速水の9度目の再起戦から1ヶ月が過ぎた。
最初の1週間はマスコミからのインタビューが毎日舞い込んできたものだが、その内容の多くは伊達ジム移籍によるところが大きい。音羽からの移籍は全ボクシングファンの予想外であり、そもそも速水の復活劇が夢物語と言わんばかりに回復の秘訣やらを掘り下げようとしてきた。
深く知ったからと正しく記事にするかは別問題だ。歪曲されることを嫌った伊達は企業秘密の一点張り……終いには妻の愛妻弁当を広げて食レポを始めるもんだから、彼らも呆れて帰っていった。
「流石にもう来なくなったな」
「最初は懐かしかったんですけどね。いまは他方に迷惑が掛かるので下手なメディア露出は避けなければ……。
奥さんのお弁当を見せて追い返すのは面白かったですよ」
「愛子の弁当だぞ。これを見れば暖かいジムだと思って門下生が増えること間違いなしだ」
「本気だったんですか……」
伊達の本気の目を見て苦笑いを返し、事務所の机に広げられた弁当の具を箸で掴む。
選手たちの試合が決まっていなかったり、計量後の選手によく振る舞われるもので、この手料理のおかげで選手たちのモチベーションは常に最高潮を維持しているほど。母親の料理よりも美味しいと、速水の中でも大好評だ。
手料理が振る舞われる決まったタイミングがもう1つある。それは、選手の試合が決まったときである。
速水はこのことを自覚しているから、会話の切れ目に合わせて箸を置く。いつもなら対戦相手の話をしながら食事をするものだが、今回は雑談から始まった。空気が、違う。
その理由を視線で問うと、伊達は呆気なく答えた。
「タイトルマッチの話が舞い込んできた」
「俺に……もうですか!?」
驚きで声を荒げて一瞬、速水の拳は既に臨戦体制へと仕上がっていた。
「返事は………聞くまでもないか」
念願の試合に犬歯を剥き出しにするような笑みで応える速水を見て、断るという選択肢は最初から消える。
「日本ジュニア・フェザー級王者、蛟 剣哉。
戦績は11戦11勝6K.O、A級以降は全K.Oの超強敵だ」
御宅を並べることは止めて、対戦相手の戦績を確認する。
眉ひとつ動かさないところを見るに、既に相手のことを把握していると分かった。ならば当然、剣哉との試合がどういうものかも知っているだろう。
ファンの黄色い声援、対戦者の窮屈感、射撃場に佇む的になる気分だと言われるくらい、剣哉の試合は例え地元でもアウェイと化するのだ。剣哉との対戦を避けたがるボクサーは多い。
「それは元々、俺が居た場所ですよ」
「成る程ね。相手の気持ちになれるってか」
暗雲に目を細める伊達を見て、速水は杞憂だと言ってのけた。
「ま、それ抜きで強い。ミドルからインファイトが奴さんの戦場だ。アウトボクシングだといつか捕まる」
「接近戦なら伊達さんとのスパーで鍛えてます。
顎に貰えば不味いのは変わりませんが、接近戦で生き抜く技術だけは日本一だと自負しますよ!」
「確かに鍛えたの俺だけどな…言い方!
熱に充てられて接近戦に応じるのは目に見えてるぞ」
「………まぁ、チャンスとあらば手を出しますよ。そのために首捻りを覚えておきたいんです。これなら顎に受けても流せますよね」
「首捻りはダメだ」
「なっ……どうしてですか!
