その日は夕暮れのような空だった。
或いは朝日のように活力の満ちる時間だった。
凡そ2週間の休養を経て、精密検査で健康のサインを貰い、清々しくプロの道へと再出発する日だった。
頭の中から湧き上がる爽快感を連れて、音羽ジムの門を今日も開いて練習の準備をしている最中のこと。
「速水さん」
「あぁ、今井くん。お疲れさま」
今井 京介は普段通りに速水に声をかける。
敗北を重ねて、少しずつ落ちていく速水に、変わらずに敬意を表する数少ない速水の後輩だ。
だが、京介の表情は今日は違った。速水の記憶するところによると、彼が真顔よりも影を濃ゆくしているとき、重大ななにかを言葉にする時だった。
「どうした。息苦しい表情してると勝ち気が逃げるぜ」
ならば軽口から初めて、話しやすい雰囲気を作ることが大切だ。本人の悩みならば力になりたい。他のことなら…聞き届けてあげたいから。
秘密基地を作り終えた子供のように笑い、京介の言葉を聞き出してみれば難しいものは何もなかった。
「速水さん、練習時間は終わりました。もう夜ですよ」
「────────そうだった、ね」
もう、今日は終わりを迎えていた。
事実を教えてくれた。
大した、ことじゃない。
外を見る。本当だ、小さな電飾が目立つくらいには空は次の日を受け入れる準備に入っている。
ようやく分かった。今日の練習は終わったんだ。
「今から帰るつもりだったんだ。今日はこれで…」
「ずっと椅子に座って寝ていたでしょう」
「ん、そう、だったね…。少し疲れが溜まって」
「ここに来て、その言葉は無理があります」
速水 龍一の逃げ道を塞ぐ。
これ以上、彼の後ろ姿を放置出来なかったから。
京介は午後6時から音羽ジムに来た。
その時、速水は既にベンチでバンテージを巻いている途中で眠っているのを目撃した。練習生に聞くと2時間は経っているらしい。音羽会長も声をかけたが起きないからと、そっとしておくように言ったそうだ。
「精密検査の結果は聞きました。異常無し、だって。
そんな訳ないだろ。記憶のないのが証拠じゃないか‼︎」
速水に対するジム内の俗悪な空気に、京介は怒り心頭となった想いを爆発させた。
「今井くん………」
「会長は速水さんの夢を叶えたがっています。
だから貴方が打たれ弱くなったことを、誰も触れようとしない」
3時間越しの言葉を京介は吐き出していく。
この3時間、京介は練習をしていた。
対して速水は、疲労で気絶していた。
巧妙な推理小説のドラマを堪能するような3時間と、その推理小説の冊子を下水に落とし込むような3時間。目の前で大好きな推理小説を無碍に扱われれば、怒って己の道徳心と問答して道徳心を説得するのが人間心というもの。
「だめだ。皆んな、ダメになる。だから俺が言う」
それをしない彼らに怒り、ボクサーをバカにする張本人に怒り、堪能できなかった自分に怒っている。何年も、景色のように流してきたことに怒りしか湧かない。
わざわざジムに来て、ボクシングをバカにするボクサーじゃないことを京介含めた人間は知っている。だからタチが悪い。なにかの魔術を掛けられたかのように、真実を指摘してこなかったのは、そんな背景があるせいだ。
「最近はディフェンスの練習しかしてませんよね。
頭部への打撃が即敗北に繋がると、会長は分かっているからです。顎でも、側頭部でも、頬でも、当たればすぐにダウンする」
少しだけ、言葉が詰まる。
吐かない選択肢はない。ただ、速水が聞き届けてしまえば、それだけで引退への決定打になる。速水 龍一がボクシングを認めているからこそ、事実は受け入れてしまう。
だから、第三者の指摘が1回でもあれば、彼のプロボクサー生命はもう終わり。
逡巡、速水の瞳を見る。
意識はある。この時ばかりは逃避行もしていない。
同じ敗北を味わった者として、覚悟を決める。
「まるで、パンチドラ「言わないでくれ」……っ」
速水はほんの一瞬、輝かしい瞳を取り戻して京介の言葉を遮った。
「俺がボクシングを辞めても、ただ痕が残るだけだ」
それも、本当に一瞬だった。なぜ押し黙ったのかと京介が疑問に思うほど、続く速水の言葉は怯えている。
「速水 龍一という男のボクサー転落街道中、見せ場のない三流の書き物がね」
龍を彷彿とさせる気迫が消え去ったことを、京介は悲しんだ。汚点を取り戻そうとして、焦って価値のない負けを重ねていると知ったから。
「負けを積み重ねて、俺は強くなれました。
だけど速水さん、貴方の負けは意味が違う!!
