鷹の6本のツメ   作:ひとりのリク

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後ろ姿はだれの影法師

 

 

 

地上を歩く身体には浮遊感が付き纏っている。

常に階段を降りているような感覚を味わいながら、速水は1時間の旅を終えて滑空するように伊達ジムの床に腰を下ろした。

 

「つ、つかれた…」

 

表通りから2度曲がり、直進して間もなくの右側。見た目は倉庫にも見える正面の建物が伊達ジムだ。

秘密基地を思わせる風貌とマッチした室内が、速水の胸の鼓動を疲労以外のもので高鳴らせていた。

 

とはいえ、いまは丑三つ時を過ぎたころ。

 

「想像以上に体力ねえな。走り込みしてんのか?」

「ですから……眠れてなくて、ふらふらなんです…」

 

プロから退いた伊達は悠々とジムの明かりを付けているのに、速水はヘトヘトといった様子だ。

帰宅しなかったのは家族の心配を見たくないから。まだ速水の問題はなにも解決していない。成果も上げず、引退の決心も出来ずに空っぽの部屋に戻りたくないのだ。

 

「そのまま寝てもいいぜ。マイジムで寝るのは格別なんだ、我が家の布団の次くらいにな」

 

伊達の提案は魅力的だった。重油の貯蔵が尽きた発電機のように、まぶたが脳の活動停止に合わせて降りてくる。

まだ眠るわけにはいかなかった。移籍について伊達との話をするのが、ここに来た目的なのだから。

 

「気絶するように寝たな。

………そんな姿勢でいつも寝てんのか」

「しまっ!?…俺、寝ちゃいました?」

 

時間にして4時間ほど。

行にすれば3行程度の意識の消灯が、朝日を過ぎて速水の身体を再起動させた。

 

(平衡感覚に問題なし。同じ会話を繰り返すんでもない。単なる睡眠不足が慢性化したように見える)

 

伊達はこの4時間、速水の様子を観察した。わざと遠回りして疲労させた目的は、速水の現状を確認するため。

 

(いびきかいて寝てないのは朗報だ。連敗のストレスで心理的視野狭窄みたくなってやがる。

本当なら通院を勧めるのが真っ当な道だが…)

 

伊達は速水が公園に着いてから、物を捨ててベンチに座り込む様を見ていた。見つけたのは偶々だが、グローブを捨てるまでの1時間余りの葛藤は声を掛けなかった。わざとだ。パンチドランカーならば正しい選択だ。

捨てる直前、速水が見せた泥塗れの澄んだ瞳を見て、グローブを拾うことを決めた。ただ逃げるだけだった。ボクシングに心を留めていた。このまま逃げても、速水の症状は回復しないと思ったから。

 

こうして正体不明の症状に怯える、墜ちた龍を元いた場所に連れて行くために手を差し出した。

 

一方、速水は墓場まで持っていこうとしていた秘密を簡単に見られて、取り繕う言葉を音羽ジムの経験から引き出そうとする。

 

(………………やってしまったが)

 

もう隠す必要はない、と諦めた。

本当は知られたくなかったが、隠せばきっと拾われることなく終わるから。

 

「ここ数年は、疲れが身体から溢れるまで眠れません。平気なときは1日寝ない時もありました。最近じゃ昼間でも気づいたら寝る始末…」

「それで良くプロをやってこれたな。

音羽会長は知っててリングに送ったのか?」

「いいえ。不調になる前に練習を切り上げたりして、これまでは誤魔化してきました。それが却って、会長たちの負担になっていたとも知らずに…」

 

引退勧告をする音羽の姿を思い返すと、ここに来ていることを恐ろしく思えてきてしまう。

 

「振り返りすぎだ」

「えっ…」

 

伊達の声は速水の視線を非難する。

 

「前を向けないんなら横でも見とけ。

それが無理なら…同じ目線に立ってみるかだ」

 

言っていることが噛み砕けず、速水は頭の中にクエスチョンを並べる。どこを見ていけばいいのか、誰と目線を合わせるのか。まるで分からない答えに首を傾げていると、

 

「俺のジムの手伝いに来いよ」

 

伊達は研ぎ澄ました刀のように整った右手を差し出して、答えを自分で探し出せと提案してきた。

 

「……」

 

少しだけ、プロの道を期待していた。

まだ、やっても良いのかもしれない、と。

 

「ぜひ、やらせてください…!」

 

それでも返事は決まっていた。

断る理由はあっても、心はまだ正直でいられる。

だから、少しでも近くに立って、伊達 英二の問いに答えられたら、この先のことを決めようと思う。

 

