空はすっかり暗くなり、街灯と建物の照明が目立つ時刻を迎える。
こうして人々の喧騒は訪れ、酒に女に酔い耽ふけるお祭りの合図となるのだが。
今夜は格別の狂宴によって、後楽園ホール周辺は熱狂の渦に包まれていた。
『黄金の鷲を墜とし、同階級の統一王者となり、日本最強の男は更なる頂上へ飛び上がる!』
日本史上初のスーパー・ミドル級挑戦。
日本最強の限界が1人の漢によって切り拓かれる、その瞬間を望む者たちの狂喜が轟いている。
『数々の激闘、幾つもの感動を生み、日本人未到の空を豪翼で突き進む。
我々は見たい、彼がどこまで羽ばたけるのかを!!』
日本の期待に後押しされて、4度目になる世界最強の舞台へと足を踏み入れた。
「見せてやるよ、最強のボクサーってのを」
観客の声援に手を振り上げて応えたのは1度のみ。
普段よりも大人しい入場、落ち着いた態度に観客たちが首を傾げる。
「なあ、今日の鷹村はやけに静かだぞ」
「記者会見のときからそうだよな」
「もしかして体調悪いのか?」
減量による影響が軽くなったとはいえ、命の危険を伴って戦っているのは事実。つい最近、千堂が敗れたことも不安の後押しをしていた。
(鷹村、なにを考えておる…)
試合に向けた進路について、鴨川が鷹村から聞いたことは少なかった。
ストリクス・ワールを糧にする、ただそれだけ。
”ライトヘビーのティム、知ってるだろ。オレ様が勝つことは確定事項なんだが、ちょいと勝ち方に困っててな。だから今回は色々と試させてもらおうって寸法よ”
2ヶ月前に鷹村からこう聞かされたとき、怒鳴りはしたが鷹村は方針を変えなかった。目の前の相手に集中したうえで、遥か高みを見据えているのだ。故に、ひたすら練習を重ねてきた。
会場中が異変に固唾を飲むなか、照明は最強のボクサーを迎え入れる。
『今宵、山頂から日本の鷹を迎え討つのは
日本に訪れる4人目の重量級世界王者。
ライトブラウンに混濁する淡い朱色。後ろまで刈ったツーブロックヘアー。瞳に近づくほど濃ゆくなるダークレッドの眼。王者の朗らかな容姿、そして白を基調とした英文が記入されたパンツとシューズに魅入る者は多い。
『19戦14勝5敗10K.O。彼の戦績に格下は誰一人いません。全員が天才、超新星、最強と名高いボクサーたち』
鷹村と向かい合うと顎を引いて、目の鼻の距離くらいに視線を上げた。
『アマ世界王者、プロ世界王者にも臆せず挑戦し、負けても食らいついていく。そのファイトスピリットにボクシングファンは魅了されてきました』
王者であることを忘れるほど大人しく、鷹村よりやや低めの身長がその雰囲気を助長する。
『時代の先達者に挑む姿に敬意を表して、敗者の星と名付けて親しまれる王者。
リベンジ成功率80%の漢、ここに登壇‼︎』
ついにアメリカ屈指のリベンジャーと対峙する。
「彼がリベンジしていないのは現WBCライトヘビー級王者、ティム・フェザント。PFP3位を誇る怪物だ」
幕之内たちと偶然居合わせた藤井が解説を入れる。
「その人、確かライトヘビーで鷹村さんが試合する気満々だったボクサーですよね」
「アメリカのボクシングファンの間じゃ鷹村君を倒す最有力候補に挙がっている。
逆に言えば、ここで苦戦していると次の階級で勝てる見込みが薄くなる。この試合はそういう意味でも大事なんだ」
3人とも生唾を呑む。
鷹村が世界タイトル挑戦で苦戦しなかったことがない。どの試合も傷だらけ、不調のオンパレードだ。
それを世界王者相手に苦戦するな、とは無茶が過ぎる。勝敗数では上だが、試合の質では王者に軍配が上がる。この試合、勝利だけでなく、勝ち方に余裕を持たせることの難題っぷりに全員がようやく気づいた。
いま、勝負を賭したゴングは鳴らされた。
『鷹村は初めてのスーパー・ミドル級で3階級制覇へ挑戦します。注目はやはり減量の影響がどこまであるのか』
「ワール選手はイン・アウトを世界レベルで熟す。1度は敗れた相手にリベンジした際、もう勝てる気がしないとまで言わせるほどの研究家で有名だとか」
「ここ2年間で負けはありませんでした。最初の5戦で4敗しているのが目立ちますが、ライトヘビー級、そしてスーパー・ミドル級の2階級制覇者です」
「鷹村さんにとっては初めての2階級制覇者が相手か…」
幕之内たちが観客席で見守るなか。
