鷹の6本のツメ   作:ひとりのリク

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速水 龍一の弔い

 

 

失うことが怖いと感じた。

 

プロを自ら退くのではなく、恩を裏切るまいとした引退は八つ当たりの感情で申し訳ないが、持ち物を強奪された怒りに支配されていた。

 

無力な自分を見たくないあまりに、最後の抵抗として手持ちの物を捨て去って忘れようとした。

それを阻んだ伊達 英二。

接点のなかった男が速水の葬式に顔を出した理由を、これまで1度も聞けなかった。

自分はまだプロを続けたいと告白するようなものだ。気を遣ってくれたなら、それでいい。チーフセコンドは新しい道だ、ジム経営者ならタイトル奪取の夢を託すこともできる。

将来、自分で見定めたボクサーが王座に君臨してくれれば、きっと満足できるはずだ。

 

だから、この1年間で俺は救われている。

 

(伊達さんは、そこまで甘くなかったんだ)

 

グローブを着け終えて、コーナーの頂点から視線を後ろに向ける。悠々とした足取りでステップの調子を確かめる伊達は、速水の視線に気づくと右拳のように固い瞳で瞬き返した。

 

手を抜く気はないと、速水を地に伏せる気概だ。

 

「準備出来たか?

今日はプロ志望の見学者も来てるが、いつものことだ。気にしないでくれ」

 

リングの外には練習生の他に、顔すら見えないほど帽子を深く被った人間が1人、壁にもたれかかっている。雰囲気は味があるように感じるが、気にするのは礼儀に欠ける。

 

「準備オーケー、いつでも大丈夫ですよ」

 

速水 龍一の葬儀を伊達 英二は見守っている。

あの日、捨てたグローブを拾ったのは、未練が残る終わり方を許さないからだ。速水 龍一の葬式は1年間の時間を掛けて、今日終わる。

 

「内容は1ラウンド3分だけの軽い試験だ。

初心に返ったつもりで来いよ。俺もそうする」

 

俺は聞く必要がある。

どうして速水 龍一の弔いをしなかったのか、と。

 

「ヘッドギアは着けないのか?」

「貴重な3分間を噛み締めたいので」

 

俺は自問し、自答する。

16戦7勝9敗を誇れるか、ってね。

 

「セコンドは僕が務めさせていただきます。

それでは、第1ラウンドを始めます!」

 

予定から消えかけていた未来が、ゴングの音で暗がりの奥から浮かび上がってくる。

 

(1ラウンドしかない、俺に有利な条件は1つもない)

 

1年間のブランク、あるものはミット持ちの経験と日々のロードワーク。それらが元世界ランカーとの付き合いによるもの、というお墨付きだけ。

 

(伊達さんの手の内はミットで見てきた。

それに比べて俺は、さっきのサンドバッグが1年振りときた。さて、どっちが不利かなんて言うまでもないな)

 

呼吸を1つ、ゆっくりと。

 

1年間で積み上げた経験は、休養という大切な時間もある。

 

それを思い出して、無駄な時間はなかったと思い出す。

 

なら、ブランクはきっと気のせいに出来るさ。

 

(だからって、頂点を諦めてたまるかよ!)

 

リングを蹴る鼓動は瞳に宿した力強さと比例して、伊達が待ち構えるコーナーへの突風を吹かせる。

傍から見れば力み過ぎだと思うだろう。前のめりに過ぎたと息を飲んだはず。然し、レフェリーを務める雄二の瞳には、かつてリングの上でプロボクサーとして戦ってきた父の勇姿と重なって見えていた。

 

(見せてもらおうか。プロへの執着心を)

 

コーナーから1歩半の距離、仁王の如く拳を握り締めた伊達へ向けて、速水の左ジャブが最長の線を描く。アマチュアから体得した滑らかな味を抑え、プロへの熱意を大盤振る舞いした一手を、伊達の右拳がミットを持つように受け止めた。

 

「いい挨拶だ、がッ────」

 

気迫、下積み十分の拳に、伊達はそれでも物足りないと返答の左を速水の顔面へと放り込んだ。

 

(ぐおっ!?)

 

鼻先を擦り取っていくのは様子見の一発だった。

躊躇なく顔面を打ちにきた迷いの無さには心当たりがある。いや、速水は半年間、目の前でこの拳を見てきたから咄嗟に拳の軌道を読めた。

今の今まで、当たり前のように受け止めてきた拳を避ける。プロボクサーへ舞い戻ろうとする身体のクセに、自分の手のひらに残らない感覚を寂しいと思った。

 

同時に熱が灯る。

自分でも驚いたことに、タイミングを掴んでいる身体が勝手に拳を打ち込んでいた。伊達のミット持ちをする最中、徐々に観察する余裕を作り出してはプロボクサー伊達 英二に打ち込む隙を探して、タイミングを計ったものだ。

 