(振り向くななんて説教しときながら、連れてきた場所はボクシングジムか。俺もバカだな…)

 

伊達の自責を知る由もない速水は、笑って左手を差し出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それからというもの。

速水 龍一は次の仕事が決まるまでの間、伊達ジムを手伝って日々を過ごすこととなった。

 

「おぉ、来たか。もう窓は開け終えたから、次は掃除だ。床は乾拭き、ボクシング用具はアルコール消毒。

アルコールは軽く吹きかけるだけでいい」

「手入れなら慣れてます。任せてください」

 

昼間から夕方まで、練習生が来る前までの簡単な雑務を教わるところから始まった。

これ自体は音羽ジムと容量が似ていたので、赤子がお代わりを覚えるような早さで雑務をこなしていけた。

 

「あと1時間もすれば練習生やプロたちが来る。

挨拶は済ませといてくれ。俺は次の試合の交渉してくる」

「このジム、設立して3年ないですけど、もうプロを育成されてるんですね」

「あぁ、東日本新人王が1人と6回戦ボーイが2人だ。

良い奴らだぜ、心配しなくても馴染めるさ。速水が来たなんて分かったら、奴らの方が萎縮するかもな!」

 

渋い笑顔の宣言通り、初めて練習生たちに挨拶をしたときは大いに盛り上がった。

買い出しや洗濯、練習生たちの世話をするのは大変だけど遣り甲斐がある。1ヶ月が過ぎても眠気のままに寝ることは出来ないが、少しずつ外の景色を見る時間が増えていった。

 

「伊達さん、出かけるにしてはラフな格好ですね」

 

ある日、ジャージ姿で外に出ていく伊達を見かけた速水。

普段はスーツ姿、ないし伊達ジムの服を着て出かけるものだから、珍しくて声を掛けたところ、予想外の返事をもらった。

 

「これか?今からロードワークすんだよ」

「……えっ?」

「毎日の朝と晩、酒を飲もうがコレだけはやってる。

なんつうか、呼吸するみてえに身体が走り出すんでな」

 

引退後、早々にロードワークの習慣が抜けないことは速水も知っている。自宅から伊達ジムまで、ロードワークするのに適した距離だから毎日走って通っている身だ。

 

「来るか?」

「………行きます!」

 

元世界1位のお誘いを断る理由はない。

 

────1時間後。

 

「やり過ぎちまった」

「セカイ…オレハキタンダ」

 

想像以上にスタミナがついている速水に張り合い、速度を加速し続けた結果、帰ってきたら速水は気絶した。体力が切れたらしい。

このあと、手伝いに来た伊達 英二の妻、愛子はベンチに横たわる速水を見て死んでいると勘違いしたという。

当然、伊達はバチボコ怒られた。

 

また、別の日。

 

「最初はどうかと思ったけどさ、これが意外と…」

「だよな。やってみるもんだと驚いたぜ」

 

帰ろうとした直前、練習生たちの言葉の端っこが耳に届いた。なんのことか興味が湧いて声を掛ける。

 

「やあ、2人とも。どうしたんですか」

「あっ、速水さん。伊達コーチのミット打ちですよ」

「普通、練習してる俺らがミットを持つことって無いじゃないすか。けどコーチ、自分も練習するから俺らにミット持たせるんす」

 

それは初耳だ。

…それもそうか。暇を満喫しろと言われて、夕方以降の練習風景を見ることはなかった。

今日もロードワークがてら、近所の家電屋でカメラでも見ていこうとしていたくらいに休みを謳歌している。

 

「伊達さんのパンチ、マジで見えないんす。気づいたらミットが音鳴らしてて、寒気を覚えるっすよ!」

「打つモーションも、足の動きも真正面からだとより参考になるっていうか。やれば解りますよ!」

 

ということで、伊達さんにミット持ちを申し出た。

 

「ん〜、まだ早いな」

「なんですと…!?」

「練習生もいるし」

 

それはご尤も…!!