両者、ゆっくりと中央に歩き出す。
鷹村の瞳にはワールの後方に聳える壁が見えていた。
9ラウンド目にして衝突する分厚く、そして鷹の両翼でも越えられない。
ストリクス・ワール。
5敗した試合は6ラウンド以内のK.Oによるもの。
フェザントの2つのK.Oのうち1つがワールだ。30戦以上の試合を判定勝利で綴じたボクサーが、なぜワールにK.O勝利を選んだのか。
珍しい結末に鷹村は1つの答えを出していた。ワールの本領が発揮されるのは後半、9ラウンドから。
(8ラウンドまでに倒せなかったらヤベェ)
9ラウンド以降のダウン経験無し。全てのK.O勝利もこのラウンド以降という、あまりにもピーキーなボクサー。
鷹村が引退に追い込まれるかもしれないボクサー、ティムが警戒する脅威をワールは持っている。
(ま、それも昔の話だがな)
9ラウンド。
鷹村は悠長にリングの上で待っているつもりは毛頭ない。
4ラウンド。
無傷での勝利を自分に課す。
それ以上の時間をワール相手に過ごせば、下手な情報は全て抜き取られてしまうと判断した。
『ステップを刻む両者、手が届く距離に入ります』
鷹村の視距離が左を当てられることを認識する。
ウィングスパンは鷹村が4センチ長い。僅差の優位、先制を狙う機会を手に取らず、ワールの舞台に躙り寄る。
これで左はいつでも当たる。だが、ワールは両目を開いて左のフェイントを入れるのみに留まった。
(やはり…………)
初手、ワールのフェイントで納得した鷹村。
この路線も予想していたため、直ぐに次の手を打つ。
2度目のフェイントに対して、静寂の下を這いずる左拳を敢えて合わせた。
『は、速ッッ……挑戦者、強烈な先制ジャブ!』
「いや、相手も打っておる!」
鷹村のジャブを右腕でガードしたワール。
ワールのジャブを右腕でいなす鷹村。
(ジャブのカウンター狙いはお互い様か)
(想像の2倍は重いね。
そして、私の知る中でも1番に匹敵する速さだ)
鷹村の左ジャブは世界屈指の仕上がりだ。
誰もがお手本と讃える拳。ワールは仮想フェザントとして見ていた。
(んなこったろうと思ってたぜ)
(タカムラ、仮想ティムとして糧にするよ)
ストッピングという最強のディフェンスを打ち破るため。全米を震撼させるボクサーが相手だとしても、それはワールにとって非常に好都合だと言えた。
(だがな、オレ様を疎かにしたら4ラウンド待たずに潰してやるぜ?)
右拳が加速して、ワールのボディ目掛けて放たれる。
2発目が間に合わず、左腕を寄せてブロッキング。
(い”ってぇ!?
こんなの適当に振り回すだけで必殺だよ!?)
抑え込めずに身体が少し下がる。鷹村の怪力とはいえ、万全なら押しとどめることが可能だと思っていたのだ。
早くも崩れた前提は加速して、左右がワールのガードに突き刺さる。
(これは効く…なら、流すまでだよ)
3度目の左ジャブを引きつけて、左半身ごと内側に押し込む。鷹村の左ジャブは空振った。その外側から畳まれるワールの左半身によって、左腕ごと真横に重心をずらした。
体勢を崩した瞬間、自身の右拳を放つ。
(小賢しい真似すんじゃ、ねえ!)
前に倒れる流れに沿って、膝を軽く折って利き足でリングを蹴る鷹村。弧を描き、ワールの右側面から起き上がりざま、ガラ空きの顔面へと左ストレートを放り込んだ。
(ほぼガニ股でサイドステップ!?奇抜すぎるぞ!)
空振った右拳を外側に放り投げて、自ら姿勢を崩すことで回避する。眼前を横切った拳の風圧に押されまいと、すぐに右拳を返した。
ただ迫力があるだけのパンチと見切られたのは言うまでもなく。軽々とウィービングで躱し、左ボディを狙った。
(ぬっ!)
先に突き刺さったのはワールの左ストレート。潜った鷹村に間髪入れず叩き込まれるそれは、ずっと前から予測していた動きだった。
(………ちょいちょいっ、嘘だろ?)
ワールの左ストレートは空振っていた。
ウィービングで右拳を躱し、そして再びのウィービングで左ストレートを見送る。初見でありながら、鷹村は死角からの一撃を難なく見切ってみせた。
2度潜った深さから左拳が飛び出す。ワールにそのパンチをガードする余裕はない。然し、偶然戻ってきた右腕によってクリーンヒットは防がれた。
(あ、危なかった…いや、まだかっ!)