「へぇ、持つだけじゃなかったって訳か」

 

イメージを描いていたことを、現実に落とし込んでいく。これは1年間のブランクのある速水が持てる、唯一の先手。苦し紛れだろうと、プロボクサー時代のひりついた緊張感を取り戻しつつある速水には、丁度良い試練となる。

 

「速水さん、すげー!?」

「伊達さんと打ち合えてねえか?」

「やべぇ…A級ボクサー同士のガチスパーやべぇ」

 

速水の心に着いた火種は、着実にプロへと続く導火線を登っていく。雨風を躱し、砂塵を伴う風に吹かれて、火種はやがて3分の1の地点を通り過ぎる。気づいたのは、火種が伊達の足元を照らした時だった。

 

(足を使ってこない?

ハンデのつもりですか。なら俺も…)

 

伊達はここまでリズムこそ刻めど、ミドルより内側でしか拳を使っていない。ブランクのある速水に対するハンデだとするのなら、速水は相手の土俵…それこそインファイトで上回らなければプロの世界で生き残れないと考える。

 

”距離感が分からない”

 

(────────そうだ、間違えるな)

 

板垣の言葉が脳裏に過ぎる。

この逡巡を愚かな時間だと即座にミドルレンジをキープした。

 

(自分のボクシングを忘れちゃ、前に戻るだけ。

そんなことでベルト巻けるはずがない…だろ!)

 

自分の距離で戦える余裕もないクセに、相手の土俵に上ろうなどとは思い上がりもいいところ。

これは、ボクシングは…自分の特技の押し付け合いなのだ。伊達と打ち合うミドルレンジはつまるところ、速水の十八番、最大の武器を活かす距離だ。

 

(自分の距離で行くよ────)

 

伊達の打ち終わりに合わせて、左拳を押し進める。

導火線に着いた火花のように舞う赤い拳。真っ直ぐに、中心へと所狭し我先にと溢れ出す再起への渇望が飛び出していった。

 

(これがショットガンか!)

 

咄嗟にガードを構えた伊達。身動きを取ろうものなら、逃げた先で左右のフックが追撃に来ることは想像に容易い未来だ。腰を落としてやり過ごそうにも、これは人間の技。速水の匙加減でいまも乱打数を調整して、動きを封じに来ているから不利な状況に持ち込まれるのは必然だ。

 

(こりゃ下手に距離詰めれば何発か貰うな)

 

左右のショットガンを使い熟す姿を見て、伊達は確かに速水の成長を確認した。8連敗してきた速水のビデオを全て観て、インファイトへの執着心があることを知っている。

伊達がいま足を止めてインファイトの構えを取っているのは、ハンデのためではなく自分のボクシングを守れるかを見るため。速水の得意な距離であるミドル以上で試合を進め、ダメージを意識しているかを知るためだ。

 

何も言わず、指摘せずとも速水は自己分析が出来ている。

本当ならここでスパーを終えて、合格と言い放ちたいのは山々だ。然し、確認しなければいけないことはまだある。例え、プライドを折る行為だと分かっていても。

 

(そら、ここだ)

 

導火線が3分の2を過ぎたとき、伊達の左拳が散弾の間を駆け抜けていく。左拳が伸び切ったとき、速水の顔面ど真ん中を満点の音で打ち抜いた。

 

「────────────」

「は、速水さん……!」

 

近寄り難いとは言え、近づけないほどの壁ではない。伊達であれば尚のこと、乱打の中に隙間を見つけて、左を打ち込むことは造作もなかった。

 

(この程度で倒れるようじゃ、リングには上げられない。タオルを入れることも出来ないからな。さて)

 

無傷でショットガンを破り、かつて顔面に1発受けるだけでダウンしてきた。精神的、肉体的なダメージはこれで深刻なものとなる。速水の心身が回復して、成長していなければ。

 

自我を保ったまま、跳ね上がった顔が戻ってくる。

伊達と観戦者全員が固唾を飲んで見守る最中。

 

「ぐおっ!?」

 

真っ直ぐな芯を内側に宿したまま、速水は伊達の右頬にお返しの左フックを放ったではないか。

 

「う、打ち返した!!」

「確実に回復している!」

「速水……!」

 

(バランス良し、視線良し、やる気十分。

相手の拳にビビる様子なし。こりゃ……)

 

速水の瞳には、ショットガンを破られた以前よりも更に質の高い闘志が満ちている。プロに無くてはならない向上心を携えて、速水はリングに舞い戻っているのだ。

 

(1年間で俺くらい我慢してたなぁ、このヤロウ!)

