鷹の6本のツメ   作:ひとりのリク

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準備万端

 

 

メキシコ・シティ空港からの移動手段は車だと千堂から聞いていた幕之内は、ロータリー前に着いた車とその持ち主を見て驚愕した。

 

「ゴンザレスさんが運転するんですか!?」

「お前も驚くのかよ……俺をなんだと思ってる」

 

幕之内の見開かれた目を見て、心外そうにため息を吐くゴンザレス。反応を見るに既に似た言葉を聞いているのだろう。誰の反応かは幕之内でも直ぐに見当がついた。

そんな2人を見てただ1人、快活に笑う男に目を向ける。

 

「せやろ、言うた通りやったな!

運転中に死神に代わられてみぃ?

走る棺桶に乗ってんのと同じやで?」

「んぐぐ…。あとで覚悟しとけよマクノウチ…」

「とばっちりだ………」

 

幕之内としては綺麗な反論をしてほしかった。

本人に弁解してもらわないと、走る棺桶に心当たりがあることになる。

助けを求めて視線を板垣に向ける。しかし彼の興味は空港の人混みのなかにあるようで、何に惹かれたのか視線を向けても目標は分からなかった。

 

「どうしたの、板垣くん」

「あっ、いえ何でも……」

 

素気なく答える板垣。こちらを向いて「先輩は関係ないですよ〜」と軽口で割ってくれたので、幕之内は板垣の興味は旅先の見慣れない土地に向けるものだと思うことにした。

 

(今の人、見たことがある。ライト級の世界ランカーだ)

 

幕之内たちの会話に混ざりながら、人混みのなかに見つけた人物のことを切り出そうか迷う。

 

(試合かな? なんか帰るっぽいけど…ま、いっか)

 

だが、それも直ぐに霧散する。

いま重要なことは雑誌で見た人物ではない。戦力外を通告してきたゴンザレスの人物像を理解して、必ず自分の糧に変えてやることだ。

 

道中の運転は快適なものだった、とは幕之内談。

ゴンザレス曰く、ミキストリの方が運転技術は上だ言う。千堂が「見せてみぃ」と言い出したときは全力で止めた。なんせ、安全運転をする保証は出来ないとゴンザレスが言ったからだ。

 

 

 

 

───

 

──

 

 

 

 

 

 

そうしてメキシコ・シティ空港から約20分。

大通りから脇道に逸れて直ぐの場所に、二階建てのボクシングジムがある。ジムの正面には10台を止められる駐車場があり、周りは更地となっていてジムが目立つというもの。ジムの周辺で迷ったとしても、ここには多くのアマ・プロボクサーが出入りしているため、大通りの建物で隠れていても跡が見つけやすかった。

 

「ブラス、最後のヤツらを連れてきた」

「来たか、世界の卵たち」

 

ゴンザレスによる翻訳を通して、彼のトレーナー兼セコンドを務めるブラスの歓迎に幕之内たちは笑顔で応える。

 

「おーきに!また世話んなるわ!」

「どうぞ宜しくお願いします…!」

 

握手を交わし終えて、幕之内は青く明るい内装のジムを見渡した。

 

鴨川ジムのサンドバッグと違うのは、サンドバッグの高さだ。幕之内の身長と同じもの、それより5センチほど高いもの、それより更に5センチ高いもの…といったように、6種類の高さのサンドバッグが並んでいる。

サンドバッグは並行に並べるものと思っていた幕之内が、物珍しいとばかりに見つめていると。

 

「相手の身長に合わせて打てるさかい、フォームの矯正にはもってこいなんや」

「あ〜、確かに! 1番低いサンドバッグはいつも通りボディを打つと下半身に当たるけど、高いものだとちゃんとボディに突き刺さる!!

なるほど、こうして自力でも打ち方を矯正できるようにしているのか」

「まあここまでしてもワイには勝てんのやけどな!」

 

ガッハッハと笑い声を上げる千堂。日本語だから周りの人間に意味は通じていないものの、豪快を突き抜ける発言に顔面蒼白になる幕之内。

 

(千堂さんが気にするようには思えない。多分ゴンザレスさんに教えてもらったんだろうな)

 

板垣、正解である。

 

「カバコフは帰ったのか。挨拶(スパー)する気だったろ」

「急用を作ると言って出ていった」

「………気分屋だから仕方ねえか」

 

スペイン語で話す2人を見た千堂が板垣に問う。

 