浮上する鷹の眼。
足を使おうとしたワールを引き留めるほど、ここに余白がないと分かったせいだ。
(フェザント対策は思いつけばラッキー程度で良い)
左右、ステップ、全てが基本に忠実なボクシングに移行する。開幕、ワールの行動に予想以上の誤差があったせいで、うっかりやり易いように動いていた。
(それだけじゃあ越えられねえんだ)
ここまでは世界戦のちょっとした暖気運転。
鷹村の本当の目的地へ向けて、ようやく滑空が始まる。
(なにかヤバいね?!)
ワールが咄嗟にガードを上げた時、3発のコンビネーションを受け止めていた。ガード越しに鷹村が右側に飛び出したのを確認して、即座に左ストレートで追撃する。次にワールがとった行動、それは左腕を引っ込めることだった。
(まだ着いてこれるか)
右側にいるはずの鷹村はウィービングで一気に反対側へ。真下から打ち上げる拳をスウェーで避け、ワールは右拳で応戦する。
交差する左右、自分だけが当たらない拳。ガードで防げるのは身体を縦にして被弾面積を縮小させているから。
迫る翼がワールを外へと離さない。ワールの路が次々と塞がれていく。
『強烈なパンチが次々と王者に降り注ぐ!
予想外の攻勢に会場中の期待が高まります!』
左、リングが揺れる。
右、視界が踊り出す。
(これ、ガードさせられている!…何のため?)
左右、どちらの拳を受けても致命傷。ガード越しに、アメリカでも簡単には味わうことのない威力だと唇を噛む。
(フェイントを嫌って?ポイント狙い?)
浴びる暴風に踵が浮き上がる。
過去のどれにも当て嵌まらない型。
(フェイントすら避ける男だ、違う。
タカムラがポイント狙いはあり得ない)
徐々に、ワールのなかで誤差が埋まっていく。
まだ被弾をしていない。なら大した変化はないはずだと、強引に前進を開始した。
『猛威を奮う鷹村!激風のなかを進む王者!
リング中央で主導権の奪い合いが止まりません!』
寄せず離さず。ワールが踏み込めば押し返し、ステップを刻めば行く先を封じる。
リング中央で存在感を際立たせる両翼。羽根を観察するように、1つ1つ拳を対処する。うち1つに合わせて右拳を握り締めた。
(うおっ!?)
ジャブを受け流し、引き戻しに合わせて右ストレートを重ね合わせる。肌一枚を掠めていき、先に動いたのはワール。
空いた反対側に飛び込んで左フックを見舞う。外に回られて反撃出来る体勢を取れず、大振りの左を右肩で受け止めた。
続けざま、ワン・ツーで強引に鷹村をロープに押し込めようと力に訴える。
(させんっ!)
強引さで鷹村の右には出られない。
ステップで横に回り込んだ瞬間、鷹村のフックが捉える。咄嗟のガードで防いで、やはりガードが痺れるほど血流が寸断された。
(ちょっと不味い…!やつの攻撃力はハリケーンか!?
私の筋肉がズタズタに荒らされていくぞ…!)
右腕を肩ごと入れ込んで、持っていかれそうになる流れを断ちに行く。間に合うと踏んでいた追撃を妨害されたとき、1ラウンド終了のゴングが鳴らされた。
『呼吸を忘れるほどの攻防です!クリーンヒットがないまま最初のラウンドが終了。この勝負、全く先が見えません!』
(あー、くそ。思った以上に噛み合わねえ。
シャドウの質はまだ下の下ってことだな)
(被弾無しは運が良い……。だけど、私も当てられなかったのは予想外だ。タカムラ、強すぎやしないか)
手応えはなし。
得られた戦果に不満を抱きながら、両者は自陣へと歩いていく。
「おいおい、どっちも被弾無しかよ」
「雑誌にはイーグルと比肩されるボクサーって書いてあった。本当に強いんだよ、ワールって」
「そんなに!?またアクシデントが起きるのかねえ」
身を削いだ鷹村による、精神を削ぐ駆け引き。
王者たちと戦ってきたワールの攻防力の高さ。
どちらから崩れるか分からない均衡に、観客たちは次のラウンドまで存分に語り合うのだった。
勝者予想のアンケートが見たいボクサーは?
-
幕之内 一歩
-
鷹村 守
-
青木 勝
-
木村 タツヤ
-
板垣 学
-
宮田 一郎
-
千堂 武士
-
間柴 了
-
今井 京介
-
星 洋行
-
伊賀 忍
-
リカルド・マルチネス
-
アルフレド・ゴンザレス
-
ウォーリー
-
ジェイソン・尾妻