宮田 一郎の世界戦が開催される両国国技館。
多くのボクシングファンが待望の瞬間を目撃するために、針山の穴も埋める勢いで会場に押し寄せていた。
「すげえ人数だな…。嫉妬しちまうぜ」
「オレ様程じゃねぇが……黄色い声が多くて嫌になる」
鴨川軍団が両国国技館に到着したとき、入口は既に女性たちの声援で溢れかえっていた。幕之内は宮田の影響力に感銘を受けていたが、これから入場することを想像する鷹村たちは気が滅入ってしょうがなかったという。
かくして30分の我慢を経て、最前列の関係者席に辿り着いた一行。ひと息ついたのも束の間、第一試合が始まる直前、幕之内が席を立った。
今日の目的は第三試合の木村復帰戦からであるため、失礼だとは思いつつも、とある人物を探しに会場内を散策しに行ったのだ。そして。
「千堂のヤツ、来てねえのか」
戻ってきた一歩にそう声をかける鷹村。
一歩の表情を見れば肯首しているのと同じだ。散策の目的、それはリカルド戦に敗北以降、姿を現さなくなった千堂の捜索だった。浪速拳闘会の柳岡から「探しとるねんけど、そっちにお邪魔しとりませんか?」という連絡から事情を知った。武者修行の旅に出るということらしく、今日の試合は観に来る可能性が高いと踏んだものの、結果は空振りに終わる。
「心配です。あの試合、千堂さんはかなり一方的に倒されましたから…。
観ていた僕でもショックが大きかったので…」
「もう日本に居なかったりしてな!」
「縁起でもないことは言わないでください。千堂さんの行方が気になって、心配で仕方ないのに……」
「気にしても仕方ねえよ。
アイツが挫けるところなんざ想像出来るか?」
「それはそうですけど…!」
鷹村の言葉に幕之内は納得するしかない。
もう出来ることはなくなってしまったのだ。
仕方なく席に座ったとき、第三試合…木村の復帰戦の準備が整う。
木村が大歓声に見守られながら入場を終えた。
最後の再起、運命の一戦が始まろうとする時、両国国技館はひと味違う緊張感に包まれた。
「さっさとくたばれゴミボクサーーーー!」
「ぶっ転がされてえのかあ!!??」
「敦士さんに挨拶せんかい!!」
無法地帯を連想する罵声がリングに飛び、中央に舞う熱が霧散していく。
あまりの場違いな声に驚いて振り向く幕之内。
約30人近くの不良たちが集団を成し、世界戦前前座の空に雨雲を作っていた。
「なんか静かになったと思ったら、これか」
「ひ、酷い…!
人の再起戦をなんだと思ってるんだ!」
「係員の注意も蚊帳の外ですね。
暴力で追い払ってる……最悪な連中だ」
3人が同時に立ち上がったとき。
「お前ら、前を見ろ。木村の眼で判断しろ」
両腕を組んで、リングの上を見据える鷹村の静止が耳に届いた。青筋を立てている青木も、ボクシングを侮辱されて怒る2人も、同じ場所に目を向ける。
「木村さん……」
すでに両者出揃っていた。
金に染めた穴ぼこだらけの敦士を前にして、木村 タツヤはリング中央で堂々を貫いている。敦士は悪性の笑みで木村を見下し、ヤジを声援と勘違いした男を半目で置き去りにしていた。
無反応っぷりに退屈した敦士は、右拳を上げて。
「うおっ!?」
「はっ!こんなパンチにビビって試合出来んすか」
木村の眼前まで突き出して嗤った。
鴨川の視線が引き締まり、握り拳とともに前に出ようとしたところで篠田が先に動く。
「木村、気にするな」
肩を叩いて木村を宥める。
木村の眉間に青筋が立っているのは篠田がよく分かっていた。篠田とて、外野の不良に声を張り上げたいのは山々だ。然し、自分が冷静に努めて木村を導くことを優先しなければ、全てが台無しになる。
「…挨拶は大事っすよね」
「お、おい木村!?」
それでも木村は前に出た。
殴るためでも、注意するためでもない。
「確かに中途半端は恥ずかしいよ。
ここに来て、パンチ当てられない中途半端者はな」
「…………ここで終わらせてやるよ」
こう言い返したほうが、敦士の闘争心を煽れる。
ただそれだけのために。
眉間に青筋を立てる敦士を他所に、レフェリーが2人をコーナーに送る。篠田の心配は徒労に終わると本人が確信した瞬間だ。