 

 

忙しい日々を送って1ヶ月が過ぎた。

 

眠る時間は相変わらず不定期で、寝室で独り拳を握る日が続いた。それでも、伊達さんのアドバイス通りに秒針が深夜12時を回る前に布団へ潜るようにしている。

健康は堅強、睡眠欠けば勝利無し。そう格好付けて言った伊達さんは、経験から助言してくれたと分かる。だから俺は、これ以上は負けちゃいけないんだ。

 

8連敗した時の体調と変わらないようでいて、布団に潜る抵抗感は減っていた。

 

 

更にある日、太陽が夕日に着替えた空模様のとき。

 

「おや、彼は…?」

 

伊達ジムのプロたちに負けない、ハツラツとした挨拶が聞こえてきたから見に行くと、そこには推定小学校高学年らしき子がいた。

 

「あいつは雄二、俺の息子だ」

「息子さんですか。とても優しい目をしてますね」

「そうだろう?加えて頭も良い!これは嫁に似た。

なによりも、ボクシングセンスが高い。頭の回転の速さを活かして、将来は世界チャンプ間違いなしだ!」

 

伊達さんの豪語は親バカ由来のもののように感じる。顔にそう書いてあるが、確かに雄二くんの出立ちは既に風格が出来つつあった。

 

「こんばんは、雄二くん。俺は速水 龍一。

いまは伊達さんの手伝いをしてるんだ」

 

150センチほどの身長の雄二くんに合わせて背中を丸め、出来るだけ柔和な挨拶を心がける。

すると、背筋を伸ばして。

 

「初めまして、速水さん。お話は父さんから聞いています。伊達ジムの手伝いをしていただけて光栄です!」

 

ヘビー級の笑顔で応えて、更には右手で握手まで求めてくる。顎に髭が生えていない!本当に伊達さん子供か?

 

「な………伊達さんの息子さんというのは本当みたいだ」

「いま、間があったよな?」

 

つい疑問に思ってしまったが、伊達さんに対する敬意は息子のそれだ。それに目元と瞳がそっくりだ。

 

「身体はかなり作ってるね。やっぱり、プロ志望?」

「はい!目標は……勿論、父さんを越えることです」

「ほお!やっぱり伊達さんに憧れたかぁ!」

「よせやい速水、本人が照れるだろ」

「本人じゃないですか…」

「父さんを越えて、リカルド・マルチネスを倒します」

「────その瞳」

 

一瞬のうちに入れ替わった雄二の瞳の中身は、生半可な覚悟では灯せない積年の想いが詰め込まれていた。

 

「とても無謀なのに……勇気付けられる」

「…そんなこと初めて言われました。

学校の皆んなは無理だって笑います。父さんは”ありがとう”って言うだけだし…」

「雄二、人を試すような真似は止めなさい」

 

伊達さんには申し訳ないけど、雄二くんの垣間見せた棘には心当たりがあるから非難は出来ない。きっと…いや、間違いなく自分の好きなものを笑われてきたんだ。そんな周りを納得させられない自分への不甲斐なさは、伊達さんには共感は難しいだろう。

 

「伊達さんはね、誇りに思ってるんだよ」

「誇り、ですか」

「自分のボクシングが終わりじゃないって、雄二くんを見て分かるから感謝したんだ。笑っている訳じゃないと俺は思うぜ」

 

失礼な話、雄二くんの瞳に共感をしてしまった自分がいる。子供ながらに孤独を抱えてしまった境遇が、8連敗の道中の自分が苦しんだものと一緒だ。

 

「同級生には無言の笑顔でも向ければいいさ。

プロってのは、話さなくても通じるものがある」

「…………難しいです。だけど、信じられそう」

 

口下手になった自分の言葉で、少しは励ませただろうか。少しだけ不安だが、もう話せることもないと別れの言葉を済ませて伊達ジムをあとにする。

 

後日、普段よりも早く伊達ジムを訪れた雄二くんにミット打ちをねだられた。

 

「速水さん、ミットをお願いします」

「俺かい?……でも、俺は」

 

大事に抱えるミットを差し出してくれたが、前に伊達さんのミット打ちを断られている。この身体を想ってのことだろうから、軽々と受けられるものでもない。困って視線を伊達さんに向ける。

 

「俺なら兎も角、雄二なら大丈夫だろう。任せるぜ」

「伊達さん……ありがとうございます」

 

感謝を述べるが、伊達さんの笑顔を素直に受け取れない。なにか、嫌な予感がするのは俺の人間不信が発症でもしたのだろうか?

伊達さんの不敵な笑みの理由はすぐに分かった。

 

「あっ…」

「ミット、また飛んじゃいましたね」

 

ミット持ちを舐めていたのかもしれない。

初めてとはいえ、あれだけ見たミットを持てなかった。

なるほど、伊達さんが俺にミット打ちの相手をさせなかった理由がこれか…!

