鷹の6本のツメ   作:ひとりのリク

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太陽に届け、表裏無き拳

 

 

死闘の幕開けを報せるゴングの音は、意外にもアレナ・メヒコに静寂を落とした。神の御前に立つような緊張感に包み込まれて、幕之内と板垣は天上世界に圧倒される。

 

「締まりのなかった会場が静まり返ってる…?」

「勝負所っちゅーことやろ」

「えっ、いきなり!?」

 

千堂の見解に板垣が驚きの声を漏らす。

喉元で食道を細めなかったら、会場中に響き渡りそうなほどに静かなのだ。それでも目立つ板垣に目もくれないのは、千堂の言葉が正しいということ。

 

「リカルドから先制を取れるか。地元民は皆んなそこだけで分かってまう。逆に……」

 

解説を求める板垣の視線に応えつつ、千堂の拳は骨が浮き上がるほど締めつけられていた。36分間、どこかで起こさなければならない奇跡(ダウン)へ辿り着くには、開幕を勝ち取るしかない。

 

「ゴンは先制をしくじった瞬間、観客から見放される。声援は1つたりとも期待できんくなる。

絶っっっっ対にぶん取るんやぞ、開幕」

 

開幕奪取。

無敗神話に通じるか否かを決める最初の分岐点は、既に目の前にある。

 

ゴンザレスは目前の分岐点を見上げながら、コーナーを背にして最後の挑戦を噛み締めていた。

 

「長かった」

 

3度目の負けで漸く渇きが潤った。

千堂との試合で初めて敗北を納得出来たのだ。

 

負けて強くなる、という言葉をゴンザレスは内心で酷く侮辱していた。リカルドに2度の敗北を喫しても、己の無様さが感情を振り回すだけ。ましてやミキストリとの協力(せいちょう)など起こらなかった。

“納得”こそが鍵だと知った。

高め合えるボクサーの存在がゴンザレスには必要不可欠だったのだ。

 

断言する。千堂に勝ったあとにリカルドと試合をしても、リカルドに遠く及ばずにボクサー生命を終えていた。

 

「先ずは挨拶からしないとな」

 

灰の積もる路を歩き続けて、3度目の邂逅は果たされる。

あいも変わらず油断のない足取りで距離を詰める神話に、理性の顔が喜色に彩られながら右拳を差し出した。

 

『ついに始まったWBAフェザー級タイトルマッチ、3度目の挑戦。両者、拳を突き合わせて挨拶を交わします』

 

左拳同士が相手の領域に触れる時間は、ジャブが頬を打つ瞬間を見ているようで、観客たちの緊張感はここがピークかに思えるほどだ。

ゴンザレスには、会場が作り出すこの雰囲気が落ち着けなくて嫌だった。2度目の挑戦のときを思い出すせいだろう。

 

「よお…前の試合の続きからだ」

「…………!」

 

気づけば身体の主導権は理性を突き放していた。リングの上で覗いていたのは理性ではなく、死神の顔。

見所を決めつける雰囲気を作った原因である。

 

(オープニング(主導権)は絶対に取る。

神話破りの必須条項なんだぜェ?)

 

前回、最後にここ(リング)でリカルドを見上げていた死神は、理性の肩を乗り越えるや1人で飛び出していった。

 

「ゴンザレスさんが行った!」

「ちゃう!あれは死神や!」

「それ、前回と同じ展開ですよ!?」

 

板垣の言う通り、前回の敗北をなぞる行為だ。

ゴンザレスがなにを考えているのか。もしも、ここにきてミキストリに乗っ取られたとしたら、既に勝敗は決したも同然。最悪の結末が見えて幕之内の顔面が蒼白になり、千堂の瞳が震えた。

 

(同じ過ちを繰り返すのか、ミキストリ?)

 

無敗神話は暴走を起こしたミキストリを見下げ果てながら、カウンターの態勢を整える。

死神の左拳がただ打ち放たれる。開幕の流れを掴むには適するほどの威力と速さだ。相手が無敗神話だとしても、ガードで様子を見ざるを得ないはずだった。

ただし、普段の防衛戦であればの話だ。

 

(私の見込み違いだったか…)

 

これはゴンザレスとの3度目の試合。

世界レベルの実力ではリカルドは満足しない。

自分を倒す見込みがあるまで、誰であろうとリカルドは3度目の挑戦を引き受けない。この試合(3度目)は世界の規格から飛び抜けた者に与えられる、リカルドが真に認めた相手という証拠だ。

 

その目利きが相手に否定された落胆が拳を握らせる。

開幕からリスクのある行動を取るのは、リカルド自らへの戒め。ミキストリの暴走で怒れる自分を高める、隙を殺す儀式であった。

 