「間柴の懐に飛び込み続けた男が、あんなので集中乱れると思うか?」
「────思いません!」
「そりゃそうだな。黙って見守りますか」
「ですね〜。すぐ終わりそうだし」
試合前の睨み合いを呆気なく制した木村。
それを見た鴨川軍団は怒りを抑える。
後方から罵声が飛び続けるが、それも直ぐに収まるからと納得して、客席の漢たちは静寂のなかに潜むのだった。
第1ラウンドの幕は品性を欠いたまま上がる。
「いくぞゴラァ‼︎」
敦士がコーナーに喝を飛ばし、周辺の不良たち約30人が応える。試合の妨害に等しい行為で最も影響を受けるであろう木村は、黙々と圧迫された観客たちを見て、コーナーを背にした。
(間柴戦後とは大違いだな)
夢の舞台で敗れ、リングに戻ったときは期待の嵐が木村をリングへと誘った。誰かが、自分の再起を喜んでリングに連れて行ってくれたときの高揚感を今でも覚えている。
だが、自分の足では上がれなかった。想像を越える期待に木村 タツヤは呑まれてしまったのだ。そのせいもあるが、皮肉にもいまはこの静寂が身体に馴染む。ブランク開けの身体はすでにほぐれていた。
黙して行く末を見届けてくれる、最前列の眼差しに手をかざして。
(いっちょやりますか)
木村 タツヤ最後の再起戦が始まった。
対角線から動き出す、何も知らない為政者。
驕った雰囲気に似合い、観客たちの熱意を弄るようにゆっくりと歩き始めた。両拳を何度も突き合わせ、不躾な威嚇を継続する。
(そりゃ喧嘩スタイルか。俺も知ってるよ。それで本当に強いヤツが、リングでどれだけ生き残れるかも…な)
ただ避ければいいだけの罵声など、木村の肩の力を抜くマッサージにしかならないというのに。
『あーっと、敦士選手、いつものように威嚇しながら歩いて接近だ。この圧力にランカー達は屈してきました。
復帰戦の木村選手、ブランク明けで………えっ』
真っ直ぐと為政者の騒音を聞き届ける木村。
待ち合わせ1時間前に着いたが如く、気の長い時間を過ごす心持ちで相手を眺めていた。
『う、動かない!木村まさか上がりすぎたか!?
コーナーを背負って微動だにしない!!』
鴨川や篠田でさえも困惑する。
木村の待ちは事前に決めていた行動ではない。かといって具体的な方針は木村に任せていたのだが…。
「雰囲気に呑まれてはおらんが…」
「相手の土俵にむざむざ付き合うヤツじゃありません。
大丈夫、試合の流れは見えています」
困惑もほんの数秒のこと。
篠田は木村の足元を見て確信する。リングの底に潜るほどの迫力があるからだ。
(強いやつの条件を身をもって知っている。
敗北に煽られない、ネジがトんだヤツだ)
栄光の舞台に続く一本道に立ちはだかるボクサーは笑う。
(ダメなやつの条件も、勿論知っている。
才能がねえのに心だけ熱いやつだ。夢を追って老いさらばえる、てめぇらスポーツマンみてえにな)
木村の返答に両腕を広げながら威圧を強める。体重は木村と同じだが、敦士の筋肉は日本ランカーの中で最も打たれ強い。喧嘩で築いた身体だと馬鹿にはできない。ポテンシャルだけならば東洋に通じると、ボクシング雑誌記者たちも盛り上げるほどのものなのだ。
国内ランク上位に加え、内外で騒々しいボクサーがいま、木村の眼前に辿り着く。
「よぉ国内の古株。トップ取らねぇでランカー彷徨いやがって。そろそろ加齢臭が酷えからよ、もう失せろ」
肩を押し付け、押し潰す準備を整える。
惨めにもリングにしがみ付く、頂上への道を幻視するボクサーを終わらせるために。
「8年……は過ぎたか。もう退がれねえんだ」
「あ?」
荒くれの拳が持ち上がるよりも速く、古株の拳が隙だらけの顎を横切っていた。
「臭いに鼻をしかめてたらランカー降ろされるぜ」
「かあ……っ!?」
衝撃に驚きつつ視線は下を向く。
木村は脚を使い、次の動作に移っていた。利き足を内側に入れて力を捻り出す拳は…。
(…アッパーだな!)
次の一手を察して、思い切り顔面を振り上げた。
あからさまにバッティングを狙う行動は、次の瞬間。
『身体を起こしたところに右フック!
復帰間もない木村選手、敦士選手を巧みに操り試合を形成していく!』
(なにィ!?)
