1度、透明な音が鳴り響いて意識が醒める。
薄暗がりの倉庫の主人である男は独り、隅に設置した業務机から上半身を起こした。音のした方向に視線を移す。
透明な音の正体は扉に設置した鐘だ。5年前、この倉庫を
「………ちっ。鍵を閉め忘れた」
机の上に散乱する酒瓶を見ながら舌打ちを1度。
野太く汚い独り言を吐いて、まだ酒が抜けない身体で立ち上がる。目的は1つ、侵入者を捕まえて憂さ晴らしに殴る。その後は裏路地にでも捨てて、また酒で溺れる日に戻るだけの無味な計画を立て終えた。
「………4時?んな時間にコソコソと」
太く見っともなく堕ちた右腕に巻かれた白の腕時計。正確だけは保証できる針を見て、自分が舐められていることを改めて知る。苛立ちで拳を作り、見通しの悪い倉庫をゆっくりと壁伝いに歩いて侵入者を探す。
いや、直ぐに見つかった。ソレは無警戒にバーベルトレーニング用の椅子に座り、鼻歌を交えて近くの物を手にして遊んでいた。
「おい、金目のものは見つかったか」
一気に接近して、その後頭部目掛けて容赦無く拳を振り抜いた。後先のことなど考えていない。
いいや、ここで相手を殺めてもいいとさえ男は納得して、本気で殺しにいった。
「いま見つけました」
「なっ────」
拳が人を殺める事実はすぐに潰える。
朝食に並べたトーストのように暖かい男の手のひらで、シンクの生ごみのように冷たい主人の拳を止めたのだ。
「お、お前は…」
「初めまして、ラバル。私はリボルブ。
キューバでオリンピアンをしている凄い人なんです」
身長160cmのラバルに対して、リボルブを名乗る侵入者は170cm近くある。立ち上がった侵入者を見上げながら、ゆっくりと後ろに下がった。視界も悪い朝のなかでさえ、リボルブの陽だまりを纏う瞳に目眩を感じて。
「もっと凄くなりたくて、”ルイ”さんを育てた貴方を尋ねてきた次第なのですが………。お酒が好きなんですね」
その言葉で一気に目が覚める。
床に転がる自堕落な証拠。かつては高級オフィスの事務所よりも輝いて見えた景色はなく────。
再び思い出した過去を振り払うように、吐き捨てる。
「帰れ。その金象に泥浴びせてやろうか」
「『殺人拳』が尾を引いているんです?」
そして、地面に落としたフリをする言葉を容赦なく拾って返した。
ラバルは言葉を詰まらせる。喉の奥の空洞が心臓の鼓動を反射して、静かに記憶の蓋から光が溢れ始めた。
───
──
─
ルイ・ラファエル。
ラバルのもとでボクシングの研鑽を積み、3階級制覇を成したスペイン最強のインファイター。彼は陽射しのような心を持ち、彼の拳は誰よりも強かった。真剣に試合に臨むルイは、試合を穢す行為を最も嫌った。
3階級制覇を達成した2度目の防衛戦。勝ち目が無いと悟った対戦相手は、ラフファイトの限りを出し尽くし、ルイの怒りを買ったのだ。
「落ち着けルイ!!
そのまま突っ込めばヤツの思う壺だろう!!」
ラバルの静止に反応したのは一瞬。
仲間を侮辱され、師を罵られ、試合を穢した男をボクサーとして見ていない人間には仕方のないことであった。
第10ラウンド、血で血を染めるリング。対戦相手はリングに沈み、そのまま目を覚ますことはなかった。
生き恥を清算した尸を無言で見送るルイの心情を、ラバルは最後まで解き明かすことは出来ず。投げかける言葉が見つからないまま、最悪の試合は幕を閉じた。
リング禍。
その恐怖はルイに憧れる少年たちに刻み込まれ、ルイの背中は泥に塗れてしまった。
この試合を最後に、ルイがリングに戻ることはなかった。
─
──
───
「地元では”戦うお兄さん”と呼ばれるほど心優しい人物でしたね」
「……なにが言いたい?」
「私は彼の拳を広めたいんです!
あの素晴らしい必殺を────」
熱く語るリボルブは、誰かたちが何千回と唱えた褒め文句だ。
聞き飽きている。過食だ、もう喉を通らない。だから吐き捨てるために、拳を握り込んだ。
「ッ!?」
「同族で穢しちゃなんねえものが2つある」
当然、リボルブには止められる拳だ。
物理的なダメージは最初から求めていない。拳に乗せる怒りさえ伝われば良かったから。
「1つ、敗北。負けは戦いの資金石だ。負けを嗤うやつは負けに怯える。そんなやつの芯じゃ人は見向きもしない」
リボルブの言葉はラバルの怒りを買うには十分すぎた。
リング禍を生んだ拳は誰よりもボクシングを愛している拳だ。その拳を握らないと決意したボクサーのことを、再び世界に広めようなど信じられるものではない。ルイのことを弄んでいるとしか言いようがなかった。
「1つ、決意。男が口にした言葉は堅い。それも……1ヶ月、1つのことで悩み続けた男の言葉なら尚更よ。
ルイは引退した。ルイの影を追うなんざ、ふざけた真似をオイラの前で吐かすんじゃねえ」
話は終わった。
元々、会話が成立するとは思っていない。ラバルにはリボルブを指導する気はなく、その意味も見いだせないのだ。
呆気なく後ろを向いて、無言で帰れと伝える男に、リボルブは立ち上がると。
「私は、ルイ選手が試合をする最中の横顔が好きです。
彼の後ろに、沢山の想いが重なって見えました。そこに貴方の存在は大きかったはずですよ。なのに……。貴方はここに残り、ルイ・ラファエルを独りで見送ったんですか」
「────…………────…………」
惨劇から変わらないジムに居座る男へ、現実への入り口を指し示した。
「誰にも追ってほしくないなら、ここを畳めばよかったでしょ?それをしないのは、きっとルイさんを待っているからです!」
「なら、どうした。どうやって亡命したか知らねえヤツを、わざわざ匿う理由になりゃしねえんだ」
「
貴方はルイ・ラファエルの復帰を待つ。
私はルイ・ラファエルと試合がしたい。
その繋ぎとして私と世界を獲りましょう!」
メチャクチャな本音を笑顔でぶち撒けた。
「それが、どんだけ高い壁か分かってんのか」
「
世間が築いた壁なんて、私の活気で吹き飛ばします!
楽しんだ人間の壁ほど高いものはありません!」
「…………!」
リボルブは笑顔で、破綻も完成も備えた理想を唄う。
この時、ラバルは底知れない深淵を見た。リボルブを形成するポジティプ思考、その背景に付き纏うものを。
詳しい事情は知らない。ラバルにだって言うつもりのないことの1つや2つはある。
「………とんだバカがいたもんだ」
ただ、目の前にいるボクサーは誰のことも嗤わず、物事の行く末を愛おしむ心を持っている。それだけで、地獄の門を開ける覚悟は決まってしまったのだ。
「この世に天国は限りあれど、地獄に枚挙はない。
ここが冥土直通だったとしても、後悔はさせねえぜ」
「えぇ、勿論です!」
朝陽の出発とともに、2人の手は固い握手を交わす。
全てを失った漢たちの再起をここに綴る。
「黄金の国を築きに行く。着いてこい」
ここから3年、9戦を経て世界の頂点まであと1勝のとき。
無限に続く地獄の沙汰へと踏み込んだ。