 

「打つのにコツがいるなら、打たせるのにもコツがいる。ミット持ちは相手任せの構えじゃダメだ」

「ぐっ……善処します…!」

 

こうして、新しい立場からプロの背中を見つめて、知らなかった世界を経験しながら時間が経過していく。

音羽ジムと伊達ジム、規模の違いはあるにも関わらず、根本的なところは同じだ。練習生たちが持つボクシングへの熱意、周りの人間たちとの競争意識は火花散る綺麗なものだった。

 

「…………そうか。俺、練習しかしてなかったんだ」

「速水さん?」

 

ある日、ふと気づく。

 

「声かけも忘れて、独りで練習していた………」

 

ポツリと声に出た。

 

音羽ジムと伊達ジム、2つの景色を見比べて、自分だけが黙々とトレーニングに励む様子は痛々しい。

自分を追い込むためと言っておきながら、ただ現実逃避の口実にボクシングを選んでいたんだ。

 

「そりゃ、弱くなるわけだ」

 

ミットで包んだ両手を見ながら、やっと我が身を振り返るまでに心は落ち着いてきた。

 

(ん〜、順調順調)

 

伊達はその様子を見て、静かに微笑んだ。

その横顔が、かつての自分と張り合えるほどに馬鹿で、抑制したものだと懐かしんで、次の段階が来たことを知る。

 

 

雄二くんのミット持ちにも慣れて来た頃の帰り道。

 

「ええーーー!

速水さん、伊達ジムに移籍したんですか!」

「移籍じゃないよ。バイトだね」

 

帰宅がてらのロードワークを少し遠回りしていたとき、板垣くんと遭遇した。どうやら河川敷周辺が鴨川ジムのロードワーク場所らしい。

 

「……速水さんは、もう納得したんですか」

「────。これは俺だけの問題じゃない。

音羽会長の引退勧告は無視できないんだ。このまま続けても、俺はボクシングに壊されてしまう」

「辞めて正解って言われたら、速水さんは怒りそうですけど。8連敗って、勝ちたかった数でしょう?」

 

痛い…本当に痛いところを突かれた。

板垣くんは人を見る目がある。幕之内の元へ行ったことも、俺の内情を見抜いた観察力も、ボクシングには欠かせない才能だ。

だけど、俺は……音羽会長の優しさを目の当たりにした。8連敗という数は俺の我儘だ、ベルトが巻きたいからと焦った俺の罪の数だ。伊達さんに拾われたからと、安易とプロへの復帰を願っていいものじゃない。

このまま復帰すれば、音羽会長の厚意を無碍にする。本当に俺が壊れてしまえば、伊達さんを裏切る。

 

「だからって、俺の欲は晒せない。

この葛藤があるだけで、俺は墓場まで行ける」

 

心に余裕が持てるようになってきた。

伊達さんに返せる恩はあっても、投げつける仇は一片もない。自分を優先するなんて、考えるだけ厚かましい。

 

「先輩は復帰するために基礎からやり直し中です。

十分に休んで、回復したと言っていました。言いたいことはそれだけです」

「それは朗報だな。このまま引退するんじゃないかと冷や冷やしてたからね」

 

敢えて、回復したことに触れない。

それでも考えてしまうのは、幕之内くんの休養期間だ。

アルフレドに敗北してから、もうすぐ2年になる。そうか、彼ほどの激しい接近戦をすると、治るまでにこれ程も時間が必要なわけか。

 

顎がバカになった俺は、果たして2年で足りただろうか?

 

「近々遊びに行きますね。伊達さんのジムに興味あるし」

「あぁ、楽しみにしてる」

 

板垣くんは別れを告げて元気に走り去っていく。

迷いがない走りだ、楽しそうに走っている。

数ヶ月前、ハンマーナオに負けた彼に厳しい現実をそのまま伝えた。俺は遠回しに、日本タイトル挑戦を諦めるように言ったんだ。憧れの先輩のあとを追うな、なんて普通は聞く耳を持たない。

 

「君の次の試合が楽しみだ」

 

見送った背中に言葉を送る。

板垣くんの次も楽しみの1つになった。

 

最近、少しずつだけど楽しみが増えてきた。

こうして帰路の景色も覚えているし、初めて通った場所の気になる喫茶店も立ち寄る余裕がある。

 

家に帰って食卓を囲んだとき、家族との会話も思い出せる。気づいたら夜が終わるなんて奇怪な現象も、いまじゃ昔の話になってきた。

 

