【ネタ・習作】夢の欠片   作:へきれきか

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第09話 胎動

「ああ、もう最悪だ」

 

 書斎の椅子に崩れ落ちるようにして腰掛けるのは、賈文和の政治的切り札にして協力者・百式。まだ昼前だというのに、尋常ではない疲れっぷりである。

「あんな夢を見るなんてどうかしてる……」

 ここのところ悩まされている夢が大きな原因であった。夢といっても先日、西平太守と話したものとは違う。睡眠時に見る幻覚の方である。

 

(見知った娘にメイド服着させてイチャコラする夢ってのは――)

 

 実にくだらないが、頭を悩ませるには十分だった。

 学院の支援者であり、馬術の師でもある同居人は確かに可憐な少女ではある。それに異論を挟むつもりは彼にもない。身分を隠すことによって、董仲穎の魅力はより強調されていると言ってよかった。現に、控えめで献身的に田伯鉄の助手を務めている「太白というらしい美少女」は、すでに学院のアイドル的地位を確立しつつある。

 しかし、大和にとって彼女は三国志の英雄であり、身分も(聞いたことはないので詳しくは知らないがおそらく)年齢も違う。妹や彼女の親友同様に「そういう対象」として見たことはないはずだった。それがあの夜以降、親友を伴って頻繁に夢に登場してくる――しかも、それが人に話せるような内容ではないのだからたまらない。

 

 夢の中の彼女らは何故か二人ともメイド服を着ていて、甲斐甲斐しく、また一方は悪態をつきながらも世話を焼いてくれる。しかもあろうことか真名まで許してくれているようで。

 

「…………」

(欲望全開すぎってもんだろう……)

 算術教師は自分に呆れたとばかりに頭を抱えた。

 

 作ってくれたお菓子をみんなで食べる。他愛ない話をして、いちゃつく。

 

 大和にとっては不快な夢でけっしてないが、やはり色々と世話にもなっている二人に申し訳ないという罪悪感の方が大きい。一人とは毎日顔を合わせてもいるのだ。故に自己嫌悪に陥るのである。

 それが昨夜はとうとう――。

「ああ、くそっ」

 脳裏に浮かんでくるやけに生々しいイメージを追い払うように、頭を掻き毟る。

 

(いくら女っ気のない生活してたとはいえ、見境なさすぎるだろ……。もっと真剣な悩みがあったはずじゃないのかお前は)

 

 年下すぎる女の子にメイド服。

“そういったご趣味”は自分にはなかったと認識していたが、異世界に来た影響で新たな世界に目覚めたとでもいうのだろうか。

「……顔でも洗ってこよ」

 このままでは仕事になるものもならない。と、ピンク色の靄をかき消し立ち上がる。それに答えるように年季の入った椅子がきしっと音を立てた。寒空に冷えた井戸の水でも浴びれば、惚けた頭も少しは働きを取り戻してくれるかもしれない。

 庭に出ようと部屋の戸を開けると、

 

「きゃっ」

 

 声に視線を下せば、突然戸が開かれたのに驚いた様子の女の子。運の悪いことに彼としては今最も会いたくなかった相手だった。

「あ……すみません。驚かせて」

「いいえ。あ、伯鉄さんに――」

 

 

『あの……ご主人様』

 

 

「うっ」

 紅潮した頬に潤んだ瞳。

 差し込むような頭痛とともに夢のワンシーンがフラッシュバックし、大和は思わず額を押さえた。

「……伯鉄さん? 頭が痛むんですか?」

「いや、なんでもありません」

 まるっきりの嘘というわけでもない。痛みは一瞬。

「でも……」

 

(こんないい娘に醜い欲望をぶつけて……お前って奴は……)

 

 心配そうに見上げてくるのに強烈な居たたまれなさを感じる。

 同時に込み上げてくる自己への失望感は隠し、

「ちょっと寝不足だったみたいです。それで御用はなんでしょうか?」

 手早く用件を聞いて追及を避けた。理由が理由であるし、心配させるのもよろしくない。長い付き合いというわけではないが、それくらいのことは大和にも分かる。

 しかし、その対応は適切でなかったらしい。目の前の少女はまだ何か言いたげなのだから。

『すみません。今後は気をつけます』

 苦笑に意味を込めると、ようやく顔をほころばせる。

『わかってくれればいいんです』

 少し満足げな顔はそう言っているような気がした。

 

「伯鉄さん。算術書の原稿と、これを」

「ありがとうございます。こっちはえっと、書簡……妹ではなく私宛ですか」

(わざわざ手紙寄こすなんて誰だろ?)