頭部に襲いかかった木村の右拳により、足元がふらついた間に左右を打ち込まれてロープ際に後退させられた。
「んなっ、1発で効くわけねえだろっ!」
バカが、と吐き捨てたセリフを木村の右ストレートが口内に押し戻す。ロープが張力を発揮して、敦士の身体を衝撃が駆け抜けていく。
「ぶあ……が!?」
左右、ボディの3連撃が容赦なく襲いかかり、敦士の顔面が大きく弾んだ。活きがいいのは果たしてどちらか。答えるまでも無い答案に、為政者は己の身体を起こして反抗する。
(パンチを貰いにきた…?)
木村の右拳が察知するのは、敦士が両脚を地につけた感覚だった。1分未満の時間で、敦士の闘争本能が危険地帯にいることを理解した。
「ふんっ、喧嘩慣れはしておるようじゃ。
木村の闘志を逆手に取って、打たせたところを捕まえる算段じゃろうて」
ロープ際で歯を食いしばる敦士を、鴨川は冷静に見てとる。相打ちを覚悟して拳を振り抜くさまは肝が冷えるほど迫力があった。
「肉体的ダメージだけなら耐えられるでしょう。
ですが、脳を守れなければ…木村の敵じゃない!」
篠田がはっきりと宣言する。
ここまで他のプロボクサーが敦士に負けてきたのは、敦士の一撃がジュニア・ライト級でも指折りの破壊力であったこと。加えて、外野のヤジがシャレにならないレベルで選手たちの集中力を乱したことにある。
過去の試合が記録されてきたことで、木村たちは覚悟を決めることが出来た。篠田の情報収集のお陰であり、そもそも鴨川と篠田のしごき以上に怖いものなど、そう巡り会えるものでもない。
『すごいぞ、圧倒している!
敦士選手が自分のボクシングを出来ない!木村がさせない!このまま決めにいけるのか!?』
右の一撃が敦士の顔面を打ち抜いた。
相打ちを狙い放った拳は宙を切る。
ならばと次に選んだガードは間に合わず。間に合おうとも隙間からパンチを当てられる。たった2分で敦士の顔面…いや、思考は混乱を極めていた。
(なんでだ、俺の拳だけどうして空振る?
目の前にいるじゃねえか、俺はまだまだ体力あんのに、どうして足だけ動かねえんだよ、まてよ俺はいつ…ロープ背負ったんだ!?)
右、外れる。
左、当てられる。だが見えた。
(ジャブ…!ジャブなら打ち返せるはずだ。思い切りカウンターして、リングに道連れにしてやる。こい、こい……こいや…!)
混乱する身体と脳で、静かに動いた木村の左拳を敦士は見逃さない。足を大きく広げて、遠くにある顔面へと右を一直線に放った────。
木村の左ジャブが顔面で止まり、敦士の視界から木村の中心が消え去るまでの話だが。
(ストレートが外れた!?
バカな…何百人も倒した俺の拳が見誤るはずねぇ!)
くらりと遊ぶ右拳。木村の身体から10センチ以上も離れた場所を通り、自信が音を立てて崩れていく。
「頭を真横に押して重心を逸らしたな」
「はい。少しスリッピングするだけでストレートを外せます。相手は訳も分からないでしょうね…」
「顎を引かないとこうなります」
木村が魅せた早業を鷹村たちは見切っていた。
プロボクサーなら注意して然るべき事態だが、喧嘩だけで上がってきたボクサーには避けようがない。
(こんな、情熱だけでボクサーしてる老いぼれなんぞに…)
(どれだけ天辺をとろうとな、欲に胡座かいたら男はお終いよ)
「このヤロウ‼︎‼︎」
木村の右頬を擦る右拳。
一瞬にして木村に肉薄した敦士は笑う。ステップなど踏んだことがない、ただの喧嘩師が迷い込んだリングなのだ。うっかり腕で抱え込み、ロープ際に寄せる事態が起きても不思議ではあるまい。
「関西最強だか知らねえけどよ」
「…!?」
ならば、逃げ場を奪ったと勘違いした敦士が気づかないうちにステップを挟み。
「あ、ぁ!?」
ロープ際、敦士の顎にバックフックを捩じ込んだ一撃を見抜けないのも当然と言えた。
脳を揺さぶられ、それでも肉体は健在。ゆえにダメージはないと勘違いして、足がすくんでいることを理解できなかった。
まだ倒れまいとクリンチに移行して、敦士は自ら敗北へと突き進んだ。
「
かつて、間柴もクリンチで必死の抵抗を見せた。
