鷹の6本のツメ   作:ひとりのリク

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蛟 剣哉

 

 

或る日の夕暮れ刻、岸辺に設置した撮影機材を撤去する光景を横目に、蛟 剣哉は着ていた白い布切れをスタッフに静かに手渡した。それでも重々しく水々しい音を鳴らし、吸い込んでいた水分を吐き出していく。

 

「すみません、まだ絞れていませんでした…」

「あぁ気にしないでよ。橋から河川に落ちて、追いかけてきた刑事とタイマンまで一発撮りしたんだ。

監督も驚いてたよ?よく目が回らないもんだって」

 

今日の撮影を興奮気味に振り返りながら、スタッフは白い布切れを受け取った。

衣装…だった白い布切れは、撮影途中で意図的に切り破り、激闘を演出するために使い潰されたもの。それをゴミ袋に捨てるのではなく、再利用せんとばかりにスタッフは収納袋に白い布切れを仕舞った。

新しい着替えを受け取るときに感謝を述べて、帰宅用の着替えを済ませたところで監督が声をかける。

 

「剣哉くん、お疲れさま。今日も迫真の演技だった」

「ありがとうございます!」

「顔は同じなのに演じ分けが巧いね。2年以上も前から悪者の顔が多彩すぎて、本物と間違えそうになる」

 

業界の中でも温厚な人物として有名で、剣哉を俳優として名を馳せるに至らせた育ての親のような存在だ。

ひと月の間、刑事ドラマの撮影に携わったのが1年ぶりのこと。撮影が無事終了してから剣哉のもとに真っ先に訪れたのは、心から溢れる労いの言葉を贈るためだった。

 

「嬉しい限りです。悪役……敗者から転じる悪の役作りには自信がありますから」

「そこだよ。剣哉くんを抜擢するのは、作品を演じる悪に生まれる悲しみがあるからさ。

悪辣の裏側を見せつける姿はヒーローを塗り潰せる」

 

剣哉の演じる悪者は原作を越える。

 

監督が嘗て受けたインタビューで、剣哉を抜擢した理由について問われたときの回答だ。

 

悪役の魅力に呑まれるヒーローならば、試合(脚本)()勝って勝負(人気)に負けておけばいい。お淑やかな笑みとともに語ったことに、関係者たちは声のない指導を受けたようだと背筋を伸ばしたという。

 

「だが……そろそろ主演、どうだい?

ファンからはヒーロー蛟 剣哉を望む声も多いよ」

「そうですね。実は、そろそろ主演のオファーを受けようと思っていまして」

「おぉ、本当か!?それ、なんの作品だよ?是非とも俺に監督を任せてくれ」

 

思わず口調が崩れる監督に苦笑いしながら、舞い戻ってきた龍の姿を思いつつ宣言する。悪役に好かれる男だと自分で評してはいるものの、だから主演になれないとは思っていない。

正義とのアンマッチは懸念されるが、監督は自らの手で剣哉を主演に抜擢したいと願っていた。それが叶うのだ、今から素足でゴリラ山を踏破しろと言われれば挑戦するほどに、心身を賭ける想いで作品の名を聞く。

 

「魔王です」

 

剣哉が演じるであろう役目の名前が返ってくる。

魔王とはファンタジーでいうところのボス、勇者に倒される世界の敵の名前だ。サスペンスや映画でも、魔王の名を語る敵役はいるからこれのことだろうか。

思考を順繰りとして、監督は首を傾げる。

剣哉の表情がこれまでの悪役とは一線を画した、物語の主人公のように輝いて見えるのだ。

 

首を傾げる監督を見て、自分だけ前を走り過ぎたと剣哉は緩やかにブレーキをかけた。

 

「勇者に憧れて旅に出た男が魔王となって、勇者と運命の出会いを果たすんです」

「剣哉くん、その顔が魔王なのかい?」

「それは、これからのお楽しみ……ですよ」

 

監督はこのままでは答えが分からないと分かった。

合点がいくには、剣哉の誘いに乗るしかない。これまで剣哉のボクシングに興味を示さなかったが、この一分間で心をすっかり掴まれてしまった。

 

「監督には今度、台本をお送りします。私の勇姿を、ぜひ見守っていただきたいですから」

 

なぜ自分を誘ったのか。

俳優の仕向けた思惑を想像しながら、来たる日に備えてスケジュールの調整を始めるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

剣哉が監督に伝えた魔王の物語。

誰が脚本したかと問われれば、剣哉は自分だと堂々と宣言する。

 

何故ならば、幾多もの苦難を啜り、一度の機会を待ち続けることを生き甲斐としてきた。

速水 龍一とベルトを賭して戦う、そのために。

 

「こんなボクサーに勝っても箔は付かないぞ」

 

────そのために、発言者への感情を消した。

 

白スーツと蝶ネクタイ、どちらもブランド物ということを宣うように目に留まる派手さを拵えて、ここ地原プロダクションジムの事務所で、会長である地原は言い放った。

 

剣哉の才能を見抜いて、オークションに訪れた剣哉に合格を出したのが地原である。地原は数々のスターを排出する地原プロダクションの二代目社長だ。父親譲りの商才で芸能界に人材を送り、映像の名の付く世界で多大な影響力を示してきた。

剣哉がボクシングを始めたい、と申し出た時、没落したボクシングジムを買い取り、諸々の手続きを済ませた行動力に剣哉も当時は舌を巻いた。

 

「剣哉君が負けないことに絶対の安心感はある。だが、8連敗もしていたボクサーを倒してもファンは喜ばん。

君の俳優人生に泥を塗ることになるねぇ」

 