「なんて言ってるんや?」

「スペイン語は分かりませんね」

「右に同じく…」

「分からんのかい!通訳兼ねて連れてきたんやぞ?」

「そんな無茶な!?」

 

理不尽な理由で逆ギレされて板垣が嘆いていると、ゴンザレスがグローブを持って戻ってきた。

 

「時間は限られてる。

意気込み通りの仕事はこなしてくれよ」

 

リングを指差して3人を見る。

最初に上がるのは誰だ?ということだ。

 

「僕から行かせてもらいます」

「肩の力を抜いたらリングに上がれ」

 

千堂よりも早く名乗りを上げた板垣は、直ぐにバンテージを取り出して準備を始めた。

 

 

ロープとシャドウ、サンドバッグを叩いて身体の調子を確かめたあと、イタガキは「モーマンタイ!」と言ってリングに上がった。

開始から4分間、つまり第2ラウンド中盤に差し掛かる頃だ。ヘッドギアも着けずにリングを動く板垣を見ながら、自分の口角が上がっていくのを感じていた。

 

(へぇ、速さと早さなら宝石もんだ)

 

このボクサーは理解している。経験値が偏っているせいで身体が付いてきていない、晩成型が故の実力不足だ。それがメキシコ滞在中に開花することはないが、キッカケさえあれば世界に届くだろう。

メキシカンのパンチを紙一重で避けてみせた集中力も併せて、2年後が楽しみなボクサーだ。

 

「避けた!」

「────アカン」

 

イタガキはコーナーに近づかない。特に嫌っている場所がそこだったお陰で、逃げ道はロープ際に限定できた。放ったジャブをウィービングで避けた先で、右のロングボディを打ち込む。

ウィービングの途中で着弾したボディで身体を丸めて、イタガキはリングに転がった。

 

(…やっと方針が固まったとこか。

俺をやすりにして精々利用してみろ)

 

言葉で教える必要はない。イタガキは相手と自分を見て、解説をつけて咀嚼する人間だから余計な口は挟まない。

 

「板垣君!?」

 

リングの外ではマクノウチが叫んでいる。

…呑気なヤツかと思ったが、両拳にはしっかりとバンテージが巻かれていた。やる事はやっている、態度は甘いが。

 

「次だ、上がれ」

「……はい!」

 

イタガキの様子を見に上がってきたマクノウチに言うや、威勢良く答えてイタガキを担ぎ上げる。

ここからが本番だ。リカルドの暴力に届くとも思えるパワーを寄越せ。俺が世界を回って見定めた2人で、暴力を打ち負かしてみせる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

幕之内たちがゴンザレスとのスパー相手に取り組んでから5日間が経過した。

それぞれの成果を軽く記しておこう。

 

板垣はウォーミングアップとして扱われ、計10回のスパー全部が2ラウンド以内でK.Oされた。接近戦を仕掛けることは極力避けて、中間距離でカウンターを狙うスタイルで臨んでもゴンザレスに拳は届かない。

 

幕之内は殆どが2番目としてリングに上がった。ゴンザレスの要望通り、中間距離以上を封じてのスパーは計10回、3ラウンド続けてダウン2度のみとなっている。ダウンが奪えていないのは、ゴンザレスの技術が全て1つ上にあるからだ。

 

千堂は1回を除いて3番目でリングに上がり、頭を突き合わせるようなインファイトでゴンザレスを沈めにいった。だがダウンは奪えず、されどダウンはなし。なによりも驚くべきは、千堂の被弾が少なくなっていることだ。ガードの技術力が向上していることから、リカルド戦の反省を相当繰り返したことが分かった。

 

8日目となって午前の練習が終わった日の休憩中、千堂が軽い談笑の雰囲気で話題を持ち出した。

 

「んで、勝算はどのくらいあるんや」

 

その内容は幕之内と板垣の表情を強ばらせるには十分すぎる、タブーだと思っているものだった。

本気で言ったのか、と目をひん剥く2人を気にもせず。

 

「1割だ」

 

あっさりと、絶望的な数字を答えてみせた。

 

(1割って、勝ち目が無いのと同じじゃないですか。

ここまでの人でダメなら、同階級どころか上ですら勝てる人は本当にいないぞ…?)