(ならば、この試合はここで終わりだ)

 

無敗神話の右拳は一切の躊躇なく、暴走するミキストリの放つ左拳を越えて顔面へと打ち込まれた。

 

『ク……クリーンヒット!?!』

 

ミキストリはそこで終わっていた。

リカルドに届かずに、前回と同じ末路を辿った。

 

(開幕を取る。流れを引き寄せるのは絶対)

 

然し、敗北を無理やり捻じ曲げる男がいた。

ゴンザレスが身体の主導権を受け取り、更に前に飛び出すことで未来が変わる。

ミキストリの暴走と敗北があったからこそ、この“殺気(フェイント)”は成立する。

 

(なにをした────)

 

ミキストリの暴走は本物だった。ゴンザレスの制御(フェイント)が通じるのは、リカルドの想定を絶するほど深淵で入れ替わりを実行しているため。

リカルドのカウンターが空振りしたのは、理性と死神の凶行に振り回された結果なのだ。

 

(勝つためならミキストリ(おれ)を囮にもしてやるよ)

(勝つためならゴンザレス(おれ)が使われてもいいぜ)

 

右の打ち終わり際、ゴンザレスのポジショニングはリカルドの右外側となる。リカルドのガラ空きの右頬を見ていることが、ゴンザレスには嘘のように思えた。

だから、血を吸い込んだ魂が拳に宿る。理性と凶気、両者が嘘でも幻でもないことを1秒でも早く証明したいから。

 

(まずい、ガードを……)

 

リカルドのパンチの引き戻しを狙うのは容易ではない。ただこの一撃だけは別だ。K.Oを狙ってしまった右ストレートは空振り、僅かに前に流れた重心が戻る直前なら、ゴンザレスでも狙える。

1発、ゴンザレスの右ストレートが放り込まれる。腕力のみでガードを間に合わせたリカルド。続けざまに放たれる死神の右拳(ストレート)は、崩れかけのガードを突き破っていく。

 

(────ただしなァ)(リカルドを倒すのは俺だ‼︎)

 

ミキストリは前回の屈辱を第1ラウンドで返礼し終えた。

 

『取った、なんとオープニングヒットを挑戦者ゴンザレスが掻っ攫う!しかも右で‼︎』

 

初手大砲をリカルドに直撃させる。

無謀で絶対不可能と思われた偉業を1つ果たしたというのに、会場中の観客が唖然とするだけだった。

それも当然だ。無敗神話に浸りきった地元の人間は、リカルドの身体が揺れる姿など久しく見ていないのだから。

 

「や、やるやんけゴンのやつ‼︎」

「ほ、本当に開幕獲った!しかも右!」

「ただの右じゃないよ!千堂さんとの試合で見せた入れ替わりをしてた!スイッチなんてレベルじゃない…!」

 

ゴンザレスの劇的なオープニングヒットによって、会場の雰囲気から解き放たれた幕之内たち。

彼らだけが正しく状況を把握して、ゴンザレスの勢いを後押しする声援を上げた。

 

(っし、挨拶は済ませたぜ)(上々だ。こっからは…)

 

歓喜するバカ共の声を聞き届けながら、ゴンザレスは態勢を立て直したリカルドに視線を向ける。

先程の右ストレートのあと、出来るならば追撃でダメージを蓄積しておきたかった。それを止めたのは、リカルドが追撃を狙って右拳を潜ませていたからに他ならない。

勢いに乗るのは結構だが、リカルドは乗った相手の行動を加味する判断力がある。追い風と思っていたものに裏切られたボクサーの末路を、その目で見てきたからこそ理性がここで強く働いた。

 

(両拳を額に当ててガード重視。

先制取られたのに取り返さない…つまりは様子見。成長した俺たちを再確認するつもりだ。

……考えるまでもない、攻めなきゃ勝てねえよ)

 

目先で待ち構える無敗神話に、堂々たるステップワークでゴンザレスが距離を詰めていく。

ガードで様子を伺うリカルドは、ゴンザレスによる開幕の被弾を重く受け止めていた。

 

(理性と凶気の入れ替わる瞬間が分からなかった。目隠しをされても、ステップ音で見破る自信があった)

 

開幕のゴンザレス、そしてミキストリの足音は確かに両者を分け隔てる基準に相応しいものだった。そもそも顔を見れば凶暴な様相で認識は出来たはずだ。

リカルドは2人を見分ける自信があった。いや、確信があった。それを第1ラウンドで易々と越えて、オープニングを掻っ攫っていかれたことを深刻なミスだと理解し終える。

修正に必要なのは情報のみ。迎え入れる他にない。

 

