速水 龍一のタイトルマッチ2ヶ月前、幕之内の自宅の電話が鳴り響いた。
時刻は夕方、母親が珍しく就寝していたため、幕之内は騒音を一刻も早く止めるために迅速に受話器を手に取る。
「はいっ幕之う…」
『メキシコや‼︎‼︎』
「ちィィッ!?」
すると、鼓膜に届く張り手のような声によって、受話器から顔が弾かれるほどの衝撃に襲われた。耳鳴りを通り越して雷鳴でも通るような雑音に襲われながら、受話器の向こうで興奮する好敵手、千堂 武士を宥めると大きく息を吸い込んで。
『ゴンの試合が決もたんや‼︎
スパー相手にワイらが手伝うたならあかんやろ⁉︎』
興奮していて大切な事がゴッソリと抜けた内容だが、確実に幕之内が予想できる内容であるのが幸いした。
「あ、相手はまさか……」
試合の舞台はメキシコ。是が非でもゴンザレスのスパー相手を務めなければならず、千堂がここまで助力に熱を入れたがる対戦相手なんて1人だけだ。
『せや。リカルド・マルチネス‼︎
よーやっとゴンとやる気になったんやと』
怒りと興奮を孕んだ答え合わせに、幕之内の胸の内側も熱くなっていく。
リカルドへの3度目の挑戦は前例がない。かつての伊達のようにリベンジマッチを組めた
3度目の挑戦、その意味はリカルド史上でも異様なものとなっているのは想像に容易い。
「ゴンザレスさん、準備は出来たってことですか」
『それは聞いとらん。けど聞く必要ないで。
無鉄砲な漢やなくなったんはワイが知っとる』
つい口から出た不安を千堂は自信満々に弾き飛ばす。千堂とゴンザレスがどんな言葉を交わしてきたのかは知らない。幕之内に分かったことは、ゴンザレスにはリカルドを倒す準備が整ったという、3度目の挑戦者に相応しい……いや、無敗神話を破る厚かましいほどの確証だけだ。
『出発は3ヶ月後。2週間、ゴンと連日スパーや‼︎
ボッコボコに激励してやるで!』
「ゴンザレスさんを倒してどーするんですか…」
電話越しの千堂のやる気が向いては行けない方向に向き始めた。幕之内はストッパー役で連れて行かれることを遠巻きに理解した。
このボクサー、スパーにかこつけてゴンザレスと殴り合いたいだけではなかろうか。そんな疑惑が幕之内のなかに浮かび上がったところで会話は終わるかと思いきや、千堂は最後にこう付け加えた。
『あ、そうそう。“役に立つボクサー”なら連れてきてもええらしい。ま、こっちはワイ1人やけどな』
「役に立つ…?」
大雑把な要望をすぐに理解できず口にするも、千堂は『あーんま深く考えんでええ』と水分を飲みながら言う。
『ゴンがな?スパーの足しになる程度のボクサーなら呼べっちゅーねん。ワイと幕之内だけじゃ物足りん吐かすさかい、ゴンに一泡吹かせられそうなヤツおったら連れてきてええで!』
受話器越しに『旅費は向こう持ちやからな!』と嬉しそうな声でそう言い放ち、調子を取り戻した千堂の声は3ヶ月先に飛んでいった。
▼
千堂の電話を聞き届けた幕之内は直ぐさま家を飛び出した。全力疾走で向かった先は鴨川ジム。
事務所で事務仕事をしていた鴨川を訪ねて、ことの顛末を簡潔に説明し終えたところ。
「しっかりと世界との差を確かめてこい」
「えっ、良いんですか!?」
という清々しいほどの返事を貰った。
話を聞けば、スパーリングパートナーとして幕之内には正式なオファーが届いているそうだ。
「なぜ呼ばれたか分かるか?」
「……それは」
現実を問う鴨川の眼差しに、自身の立ち位置を俯瞰する。
ゴンザレスが幕之内を求めた理由は1つしか思い浮かばない。リカルドの
これ意外に理由はない。
だから違う、と幕之内は首を横に振った。
この1つだけが理由なら、既に世界の頂点に到達した千堂だけでいい。ゴンザレスに踊らされ、ミキストリだけに届く
自分で出した答えに拳を強く握り、目に見える実力差を受け止めた。
幕之内は主な理由ではない。ここで最も大事なことは、ゴンザレスがリカルドに勝つために必要なことだ。
そして気づく。千堂と幕之内、2人を呼んだ意味を。
「僕はきっと、千堂さんを引き立てる脇役として呼ばれたんだと思います…」
「そうじゃ。ゴンザレスの成長に最も相乗効果が望める貴様と千堂、2人の破壊力を
リカルドの理詰めに接近した途端、敵を突き放すように遅い来る暴力の嵐。かつてリカルドの暴力に立ち向かった伊達は骨を砕かれ、凄惨な姿となってリングを降りている。
耐久力がフェザー級でトップクラスの千堂でさえ、僅か2ラウンドでマットに沈められた。
化学を越えた先の暴力をゴンザレスが警戒しているのは当然のことで、暴力対策に2人が選ばれるのは納得の理由だ。
「悔しいか。ワシは悔しかった。我がボクサーは世界に認められておらん……そう言われとる気がした。
じゃが感謝もしておる。
なんと有り難い申し出じゃ!」