 生徒達であれば直接話をしに来るはずである。差出人を見ようとそれを裏返すと、そこには男らしい達筆で二文字。

 

 華雄

 

 数ヶ月前屋台でラーメンをともに食べ、一昨日、雍州から帰還した将軍の名があった。

 

 

 

―・―・―・―・―

 

 同刻、洛北にて。

 

「では、賈洛陽北部尉様、行ってまいります」

「ええ。頼んだわ」

 命令を受けた部下が部屋を出ていくのを見届けて、少女は椅子に腰かけ直す。

『洛陽北部尉』

 臨時に置かれたその官職の職務は「洛陽の北側、東にある穀門と西にある夏門の二つの門の修繕と周辺の治安回復」。もっとも、門が壊れているといっても、さすがに入り口そのものが破壊されているわけではない。修繕が必要なのは門の上部に建てられた小さめの櫓やら詰所などの周辺施設である。

 洛陽北部尉こと賈文和は、特に損傷が激しい夏門の近くに仮の官舎を設け――といっても元からある廃屋を利用しただけだが――そこで指揮を執っていた。

「賈洛陽北部尉様ね」

 不満げに鼻を鳴らす。

 やはりこの呼ばれ方は好きになれそうになかった。が、それもこの仕事が終わるまでの辛抱。それに、今はそんなつまらないことより遥かに重要な案件がある。

(さてと……どうするべきかしら)

 詠は修繕の進捗を伝える竹簡を軽く見直ししつつ、先の宮城での会話を思い返した。

 相手の名は宋典。

 悪名高き十二人の中常侍の一人であり、自分と他の面々との取次役を負っている男。すでに何度も会話したことがあるが、内容は基本的に仕事のことが中心の当り障りのないものであった。

今朝もそれは変わらず。

 ……ただ一点を除いては。

 

『洛陽北部尉殿は百式という男をご存知でしょうか?』

 

 この言葉を聞いたとき、顔こそ平静を保てたものの、詠の内心は驚きで溢れていた。

 すぐに仕官も可能である程の算術の実力を持つにも関わらず、田伯鉄は私塾の宣伝活動を全く行っていない。それは彼らの目的を考えれば理解できた。都の価値観をひっくり返すというのだから、周到に準備をし、機を待つのは当たり前。学院の存在価値は、むしろ隠されていると言っていい。

 例え話題に上がることがあったとしても「学のない人間たちが有り難がっているだけ」と、一刀両断されておしまい。「ごく一部に秘匿されているはずの高等算術を修めた“男”が市井で燻っている」などということはあり得ないのだから。

 それがどうしてよりにもよって宦官――皇帝の側近くに仕える十常侍――から百式の名が出てくるというのか。

 

『軍が主体の涼州では……というよりほとんどの地方ではあり得ないことかもしれませんが、都においては未だに男の文官に対する偏見があります。彼の存在は都に一石を投じるものですよ。

 百式殿はまさに男性文官の希望の星。出世のために男を捨てた身としては、やはり彼を応援したいですね』

 

 髪を下ろせば女と見間違えるような、どこか古狐を思わせる顔をした中年の男――宋中常侍は、嘘か本当か判断しかねる微笑を浮かべ、そう言った。

その後は賈文和が百式について幾つか質問をして、話題はそれで終わり。

 仕事の報告の合間の世間話。それだけだったのだ。

 

 

 そこが引っかかる。

 

 

「…………」

(あの男の存在価値を認めているなら、動こうとしないなんてあり得ない)

 報告書に不備がないことを確認すると、脇に巻き上げ左腕で頬杖。董仲穎の親友兼参謀は思考の回転速度を上げていく。

 