ただ、性格に難あり。

情より金で動くため、オークション合格直後の剣哉が心に仮面を付けるくらいに嫌煙する人物だ。

地原はボクシングに詳しくない。大金でコーチ陣を雇っているため、度が過ぎた練習でもない限り口を挟まない。地原の許可なくして剣哉の対戦相手を決めることは不可能だ。

 

不思議なことに、地原は対戦相手の戦績とK.O数、あとは顔写真を見れば大方の試合予想がつけられた。故に負けそうな相手を極力避けて、然しミスマッチになるような試合を組まない。

そこに甘んじて、剣哉は淡々と試合を受け入れてきた。今回、剣哉が対戦相手を提示したことが初めてのこと。地原は物珍しいと速水のプロフィールまで細部に目を通して、そして出した結論が冒頭の言葉だ。

 

「彼は…僕の俳優人生を左右する逸材なんだ」

 

口を突いて投げつけた言葉は、怒り以外の感情で占められていた。甘い香りに目が微睡むように地原を見る感情の名は、歓喜だ。

地原ほどの目利きが、速水の実力を見誤った。もしも警戒されてしまえば説得は困難を極めたが、俳優の経歴にのみ目を向けるだけなら説得は容易い。

 

「君が意見するのは珍しい……。良いだろう、許可する。こちらが安全牌を選ぶ手間が省けた」

 

多くの要望を出さない剣哉の望みだ、可能な限り応えてくれる。ご機嫌取りも地原最大の仕事だ。

 

「今回は4ラウンドK.Oでいく。途中、インファイトを2回は挟んでほしい。倒さず、スレスレの攻防でファンと監督にサービスしてくれ」

 

そして、自らの仕事を忘れないのも地原のポリシー。

地原の放った言葉はメディアに向けた……というよりは、メディアからの要望である。

真剣な剣哉を貶す、プロボクシングに対する侮辱行為。平気でこのような指示を飛ばせるのは、地原がボクシングをドラマのワンシーンだと思っているせいだ。

ボクシングジムを買い取ったのも、俳優の命である身体を壊すかもしれないスポーツを許可していることも、全ては次の仕事に繋がるから。そして、地原が要望を出すだけの実力を剣哉が備えていることも大きかった。

 

「彼はそこまで甘いボクサーではありませんよ…」

「君の要望に応えた。なら、こちらの声も聞け。

生涯監督‼︎で有名なあの監督が君の試合に興味を示したそうだ。次の試合、最前列を充てがう手筈でね」

「………それで、噛ませ犬が必要だったと」

 

剣哉の解答に満足げに頷く。

地原の指示を守らなければ、コンプライアンス違反を犯したかのように責めるのだ。ボクシングをおざなりにするスケジュールを組んでくるから、剣哉は大人しくせざるを得ない。

 

「このジムは芸能界の関係者が在籍している。新人なら兎も角、君ほどのスターの負けは会社の売上げに響く。

それを心に置いて、思う存分仕事に励むように」

 

地原はそのまま事務所を出ていった。

 

今日はもう戻ってはこない。

何故分かるのか。無駄に嗜好を凝らした机の上に、愛用の万年筆がないからだ。

 

漸く詰まりかけた息を吐き出して、すぐ横のソファに思いきり体重を投げ出して腰掛ける。

 

「戴いたチケットの借りは返しました」

 

独り言を自分の記憶の中に溶かしていく。

親に勧められるまま俳優の道を歩いて、目標もないのに役目を貰えるくらいには才能があった。主役級に抜擢されずとも満足感があるため、このままなんとなく生きていくのも悪くないと思っていた。

そんな、充実感に浸れる日頃のことだった。

 

『暇なら観にくるといい。そうで無くても来てくれ』

 

自分のことを主役だと勘違いした、大馬鹿野郎に出会ったのは。

 

『なんですか、これ。チケット…?』

『退屈な顔してたからな。日本タイトルマッチのチケットだ、それ伝説になるから捨てるなよ?』

 

そう言った速水は、ベンチに座っていた剣哉の返事を待たずにロードワークに戻っていった。

あの日、剣哉が貰ったのは速水の日本タイトル初挑戦のチケットだ。当時、剣哉は思った。走る夜道を照らすような活力溢れる人間が、日本の頂点に立つのに相応しいのだろう、と。

 

数ヶ月後、予定を空けて観に行ったタイトルマッチで剣哉は衝撃を受けた。あの輝ける人生主人公のような男が、平凡でやられ役のような相手に打ち負けたのだから。

 

『────────』

 

剣哉の俳優人生を大きく左右する結果だった。

自分の中の当たり前が平凡な存在に打ち砕かれ、その熱狂たるや女性の声援だけでは到底及ばない域である。不思議なことに、勝者への興味は湧かなかった。速水の散りゆく、地に墜ちた姿こそを演じたいと強く願い、主役に席を譲り続けてきた自分に譲れない席が出来た。

 

悪の王という、打ち倒され勝者を引き立てる、作品に唯一無二の役目だ。

 

「僕の悪には、速水 龍一が必要なんだ。脚本家は要らないし、現場に入る人間は正しくないとね」

 

剣哉は速水の底知れぬ根性を信じている。

芸能界が俳優の売り出し要素の1つとしか見ないなら、速水の拳は舐めきった予定調和を真っ向から否定する。

 

試合に色を付けようとするなら、雇い主であれ牙を剥く覚悟だ。俳優人生のためと言っておきながら、あの日の挑戦者、速水 龍一の姿をもう一度見たいだけかもしれない。

 

「この題名(タイトル)は…失墜伝説。龍の財宝を僕だけが戴く」

 

この手で、飛ぶ龍に下す結末は失墜と呼ぶに相応しい。

 

魔王(待つ者)らしい理由だろ…!」

 

あの感動を、もう一度。

 

曇り空に雷鳴のような輝きを。

 

夢の舞台に悲劇あれ。

 

 

 

 

 

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