鷹の6本のツメ   作:ひとりのリク

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暴力と闘神

 

 

世界王者として在るべき姿こそ、化学。

子供から大人へ、世界を納める頂点としての自覚から辿り着いたスタイルだ。過ちを悔いて、少しでもボクサーの未来を想えばこそ必要な檻だった。

 

罪人として彼に向き合える姿は、暴力。

最も強く、最も弱い。最も自由で、最も度し難い。本性を晒せばボクシングを愚弄し続ける。然るべき相手を選ばなければ、過ちを犯すこともなくなる。

 

相手を見定める、その表情は鬼気迫っている。

 

ブラスにも、千堂にも、幕之内にだってそう見える。特に幕之内は伊達戦のとき、リカルドの暴力が迫る瞬間を目撃した観客の1人だ。あの時と全く同じで、リング上の一切合切を殲滅する意志を感じ取っている。

そのせいで両拳が震えてしまう。ここまで、自分たちが暴力対策を担っていたのに、アレを見たら自分たちが見劣りするのは議論するまでもない。

 

だというのに、ゴンザレスは違った。

 

「俺は、赦してやんねぇよ────!」

 

鬼気迫る暴力の顔に、青年の顔(かこのすがた)を見た。

 

『ここに来てリカルドが荒々しく前に出た!

こ、これはバイオレンス…!遂に本気になった!』

 

2人の距離は歩幅にして2歩。

残り時間は10秒を切った。

ここでバイオレンスに乗り出した理由は1つ。

 

(1ラウンドみてぇに流れを断つためだ)

 

逃げても、避けても、迎え撃っても、凶気を越える暴力で流れを止めにくる。

どうしようとも回避不可能のリカルドの意志。そう思っていたのも、先程までの話だ。俺たちは1度、このラウンドでリカルドの意志を押し退けている。

だから怖くなんざない。

 

「凌いでください!」

「やったれゴン!!」

「負けないで!!!」

 

激励に押されて、ミキストリも飛び出した。

リカルドはそれを確認して、右拳を振りかぶる。あの大振りは隙だらけだと相手に誤認させるためのもの。数少ない癖を確認し、刹那の間だけゴンザレスが前に出る。

 

一点、瞬く間に3点の挙動を穿つ。

 

前進する瞬間。

前足が浮いた刹那。

軸足が離れた合間。

 

暴力の最中に向けて、3種類の左ジャブを放り込んだ。

 

「ワイを止めた左やないか!」

「更にキレが増してますよ!」

「でもリカルドに届いてない」

 

リカルドに受け止められはしたが、勢いは弱まった。

2人同時に踏み込む、そのエネルギーに差は無い。

 

「シッ────────!」

「フッ────────!」

 

暴力と凶気、最強同士の大砲をガードで受け止めたとはいえ、2人とも微動だにしなかった。

 

「1ラウンドと同じ手は通じねェぞ」

 

たったの数秒とはいえ、神の暴力を真正面から迎え打った。何気なく実行しているように見えて、この時間の拮抗は2人の成長の証である。

 

『互いの右を互いのガードに打ち付ける!

被弾無しの相打ちで第7ラウンド終了です!!』

 

ゴンザレスたちは第7ラウンドで大きく躍進した。

1度目の敗北(かがく)を越えて、2度目の敗北(バイオレンス)を押し留める。

世界を見渡しても5人と届かなかった領域に、堂々たる進出を果たした。血の滲む努力と身を焦がす想いを引き連れて、天上の門を開け放ったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「大丈夫かリカルド!?」

 

リングの上で、リカルドがパンチで効いた姿を見たのはいつ以来か。

世界王者とのスパーでさえ被弾はないというのに。

 

「狼狽える必要はない。見ての通りだ」

「な、ならいいが。

化学では反応が追いつかなくなったのか?」

「………いや、それは無い。私がよそ見していたせいで遅れた」

「何を言うんだ。ずっと見ていたじゃないか」

「心の話さ」

 

その言葉を聞いて、ビルは半分を理解する。

 

(この試合で思い返していたのか、アーティットのことを。だが、なぜゴンザレスのときに……)

 