 算術家・百式。

 それは使い方によっては都の常識をひっくり返すことも可能なまさに切り札。使う人間が十常侍や何進のような権力者であれば、尚の事である。

 事実、賈文和は今後の董仲穎の洛陽での処世にあの男のことを利用するつもりであったし、すでに「互いの目的を達成するための協力」という形で本人の了解もとってある。今、本格的に動けていないのも、利用するにしてもどちらにつくのかを先に決めなければならないというだけのこと。

(あれを知ったら動くのよ、普通は)

 例えば宋典が宦官ではなく、噂に聞く男嫌いの女性保守派であったとしても、動かないという選択はあり得ない。

 外戚や宦官のような例外ならともかく、普通の男である百式が活躍すれば、男という勢力それ自体が力を増すことになる。そういう人間にとっては絶対に阻止したいことだろう。妨害や暗殺等々、何らかの動きは起こすはずである。田家に逗留している涼州兵は、なにも彼女の親友のためだけではないのだ。

「……ふん」

(本人がちゃんと理解してるかどうかは、ちょっと怪しいけど)

 ともかく、だからこそ動きが感じられないというのは不可解だった。

(ボクが伯鉄と知り合いだと知って、それで牽制を? ……ううん、違う。そんなことを気にするのなら、こちらに構わず推挙すればいい。なら――)

 思考に合わせて指がゆっくりと、規則正しく机を打ち始める。外から聞こえてくる補修作業の音に掛け声。それら一切が消えていくのを感じ、賈文和は瞼を閉じた。

 内容だけを見て考えれば、あの世間話の目的はとても単純である。

 

 算術家「百式」の存在と、それを自分達が把握しているということを知らせる。

 

(……やっぱりそう考えるのが一番よね)

 問題はその意味。

「百式の推挙を手土産にこちらへつけ」というのとは、違うだろう。

 彼らには董仲穎に対してそこまでする義理はないし、そんなことをするくらいなら推挙は自分達で行い、今ある権勢をさらに強めて大将軍に対抗する方が現実的である。彼らの席次を考えても、その方が筋が通るというものだろう。それに、百式を大将軍側に紹介されてしまうかもしれないと考えないはずがない。

 つまり、十常侍の行動としてあの世間話は、あり得ない。

(ということは、あの話をさせたのは十常侍の意志ではなく、宋典個人の――)

「…………」

 机を叩く音が止まる。

 

 だとしたら何かがあるのだ。

 十常侍として動かないのは何故なのか。

 話を持ってきた理由は何なのか。

 

 静かに開かれた両の瞳は爛々としていた。

 つまりこれは、

(……面白いじゃない)

 試されているのだ。涼州では策謀において敵なしと自負する賈文和が。

 媚びへつらうのが仕事の宦官などに己を試されるという屈辱。同時に湧いてくる、能力を評価されていることに対する満足感。それらをないまぜにして、洛陽北部尉は不敵に笑う。

「そうとなれば……話は早いわ」

 瞳に浮かぶ剣呑な光は消さず、早急に会談の場を設けるべく書簡に筆を走らせる。

 この乱暴な、賭けに近い手段を考えるに、彼にはどうやら焦りがあると見ていい。それにわざわざ話を振ってきているのだ。どんな悪巧みをしているのかは知らないが、董仲穎が必要であることは確実だろう。

(試されたことには腹が立ったけど、ここはご期待通りの有能さをもって“話を聞いてあげよう”じゃない)

 買い叩かれるつもりなど毛頭なかった。

 

「ボクたちはそんなに安い女じゃないのよ。宋中常侍」

 

 その狐顔の次に浮かんでくるのは渦中にある算術家の姿。

 動きがあれば伝えると言ってあるが、最早完全な事後報告になりそうである。

 

(どんな顔するかしら)

 

 今度は本当に可笑しくなって、笑う。

 親友に見られたなら、また茶化されてしまいそうなそれを浮かべて。

 

 

 

―・―・―・―・―

 

「彼女達は我々の味方だよ。ともに甘い汁を吸う、いわば運命を共にする者たちだ。これまでも……そしてこれからもそうだ。宮廷の外に協力者がいることは何よりも心強い。君は私のやり方に不満でもあるのかね?」