布団に寝転がって天井を見ていると、ダウンで倒れたことを思い出して眠れなかったのに。今では明日の伊達ジムの手伝いが楽しみで、逆に眠れなくなる気がしているほどだ。

雄二くんの才能は本物だ、ポテンシャルやスタイルは俺に似ているし、努力も欠かさない。何よりも、俺以上の勝負勘を備えている。ミット持ちの実力不足のせいで伸び悩まないか心配なくらいさ。

 

そうこう考えているうちに、意識は夢と同化していく。

 

伊達ジムの手伝いを始めてから半年が過ぎて。

 

この晩、速水の意識は日を跨ぐ前に眠りへと就いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

伊達ジムで練習生たちに指導をすること1年間。

不規則な生活から脱却して、伊達さんのミット持ちを務められるようになり始めた頃。夕方、サンドバッグを叩く8回戦ボーイの2人を眺めていた俺に、伊達さんが声をかけてきた。

 

「速水」

「はい、どうしましたか」

 

ほんの少しだけ緊張感が増す。

ボクシングを始めたくなるからと、意図的にサンドバッグは見ないようにしてきた。彼らの背中を見て、自分の拳が反応しそうになっていたから注意でも受けてしまうかと背筋を伸ばす。

 

「サンドバッグ叩いてみないか?」

「────えっ」

 

振り向いてみれば、目の前に飛んできた2つの物体を咄嗟に手掴みした。感触の時点で分かったけど、これはボクシンググローブだ。

 

「この1年間、勧めてもサンドバッグ叩かなかったろ。

押し付けるもんでもないから黙っちゃいたが……お前さんのパンチが見たいって、ファンが家で呟くもんでな」

「父さん、一言余計だよ……!」

 

雄二くんが伊達さんの脇腹を突いているが、伊達さんは笑うだけで、ものともしていない。着けていいのか、迷うまでもない。いい筈がない。

だけど、雄二くんは期待の眼差しを向けてくれる。久しく見れなかった、俺の背中を追いかける瞳だ。

 

「速水さん、打つ背中を俺らにも見せてください」

「どんな背中からでも学べるって分かってますから」

 

生意気な激励に背中を押されて、1年振りに打つための拳を握り締めた。

 

ジャブを打っただけで、身体のコンディションが手に取るように見えてくる。

右を握った時、これまでは恐怖に耐えるための行為だったというのに、今は俺を見てくれる人たちの視線に応えたいと言っている。

 

サンドバッグを突き抜けて、サンドバッグから帰ってくる音に、速水 龍一の心は8連敗の努力を思い出すくらいの疲労に襲われる。

 

「久々のサンドバッグはどうだ」

「────やはり、良いですね。

すごいストレス発散になりますよ」

「違うだろ。ここまできて嘘を吐くな」

 

同時に、胸の外と内を掻き回すモノがあることに気づいた。これの正体を俺は知っている。いや、取り零していると分かっていて探しに戻らなかった。

 

「なにか言いたいこと、あるだろ」

 

それは…速水 龍一が勝つこと。

速水 龍一が握った拳で、速水 龍一の愛するモノ全ての期待を背負い、そして速水 龍一のために勝つ。

単純だけど出来なかったのは、速水 龍一を信じきれず、速水 龍一だけでは勝てないからと諦めて、この器だけを磨き続けることに専念したからだ。

 

「速水さん……!大丈夫だから!」

 

雄二くん、急に迫らないでほしい。

君が俺になにを言ってほしいのか、分かっている。

だけど、ダメだろう…。今更、この身体で望んで手に入るものは、君の父親の不名誉と破壊者のレッテルだ。

 

「伊達さん」

 

………例え、自分の調子が戻ってきてると思っていても。

結局のところ、それは俺の感覚の話でしかないはずだ。

 

「俺を──」

 

でも…これは、しょうがない。

速水 龍一はどうしようもない男だった。音羽会長の厚意を無碍にして、バカなことを口走る愚かな人間だった。

 

「日本チャンピオンにしてください」

 

だから、この勘違いを終わらせてくれるのなら、伊達さんには文句などあるはずもない。自分のボクシング人生の証を捨てて、最後に残してしまったグローブ分の未練を、ここで吐き出しただけのこと。

 

「いいぜ」

 

それなのに、伊達 英二は再び、ボロボロのグローブを拾い上げた。どうしようもなく壊れかけの、絹が飛び出している年季ものを1年間、丁寧に治して。

 

「ただし、俺のテストを合格出来たらな。

速水、今から俺とスパーをやれるか?」

 

元プロボクサーらしい方法で、速水 龍一の未練を断ちにきた。

 

 

 

 

 

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