幕之内は副産物という形になる。それを分かっている鴨川の表情は静かな怒り、それと強い向上心に満ちていた。
「ゲバラ戦の次……タイトルマッチのことを見据える段階にきておる」
「────えっ?リカルドは1位の選手以外と試合をしないんですよね」
「今のWBAフェザー級のランカーはね、リカルドに挑戦したことのあるボクサーが大半なんだ。
彼らは強いけどWBA1位は獲れない。彼らより強いボクサーがランカーにいる限り、そっちが1位に上がる」
「リカルドが認めれば新参だろうと1位じゃ。ファンの人気や興行より、実力で
その反面、ゴンザレスが勝てばWBAランカーの様相も変わる。やはりタイトル挑戦に近づくじゃろう」
腕を組んで幕之内に伝えた言葉は、暗にその実力がリカルドの玉座に迫っていることを褒めている。ゲバラ戦の戦果次第では、タイトルマッチに名乗りを上げる資格があるのだ。
「行ってこい。貴様が倒すべき頂点を見届けろ」
鴨川からの激励を受けて、胸の内から込み上げる武者震いに任せた返事をしようとした時。
「オレ様がホークに挑んだとき以上の差がある試合だ。
ゴンザレスの野郎に勝機があるかは微妙だな」
事務所のドアを開けて入ってきた鷹村は、確実に盗み聞きをして得た情報から悪びれることなく結論を出した。
「会うまでは分かりませんよ」
「会って、分かっちまったらどうする」
意地の悪い返し方だ。敢えて厳しい言葉を投げた鷹村を見つめ返して、幕之内は迷わずに返答する。
「僕に倒されるくらいなら、リングには上がれません。だから、試合中継がここで観られるなら、それが答えです」
揺るがない結論を打ち返す幕之内を見て、鷹村は数秒考え込むと鼻を鳴らした。余計な言葉は要らないと分かった途端、その視線の熱意は向きを変える。
「……つまり、ゴンザレスが勝つかも?」
「可能性は十分にあります」
「…リカルドが負けりゃあ、目標が1つ消えるもんなぁ。そうすりゃあ上にだって行きやすいってもんだよな。
なっ、ジジイ!」
砕けた表情で爆弾を投下した。
リカルドが負けたあと、幕之内が見る場所は何処になるのか。鷹村の言葉の意図を理解した鴨川が青筋を立てる横で、幕之内はその未来を思い描く。
「…もしも」
もしも……リカルドが王座から転落したら。
そんなIFを語る人はどれだけ居ただろう。
きっと沢山いる。語らずとも、いまの僕のように思ったことはあるはずだ。
「………僕は」
リカルドは負けたら引退する。本人の意思に関係なく、年齢のせいでリングから去るんだ。そうしたら、伊達さんとの約束を果たせなくなったフェザー級に居る意味はあるのだろうか。
千堂さんにリマッチは申し渡されている。
それまで僕は待てるだろうか。
ライト級に行くことを待てる……のか?
もしも、本当に起こり得るのなら。
その時は────
「ふんっ」
幕之内の想像を止めたのは、鴨川が鷹村へと振り下ろした杖の打撃音だった。
「いでぇ!?何しやがる!」
「他人の試合を気にするとは偉い立場じゃ。減量が楽じゃからと無駄口を叩くでない!貴様はあと10キロ落とさにゃならんのだぞ!分かったら走れ!さっさと行け!」
「だぁー‼︎世界チャンプを杖で殴るなあ!」
杖を振り払った鷹村は入り口まで走っていき、ドアを全開に開けて振り向いた。
「一歩!」
「は、はい!」
「世界を見てこい。お前の拳が届くかどうかを!」
「────はい!」
世界へ早く来い、と待ち遠しくて浮かれた姿に見えてしまった。願望でしかないのだが、幕之内には確信めいたものを感じている。
幕之内は嬉しい感情をそのまま返事に込めて、メキシコ修行は決定した。
───
──
─
そして、幕之内が退出したのを見届けた鴨川は椅子に深く座り直し、座席を回して外を見つめる。
「もし、小僧が望むならば。老いた誇りよりも優先すべきことがあるなら……」
ここまで、少なくない出来事があった。思うこともあり、そのたびに遠くなる自分の過去を振り返る。
「…止めじゃ。そのとき、もう結論は決まっとる」
拳闘家たる自分に誇れるような最期を。
そのために、不慮による引退などあってはならない。じきに、種は芽となる。幕之内の成長を、誰よりも確信するからこそ。
「悔いが残る試合など、させてたまるか」
鴨川の頬から小難しい皺しわは消え、純粋な子供のように空を見つめていた。
▼
-3ヶ月後-
幕之内が降り立ったのはメキシコ・シティ空港。
全ての手続きを終えて待ち合わせ場所に向かうと、聞き慣れた日本人の声が聞こえてきた。
異国でもよく通る大阪弁の声は、言わずもがな千堂だ。
「千堂さーん‼︎」
「おっ、時間通りやな幕之内!」
相変わらず牙のような笑みを浮かべる千堂を見て、リカルド戦から立ち直ったことを確認して安堵する。
「時差ボケは無さそうやの。いつアウェイでやるか分からんき、慣れとく意味でも来て正解やで!」