俺の忍耐力なら首捻りを習得する自信があります!」
「首捻りは緊急回避として騙し騙しやる技術だ。先ずは他のディフェンスを日本一使い熟せなきゃ、頭に抱えたダメージが簡単に爆発するぜ」
首捻りの習得には相応のセンスと時間が必要だ。
何人ものボクサーとスパーを重ねても、習得出来ずに終わることもザラだ。
判定勝負となった場合、首捻りは不利に働く。パンチをかわせても、見た目では被弾しているように見えるせいだ。パワーのない選手にとっては百害あって一利なし、と言っても過言ではない。
そもそも、速水は一発のパンチが命取りになる。
首捻りに賭ける時間に対して、対価が得られる見込みはなかった。
「接近戦は捨てろってことですか」
「相手のK.O率は50%だ、判定になりゃ首捻りが不利になるのよ。そこで、ショルダーブロックを覚えてもらう」
相手のパンチを肩で受け流す、ショルダーロールと呼ばれる技術。L字ブロックとの併用で相手のパンチを顔に届かせない、いまの速水には理想のディフェンス技と言える。
「待ってください。俺はフリッカーを使わないし、今からスタイル変更は厳しいです」
「上体を逸らすとかまでは考えなくていい。ショットガンを使われちゃ、どうせ腹をぶっ叩かれて終いだ。
大切なのは、ショットガンを顔で受けないこと。
だからショルダー”ブロック”って言ったんだよ」
「肩で顎を守りつつ、懐に飛び込むために……!」
「ショルダーブロックで距離感をものにする。そうすりゃ次の段階にいける」
「もしかして、ハートブレイクショットを!?」
「あれは今からじゃ無理だ」
「あっ、そうですか…」
「ショットガン破りだ」
ショルダーブロックとショットガン破り。
組み合わせるための設計図を見ても、完成型にたどり着くことは難しいと知った。
「───────へぇ」
「よし、合点がいったな?」
それでも伊達の発想に感嘆し、そして伊達が見せたショットガン破りの左拳を思い返せば、内容は難しいものではない。
ただ、速水にとっては1ミスで引退に繋がる程度の最善策という話である。
「んで、ショットガン破りの助っ人を呼んでおいた」
「伊達さんじゃないんですか?」
「あの手数は無理、訳分からん。こっちは後日だ。まずはショルダーブロックから仕上げていくぞ」
俺の必殺技をなんだと思ってるんですかね…。
───
──
─
1週間後、伊達ジムの門を開いたのはハツラツな声で挨拶を放つ、速水の顔見知りだった。
「こんにちはー!」
「板垣くんだったのか」
「速水さん復帰おめでとうございます!」
満面の笑みで伊達ジム全員への挨拶を終え、早々にグローブを取り出す板垣に速水は驚いた声で迎え入れた。
今日ここに板垣が来た理由は言うまでもない。
「彼がショットガン破りの助っ人だ」
「成る程、ハリネズミですか」
「そゆこと」
「いや〜、嬉しいです!なにか力になれたらと思っていたら、伊達さんから声がかかるなんて」
和やかな香りとともに笑うこの男、手数だけならば速水のショットガンに迫るものを持っている。つい最近、ふと思いついたように板垣の試合を観てから知ったが、このボクサーは速水にとって最も参考になる1人だろうと。
東洋ランカーを相手に練習出来るなら心強い。
「剣哉の試合は観たか?」
「届いたDVDはバッチリ。何となくですけど、ショットガンには寄せてきました。
先輩に確認済みなので、かなり精度は高いはずです」
「へぇ、幕之内くんが」
驚くことに、剣哉のショットガンのみを観て仕上げるだけでなく、ショットガンの体験者である幕之内に見てもらったと言う。速水の拳は熱気が上がる一方だった。
「どんなもんか、サンドバッグで見せてくれよ」
「勿論ですとも」
その熱気は、サンドバッグを叩き終えた板垣から意識を戻すと、泥水を被ったような寒気に包まれていた。
(この手数、いや速さも俺の上をいってやがる)
「驚いた……こいつは想像以上だ」
「そりゃ気合いも入りますよ。速水さんのタイトル挑戦、絶対に勝ってほしいですから。
それに伊達さん、約束忘れてないですよね?」
「当然だろ。全部終わったらな」
速水には分からないやり取りを終える。
なにか密約があるのだろう。それは速水に関係ないのなら、気にする必要もない。
「速水さん、大丈夫ですか?」
「……………あぁ、上等だぜ」