 宦官特有の、年の割にやけに高い声が不快な振動となって部屋へ響く。

(やはり無駄だったか……)

 この反応は分かりきっていたことではあった。帝の寵愛を受け、財を、権力を手に入れ、十常侍などと呼ばれている。目の前の男は“そんなこと”で勝った気になっているのだ。実際は奴らの思うように動かされているだけだというのに。

 かといって、(非常に残念ではあるが)湧き上がってくる衝動にまかせてこの男を殴り飛ばすことは出来ない。

 宋中常侍は心の内で舌打ちをして、しかし、

「いえ、けしてそのような。ただ、あなた様を思ってのことでございます」

 思ってもいないことを口にする。

 宦官である以上、こういった類いのおべっかには慣れているはずだが、それでも腹が立つものは腹が立つ。

 

『君って本当に宦官に向いてないよね~』

 

(余計なお世話だ)

 しかし、それは正鵠を得ていると言っていい。かつては清廉で知られた官吏であった。それが今では国で最も腐敗した存在というのだから。

(我ながら大した変わり様……とも言えるか)

 ほとんど見えないくらいの小ささで、唇を歪める。

「よろしい。では、君の仕事に取り掛かりたまえ。董仲穎の件は期待しているよ。宋中常侍」

「……かしこまりました」

 口にした言葉は、それでも苦い後味を舌に残した。

 

 宋典

 

 親譲りの潔白さで知られた官吏であった。

 彼の母はそれほど地位の高くない文官であったが、汚職蔓延る都にあって清廉で知られ――だからこそ出世は望めなかったのだが――尊敬するに相応しい官吏であった。彼女の身体的な理由でその"一人息子"となった宋典は、幼い頃から儒学やその他諸々の学問を叩きこまれる。

 余人から見れば厳しすぎる教育も、当人は全く苦だとは思わなかった。「立派な人間に育ってもらいたい」という母の思いは、十分すぎるほど彼に伝わっていたからである。

 それが幸だったのか不幸だったのかは、分からない。

 ただ一つ言えることは、彼の才が母を遥かに凌ぐものであったということだった。

 聡明で故実に詳しく実務も優秀だった彼は、国に仕官した後、驚くべき早さで高官にまで昇りつめる。これは「男の」しかも「叩き上げ」としてはまことに異例なことであり、当時は「男性文官の希望の星」などと持ち上げられることも多かった。

 そう、まさに順風満帆といえる人生だった。普通なら何の不満も抱かないだろう。

 しかし、彼は王朝の現状――金や媚で最も高く競り落とした人間の手に国の手綱が渡るという現実から、どうしても目を背けることが出来なかった。

 

「では、これにて……」

 

 故に嫌悪していた人種の仲間入りを望んだのだ。

 

『宦官になる』

 

 その選択を聞いた彼の母は、どうにかして息子を止めようとした。親として当然である。どうしてわが子にそんな道を歩ませられようか。

 しかし、彼女は息子の目を見て、全てが無駄だと悟る。

 彼はまさに彼女が望んだ通りの“立派な青年”に成長していたのだから。

 

 

 つまるところ、宋典という男は清廉潔白にすぎたのだ。

 

 

 部屋を辞し、長い廊下を歩いていると、宮女の他に何人かの宦官とすれ違う。雑役に追われていても権力者に媚を売るのだけは忘れないのか、欲望にまみれた笑顔を向けられるのには参る。

 まるで崩れかけた飴細工の櫓、それに群がる蟻のようで、

(たまらなく不快だ)

 宋典は顔を顰めた。

 今会いに行っている男もその点ではいい勝負であるが、彼にとっては不快の種類が違う。庭に面した廊下であるのに空気まで澱んでいる気がして、少し足を早める。

 孫璋の部屋は十常侍の面々の中でも一番小さい。引越しが面倒だからだと本人は言うが、どこまで本気なのかは分からない。そういう男だと認識することで、宋典は彼についての詮索を放棄していた。大量の無意味な行為の中に真意を隠すのは孫璋の手管である。まともに取り合うのも馬鹿らしいというものだ。

