その試合は、1人の選手によってペース良く、観客に飽きさせることなく進んでいた。
「いいぞ速水!いけるいける!」
手数の多さ、ズバ抜けた回転力は観る者を驚かせる。
彼と対峙する選手の表情は1秒経つごとに曇っていく。
観客が声援を送る選手の名は、速水 龍一。
かつて、フェザー級4回戦で幕之内 一歩と対戦。激闘の末、打ち負けはしたものの、将来の期待感が陰ることはなかった。
それが、いまでは──────。
「あぁ、馬鹿野郎!お前はどうしてインファイトしようとするんだよ!」
「打ち負けるんだから近づかせんなぁぁ!」
苦し紛れの相手の1発が、運良く速水の顔面を捉えた。
続けざま、返しのフックが迫る。勢い良く放つそれは、誰がみても当たるはずのないスウィング。カウンタータイプのご馳走だが、これが鈍い音を鳴らした。
「あぁぁー!ったくまたかよお前!」
「どうしてインファイトに拘るんだ!」
「自分のボクシング分かってんのか!?」
速水は、たった2発でリングに転がって失神した。
試合終了の鐘が響く。
「ダメだなあいつ。もうリングに戻ってくるなよ」
「いっつも負けるからなぁ。プロなりたての頃に勝つだけじゃ、誰でもできるだろ」
「おかしいと思わないのかね、自分のこと。
周りから言われてるはずだぜ?脆すぎるってよ」
アマチュア戦績無敗、プロでの勝利の殆どを前半にもつ。15戦7勝8敗、そして今晩で9敗目。8連敗となった。
ジュニア・フェザー級タイトルマッチ以降、勝ちなし。
栄えある経歴から一転。致命的なエラーを抱え込み、将来の生活を心配されるほどの転落人生を歩んでいた。
▼
「今日は帰ります。
帰って、反省会をやるので。えぇ、それでは」
控え室のドアをしっかりと握りしめて、音羽の心配に笑顔で返しながらドアをゆっくりと閉じる。
視線はドアノブから出口へと続く廊下の角に移った。ホールの関係者やプロボクサーが行き交い、互いに声を掛け合っている。記者もチラホラと散見できるが、速水 龍一に目を向ける者は誰一人としていなかった。
「………………」
彼らの視線を避けるようにして、足音を立てずに早々と出口を目指す。
声が掛かることはない。労いすら見つからないんだ。8連敗して残るボクサーなんて稀少だろう。少なくとも、速水の記憶に該当する日本人ボクサーはいない。
多くのボクサーは戴冠の夢を破り、次の道を求めて彷徨うのだから。
「ちぇっ、今晩もダメだったか」
場面を転換したかのように移動して、いまは後楽園ホールの階段登った花壇の横に立っていた。
いつもの事に呆れながら、夜空の星に向かって呟く。
今日ほど自分を嗤いたくなった日はないだろう。胸に手を当てずとも声音で分かる。これほど凄惨なから笑い、敗北のあとに聞いたことがない。
「はぁ…」
死相に見舞われたかのように気落ちした声がもう1つ。
隣を重々しく向いてみれば、遠くの世界を眺めて不幸に浸る男がいた。
「おや、君はたしか、幕之内くんのところの」
「………あ。……どうも」
板垣 学。今宵、速水と同じ印を刻んだ者の名だ。
彼は自分で精一杯なのか、速水の声に短く返事をするのみ。次第に視線は遥か彼方へと浮上し始めたのを見て、迷いなく声を掛けた。
「良い試合だったね。板垣君のフットワークは東洋でも通じると思ったよ」
「……でも、最後の最後に捕まりました」
忌憚のない賞賛に結末を返して、板垣は遠くの世界から漸く此方へと視線を戻す。
「最後の最後に集中力、切れちゃったんです。勝ったと思って、ナオさんの死んだフリを見抜けなかった。
プロとして観客の声に応えるはずが、利用された。観客を味方につけていたのは、初めから彼1人だった。
次は、必ず獲ります。復帰戦で、タイトルを組んでもらおうと思っているので」
「次、誰が組んでくれるかな」
「……どういう意味ですか」
「君は強い。ハンマーナオの勝利は予想外だった。それほどに板垣 学の実力は日本圏から逸脱してる。
王者なら戦うしかない。だけど勝ち目なしのランカーとなんて、組むだけ損だろ?」
「────────」
板垣の視線は事実を述べる速水を鋭く見つめた。刃物で突き刺す気持ちで向けた瞳には、怒り心頭に発するものがあった。だが、先ほどまで自分の敗北を俯瞰的に見ていた板垣は、次第に速水の言葉を噛み砕いて、意地悪から発した言葉ではないことを理解する。
「八つ当たりやめてください」
「はは……。今の君を見てると懐かしくなってね」
板垣の愚痴に釣られて、速水も彼の非難に謝意を差し出した。その僅かばかりの笑みが、
「速水さん、なんで負けたんですか」