 

2階級上であるライト級の世界王者とのスパーで、一方的にあしらったという話を板垣が聞いたのは昨日のこと。その王者は既に引退しているが、当時はPFP10位に入るほどの実力だった。PFPだけで考えると、いまのライト級王者で勝機のある人物は1人のみだ。

 

勝算の低さに押し黙ってしまう2人。

千堂はというと、右手で膝をポンと叩きながら笑った。

 

「なんや、結構あるやんけ。深刻そうな顔してるさかい、負け戦か思うたわアホ」

「……え」

「1割しかないんですよ!?」

「不思議やあらへんで。10発中1発当てりゃいい。その1発で勝ちをもぎ取るんや。ボクシングはそれが起こるさかいの」

 

千堂はリカルドとの試合、クリーンヒットは0発だった。

そもそも勝つ可能性を手に入れることすら叶わなかった。その拳は一撃で絶望を振り払えるもの。しかし、そもそも絶望に触れなければ意味がない。ゴンザレスの提示した1割とは希望的観測ではなく、足掻けば勝てる可能性が必ずある自信からくるもの。

リカルドがデビューしてからの歴史上、彼に1割の勝算を持ってリングに上がったボクサーは片手ですら余る。

 

「ま、そーゆうこった!」

 

リカルドから2度の敗北、そして千堂 武士から1度の敗走を喫したことでついにここまで来た。10試合に1度は勝てるという、最凶の挑戦権を手にして。

 

「お前らには盛り上げてほしくってな。なあに、いつもみたいに叫んでくれりゃ良いんだ」

「任せとき任せとき。

ダウンして寝てもワイの声で起こしたるわ!」

「そうならねえように練習してんだろう!?」

 

千堂のボケにゴンザレスが応える。

仲の良いやり取りは幕之内が来たときから出来上がっていた。前回ここに千堂が来たときに仕込んだのだろう。

案外とノリの良い人なんだ、と思ったことは黙っている。板垣も同じ目をしていた。

 

休憩を終えて立ち上がったとき、ゴンザレスがシューズに視線を数秒落として「またか」と呟いた。何事かと見守っていると、シューズを脱いで中に手を入れた。

 

「中敷きを入れ替えなきゃな」

 

言いながら取り出した中敷きを見て3人は唖然とした。

右足親指の付け根部分の中敷きが爆ぜたように消えて…いや、擦り減っているせいだ。

 

「そんなに削れます!?」

「千堂とやってから20組みは替えた。

両足ともここばっか擦り減っちまうからよ、直ぐ替えなきゃ皮膚が破れて練習にならん」

 

幕之内は生唾を呑んでいた。

 

(20組!?僕は今年に入って何組替えた……多分2組くらいだ。1組替えるだけでも相当な踏み込みの練習が必要なのに。この2年でどれだけの練習をしたんだ)

 

ゴンザレスの言葉は疑いようがない。スパーの動きは既に別次元のものであり、ゴンザレスだけでも3人共に手一杯だ。

幕之内の期待感が間違いでなければ、1割という勝機はまだ上がる。このスパーは暴力対策だけではなく、その為のものじゃないか。

 

「おーし、今からは混ぜていくぞ」

「…?」

 

ゴンザレスの言葉に首を傾げる2人。

千堂だけは合点がいった顔をしている。

 

直後のスパーで、板垣が瞬殺されたのを目撃して幕之内は中敷きを頻繁に替える訳を知ることになる。

勝機を伸ばす、ゴンザレスの最凶の姿を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

更に5日間が経った。

 

「死神コンビ、ワイん時と強さ違いすぎひん?」

 

リングの上で倒れ伏した千堂、渾身の褒め言葉を聞き届けるゴンザレスは座ってはいるものの余裕の表情だ。

5ラウンドで千堂1ダウン、ゴンザレスは何度かの直撃のみ。これでも千堂は健闘したほうで、幕之内と板垣はインファイトで競り負けている。

 

表裏・死神(アズール・ミキストリ)

3人を次々と打ち倒したゴンザレスの新様式。

千堂との試合で様式・死神(モード・ミキストリ)から進化を果たした、理性と凶気のスイッチは世界王者の底力に相応しいものだ。

 

「あの時は俺たちがボロボロ過ぎたんだ。

……つっても?打ち負けるなんざ思わなかったよ。あの時はお前が強過ぎたんだって」

「リカルドとやる前のスパーじゃこんな差はなかったやんけ」

「お前が弱くなったんじゃねえの」

 

眉をぴくりと動かした千堂が反対を向く。

リカルドに負けて以降、放浪していた千堂には心当たりがあるせいだろう。幕之内は知らないフリをした。

 