リカルドの気を逸らせるモノは数少ない。

試合中、被弾を許すようなモノともなればアーティットくらいなものだ。原因は分かっても、理由は聞いても教えてくれない。アーティットとの問題が起きて以降、その話題に触れることはないのだ。

口を滑らないほど、頑丈に鍵をかけているからだ。

ビルが口を出せることは無くなってしまった。

 

(忘れたことはない。

…そのせいで君たちを怒らせてしまったか)

 

神は恥じた。

これは何年ぶりの感情だろう。分からない。最後にこの感情を出したのは、それこそアーティットとのスパーのあとで……

 

(恨んでくれ、アルフ。君がどれだけ怒ろうとも、この想いを忘れて試合は出来ない)

 

思い出しかけた後悔を押し殺して、暴力が支配せんと立ち上がった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ゴングと同時に殲滅に走る2つの頂き。

 

陽光が侵入者を殺さんとする舞台は、神の積年の罪で造られている。

そんな場所を死神は開け放った天上の門を潜り、驕り昂る馬鹿野郎の根城を踏み荒らす。足元の石盤が壊れようと構いはしない。もうじきこの世界は闇に沈むのだから。

 

2つの頂きが中央で拳を交えた瞬間、観客は互いの影が消え去ったような幻覚を魅せられた。

 

『な、何かが弾け散る音が聞こえた!?2人の拳の音のはずですが、なにを打ったのか速すぎて見えない!!』

 

2人は無傷で最初の衝突を終えた。

瞬きの間に終わった今の攻防は、どうすれば人間に出来る動きなのかを肉眼で見切ることは千堂でも不可能だった。

 

「はっは────────!!」

「………っ────」

 

力任せの舞踏会。

心血を技術に宿し、これまで研究し続けてきた想いに身体を重ねる。全ての信頼を受け取り、本性が姿を顕した。

直線、弧線が美しく咲き誇る。あまりにも完成された理想を、リカルドだけは次に来る動作を理解している。

いまも自分が描くボクサーの終着点に登り詰めてくるのだ、あまりの成長速度に反射神経で理解するしかなくなってきている。

 

「っはぁ!」

 

理想を越える直前、凶々しい星屑が神話の項に傷を付けていた。

幾つかの文字が掻き消される。代わりに赤いインクで危険だと書き記して、次の項に進む。

身体が破れるからどうした、とでも言わんばかりにリカルドは止まらない。切り札であるバイオレンスを使って1分、直撃は無くカウンターが頬や身体を掠めても顔色を変えない。

 

無敗神話の項を1枚破いても、死神は歓喜1つ湧かない。

いま心は押し殺している。いま優先するべきものはバイオレンスを倒すこと。直撃1つは相手の射程距離にいるということだ。笑みを溢すのは自殺と一緒だ。7ラウンド分で培った表裏・死神(アズール・ミキストリ)によるアドバンテージを刻一刻と消費しているに過ぎない。

 

(想定内だ。嵐を横断するような難業だが、準備は済ませてきた)

 

バイオレンスの圧倒的な手数を、表裏・死神(アズール・ミキストリ)の酷使によって手数で相殺する。これが想定内。

そして準備とは、肉体を磨り潰すような手数を相殺したうえで、あと1手、1つの拳を直撃させること。

これが難業!

 

「完全に2人の世界に入りおった…」

 

千堂の感嘆は空気に触れた瞬間に掻き消された。

 

「伊達さんが滅多打ちにされたバイオレンスに、避けながら打ち返してる…!!」

 

表裏・死神(アズール・ミキストリ)が拮抗…いや、僅かに上をいっている。

 

「早く……リカルドが慣れないうちに倒して…!」

 

リングを覆うロープが今は鎖に見えてしまうほどに、リカルドとゴンザレスたちを阻むものはない。例え声援であっても、いまのゴンザレスたちは集中力の高さに気づかないだろう。

 

月を撫でる熱線を横目に、ゴンザレスたちは恐れを勇気で濯いで前進する。

()けた心を取り戻さんという決意を、無敗神話が暴力で捩じ伏せにいく。

 