速水は、目の前の壁に集中するのみなのだ。
「貰うだけじゃ非常識だ。早々に破って、板垣くんの成長にも貢献してあげなきゃと意気込んでたのさ」
「……へぇ!」
2人の火花散る挨拶は終わり、こうして速水 龍一はタイトル戦へと向けた最後の3ヶ月間を過ごすこととなる。
ここから先は、8連敗の時間よりも長い体感時間を過ごし、8連敗よりも熱い熱量の集中力を注ぎ込んだ。
挨拶を忘れることはなかった。
ジムの練習生との言葉は何度も交わした。
8回戦のプロたちからの応援に感謝を述べた。
板垣 学の技量を追いかけて、時には越えるときもあった。
伊達 雄二の期待を受け取り、伊達 英二の指導を全力全霊の感謝と汗で応えた。
速水 龍一が8連敗の時間を無駄にしたくないと、速水 龍一に妥協を許しはしない3ヶ月を過ごした。
そうして、全ての努力を終えて、伊達ジムのリングに速水 龍一はぐったりと寝転がった。
「お、お疲れさまでした…」
「少し休んだら身体をほぐす。寝るんじゃねえぞ」
リングを降りる伊達と入れ替わりで、雄二が速水のもとにタオルを届けにきた。有り難うと言いながら受け取り、先ほどまで行っていた最後のスパーを思い出して呟く。
「俺とのスパーを3ラウンドしても余裕か…」
「でも速水さん、昨日は板垣さんとスパーしてました。疲労が溜まってるんですよ!」
「それにしてもさ。元世界ランク1位なだけはあるけど、見た感じ衰えていなさそうだと思ってさ」
「すごい、見抜いたんですか!僕は分からなかったけど、父さんが自分で言ってました。全盛期を維持してるって」
「な、なんだって。あの人、そろそろ40歳だろ…」
だけど納得がいく。ロードワークの時から、まだ体力が有り余っていることは容易に見て分かった。
だが、プロでもないのに何故。
「ずっと、待っているんです。自分の背中を追い越して、手渡したバトンと一緒にゴールするボクサーを」
「ずっと、待っている…?」
誰をだろう。
………知らなくても、誰かは分かってしまった。
「幕之内くんか…」
「先輩がどうかしました?」
ひょこりと視界の外から板垣が顔を出す。
「ん、彼はどうしてるのかなって話さ」
「あ〜。速水さんの邪魔になるかもと思って黙ってましたが、逆にやる気出そうだし言っちゃお。
先輩、4ヶ月後に復帰戦しますよ」
「「えぇーーー!?」」
そして、突然のカミングアウトに雄二と2人して絶叫する。
気を遣って聞かなかったのに、軽々と重大ニュースをこのタイミングで放り込んできやがった!!!
「板垣くんチケット!今すぐ最前列を確保してくれ!」
「父さん、僕も観に行きたい!お願い、買って!」
「あーっ板垣この馬鹿野郎!
うちは金欠だから黙ってろって言ったのにぃ!」
「速水さんの集中を切らしたくないって話は!?」
「そりゃ嘘だ。雄二のやつ、幕之内の試合は最前列で見たがるからな。これくらいしか我儘言わないから叶えてやりたいが、お金がね!」
「知りたくなかった他人の家計事情だ…」
雄二は目の色を変えて伊達にチケットをせがんでいる。ファンの鑑だと思いながら、朗報を胸に留めて身体をほぐしていく。
ショットガン破り、ショルダーブロック。
この2つはタイトルマッチで十分に通用するものとなった。世界と東洋経験者のお墨付きだ。この陰に幕之内の後押しもあるとなれば、もう残す悔いはないに決まっている。
「そろそろ帰るよ。休まなくちゃ」
あとは試合に向けて体力を回復するのみとなった。
「板垣くん、今日までありがとう。試合観に来てくれよ」
「僕も勉強になりました。絶対に勝ってくださいね」
握手を交わす手は、何度も俺にダウンを与えたもの。そして、最後の最後、この手でダウンを奪ったんだ。
「伊達さん、軽量の日にお会いしましょう」
「暇なら顔を出してもいいぞ。お前が休めると思った方法で余暇を過ごしてくれ」
笑ってみせた声に、何度も俺は救われてきた。
きっと、最後には報いてみせる。
伊達さんのもとにベルトを持って帰るんだ。
「雄二も早く寝てくようにな。
3日後は俺の戴冠式だ。風邪引いたら伝説見れないぜ」
「はい!速水さんのベストバウトになると信じてます!」
雄二の期待が俺を奮い立たせてくれた。
ここまでボロボロの龍を格好良いと言ってくれた。そんな古龍のベストバウトなら、相応しい題名があるべきだ。