(………来い。見極めて流れを取り戻す)

 

ゴンザレスが踏み込んで放った拳を両腕で受け止める。これはカウンターを警戒するゴンザレスの左拳だ。続けざまの右拳、体勢を軸を中心にして打ち出すことから理性は続いていると見た。

然し、右拳に突如として凶気が宿っていた。

 

(なんだと────)

 

両腕に着弾する大砲、それも死神の一撃だ。

腰を落として受け止めざるを得なかったリカルドは、完全に開幕の流れを掴み損ねた。

 

(浴びるほどの星空(こぶし)で、無敗神話の盾を壊す)

 

ゴンザレスの揺れる前髪が直後、弧を描いて散る。

気を張り詰めたなかで漸く紙一重の生存。リカルドの反撃の左拳を見送りながら、瞬く間の隙へと左右のボディを叩き込んだ。

 

(そんでよ、テメェの化学を完封してやるぜ?)

 

僅かに意識が下へと向いた瞬間、フックとアッパー、理性と凶気の強打がリカルドを打ち抜いた。

 

『わ、私はなにを見ているのでしょう……?

幻覚ではありませんし夢でもございません。現実です、最凶の拳が神の顔面を捉え続けています‼︎』

 

無敗色に落ちる赤い雫。

凶気から溢れた人間が1人、神話の壁の前に到達する。

 

『証拠は血…!リカルドの口元から流れた血…!

僅かに滲んだ赤いソレが観客たちを震撼させる!』

 

観客たちは凶気の直撃がまぐれではないと確信した。

リカルドの徹底した試合運びを崩せる者が世界に何人いるだろう。まぐれを祈って手を出したボクサーは全て潰されてきた。考えるまでもなく、リカルドを相手にしてまぐれや奇跡などという言葉は適用されない。

直撃は実力、追従は神話。

 

ゴンザレスの脳がはっきりと理解した。

 

過去2度、リカルドと対決して負けた。当時は同じリングに立ちながらも、リカルドの存在を神のように思えてならなかった。

今は、はっきりと見える。解像度が上がったとか、輝きに慣れたなんて話じゃない。リカルドを同じボクサーとして、しっかりと地続きに捉えている。

 

(先出しで情報を明け渡そうが、流れ掴むにはここしかねぇんだ。この道はしっかりと舗装させてもらう!)

 

神の左ジャブをスウェーで躱し、理性が内側から左を返す。返すように弧を描く二撃のボディ打ちは、肘を引き戻してガードを間に合わせる。

ゴンザレスとミキストリの攻守切り替えが上手く嵌まり、リカルドを徐々にロープ際へと追い詰めていく。薄氷上の足場は少しずつ冥府色に染まり、ゴンザレスへと有利な雰囲気に仕上げてくれる。

 

「っ………が……!?」

 

降り積もる灰を心地良く踏み鳴らし、凶気が眼前で立ち上がった。太陽を掻き消す笑みを振り回して、空に灰を積もらせていく。

 

(いつ変わったのか、見抜けなかった…!)

 

以前なら一方的な心身の消耗を強いられた。だが今は、リングの上の進行を握るのはゴンザレスとミキストリ。

押し寄せる冥府の灯火の最中、2人の姿を捉えることは、太陽神と謳われるボクサーでも困難であった。

 

残り10秒間。

 

(……この場面(ラウンド)を手放してはいけない)

 

拍子木が最序盤の猶予を告げた瞬間、リカルドの直感が無意識のうちに自分に言い聞かせていた。

 

ゴンザレスに注がれる期待感を押し退ける。

リカルドがこのラウンドで最低限の仕事をするには、ダウン、若しくは強力な一撃を浴びせなければならない。

 

(ならば────)

 

なにを以って失態を補うのか。既に決めたリカルドは、冥府の門を足音で揺らすほどの気概を持って、表裏の世界に踏み込んでいった。

 

(センドー戦みてぇに暴力ブッ放すか?)(上等だぜ!)