これは時間との勝負だ。

3分間、自分の全力全霊を押し売り出来るバイオレンスと、無敗神話を破る確固たる決意で準備してきたゴンザレスたち。

圧倒的運動量で上回るも良し。残り15分間で相手の底が尽きるのを待つも良し。そんなデタラメなボクサーを、これまでの努力で突破する前人未踏の地に辿り着けば勝機有り。

 

根比べに負けた方が、神話の舞台から姿を消すのみだ。

 

 

 

 

 

───

 

──

 

 

 

 

 

 

第9ラウンド、2分が経過した。

 

リカルド・マルチネスの人智を越えた能力をこれでもかと全身に浴びて、既に身体の内側は悲鳴を上げている。

重心移動をするだけで喉の奥から熱く冷たいモノが込み上げてくる。血か、恐怖心かは気づかないことにしよう。ヤツを越えるため、同じ運動量に付き合って体力が尽きそうになっている俺たちと比べて、向こうは涼しい顔をして拳を振り放っている。

 

第7ラウンドの10秒はインターバルで回復したにしても、第8ラウンドから第9ラウンド、合わせて5分間も全力で接近戦をしているんだぞ。拳を絶え間なく打ち出して、迫る必殺を防御テクニックを駆使して躱しながら次のフォームに移って……細かい位置取りの他に気にかける数十のことを、ひと息も吐かずにやっている。

既に脳の処理は限界に近い。練習でやったモノは既に越えている。そもそも、エイジとセンドーの時に解放したバイオレンスとは運動量が違う。

答えは分かってる、ウォーリーとのスパーでバイオレンスを大幅に強化しやがったんだ。

 

まだ突破口は見えない。それどころか、

 

「ぐ、、ぅ、、、ア、、、ォ…………」

 

10秒経つ、威力が上がっている気がする。

 

20秒経つ、ガードする腕が痺れてきた。

 

30秒経つ、気のせいじゃない。

 

さっきのラウンド中じゃ気付かなかったが、徐々にこっちの拳が届かなくなっている。

この野郎、打ちながらフォームを修正してやがる…。

 

(ヤバい、ショートする……きちぃ、、身体が…暴力、に押し潰さ、れる……)

 

飛躍したバイオレンスを前にして、ゴンザレスの心と身体は天上から押し戻されていく。

 

ゴンザレスが一呼吸必要なところを、リカルドは一息で打ち返す。

 

(諦めんな…ボケが!まだやれる…まだ…!)

 

拳に染み込んでくる熱は増し、打打(ちょうちょう)とガードを砕きに徹するさまにミキストリの頬が引き攣り始める。

 

(私のボクシングに舌を巻くばかりだった君が、命を(なげう)って私を砕きに来ている)

 

ガードする右腕を吹き飛ばすために右拳を放ち、その勢いは予想に反してゴンザレスの側頭部を打ち抜いた。

遂に足を止めてしまった2人を見ながら思い出す。

 

(似ているよ…凶々しい彼の指導とね)

 

リカルドが(かつ)て見た、アーティットが師事する姿と酷似していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アーティット・キングピッチ。

 

彼の名を知らないタイ人ボクサーは存在しないと言われるほど、タイ国ボクシング界に光を浴びせた人物である。

その名を知らないボクシングファンでも、“WBAフェザー級王者”と紹介すれば興味を抱く者は多い。その肩書きはリカルドが保有する名前と同じで、興味の目はリカルドの何代前なのか、というところが共通となるだろう。

 

その男は前々代の王者であり“闘神”と呼ばれていた。

基本に忠実なボクシングで3階級制覇を成した彼に、記者が強さの秘訣を聞いたところ、迷わずにこう答えた。

 

「夢を潰せ、潰した数だけ答えに近づく」

 

紳士的な立ち振る舞いをしてきたアーティットは、どの国でも強さの秘訣を問われれば同じ言葉を返した。

多くの批判を浴びることとなったが、それでも毅然とした態度で答えを変えることはない。終始一貫した姿勢、3階級制覇という実績、そして“軍神”と讃えられる圧倒的な強さが否応なしに逆風を跳ね除けていった。

 

生きる伝説を創り出すアーティットとリカルドが出逢ったのは、リカルドが国内王者に君臨して間もなくの頃だ。

 

「痛ぇ……完敗だぞ、この俺が!