負けても前を向く姿を強いと思った。だけど違った、貴方は現実を受け入れられないだけだ」
事実を、怒りを、そして後悔を吐き出す京介の喉は負の感情の炎に焼かれて、喉を震わせる肺が焦げるような痛みに襲われる。
「無理やりボクシングを続けて壊れた男がいた。どうですか、たった一行の文で、ボクシングのイメージを落とす。
これ以上続ければ、貴方がボクシングを裏切ることになるんです」
速水は突きつけられた想いに目を見開いて水分を飛ばし、全身を病に蝕まれたような寒気で佇むしかなかった。
「そんな、つもり……は…………」
いくら記憶が飛んでいようとも、京介の言葉を聞いて知らぬとは言えない。心当たりがある、思い返せば思い返すほど、劣化したコンクリートの壁ようにボロボロの記憶が引き出される。
言い訳、見つからない。
このまま逃げ出せば、まだリングには立てる。
いま、人生の岐路に立っていると自覚したが、あと3敗分は遅かった。
「そこまでに…してやってほしい」
3人目の声は関係者用通路のドアを開けて入ってきた。
「────会長」
普段は掛けているサングラスを外して、音羽は京介に力強く視線を送る。それは盗み聞きをしていたことの告白であり、罪を償うことの決意表明でもあった。
「お前の夢を叶えようとして、俺はいつからか怖くなってしまった。速水 龍一の顔に、失望を浮かべることを」
京介は踵を返してロッカールームへと歩いていく。
音羽会長の意を汲んで、速水 龍一の結末を見届けないために。
「職場なら幾つか心当たりがある」
「な、なにを言っているんですか。俺はまだ…」
「お前なら必ず昇進出来る。新しい道を用意する」
「わ、分からない。言っている意味が分からない!」
過去に遡って、遡って…遡りすぎて、速水の嘆きは子供の癇癪と同じになっていた。嫌だと言って現実を見ない……いや、見てくれない聞かん坊にしたと自覚する音羽は、タイルに頭を擦り付けて。
「俺だと、速水 龍一にベルトを巻いてやれない……」
延ばしに延ばした罪を告白した。
つまりは、償いを提示している。
逃げに逃げてきた恐怖を、速水は知っていた。
もう、自分に昇るだけの力は残されていない。どれだけ前を向いても、進んだことにはならないのだから。
「速水、引退勧告だ。もうここには来るな」
逃げを許してきてくれた音羽の宣告に、速水は畏怖の視線で応えるしかなかった。
▼
インターハイ3連覇。
────トロフィーを捨てた。
インファイター殺し。
────雑誌を捨てた。
ショットガン。
────ビデオデッキを捨てた。
何百通ものファンレター。
────全部捨てた。
マウスピース、捨てた。
バンテージ、捨てた。
…グローブ、捨ててない。
シューズ、捨てた。
バッグ、捨てた。
タオル、捨てた。
ロープ、捨てた。
……グローブ、捨てれない。
指南書、捨てた。
健康診断書、捨てた。
練習着、捨てた。
………グローブ、捨てろ。
ダンベル、捨てた。
自分のタイトルマッチのチケット、捨てた。
…………グローブ、捨てちまえ。
「────」
何してる、あとは手を離すだけだ。
これが1番捨てなきゃいけないものだ。
昔の俺は死んだ、捨てて楽になれ。
楽にしてやれよ、速水 龍一。
もうリングに、お前の輝ける場所はないんだ。
「────────」
ボクシング、捨てよう。
ボクシング、嫌いになったんだ。
ボクシング、好きだった。
ボクシング、俺は嫌いだ。
「────────────」
負けたボクサー、勝ったボクサー、引き分けたボクサー、戦えなかったボクサー、望む試合を出来たボクサー、不本意な試合をさせられたボクサー、金のために戦ったボクサー、どんな理由でも俺は全員を肯定していた。