「
ここに居る全員に勝利を誓って、速水の最後の猛特訓は終わりを告げた。
▼
準備は、足りなかった。
幾ら練習を積んでも積み足りない。練習をするごとに不安は薄れて、猫背になりそうな背筋を伸ばしてくれる。それでも不安がずっと付き纏うことに変わりはなく、祈るように汗を流しても自分の実力に満足することはない。
ある種の飢餓だ。肉体の疲労さえなければ身体を痛めて、世界に届くほどの身体を作り上げたいと願う。
8度の敗北が戻ってこいと手を伸ばす。あの手は速水のものではないのに、速水の姿形をしたものが呼びかけてくる。不安は常に自分の姿をしていて、逃げてしまえと助言を与えてくる。
(────久しぶりに、眠れなかった)
バンテージを巻き終えた手を見下ろす。
今朝から拳の震えが止まらない。
復帰戦を勝利して、直ぐにタイトルマッチだ。あれ程に渇望した試合が目前に迫っているというのに、身体のほうは不満が積もって仕方がない。
タイトルマッチ当日。
速水 龍一は控え室で膝に拳を押し付けた。
この4ヶ月間、ひた隠しにしてきた恐怖がいい加減なほど暴れたがっているのを、胸の内に抑えつけるために。
「まだ震えるか?」
「……………はい」
グローブの装着を伊達は躊躇した。
もし、この震えが身体障害の前触れだとするなら、速水をリングに向かわせることは殺人と同じこと。
言葉にすればボクサーの覚悟を穢すことになる。だが、大丈夫だと思っていただけだと割り切るのは早計か。
瞳の奥で揺れる心境に乱される伊達を見て、この土壇場で選手を救うことを視野に入れられる判断力に速水は感謝した。この人が控えていてくれれば、自分が本当に壊れることはないと思えるのだ。
「今日、速水 龍一のプロボクサー人生は終わる」
自分で口にして、悔しいと思う。
どれほどの期間、休養で身体を癒そうとも速水は既に超人ではない。天才が8度の敗北で凡人の体力に落ちて、ひと時の高揚で全盛期を押し上げただけ。
次はない。次がない。もう、愛するリングに上がる回数はこれっきりになる。勝ち負け以前に、この事実が怖くて仕方がない。
だから、なればこそ、速水は宣言する。
「最後の試合、どん底から這い上がって2戦目での戴冠式。怖くないわけがない…!」
「────このやろう、言いやがるぜ」
身体は不満が積もっている。あと1試合で、確実に速水 龍一のボクサー生命は幕を閉じる。
だからこそ、言葉で自分を強がらせる。
この震えの真実は速水 龍一だけのものだ。
「あの日、お前のボクサー生命を引き伸ばした。
後悔はしてねえよ。よく立ち直らせたと褒めてやりたい」
「それは………。知っているからですか」
答えはない。返してはいけなかった。
”拳で挫折したヤツは、拳で立ち直るしかねえ”
速水と出会ったとき、伊達はこう言った。
かつての自分のことを吐き出して、見事に速水の心を掴んだ。然し、求めているのは伊達の答えじゃない。自分の拳で戦い、答えを探し出して漸く速水 龍一は自分を取り戻せる。
「僕は、前の父さんを知りません!」
「ゆ、雄二!?」
控え室の扉を開け放ったのは、外で待機していたであろう雄二だった。ほんの少しだけ返事に躊躇した伊達の様子を察して、賢い雄二は負けた父親の背中に堂々たる勇姿を速水に伝える。
「だけど、リカルドに負けても父さんは終わらなかった。幕之内さんにバトンを渡せたんです!」
「────なんだ、なら答えは決まってる」
震える手を宙に出して、握ったのは誰の手でもない場所。自分を掬い上げた伊達に応えるようにして、速水は立ち上がる。
「世界の頂点を見てみたい。俺も幕之内にバトンを渡さなくっちゃな。日本一のバトンを」
伊達の想いには程遠い、だが確たる証を持って龍は舞い戻ったと謳いたい。幕之内の背中を押した手で日本の頂点を獲り、あの日、悩んでいた君から自分は励まされたんだと感謝を伝えたい。
想いを成就したい、この確認で全ての準備は整った。
▼
『かつてアマチュア3連覇を成した天才がいました。
プロ転向後、輝かしい世界を望まれたボクサーは6連敗というドン底へ。努力は努力に敗れ、才能は執念に敵わず』
暗がりを歩くそのボクサーの道のりは、8連敗した重々しい姿を引きずるかのように見えていた。
事実、この場に来て良いと思えるファンは少なくない。まぐれの一勝と考えるのが普通だ、これは咬ませ犬に違いないと。