男らしく無い?ボクサーの恥?なんと言われようとも、木村はあのクリンチでチャンスを逃し、そして敗北した。
これは勝利を諦めない男たちの執念だ。クリンチを許したほうが貪欲さに欠けているのだ。何度も、同じことで躓くわけにはいかない。
「く、ぞオ────」
縦に一閃、敦士の視界は白く裂ける。
それで終わった。
膝から上が力なくロープに沈む。それと同時に両者の間に割って入ったレフェリーによって、試合終了の合図が鳴らされた。
『試合終了です!強敵敦士を圧巻の試合で倒し、木村 タツヤ再び日本ランカーに返り咲き‼︎
この強さ、すでに日本タイトルに手が届くのではないでしょうか。今後の展開に観客の期待も膨らんでいきます!』
「すごい!すごいですよ木村さん!!」
「かぁーっ!終わってみりゃ圧勝じゃねえか!」
「やったあ!次はタイトルマッチ行けますって!」
客席で大喜びする鴨川軍団。
「篠田さん、会長、やりましたよ」
「あぁ、見ていたぞ。文句なしだ、木村」
「良くやった。実力も十分。タイトルも狙えよう」
「その前に1人、ケリ着けたい相手がいます。
エレキのヤツとの試合、期待してますからね」
「そうだったな。出来るだけ早く取りつけてくる」
こうして、木村の再起戦は華麗なK.O勝利で幕を下ろした。
エレキ・バッテリーとの再戦を最後の課題として、日本タイトルに向かい躍進する。青木も巻き込まれる形でパパイヤとの再戦が決定するのは、仕方のない話だろう。
ここで終われば、めでたしと言えたのだが。
「おいレフェリー!カウントせずに止めるな!」
「どこに目ぇ付けたんだゴラア!!!」
「おどれ転がしたろかア!?」
木村の勝利にケチを付ける不良が約30名。
立ち上がり、今にもリングに雪崩れ込もうとしている。
木村の勝利は完璧なものだった。それにケチを付けるとなると、黙ってはいない男たちがいた。
「やれやれ。ちょいと相手してやるか」
「鷹村さん、暴力は無しですよ?」
「わーってるよ。多分」
鷹村が耳の穴を右人差し指で弄りながら、最前列の席から立ち上がる。
「まあ道具を使われたら、つい取り上げて使ってしまうかもしれないが」
「板垣君、僕たちは鷹村さんを止めよう…」
「えぇっ…」
少しばかりの”会話”をしてあげようという、大魔王様の優しい心配りだ。周りの観客たちは、不良に近づいていく鷹村を見て青ざめていく。
リングの上から鷹村の行動に気づいた鴨川が、慌てて声を張り上げようとしたとき。
「やめろ」
「あ、敦士さん?」
不良集団の前に敦士は立ちはだかっていた。
まだふらつく膝を抱えて一喝。それで不良集団は立ち止まる。
「俺は……まだ半人前だった。
それが分かっただけ、今夜は価値がある試合だ」
「なっ!?アンタが負けたなんざ納得いかねえ!
疾景にリベンジするんじゃなかったのかよ!?」
「疾景のヤロウを倒すのはヤツだろう。
俺のボクサー生命を賭ける。だから退がれ」
「…………ウス」
息を切らしながら頭を下げる敦士を見て数秒。
渋々といった表情で不良集団は敦士を抱えて、両国国技館から立ち去っていった。
「けっ。今更格好付けてもおせえっつの」
「な、何はともあれ良かった…」
「まだ試合はあるのに、もう疲れました…」
尻餅をつく2人。
これで本当の意味で木村の再起戦は無事に終了した。
残すは2試合。
間柴の世界前哨戦。
そして宮田の世界戦だ。
桐切 敦士
木村の復帰戦の相手として登場。
幣作プロットの段階では『ライトヘビー級編』の鷹村4階級目挑戦のときに登場予定でした。
疾景(幣作日本ジュニア・ライト級王者)にリベンジを果たすべく登壇する……といった設定でしたが、いきなり詰め込みすぎて浮きまくったのでボツに。
当初予定していた復帰戦の相手、エレキ・バッテリーと入れ替えることで、やっとギリギリ読める背景を作れたと思います。
今後登場する場所がないため、ここに無理やり入れました。ちょっとキツイ展開かなと思ったけど、設定が丸々無駄にならなくてホッとしています。
※執筆の都合により、月曜日はお休みします。火曜日の更新をお待ちください。