なのにピンときてないな、少年?」

 

晴れ晴れとした天気とは裏腹に、リングで倒れ伏しながら嘆いた男の身体は雨に濡れたような汗に塗れていた。

うつ伏せの男に声をかけられた少年…リカルドは、公開スパーで名目上格下に倒されたというのに、喜色を浮かべて話しかける男…アーティットに冷ややかな視線を向ける。

 

「倒れた貴方の顔が腑に落ちない。まるで勝者です」

「俺の夢を潰したって思ったか!甘い!甘い!」

 

嫌味が通じずにハツラツと笑う男に、やはり冷ややかな態度で返事をした。

 

メキシコ国内王者、リカルド・マルチネス。

彼は今回、メキシコで行われる世界戦の王者のスパー相手として選ばれた選手の1人だ。

世界王者の名前は、アーティット・キングピッチ。

WBAフェザー級の頂点として君臨する3階級制覇者。

 

立場が逆転している現実を、記者たちは様々な受け取り方をする。調子が悪かったとか、足を滑らせたとか、本当に実力差で負けたんだ…と。

リカルド自身、倒せるとは思っていなかった。国内どころかアメリカのフェザー級世界ランカーを難なく倒している。だから、自分がどこに挑戦するべきなのか……階級を変えるべきかの判断をするために、タイの闘神とのスパーに応じた。

その結果がこの有り様だ。

 

「答えって、どこにあるんですか…」

 

倒してしまったが、達成感や罪悪感はない。

ソレすらも手に入らない今回のスパーに、なんの価値があったのだろう。疑問が口から突いて出てしまったと思ったときには、アーティットの笑顔が更に増していた。

 

「俺の言葉を知りたいか。見て覚えてみるか!」

「そういう話…ですか?」

「大丈夫、ピンとくるさ」

 

外野の…記者やセコンドたちの喧騒を押し退けて、アーティットは悩める少年を導くために外へ連れ出した。

 

 

 

───

 

──

 

 

 

 

「ここは………」

「地元なら知ってるだろ。シウダー・フアレス、世界指折りのスラム街のここは夢に満ちている」

 

足を止めるリカルドの問いは、説明を求めるものではない。なぜ自分たちが入る必要があるのか、という批難の言葉だ。しっかりと声音も低く、不審者を見る目もしているのにアーティットは笑みを崩さない。

普段近寄らない場所でも、アーティットだけが場違いだということは直ぐに分かった。フアレスでは、真夜中の騒音のような扱いになるだろう。

更には少年1人が入るほど大きなバッグを膨らませて、撒き餌と言わんばかりに歩いていれば憂さ晴らしに襲われても文句は言えない。中身を聞いても、リカルドには必要ないの一点張りだ。

 

「そうじゃない…。

ここがどれだけ危険な場所か知ってるんですか」

「あぁ。昔、知人がフアレスの窃盗団に襲われてさ。ソイツら捕まえて説教したんだ。ナイフで腕を刺された時は相手が悪魔に見えたね!」

 

フアレスの人通りのある道を歩きながら、アーティットの経験談をリカルドは聞かされる。

窃盗団を改心させたあと、親玉から逃げる方が大変だったこと。待ち伏せされても逃げる方法、待ち伏せを回避するコツ、子供の扱い。リカルドがこの先で必要ない知識を遠慮なく叩き込んでいく。

嫌な顔をしてみたが、笑い飛ばされた。

 

「麻薬売人。強姦魔。通り魔。殺人鬼。すり。

それだけじゃねえよ。捨て子。捨て子。無職。夜逃げ。銭無し。捨て子。お前らの土がここにいる」

 

そうして歩くこと30分。

 

「────いた」

 

裏道に入っていく普通からかけ離れた青年を見て、そう呟いたアーティット。リカルドが意図を聞いても答えはしない。

あとを追うと、裏道の脇にぽつりぽつりと立っている人影を発見した。彼ら彼女らは青年と同じくらいの歳で、全員の雰囲気が死んでる。ただ立っている以上は生きていて、何かを待っているのか忙しなく手先を弄ったり、足元で埃を立てていた。