板垣の……いや、これまで何度となく聞かれた疑問を引き出すこととなってしまう。
「たった1発…それもジャブをもらって倒れるなんて普通じゃない。あんなパンチ、僕でも耐えられる。
弱みを握られているとしか思えません」
板垣の一言々々が針となって速水の全身に深く入り込んでいく。これも何度も聞かれた疑問だった。そのたびに適当にはぐらかしてきた。時には調子が悪い、ブランクだと言って周りと自分を騙してきた。
「────八百長じゃないんだ。ボディも、ガード越しの痛みも耐えられる。だけど、顔面だけは倒れてしまう。
まるで電灯のスイッチを切られたみたいに、足が言うことを聞かなくなるんだ」
もう、逃げたところで変わらない。
ロクでもない身体だと自ら認めている。ただ、口にすることは本当に負けた気がして、これまで避けてきただけ。
内に溜めて進まないのなら、吐き捨ててしまおう。遅すぎる解を吐き出して、初対面の相手に無遠慮に投げつけてしまおう。開き直った心は、少しだけ軽くなっていた。
「ここで引退すれば、ボクシングの辛いところばかり語り継がれる。
ボクシングが好きだ。過去形にしたくないし、これからもっと皆んなに知ってほしい。
だから俺は、何度負けても…泥塗れの手だとしても、ベルトが欲しい。王者になりたいんだ」
泥塗れで汗濁、小路を這う虫のように惨めな姿は、内側に観戦者を集める才能を残した特殊な虫だ。未だに対戦相手が見つかっていたのは、速水に踏み台の価値があるからだ。本人も自覚しているからこそ、機会はプロの土塊に埋もれゆく敗北者よりも恵まれている。
「速水さん、僕には…貴方の距離感がまるで分からない」
「きょ、距離感…?」
だから板垣は速水にそう言い放った。
踏み台など勘違いも甚だしい。ミドルレンジが日本圏トップ層だとしても、いまの速水はインファイトに拘る。飛んで火に入る夏の虫を体現した、自らの持ち味を捨てる姿は、蹂躙を好むボクサーたちの食い扶持でしかない。
「僕は自分のボクシングをして負けた。けど、速水さんの試合は……別のボクサーと対峙してるみたいでした」
曝け出した本心。吐き出した苦悩は、プロボクサーの手によってデコボコにされていたと分かった。
自分の意思は相手の養分。その証明は7連敗が語る。
「自分の、ボクシング…」
守ってきた自分の殻を吐き出したら、外との意見の食い違いにあっという間に気づいてしまう。聡明だと思っていた自分の能力が恨めしい。
理想は崩れていく。
そこに居るはずの理想の自分に、現実の自分が泥を塗る。
「────家、か」
寝転がる自分に気づいたとき、慣れたとばかりに平静を装った声音で自分に言い聞かせる。
「…………寝よう」
今日も、気づけば家に帰宅していた。
最近はいつもだ。今日はなにがダメだったのか、俯瞰的に自分を見ているうちに家に着いている。
赤信号で止まったのか、それとも無視して歩いて呑気に歩いたかも知らない。
勿論だが、板垣とのやり取りも最後はうろ覚えだ。
「────また、震えが止まらない」
眠れぬまま深夜になった。
日を跨いだ。プロなら既に寝ている時間だ。昔の速水 龍一なら絶対に起きていない時間だった。
横になれない。横になると立ち上がれなくなる。
天井を見ても、布団に顔を押し付けても、耳鳴りが始まる。
1、2、3………始まるんだ。
俺を負けに追い詰める、レフェリーのカウントが。
酷いときは直ぐに試合終了のゴングが鳴る。
鳴ったら、終わるんだ。俺のボクサー生命。
鳴る時は決まって試合の直前の夜だ。これを聞いて勝てた試しがない。
「───まだだ、俺は終われない」
理想像の足元を見てみれば、散らかりすぎた俺の残骸たちが俺を嗤っている。
毎日、昨日の俺が死んでいた。
1日24時間という概念が無ければ、たったいま俺は死ぬ。過去を犠牲にすることで、辛うじて俺はボクシングに縋り付いていられる。
「……また、朝になってる」
千の夜風が速水 龍一を笑う音を聞き終えて、明日へ生き永らえたことを知る。
悪夢にうなされることのない、さりとて女神に看取られることもない。前のめりに倒れ続けた愚者は、鏡を見ることもせずに今日を始める。泥水を啜ることしか出来なくなった男は、こうして明日も救われない1日を勘違いで終える。
一週間後、ジムに顔を出した速水を待ち受けていたのは、
「速水、引退勧告だ。もうここには来るな」
プロボクサー生命の終わりの通達。
永い夜を終えろと云う救い。
負けを負けで終えた、
敗北にしがみ付いた、
敗北が染み込んだ男の、呆気ない末日だった。