「イタガキは?」

「ロードワークに行きました」

「……そうか」

 

さっきから見かけない板垣の所在を聞いて、ゴンザレスは最近の板垣が午後からはロードワークに行くようになったことを思い出す。

今回のように、すぐに体力を回復する程度には被弾が少なくなり、動きのキレが増している。ロードワークに行き始めてから、という発端に2人が気づいている様子はなさそうだ。その理由を話せばややこしくなるのでゴンザレスは黙っておいた。

 

「そーいや聞きたかったんや」

「あんだよ」

「リカルドのやつ、WBAから動かんのはなんでや」

 

幕之内は場の空気が冷えていくのを感じとった。

またもや思い出したように切り出した話題は、ゴンザレスの機嫌を損ねるものではなかった。場を冷やしたのは千堂の視線(いかり)だ。

 

(い、いいのか…そんな質問をしても)

 

内心ではそう思うものの、質問の意図は汲み取れる。

 

「……そんなに重要なことか?」

「ワイからWBCのベルトぶん獲って直ぐに返上しくさりおって。そんなにワイのベルトが要らんっちゅーことかい」

 

ゆっくりと上半身を起こして、リカルドの問題の行動に答えを求めた。

 

千堂との統一戦に勝利後、リカルドは防衛戦をせずにWBCのベルトを返還した。試合に満足したから、と述べて返還したことにボクシングファンの多くは落胆している。

 

「階級を上げるのでもなく、千堂さんのベルトを返上したのは僕も納得がいきません」

 

幕之内も不満を隠しきれない。

 

2人の視線を受け止めたゴンザレスの瞳は、真実を知っているものだ。見つめて数秒、見つめられて粘り、

 

「……お前ら、アーティット・キングピッチというボクサーを知ってるか?」

 

ゴンザレスは口を開いて1人のボクサーの名前を告げた。幕之内と千堂が顔を見合わせ、心当たりがないことを確認する。

 

「リカルドのやつ、世界に行く前に前々代WBAフェザー級王者とスパーをして、ボッコボコにしたんだ」

「……………それは。どちらが、どちらを」

「分かるだろ。リカルドが王者を、だよ」

 

言わずとも分かる。いや、想像に難くない。

リカルドは、国内の時点で世界王者レベルだったと。

 

「当時のWBAフェザー級王者だったタイのアーティットは、リカルドのバイオレンスを前に完封された。直後の防衛戦で呆気なく敗北、そのまま引退している」

 

これが当時の記事だ、と言って差し出した雑誌を受け取る2人。右上半分を占める写真には、若かりしリカルドが右拳を振り抜いた姿と、アーティットと思われるボクサーがうつ伏せに倒れる姿があった。

 

リカルドの強さがいかに異次元であるかは分かった。

ただ、アーティットの名前を持ち出したゴンザレスの意図が分からない。

 

「このチャンプをボコって、自慢したさにWBAにおるとかやなかろうな」

「アーティットは3階級制覇者だ。王座防衛は合わせると17回、5年以上もの経験者で“闘神”と呼ばれていた」

「……あ。公開スパーで倒して、しかも負けたから気にしてるってことですか?」

 

もしそうなら、階級を上げない理由にはなる。

 

「それがホンマなら器小さすぎるやろ」

「ちょっと千堂さん」

「ワイかてスパーで東洋王者をボコったことあるで」

 

スケールが違う…!

だけど、似たような話だ。世界王者とはいえ、リカルドが公開スパーのことを引きずる人物とは思えない。

それに、僕の時とは様子が違う気がした。

 

「彼を倒したリカルドは国内王座を返還したあと、3年で20試合の世界前哨戦をした。アーティットをスパーで倒した、その噂を聞いた王者がリカルドを遠ざけたせいだ」

「3年間で20試合!?」

「あの強さで40戦しても世界のベルト巻けんかった理由はこれかい。金目当てのつまらん王者やったんやな」

「……ま、そこは問題じゃねえ。ていうかよ、本人が語った訳じゃないから憶測でしかないが。

リカルドは公開スパーで相手のプライドはへし折らない。国内王者のときからそうだったんだ」

 

ゴンザレスの言葉を聞いた幕之内は、その慮りに心当たりがあった。

伊達のリベンジマッチ前のスパー相手として、幕之内がリカルドと相対したとき。デンプシー・ロールを完封したあと、動けない幕之内にトドメを刺さずに、

“日本王者のプライドを叩き潰すつもりはない”