「こればっかりは回数重ねないと慣れませんから、とても貴重な体験で有り難いです」
前回は千堂の試合前日にメキシコへ入国した幕之内。リカルドとの試合をライバルがするというだけで興奮していたため、時差ボケの影響を捩じ伏せての観戦だった。無論、帰路は身体も心も疲れ果てていた。あれでは身体を現地時刻に合わせることもままならないのは分かる。身体を慣らすという意味でも、メキシコ滞在時間全てが練習時間となり気がぬけない。
千堂の歓迎を受けてから、幕之内は彼の後ろに立っているボクサーへと向かった。神妙な顔つきで幕之内を観察するボクサーに、両手を出して挨拶をする。
「お久しぶりですゴンザレスさん」
「よく来てくれた。歓迎するぜ」
リカルドへの挑戦権を賭して戦ったボクサーと3度対面して、感謝と歓迎のやり取りを行なった幕之内は気づく。
(な、なんて気迫だ……!僕と戦った…いや、千堂さんと試合したときとは別人だ。
試合に対する意気込みが拳から伝わってくる)
鴨川とのやり取りを否応にも思い出した。
“僕はきっと、千堂さんを引き立てる脇役として呼ばれたんだと思います…”
“ワシは悔しかった。我がボクサーは世界に認められておらん……そう言われとる気がした”
定かではなかった言葉のやり取りが確信に変わった。自分は引き立て役でしかなく、認められたのは相乗効果のみだ、と。
復帰までの3年間。
幕之内にとっては休養期間と課題に向き合う期間だ。2つとも目的は果たすことができた。
身体は現役の頃よりもダメージが抜けている。“デンプシー・ロール破り破り”は及第点を鴨川から貰った。
敗北した
「僕の全力をぶつける準備は万端です。
そして…リベンジの予約を取りにきました」
そうして捻り出した言葉は、3ヶ月前にライト級に行くことを望んでいた自分とは思えないほど挑発的なものだった。
ゴンザレスの頬が上がる。…いや、捻じ曲がった。
「────くく。良いぜ。
リカルド倒して、センドーにリベンジしたあとならな」
いま、確実にミキストリが出た。
ゴンザレスが抑え込んだが、幕之内の言葉で闘志に火が付いていた。凶気とのコミュニケーションに自信のない幕之内は冷や汗をかいたが、難は過ぎ去ったようで安堵する。
「んで、そこのボウズが“役に立つボクサー”か」
一息のうちにゴンザレスの興味が移った先は、幕之内の後ろに付いてきていたボクサーだ。
「あっどうも板垣です!宜しくお「不合格‼︎」ね…」
「どう言うつもりだセンドー‼︎」
「っ───────」
間近で舞い上がる凶気が板垣の精魂を震え上がらせる。左拳の一撃で意識がリングに散らばるような虚脱感を、ゴンザレスの罵声で打ち込まれた。
(これミキストリの方だ!?)
(うわっここで豹変した!?)
2人がドン引きする横で抗議を受けた千堂は、耳を掻きながら受け流すように答える。
「んなもん一目で分かるかい。そこの坊はワイんジムの新人王を圧倒した天才くんやぞ。実力はあるわい」
「その程度っ────」
青筋を立てて猛抗議を続けようとするミキストリが、立ち眩んだ足取りで後退する。俯いた死神を何事かと3人が様子を伺っていると、ため息を吐きながら顔を上げた。
「悪いな、リングの外で出てくることは少なくて油断した。どうか許してほしい」
顔を上げたらゴンザレスに戻っていた。
板垣は無言だった。事実に挟む言葉はない。
「ただ…期待していないのは事実だ。最初に忠告しておく。着いてこないなら放置する。センドーも、マクノウチも例外はない。
食い潰されねェように死ぬ覚悟しとけ」
ただ、板垣の瞳に宿る色は激情のソレだ。
自分の尊敬するボクサーを倒した漢が目の前にいる。ボクサーとして、拳を交えたくなるのは当然の欲だ。
「精一杯頑張ります」と薄目で挨拶をする板垣。2人の間に飛び散る火花を見て、幕之内は板垣の前に出て宥める。
「んなこと言って、顔腫らしてたら恥ずいで?」
「やってみろやァ」
「睨めっこでリカルドに勝たせたろか?」
「………勝てるのか」
千堂が引き締まる雰囲気を和ませつつ、進まない状況は飽きたとばかりにゴンザレスと共に外へ行く。
時差ボケ以上の心労を心配しながら、幕之内も2人のあとに続いた。
ゴンザレスの物語において板垣の描写は重要では無いため、板垣視点は色々と省きます。
クルーザー級編で掘り下げるから許して。
リカルド・マルチネスVSアルフレド・ゴンザレス、勝者は?
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リカルド・マルチネス
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アルフレド・ゴンザレス
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引き分け