 

喜びに頬が吊り上がる。

その隙を突かれてショットガンを数発受けていた。

 

(ショットガンが破られても、戦う意志は萎えない。

勝ち負けが一瞬だけどうでも良くなるくらいに)

 

伊達の闘志にいよいよ火が回り始める。相手を試すためではなく、倒すための機関が暖気運転を終えて、消音器を貫通する程にけたたましい始動を鳴らした。

 

「格好つけたいんですよ、自分にね!」

「んな簡単に出来たら苦労しねえよ!」

 

両者、みなぎるボクサー魂を拳にしたとき、導火線の火花が目的地に到達した。

 

「そこまで。1ラウンド終了です!!」

 

飛び込んだ雄二によって伊達の拳は宙を舞い、速水は勢いあまってリングに転がる。

 

「つい熱くなっちまった」

「お、終わった……」

 

起き上がると、練習生やプロたちはリングに上がっていた。

 

「速水さん、凄い、すごいですよ!

どう見ても父さんから1ラウンド取りました!」

「ばっ、なに言ってやがる!俺は足を止めてたんだ、まだ全然余裕だったね!」

「父さん、男らしくないよ」

「ぐっ………」

 

俺のパンチよりもダメージを受けている姿を見て、つい笑いが込み上げた。

 

伊達はそんな速水を見て同じく笑うと、

 

「あぁ、俺は文句なしで合格だと思うぜ」

「俺、は…?」

「試験官は俺だが、審査員はあの人。

当然だろ、速水をリングに上げるかどうかを決めるのは、俺じゃない」

 

速水のよく分からないといった顔を観て、次にリングの外で立っている見学者を指差した。

プロ志望の見学者と言っていた人物は、顔を隠すほど深く被った帽子を取り、そして懐から取り出したサングラスを着ける。

 

「音羽会長……」

「音羽でいい。お前を追い出したのは俺なんだからな」

 

見学者だなんて大嘘。

速水自身、雰囲気で察していた人物である音羽がリングに上がってきた。目的は言うまでもなく、再起についてだ。

 

「見せてもらったよ。俺がとやかく言うことはない。

ただ教えてほしい。…速水、手の震えは止まったか」

 

言葉の思惑を悟らせない抑揚で問いかける。

サングラスで瞳を隠そうと、抑揚を殺しても、音羽の後悔の念が隠せていないことに速水すら気づいていた。だが、誰も気づかないフリをする。男の涙に揶揄いは不要、その背中には父子のような見えないものがあった。

 

「いいえ」

「そ、そんな…!」

「あの時よりも震えています。

皆さんの感謝の気持ちで、震えが止まりません」

「速水……!そうか、そうか……!」

 

答えに頷いた瞬間、音羽の安堵と希望が溢れ出す。

もう言うことはない。ボクサー生命は続いていくことを見届けて、音羽は左右の手を出して速水に激励を送る。

 

短い握手を終えると、最後に伊達へと左右の手を差し出して。

 

「速水を、お願いします…!」

「必ず、無事にリングから帰してみせます」

 

速水 龍一はようやく、プロへの再起を認められた。

来ることすら迷っていたことも後悔するほどに、音羽の懸念は青空のように晴れて、目に見えない風邪となった。

 

 

 

───

 

──

 

 

 

 

「伊達さん………俺に、なにしたんですか」

「なにって、力みをほぐしただけだ。

よく寝て笑って練習する。それが出来りゃ一人前よ」

 

音羽が帰ったあと、伊達ジムの前で。速水は回復した自分のことを半信半疑とばかりに聞いた。伊達の一撃を貰ってダウンしなかったことが、未だに腑に落ちていないのだ。

 

「俺……パンチドランカーじゃなかったんですか」

「あん?それこそ今更だな。記憶が飛び飛びなのは睡眠不足によるもの、打たれ弱いのは睡眠不足に加えて単なるトラウマだろうな」

 

半分以上を睡眠不足で片付けた男に半目で抗議する。自分の症状、思ったよりも軽いじゃないか、と。

だが、心当たりがありすぎる。この4年間でまともに寝たのは、ここ半年間くらいなものだ。きっと、これでもまだ全快ではない。

 

あとトラウマ…。

心当たりがあり過ぎて困る。

 

「何もかも拭ってプロ出来るなんざ思ってねぇよ。

プロに舞い戻ってから考えろ。つか、お前はまずディフェンスの強化からだ。いいな」

「────はい、勿論です」

 

伊達は速水の背中を叩く。

存外に強く叩かれて前によろけてしまう。

 

だけど、快く返事をするくらいに気合いの入るものだ。

自分の弔いと思っていた期間が、じつは速水龍一再生プログラムだとは思っていなかった。

 

振り向くと、伊達が右手を差し出していた。

 

「ようこそ、伊達ジムへ。

速水 龍一を正式なプロボクサーとして歓迎するぜ」

 

8度の敗北を経て、古巣を出て、新天地で1年間の休養をして、再び旅立つことが出来る。

 

なんとも長い再起だと笑いながら、伊達の差し出した右手に全力で応えるのだった。

 

 

 

 

 

半年後、速水 龍一の9度目の再起戦が始まる。

 

 

 

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