「────────────────」
変わったよ、自分の才能を磨り潰して。
今の俺は誰も肯定できない。余裕がないんだ。
負けたボクサー、勝ったボクサー、引き分けたボクサー、戦えなかったボクサー、望む試合を出来たボクサー、不本意な試合をさせられたボクサー、金のために戦ったボクサー、どんな理由でも俺は全員を否定することしか出来なくなりそうだ。
「─────────────そうなる前に」
グローブ、捨てろ。
リングから堕ちた数多のボクサーのように。
グローブ、捨てろ。
ここからボクシングを観て楽しめばいいんだ。
グローブ、捨てろ。
捨てろよ、早く。
早く、心が入れ替わってしまう前に。
「──────────────────────」
最後に、グローブを────
「捨てずに……なに持ってんだよ」
時刻、不明。夜とだけ。
眠気は来ない。そもそもタイトルマッチ以降、満足に寝ていない。眠気が来ない。
吐き出した低音に相応しい静けさに包まれて、速水は人気の無い公園のベンチに腰掛けていた。いつからこうしているのか、それは本人も覚えていない。どうにか家に帰り着き、無我夢中で自分のコレクションを持ち出して、きっと家とゴミ箱を何往復もしていた。
朧げな意識のなか、そんな自分の奇行を振り返る。
昨日、速水 龍一はただの一般人になった。試合を出禁になったわけでも、長めの休養を取っているのでもなく、本当にプロボクサーから降りたのだ。
ゴミ箱に捨てた我が物だったソレらを横にして、8連敗の理由を考えていた。
俺のせいか、会長のせいか。
くだらない。くだらないね。
人の感情は感化されるものだ。速水 龍一は自分に自覚があるほど、誰かの人生に影響を与えられると信じている。だから音羽はジムに招いた。正しい判断を狂わせるほど、速水 龍一の背中を見ていて心地が良かったのだ。
「俺は、なんだ………」
だから疑問を口に出す。
指導者を惹きつけて、ボクシングを知らない一般人を見向かさせた自分は何処に行った。
「俺は、何がしたかったんだ……?」
いま、この場に残った速水 龍一の骸に住む男は、なんのために速水 龍一を名乗るのか。
これは哲学じゃない。
壊れたというのなら、それは速水 龍一の罪だ。
速水 龍一の夢叶わぬことを罪と言うのなら、引退を手渡せた音羽の流した涙こそ無実の証明だった。
「全部我が者に出来なくて、なにが夢を叶えるってんだよ…速水 龍一!」
何処とも知れない公園で独り、吠えた。
理性があるとは思えなかった。通りを横切る人間は、誰もが速水のことを気が狂った人間だと嫌煙するだろう。若しくは、最近の若者だと揶揄して好き勝手に言うかもしれない。
それでも速水の激情を繋ぎ止めるには至らなかった。
ベンチの横に捨てた速水 龍一の遺品の数々。あれほど丁重に保管してきたものを、こんなにも乱雑に棄てたのだ。理性を問うことが無意味だと叫ぶしかない。
これが神の気まぐれというのなら、是非とも今後について語り合いたい気分だった。
何年も期待を持たせて、自分を好きでいられたのに、道を閉ざされてしまえば呆気ない終わりだ。見下ろしている神はさぞ愉快だったことだろう。
ならば、もう、捨てることに迷うんじゃない。
「はは、捨てよう。俺の全部」
腐り果てていくだけの人間に、止めることは出来ない。ボロボロのグローブの紐を右手で摘み、運命の流れるままにゴミ箱へと放り投げた。
曲線を描いて、グローブがゴミ箱に飛んでいく。この時だけ、時間の流れがゆっくりと流れているのを速水は自覚した。