ビルを通してそう記者に伝え、グローブを解いている。

違和感はここだ。リカルドが相手を倒したことだった。

 

「加減をしなかった。これは事故だったんだ。

リカルドはまだ、自分の力が世界を落とせるものと知らずに暴力を解き放った」

「…んで、闘神がこの有様か」

「完成された神の過ちを償うために、自らに重い罰を課した。ダウン、若しくは────敗北するまでの防衛を」

 

無敗神話の裏側から出てきたのはリカルドのたった1度の過ちと、審判者不在の終わらない禁錮だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

少しだけ、昔の話をしよう。

センドーとマクノウチには言わない、俺の独白だ。

 

リカルドがWBAフェザー級から動かないことを、さっきは予想だと言って奴らに聞かせた。だが俺は真相を知っている。

正確には、教えられた。タチの悪い貰い事故だ。

リカルドに2度目の敗北を喫したあとの話だ。不貞腐れて独り夜道を歩いていたとき、俺はヤツに出会った。

 

「リカルドをあそこまで怒らせるバカだ」

「………」

 

眼鏡のツルを左手で撫でながら話しかけてきた男。嫌な雰囲気を出す男だ。ひと目でボクサーだとは分かったが、気が立っている俺は無視して横を通り過ぎる。

 

「俺はアーティット。ピンときたな、夢見る青年」

「……元WBAチャンプか」

 

その名乗りで足が止まる。

だが分からない。急に現れて、したり顔で声をかけてくる不審者が元世界王者だと?どんな意図か聞く余裕はない。

 

「絡んでくるなよ。今日は機嫌が過去一最悪なんだ」

「2敗目だ。諦めないのか?」

 

…このやろう、知ってんのか。尚のこと機嫌が悪い。

 

「リカルドが遠い。俺の生涯をボクシングに費やしても、このままじゃヤツに届かない。

………アンタを倒せば、足しにはなるかもな」

「あり得るな。今度やるか?」

 

アーティットの返しに俺の機嫌は最悪に落ちた。

人通りのない夜道で挑発行為をする意図なら、冷静さを欠いた俺でも読み解ける。

敗北した直後のボクサーは恐ろしくない。若しくは、プロが手を出す訳がないと傲慢な考えになっている。

 

「今なら良いぜ」

 

ブレーキは今夜だけ壊れていた。理性で話しているのに自制は効かなかった。目の前にリカルドを知るだけの雑魚がいるせいだ。

拳を握り締めて、腹に容赦なく1発を見舞って───

 

「………は?」

 

視界が転がる。

小瓶を倒したような軽々しさで、地面に転がる自分に対して疑問の声が漏れて気づいた。

今日、2度目の瞬殺をされたと。

 

「リカルドが暴力に出たのはお情けだ。天上を見上げろってこった、ピンときたか?」

 

リカルドと同レベルの実力を感じた。

これが引退したボクサーの…公開スパーで完敗した男だってんなら、俺は一生リカルドには────。

 

「お前に足りないものを教えてやろう。

リカルドの過去と俺の負けの理由を!」

「────ぇ、あ?」

 

屈辱で凶気も萎えかけたとき、アーティットは笑いながら胸ぐらを掴んで叫んだ。

…リカルドの過去ってなんだよ。

 

「まずは大事な結論。

リカルドがフェザーに留まってんのは俺のせいだ!」

「…………………は?…………はぁ!?」

 

理解不能の告白から数分後、俺たちは全てを知った。

 

 

 

 

 

 

──

 

───

 

 

 

 

 

俺は思った。くだらない理由だと。

アーティットは言った。バカ野郎だと。

 

「俺に言わせりゃ、どっちもバカだ」

 

ボクシングに寄り添い過ぎたせいで、罪を神話にしてしまっただなんて。腹が立つ、苛立ちが治らない。ここまで来てもボクシングに愛想を尽かさない姿勢には頭が上がらない。

けどよ、下を見てもアンタがいる。

過去のリカルドは未だに健在だ。ふざけているだろ、アレでもまだ……望んで成長していないのだから。

 

「…ふん、行くぞ。記者会見が始まる」

 

凶気を潜めて歩き始める。

 

何も起きない通過儀礼を終わらせるために。

 

俺たちが未来を切り拓くために。

 

 

 

 

 

 

 

 

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