける千堂の瞳にかつての死闘を重ねていた。あの日、初めて敗北の文字が脳裏を過った。普段では考えられないミスをして、肉体では説明のつかない耐久力に苦戦したのだ。

故に学んだ、日本人に感情移入は禁忌である。最早、ここにミスは一切介入出来ない。リカルドが徹底して排除に乗り出しているからだ。

 

(闘志を燻られる。闘争本能に身を委ねたくなる熱気だ)

 

それでも、自らの勝利が盤石のものとならない。何度打とうと迫り来る漢が、リカルドの勝利を認めることなく吠える。

 

(折れへん、この拳を振り上げるまでは止まらん!)

 

突撃を繰り返し、息が潰えようとする直前で。リカルドの左拳が真横に弾き飛ばされていた。

 

「センドーのパリィが成功した!」

「予備動作がありません、完全に不意を突いた!」

 

これは勝敗を賭けた試合ではない。

互いが望んだ試合は1つ先にある。

2つの最強が同じ舞台に立つことはちょっとした過ち。

(しし)食いの途中経過、或いは神の気紛れとも言える。

己の目的を果たすために敵を仕留める、獣と神の生存競争(ぜんさい)に他ならない。

 

(降りてこいや、リカルド)

 

ここで行われていることは神話創造の積み木ではない。

全戦全勝を築いた汚れなき土台を噛み砕く、神の精密機械を狂わせる事件なのだ。

 

凍てつくリング、冬眠を強制する舞台で。

最後の熱を込めて、神話の織りなす絶望に抗い右拳を放つ。揺れる世界、ぐらつく視界を見つめながら、肉体に起きた異常の一切を知覚できずに拳を緩めていた。

獣は愚かにも反撃を試みて、飛んでいく。

マウスピースも、渾身の右も、王者を見ていた意識すらも。

 

「…」

 

右と右が交差し、リカルドのみが神話を綴り続けていく。

グローブ越しに血が塗れているのを確認して、瞳が虚を眺めていると知り。あとは前のめりに倒れる獣に、ありったけの称賛を心のなかで送る。

 

「くそっ…!」

 

柳岡は決着を見届けてタオルを握った。リカルドが更に一撃を入れようとしている、あれは命に関わるものだ。打たせてはならないと、タオルを投入しようとして。

 

「リカ、ルド……」

 

人間に備わるリミッターに音が備わっているのなら。

いま、獣が呻いた声がソレであると柳岡は直感した。

その鳴き声にタオルを投げ入れる手が止まる。否、止められてしまった。本能に訴えかけるなにかがあったのだ。

リカルドは、それを見逃していなかった。

 

(生き残ってみせろ、絶滅危惧種(ハボン))

 

大地を凍えさせる戦略に順応し、太陽に焦されながら剥き出しの野生が疾る。負傷を背負ってなお1ラウンドのスピードを上回る拳に、リカルドは軽々と左を返してみせた。

 

「ぐっ────」

 

寸分違わず、顎を打ち上げる右拳がリカルドの下から打ち上がる。

 

「相打ち!!!」

「ロープ際、千載一遇の勝機だ!」

 

強引にも右を引き戻し、警戒して上げていたガードをかわして直撃させていた。リカルドにも読めなかった刹那の挙動は、今宵最後の機会を手繰り寄せた。

 

(限界を越えたか)

 

意識は混濁したまま、身体を狩りのために洗練させる。一瞬の攻防で一気にロープを背負わせ、思考が定まらないうちに首を噛む。

 

(あ、あ────!)

 

浪速の虎が玉座に近づく。

無敗神話の壇上に立つ代償は計り知れなかった。たった1分の暴威によって筋肉繊維は切れ、肺には気道から焼けただれたように激痛が走っている。長くは保たない。

軍神を相手に一発逆転は愚者の妄想。しかし、あらゆる幻を噛み切るだけの牙を千堂は有している。

 

あまりにも熱い黒煙を切り裂いて、神体の影を踏みしめた。

 

「な、んやと…」

 

晴れた視界、空振る拳。

聳り立つコーナーを見て、瞬きのうちに身体を入れ替えられていたと気づく。

軍神は後ろで、悠然と拳を携えた。

リカルドの右が顔面に着弾する。

しかし目標地点が迫り、打ったリカルドの腕ごと押し返されていた。抗うどころか更に踏み込み、節々に力を伝達する。カウンターなどではない、ただ力任せに後出しするための溜め。

左右で握り込まれる牙が閉じるよりも早く、この事態を予測していた左拳が顎を砕き上げる。手応えがある、だがリカルドは足りないと断定し、踏み込んで陽を払うが如きボディブローを打ち抜いた。

 

(いま、意識を絶った────)

 

瞳が落ちていく。天を見上げながら、太陽に別れを告げる。墓標のように迫り上がる、虎の牙を見落として。

 

「なっ────」

 

目視不可能にまで研ぎ澄まされた野生。勝利に執着する獣が辿り着いた、神破りの境地。

 

「」

 

リカルドの右頬に減り込んだ拳骨。

驚愕に視界を見開く。ガードも忘れて、この反撃を受け入れることを受け入れてしまった。リカルドの身に駆け抜ける人生初の予感、ダウンのイメージに身体が囚われていたのだ。

 

1歩、2歩と後退する。

目を見開いて、右頬にグローブを当てて、肉が付いていることを確認する。

己の肉体の無事を確認して、遅れて相手を見た。

勝利に手を伸ばす、絶滅危惧種を。

 

「な………………ん………………」

 

コーナーに寄りかかりながら、軋む心が訴える。

まだやれる、と。

 

「ど………で、も…………」

 

同じ身体でたりながら生存本能は訴える。

機能を停止しろ、と。

意識を落とすことは許さない。

 

立って、勝つために。

 

「負け、へん………」

 

立ち上がって、準備を。

 

「────」

 

そう、ゆっくでいいから。

 

「…」

 

拳を、握って。

 

「」

 

最強を証明するには、それしかない。

 

ゆっくりと、指先から脱力していく。

 

力を込めて、視界が徐々に落ちる。

 

目を開いて、まぶたの裏を眺め。

 

静かに舞い、タオルが落ちた。

 

「くっ…………っ…………。

最後の最後、リカルドを後退させたで。

よう頑張った、もう今日は寝よう、千堂」

 

鐘が鳴り響くリングの隅。

柳岡が掛けた声に返事をする者はいなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

千堂 武士、メキシコで無敗神話の歴史に名を残す。

 

 

 

 

 

 

 

 

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