これは走馬灯だ。プロボクサー、速水 龍一の死が見せる、最後の悔いを断つための悪戯でしかないんだ。流れる時の間、過去の自分を見ようとせず、必死にグローブがゴミ箱へ落ちるのを待つ。でなければ、戻りたくなる。過去の栄光なんて、毒でしかなかったのだ────
「なんだ、捨てるのか?」
誰が差し向けた刺客か。
突然現れた物好きな男が、速水の視界の外から伸ばした左腕でグローブを拾ってしまった。
「アマチュア優勝なんて滅多に成せるもんじゃねえんだ。過去の自分くらい残しとけよ」
「………それを見ると震えるんだ」
「震える?どこが」
「全身だよ。お陰でここ数年、ろくに眠れなかった」
ため息を吐いて明後日の方角を見る。
速水は男のことに興味が湧かなかった。だが、どうせ絡んできた男だ。退屈凌ぎプラス愚痴の吐き捨て場となってもらうことにした。
「プロボクサーだった」
「辞めたのか?」
「まさか。自分から辞めるもんか。
8連敗して、身体の心配されて、引退勧告さ」
「随分と負けたな。眠れないのと関係があるのか?」
「さあね。医者は身体は健康だと言う。
心の問題らしいが……精神科なんて誰が行くもんか」
「恥ずかしがって行ってないのかよ」
「彼らのことを否定なんてしないさ。ただ、俺は昔の俺を蔑ろにするつもりはないってだけ」
「トロフィーは捨てたくせにか?」
風船のように膨らんでいく速水の見栄を、男は針のように鋭く突き刺してしぼめる。
「2度と手元に戻らねえ。とっとけよ」
「……………………………うるさい」
ここまで自分を騙し、周りを欺こうと必死に取り繕ってきた行動が虚言癖でも発症したのか。それとも、気づいてほしいから拙い推理小説の真似事でも始めたか。
一貫しない我が言葉に呆れて、男の再三の引き留めにぶっきら棒に返事をする。
「ならさっさと立ち去ればいい。葬式じゃねえんだ、ゴミを回収されるまで待つ必要はないだろ」
「………………………葬式なんだよ」
「誰の?お前さんのか?」
「そーさ。プロボクサー、速水 龍一の命日だ。
今夜は通夜だ、男がしみったれるのを許される日だ」
敗北を重ねるだけのいま、この葬儀に並ぶ者はいない。ファンはおろか、親族すらも立ち入りを禁じた。速水 龍一による速水 龍一を弔う場だ。
いや、そのはずだった。
「違うね」
「……?」
一般人の参列を禁じていたわけじゃない。ただ、並ぶほどの暇で物好きな変人のことを想定していなかった。
「お前みたいなヤツを知ってる。リングの上で負けて、私生活で大事なものを失った男がいる」
しかも、理解すらしようとしてくる始末だ。
男の言葉は自信を持ってすらいた。己の半身のように理解して、体験談をあたかも他人の速水に当てはまると言ってのける。
あまりにも横暴かつ拒めないなにかを感じて、沈むばかりの視線を、最後の焼香を行う時のように上げていく。
「拳で挫折したヤツは、拳で立ち直るしかねえ。
拳を開いて合唱するお前は、2度と自分を取り戻せない」
心の奥底で解っていた答えを、男は墓の前に立てた。
「……………………まだ、やれる」
自分に降り積もる供花を押し退けて、鼓動を呟く。
「…………まだ、やりたいんだ」
合致した答えを手繰り寄せて、速水はやっと。
「取り敢えず、ウチに来いよ」
やっと、視線を上へと向けられた。
次第に、物好きな男の輪郭を捉えてきた。
よく見ると体格が良く、スポーツをしている身体だと理解した。
ただの影でしかなかった人間に目と耳、髪型と口、最後に衣服が露わとなり、一方的に知っている人物と知る。
「────アナタ………は」
「俺か?」
速水は元々、フェザー級ボクサーだ。順当に勝ち上がれば、いつか試合をすると4回戦の時に思っていた王者。
「伊達 英二。元プロボクサーだ」
日本ボクサー界を牽引してきた男が、笑っていた。