鷹の6本のツメ   作:ひとりのリク

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速水 龍一の骸

 

 

 

その試合は、1人の選手によってペース良く、観客に飽きさせることなく進んでいた。

 

「いいぞ速水!いけるいける!」

 

手数の多さ、ズバ抜けた回転力は観る者を驚かせる。

彼と対峙する選手の表情は1秒経つごとに曇っていく。

 

観客が声援を送る選手の名は、速水 龍一。

かつて、フェザー級4回戦で幕之内 一歩と対戦。激闘の末、打ち負けはしたものの、将来の期待感が陰ることはなかった。

 

それが、いまでは──────。

 

「あぁ、馬鹿野郎!お前はどうしてインファイトしようとするんだよ!」

「打ち負けるんだから近づかせんなぁぁ!」

 

苦し紛れの相手の1発が、運良く速水の顔面を捉えた。

続けざま、返しのフックが迫る。勢い良く放つそれは、誰がみても当たるはずのないスウィング。カウンタータイプのご馳走だが、これが鈍い音を鳴らした。

 

「あぁぁー!ったくまたかよお前!」

「どうしてインファイトに拘るんだ!」

「自分のボクシング分かってんのか!?」

 

速水は、たった2発でリングに転がって失神した。

試合終了の鐘が響く。

 

「ダメだなあいつ。もうリングに戻ってくるなよ」

「いっつも負けるからなぁ。プロなりたての頃に勝つだけじゃ、誰でもできるだろ」

「おかしいと思わないのかね、自分のこと。

周りから言われてるはずだぜ?脆すぎるってよ」

 

アマチュア戦績無敗、プロでの勝利の殆どを前半にもつ。15戦7勝8敗、そして今晩で9敗目。8連敗となった。

ジュニア・フェザー級タイトルマッチ以降、勝ちなし。

栄えある経歴から一転。致命的なエラーを抱え込み、将来の生活を心配されるほどの転落人生を歩んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「今日は帰ります。

帰って、反省会をやるので。えぇ、それでは」

 

控え室のドアをしっかりと握りしめて、音羽の心配に笑顔で返しながらドアをゆっくりと閉じる。

視線はドアノブから出口へと続く廊下の角に移った。ホールの関係者やプロボクサーが行き交い、互いに声を掛け合っている。記者もチラホラと散見できるが、速水 龍一に目を向ける者は誰一人としていなかった。

 

「………………」

 

彼らの視線を避けるようにして、足音を立てずに早々と出口を目指す。

声が掛かることはない。労いすら見つからないんだ。8連敗して残るボクサーなんて稀少だろう。少なくとも、速水の記憶に該当する日本人ボクサーはいない。

多くのボクサーは戴冠の夢を破り、次の道を求めて彷徨うのだから。

 

「ちぇっ、今晩もダメだったか」

 

場面を転換したかのように移動して、いまは後楽園ホールの階段登った花壇の横に立っていた。

いつもの事に呆れながら、夜空の星に向かって呟く。

今日ほど自分を嗤いたくなった日はないだろう。胸に手を当てずとも声音で分かる。これほど凄惨なから笑い、敗北のあとに聞いたことがない。

 

「はぁ…」

 

死相に見舞われたかのように気落ちした声がもう1つ。

隣を重々しく向いてみれば、遠くの世界を眺めて不幸に浸る男がいた。

 

「おや、君はたしか、幕之内くんのところの」

「………あ。……どうも」

 

板垣 学。今宵、速水と同じ印を刻んだ者の名だ。

彼は自分で精一杯なのか、速水の声に短く返事をするのみ。次第に視線は遥か彼方へと浮上し始めたのを見て、迷いなく声を掛けた。

 

「良い試合だったね。板垣君のフットワークは東洋でも通じると思ったよ」

「……でも、最後の最後に捕まりました」

 

忌憚のない賞賛に結末を返して、板垣は遠くの世界から漸く此方へと視線を戻す。

 

「最後の最後に集中力、切れちゃったんです。勝ったと思って、ナオさんの死んだフリを見抜けなかった。

プロとして観客の声に応えるはずが、利用された。観客を味方につけていたのは、初めから彼1人だった。

次は、必ず獲ります。復帰戦で、タイトルを組んでもらおうと思っているので」

「次、誰が組んでくれるかな」

「……どういう意味ですか」

「君は強い。ハンマーナオの勝利は予想外だった。それほどに板垣 学の実力は日本圏から逸脱してる。

王者なら戦うしかない。だけど勝ち目なしのランカーとなんて、組むだけ損だろ?」

「────────」

 

板垣の視線は事実を述べる速水を鋭く見つめた。刃物で突き刺す気持ちで向けた瞳には、怒り心頭に発するものがあった。だが、先ほどまで自分の敗北を俯瞰的に見ていた板垣は、次第に速水の言葉を噛み砕いて、意地悪から発した言葉ではないことを理解する。

 

「八つ当たりやめてください」

「はは……。今の君を見てると懐かしくなってね」

 

板垣の愚痴に釣られて、速水も彼の非難に謝意を差し出した。その僅かばかりの笑みが、

 