 

「………あれは、しているんですね」

 

観察して数秒、異質な世界に気圧されていたリカルドは、彼らの雰囲気が死んでいる原因を察する。

麻薬をやっている人間が、不安定な精神に陥る直前だ。話には聞いたことがあるだけだが、目にしてしまえば特徴を聞かずとも麻薬をしていることは理解できる。

 

「ここで見てな」

 

アーティットはリカルドの肩を叩くと、陰から飛び出した。

目標は、粉の入った小袋を渡して金品を受け取ろうとする、2人がつけていた売人の青年だ。

 

「────なっ」

 

あっという間の出来事だった。

アーティットに気づいた青年が刃物を取り出すが、青年の腹にアーティットの拳が打ち込まれていた。崩れ落ちながら奇声を発する青年から小袋を奪い、さらに青年の持ち物を漁って全ての小袋を抜き取った。

小袋に目を奪われる、死んだ目をする子供たちの前で、小袋の中身を一切合切捨てて、一言。

 

「悪に消費されんな。ここから勝ち残れ」

 

無責任で、いい加減な言葉を吐いて、麻薬に縋る子供たちの前にバッグを放り投げる。アーティットを殺意の目で睨む子供たちの1人が、藁にもすがる思いでバッグを開ける。

その中身は本だ。絵本から辞典、様々な種類の知識が詰まっていた。だが、ここの子供たちの識字率は余りにも低い。渡したところで麻薬の代わりになる筈もなかった。

 

「なにを……しているんですか」

「売人の夢を潰した。退路を絶った」

「な、なぜ夢があると分かるんですか!仕方なく売人をしているだけかもしれないのに!」

「麻薬売る理由?あっても死ね、理屈は麻薬捨ててから言え。俺たちプロボクサーは……いいや、俺たち人間はあの売人とやってる事は同じだ」

「…………………まさ、か……」

「限られた頂点の奪い合い。夢の潰し合いだ」

 

思わず目を見開くほど、リカルドは彼の行動の意図に衝撃を受けた。

その表情を見て「ピンときたか!」と喜んでいた。

 

「育児。おもちゃ。受験。入学。便所。遊び道具。学校。勉強。好きな子。成績。卒業。就職。

どれもこれも枠が少ないくせに、俺たちは1つの枠に1人入ろうとする。ほら、夢の潰し合いをしてるだろ?」

「────────」

「なら、夢を潰すなら今だ。俺がいるから諦めろって言える」

 

これが答えだ!と言わんばかりの笑顔を向けてくる。

 

いや、事実そう思っている。信じて疑っていない。

麻薬に依存する子供たちに読めるかも怪しい書物を渡したのは、貧民街育ちを嗤うためではなく、かといって彼らに教育を施す訳でもない。1人でも良い、このバッグごと持ち去って独学しろと言っている。

この男は大勢を大切にする聖者ではなく、肉親を捨ててでも這い上がる怪物を生み出そうとしているのだ。

 

もしも世界王者のトレーナーに彼がついていたら、リカルドはそのボクサーこそが最強だと思った。大半のトレーナーが実行していても言葉では誤魔化す切り捨てる人材を、アーティットはこうも可視化してくれる。お前という最強を作るために、こうして生け贄は準備されるんだと、現実を突きつけてくる。

 

「どうせ戦うなら神になれ。世界に君臨しろ。

じゃなきゃ食われる。アイツのように、気まぐれでな」

 

この指導に感化されてしまったら、もう元には───

 

「ヤクを捌いた金で…………」

 

どうして、気づかなかったのか。アーティットの背後に、腕を伸ばせば届く位置に売人の青年が腹部を抑えて立っている。

彼も目が死んでいる。こうして立ち上がっているのは、感覚が麻痺しているからか、それとも自分がリカルドの生け贄になることを恐れたからか。ただ単に殺意に負けたからなのか。

 

「俺が生き抜くのを邪魔すんじゃねエ‼︎」

 