『その時代でなければ…何度も嘆かれ、悲運のボクサーと呼ばれる始末。然し、彼に手を差し伸べたのもまた、悲運に付き纏われた漢です。彼の名は伊達 英二。
絶対王者に最も近づいた、世界指折りのボクサーだ』
観客たちは同時に期待感に包まれる。
伊達 英二の指導は確かなものだ。彼の指導が天才速水 龍一に備わり、新しい一面を携えて登壇したとあれば、この場違いな雰囲気を打ち壊せるかもしれない。
『新しい環境、更なる技術を身に付けて。
堕ちた龍、最後の挑戦権を握り締めました!』
不安と期待、混ざり合う複雑な現実に幕之内 一歩の緊張感は高まるばかりだった。
「先輩、緊張しすぎですよ。そんな顔じゃ速水さんまで緊張しますって」
「あはは、そうだよね。けど最後の試合だって聞いたから、絶対に勝ってほし気持ちと、もっと速水さんの試合を観たかったって惜しむ気持ちがせめぎ合っちゃって…」
「気が早いなぁ」
背筋が直線になる幕之内の背中へと、1人の男性が声を掛けた。
「やあ、幕之内くん。久しぶりだね」
幕之内よりもやや高い身長の男性は、親しみやすい笑顔を浮かべながら幕之内の隣に腰掛ける。
「小橋さん!」
小橋 健太、元日本ジュニア・フェザー級王者。
幕之内、速水と試合をしたことのある戦友と呼べるボクサーだ。懐かしい再開に握手を交わして、幕之内の隣に座る板垣へと視線が向いた。
「それに、板垣くんだね。速水くんを手助けしてくれたんだって?」
「あ、初めまして。僕のことも知ってるんですね」
「噂には聞いてるんだ。彼をここまで連れてきてくれたんだ、感謝しかないよ」
「いやあ、それほどでも!小橋さんも招待されたんですか?」
「観に来てくれって、チケットを融通してくれてね。まさか君たちの隣とは驚いたけど。
………さあ、王者のご登場だ」
小橋の視線が少しだけ冷ややかなものとなったのを、2人は怪訝そうに見ていた。その時、王者の到来を知らせる暗闇が会場を包み込んだ。
『悲運のボクサーを迎えるのは、人気絶頂のボクサー』
そうして、2人は小橋の視線の意味を知ることになる。
「剣哉くんーーーー!勝ってねーーー!」
暗闇のなかに遠慮なく放り込まれる声援。
『この歓声が力となり、数々の強敵を倒してきました。彼の武器は驚くことに、挑戦者と全く同じもの‼︎
龍に憧れ、実力で手にした”ショットガン”は何方が強いのか、今宵証明されます‼︎』
「必殺技のパクリ野郎なんて死刑よ!」
明らかにボクシングファンとはテンションが違う、ライブに訪れた者のリズムで女性ファンが声を荒げる。
『龍殺しの武器を携えて、後楽園ホールに日本の大スターが華麗に参上だーーーーーーーーーっ‼︎‼︎』
「偽物ショットガンに負けるなー!」
呆れた溜め息を吐く小橋。
1人2人の所業ではない。会場中から届く剣哉への声援、速水への罵倒に、幕之内と板垣は背筋が凍るのを感じた。
「な、なんて失礼なことを…!」
「うへぇ、すごい声援だ…」
「剣哉さんの試合はいつもこうなんですか?」
「うん、似たようなものさ。実際に見れたのはタイトルマッチが初めてだった。剣哉くんの人気は凄くてね、8回戦までの試合は手に入れられなかったよ」
「じ、実力は?K.O率は50%でしたけど…」
「強い。全盛期の僕じゃ判定負けがやっとだろう。
まずインファイトじゃ敵わない。体幹が強いよ、彼は」
実力は小橋も認めている。
ならば、ハリボテの王者ではない。
「速水くんならきっと勝てる。
君たちも、そう信じてここに来たんだろう?」
「勿論です。速水さんのあの目、一言も発してなくても分かる。周りのことは見えていない……すごい集中力だ」
「野次まがいの声援に萎縮するボクサーもいるけど、速水くんには効果がないね。良かったよ」
小橋の安堵は安心感から来るものではない。
最低限、試合に臨める状況だと確認が取れたことへの疲労が無くなっただけのこと。
本当の難題はなにも削れてはいない。
答えはすぐに出る。
『龍が天に昇るか、それとも龍殺しの剣が仕留めるか。
ボクシング界の新旧スター対決、これより開幕です‼︎』
残された応援は剣哉のファンに負けない声援を送ること。外の世界で絶対に負けてたまるかと幕之内たちは気合いを入れ直して、速水の試合に全神経を注ぎ始めた。