「速水さん、なんで負けたんですか」

 

板垣の……いや、これまで何度となく聞かれた疑問を引き出すこととなってしまう。

 

「たった1発…それもジャブをもらって倒れるなんて普通じゃない。あんなパンチ、僕でも耐えられる。

弱みを握られているとしか思えません」

 

板垣の一言々々が針となって速水の全身に深く入り込んでいく。これも何度も聞かれた疑問だった。そのたびに適当にはぐらかしてきた。時には調子が悪い、ブランクだと言って周りと自分を騙してきた。

 

「────八百長じゃないんだ。ボディも、ガード越しの痛みも耐えられる。だけど、顔面だけは倒れてしまう。

まるで電灯のスイッチを切られたみたいに、足が言うことを聞かなくなるんだ」

 

もう、逃げたところで変わらない。

ロクでもない身体だと自ら認めている。ただ、口にすることは本当に負けた気がして、これまで避けてきただけ。

内に溜めて進まないのなら、吐き捨ててしまおう。遅すぎる解を吐き出して、初対面の相手に無遠慮に投げつけてしまおう。開き直った心は、少しだけ軽くなっていた。

 

「ここで引退すれば、ボクシングの辛いところばかり語り継がれる。

ボクシングが好きだ。過去形にしたくないし、これからもっと皆んなに知ってほしい。

だから俺は、何度負けても…泥塗れの手だとしても、ベルトが欲しい。王者になりたいんだ」

 

泥塗れで汗濁、小路を這う虫のように惨めな姿は、内側に観戦者を集める才能を残した特殊な虫だ。未だに対戦相手が見つかっていたのは、速水に踏み台の価値があるからだ。本人も自覚しているからこそ、機会はプロの土塊に埋もれゆく敗北者よりも恵まれている。

 

「速水さん、僕には…貴方の距離感がまるで分からない」

「きょ、距離感…?」

 

だから板垣は速水にそう言い放った。

踏み台など勘違いも甚だしい。ミドルレンジが日本圏トップ層だとしても、いまの速水はインファイトに拘る。飛んで火に入る夏の虫を体現した、自らの持ち味を捨てる姿は、蹂躙を好むボクサーたちの食い扶持でしかない。

 

「僕は自分のボクシングをして負けた。けど、速水さんの試合は……別のボクサーと対峙してるみたいでした」

 

曝け出した本心。吐き出した苦悩は、プロボクサーの手によってデコボコにされていたと分かった。

自分の意思は相手の養分。その証明は7連敗が語る。

 

「自分の、ボクシング…」

 

守ってきた自分の殻を吐き出したら、外との意見の食い違いにあっという間に気づいてしまう。聡明だと思っていた自分の能力が恨めしい。

 

理想は崩れていく。

そこに居るはずの理想の自分に、現実の自分が泥を塗る。

 

「────家、か」

 

寝転がる自分に気づいたとき、慣れたとばかりに平静を装った声音で自分に言い聞かせる。

 

「…………寝よう」

 

今日も、気づけば家に帰宅していた。

最近はいつもだ。今日はなにがダメだったのか、俯瞰的に自分を見ているうちに家に着いている。

赤信号で止まったのか、それとも無視して歩いて呑気に歩いたかも知らない。

勿論だが、板垣とのやり取りも最後はうろ覚えだ。

 

「────また、震えが止まらない」

 

眠れぬまま深夜になった。

日を跨いだ。プロなら既に寝ている時間だ。昔の速水 龍一なら絶対に起きていない時間だった。

 

横になれない。横になると立ち上がれなくなる。

天井を見ても、布団に顔を押し付けても、耳鳴りが始まる。

1、2、3………始まるんだ。

俺を負けに追い詰める、レフェリーのカウントが。

 

酷いときは直ぐに試合終了のゴングが鳴る。

鳴ったら、終わるんだ。俺のボクサー生命。

鳴る時は決まって試合の直前の夜だ。これを聞いて勝てた試しがない。

 

「───まだだ、俺は終われない」

 

理想像の足元を見てみれば、散らかりすぎた俺の残骸たちが俺を嗤っている。

 

毎日、昨日の俺が死んでいた。

1日24時間という概念が無ければ、たったいま俺は死ぬ。過去を犠牲にすることで、辛うじて俺はボクシングに縋り付いていられる。

 

「……また、朝になってる」

 

千の夜風が速水 龍一を笑う音を聞き終えて、明日へ生き永らえたことを知る。

悪夢にうなされることのない、さりとて女神に看取られることもない。前のめりに倒れ続けた愚者は、鏡を見ることもせずに今日を始める。泥水を啜ることしか出来なくなった男は、こうして明日も救われない1日を勘違いで終える。

 

一週間後、ジムに顔を出した速水を待ち受けていたのは、

 

「速水、引退勧告だ。もうここには来るな」

 

プロボクサー生命の終わりの通達。

永い夜を終えろと云う救い。

 

負けを負けで終えた、

 

敗北にしがみ付いた、

 

敗北が染み込んだ男の、呆気ない末日だった。

 

 

 

 

 

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