理由に興味はない。リカルドにとって誤算だったのは、グローブを着けずに殴りにいったあとのこと。

 

「────どうだ、夢を潰した手応えは」

「……………素手は痛い」

「それはそう」

 

アーティットを追い越して、ナイフを振りかざす青年をひと息で殴り倒して、感想を吐き出した。

もし、青年が割り込んでいなかったら。そんなもしもを考える。リカルドは、アーティットの指導に魅入られていた。邪魔がなければ、彼の横に居たいと思ったままだったかもしれない。

人として尊敬は出来ないので、踏みとどまることは出来た。

 

そうして彼の破滅的な指導は終わり、帰路に着いた。

 

「俺はな、指導する方が好きなの。何故ここに来たか聞いたな。お前に世界最強の実力があるからだ」

 

フアレスの道を歩きながら楽しそうに話すアーティットを横目に、リカルドは自信の答えが早く見つかった幸福を噛み締めていた。

強いこととは何か。自分の想像していたものが混ざり合って、いまも様々な答えを出している。1つの答えに拘らなくなったことで、心がどんどん広くなっていくように感じるのだ。

 

「んで俺が指導する気になったのは────っ!」

 

だから、油断した。ここが平和から遠い世界だということを、忘れてしまった。

聴覚に打ち付ける発砲音と、リカルドの身体が地面に転がったのは同時だ。

 

「がっ………!?」

 

リカルドを肩で飛ばしたアーティットが疼くまる。

後ろでは言葉にならない奇声を上げながら、子供の姿をした死んだ目の化け物が追ってくる。

リカルドの生涯において、思考が止まった唯一の場面で。

 

「ア、アーティ「走れ!!」ッ」

 

アーティットが怒号を飛ばして立ち上がる。すぐさまリカルドを引き連れて裏道に飛び込んで、苦悶の声を上げながら走った。とにかく角という角を曲がり、リカルドは途中からアーティットを抱えて全力で逃げた。

 

逃げ切って、病院で手術を終えたアーティットは、すぐに退院した。弾が右股関節を貫通していたおかげだという。

反対するコーチ陣を「試合がある」と言って説得した。なぜ説得を受け入れたのか問い詰めれば、今回の相手は次のPFPに選ばれる噂のある、最強の挑戦者だからと言う。

 

「これが、夢の潰し合いだ。

……あぁ、ピンと来なくてもいい。いずれ分かる」

 

軽量のとき、パンツを履いていれば弾痕は分からない。

だから試合が成立してしまった。

 

そして、アーティットは負けた。

プロボクサーとしてリングに戻ることは…無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

幾つもの答えを見つけた。

結果として私だけが答えを得て、アーティットは負傷のせいで敗北して引退した。これすらも彼風に言えば“夢の潰し合い”なのだろうか。答えを得た代わりに分からないものが増えた。

 

(アーティット。貴方のように私もフアレスの子供たちに手を差し伸べて、そして勝ち残った漢を見つけました)

 

幾ら待てども彼は戻らない。

頭の中で分かっていながらもフェザー(ここ)から動かないのは、心残りがあるからだ。

 

(……彼ならば、私を潰せる。そう思いたい)

 

生死の境目を生き抜こうと足掻く懸命な姿を見て、リカルドの右拳が止まる────

 

(だから、君の心を砕くことは躊躇わない)

 

────ことはあり得ない。

 

その姿が公開スパーで倒したときのアーティットと重なる。だから、尚のこと手は抜けないのだ。

血の滲む努力と身を焦がす想いを、風前の灯火だと言わんばかりに消し飛ばした。

 

『あ、あぁ……!遂に倒れた…倒れてしまった!

挑戦者、痛恨のダウンンンン‼︎

神話の暴力に飲み込まれてしまった!!!』

 

ボクシングにおける、脅威という脅威が束となった男を本気にさせた。最早ゴンザレスは、どうしようも無い終わりに向けて走ることしか許されない。

 

2度と同じ過ちは犯さないからこそ、罪を償える。

 

どこまで鍛えても、この罪が不滅だと教え込む。それがリカルドの自戒であり、バイオレンスなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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