 

砂浜を走り抜けるように力強いステップを見て、ゴンザレスたちは強引にでも流れを断ちに来たことを察した。その手段を暴力として爆発させて、仕留めるつもりでいるのだと、そう“錯覚する”ほどの気迫なのだ。

 

ミキストリの射程距離に侵入すると同時に左ジャブを放つ。だが、空振りした。既にゴンザレスに入れ替わり、回避されてしまう。挙句、バックステップをしながら死神のフックを打ち込まれる始末だ。

 

(はっ、まだ暴力じゃないらしいな)(おかしい…)

 

直撃に喜ぶどころかゴンザレスは訝しんだ。

リカルドのガードが緩すぎることに違和感がある。

 

(お粗末すぎる。なに考えてんだ)

 

残り10秒間で猛攻撃を抑えきれずに、自分に吹く追い風を手放す気は毛頭無い。攻撃一辺倒のリカルドを抑えるため、そのガラ空きの顔面に右拳を打ち込もうとして。ようやく違和感の正体を知った。

 

「リカルドが右拳を握り込んだ!」

「1発で流れを取り戻すつもりですか!」

「……いや、ちゃうな」

 

その意図を理解したのは、観客のなかでも千堂くらいのものだろう。リカルドを観てきた者は思い至らず、千堂のように暴力を吐き出せた者にしか導き出せない一手、それは。

 

(お前が相打ち狙いで来るのかよ!?)

 

ガラ空きにした顔面を餌として、自らも一撃を見舞う。あの慎重なボクサーがリスクのある手段を取るのは異例だ。それほどの事態であると認めたということだ。

まるで凶人のような選択肢を打ち込もうとするリカルドを目前にして、ゴンザレスは迷わずに後退していた。

当然だ、いくらミキストリが望もうとも無理なものは無理だ。第1ラウンドのリカルドの全力右ストレートなんて、フェザー級のボクサーが耐えられる訳がない。

 

(避けろ最悪守れっ…!!!)

 

大振りで踏み込むリカルド。

隙が大きい、広すぎるせいでゴンザレスは錯覚を起こしかけるが、カウンターを合わせようとするのは御法度だと知っている。この男、確実にゴンザレスを打ち抜く覚悟を決めているのだ。ミキストリの一撃を与えようとも、今のリカルドには通じない。

 

引き絞られるリカルドの右拳。

大きくバックステップをして射程距離圏から脱出した、そう思った矢先。リカルドは瞬く間に左ジャブのフェイントを利用して、重心を前に移した反動で更に距離を詰めた。

 

溶けた溶岩の上に立たされた。

距離の開かない現状をそう錯覚する。泣き言は終わりだ、取れる手段はガードのみ。

 

視線が合う。

 

考える暇は、、、ない。

 

太陽の表面から舞い上がる灼熱の拳が、ゴンザレスの身体を捉えた。

 

(防いだ────っ、、あ)

 

リカルドは確実性のあるボディストレートを選んだ。当然だった、相打ち狙いを実行するのは流れを止める1発を打ち込むためだ。万全の表裏・死神(アズール・ミキストリ)のヘッドショットを狙えば、リカルドといえども外す可能性は大いにある。

ゴンザレスの読みは当たった。そして、一杯食わされたことに気づいた瞬間、ゴンザレスの顔面は灼熱に飲み込まれた。

 

「なっ!?」

 

頬を打ち抜かれて身体が衝撃について行けず、たたらを踏んで後退する。重心が定まらず、退がってよろめいて、コーナーに突っ立っている自分に気づいたとき。

脳みそを溶かす熱が放出されて、リカルドが背を向けている状況のなかで意識が戻った。

 

(────────やら…れた)

 

響き渡る第1ラウンド終了の鐘。

寂れた街に吹く風を浴びた気分に陥りながら、ゴンザレスは自陣へと戻っていく。

 

荒れたリングの跡に唖然としていた板垣が、ようやく飲み込んだ状況から言葉を捻り出した。

 

「本命は左ジャブ……!?」

「右も全力だったよ。左ジャブは後付けに見えた」

「だからゴンは騙されたんや。

左ジャブ打つ気配を微塵も感じへんかった」

 

渋い顔をしながら、幕之内と千堂は身震いさせられた2人の攻防を言い当てる。

 

「ポイント取ったんは間違いない。せやけど、それ以外をはたき落としていきおった。

最後の最後、たった1発のジャブでな!」

「ゴンザレスさんの流れは!?」

「顔を見れば分かるよ」

 

椅子に座るゴンザレスの表情は、勝負の分岐点に臨むものと同じだ。開幕の緊張感は抜けきれず、壁は未だ遠くにある。

 

「振り出しに戻された」

 

相手に勝利の種を持たせることはしない。常に自らが試合を有利に進めて、勝利に落とし込む。

ここまでするからこそ、リカルド・マルチネスのボクシングは無敗神話となったのだ。ならばゴンザレスに有利な雰囲気、観客の期待感すら与えないのは当然だった。

 

リカルドに傾いた会場の熱。

想像を絶する攻防を前にして、幕之内は震える拳を握り込むことしか出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

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