 その部屋の戸を躊躇なく開ける。

 実に彼らしからぬ行為だが、それは相手の普段の態度を考えれば無理もないことなのかもしれない。

 

「おっ。これはこれは宋中常侍様……で、どうだった? 我らが盟主様は」

「私達の予想通りだ。ダメだったよ。膠で貼りつけたようにベッタリだ。あれを引き剥がすのは無理だな」

 戸を閉めながら答えて、相変わらずの狭さに眉根を寄せる。

 調度品こそ高そうであるが、圧迫感のある部屋が辛い雑役時代を思い出させるのがいただけない。実にいただけない。

「やっぱりかぁ。残念だね~」

「まったく残念そうには見えないがね」

 そんな事は気にもしていないのか、呑気にそう言う相棒に皮肉を交えて返す。

 宋典自身は否定するかもしれないが、いつものあいさつのようなものだった。

「はははっ。ま~座りなよ。お湯はちょっと切らしちゃっててね。どうする? お酒でいいなら蔵から借りてきた美味しいのがあるけど」

「借りてきたって……いや、遠慮しておこう。遊びに来たわけではないし」

 進められるままに椅子に座り、わずかに茶色がかった瞳を見据えた。

「……いきなり疲れる話かぁ」

 真面目な話はとことん嫌いらしい。

「それ以外に何が……参考までに聞こう。どんな話ならよかったんだ?」

「それはほら。あれだよ。後宮に新しく入った女の子ですごく可愛いのがいるとかさ」

「……孫中常侍。悪いが私達は――」

「分ぁかってるって。百式の話でしょ? 僕だってこの数日間遊んでたわけじゃない」

 遊んでたと言われても、何の疑問も湧かない態度なのだから困る。

「疑ってはいないさ。こんなことを言うのは不本意だが……やるときはやる男だからな、君は」

「よしてよ~。そんなに褒められたらほっぺたが赤くなる」

「…………」

 いつもと同じ様子でヘラヘラ笑っているが、抜け目がないのも昔から変わらない。

"ここ"へ昇ってくるためにめぐらせた奸計の数々。協力して難局を乗り切ったことは両の指では足りないだろう。人格はともかく、有能なのは間違いないのだ。

「賈文和に話してきた」

「ほうほう」

 何を? 何で? などとは聞いてこない。

(やはり得難い相棒……ということか)

「賛同してくれるかどうかは分からない。が、とりあえず話は聞いてくれそうだ」

 不本意な結論については顔に出さないように努めた。調子に乗らせるべきではない。

「へ~もう返事来たの」

 手渡された書簡を広げた孫璋は片眉を上げて、他人事に言いながら返す。

 それを懐にしまいつつ、

「提案したのは君だろう。賈文和は能力的には間違いない。第一関門は突破だ。あとは引き込めるかどうか、だな」

『十常侍ではなくてこちらに』という当たり前の部分は、言う必要はない。

「その点はどうしても賭けの要素が入るね。けど、もちろん負けるつもりはないよ。ま~多分上手くいくんじゃない?」

「…………」

(お気楽な奴だ)

 

「ははっ。なんだかいつになく弱気だね」

 小馬鹿にした物言いにも、いつものような苛立ちが出てこない。

「……出来るかどうかじゃないというのは分かっているんだがね。さすがに今回のは事が大きすぎる。失敗すれば……文字通り首が飛ぶ」

「宋中常侍。僕と君で上手くいかなかったことなんてあるかい?」

 そんな様子の相棒に、苦笑しながら孫璋は言う。

「上手くいかなかったらここにいないでしょ」

「そうだな」

 言葉を切って数拍。宋典は珍しく意地の悪い微笑みを浮かべた。

「しかし、前例もある。例えば中常侍昇進の話が初めて上がったとき――」

「あ~れは君のせいでしょ。情報が正確じゃなかったんだよ。どうしようもない」

 心外だといった顔で返す。

(なるほどこれは)

 いつも軽口を叩く孫璋の気持ちがほんの少しだけ分かった気がした。だからといって許す気にはなれそうにないが。

「まぁ、そういうことにしておこうか。今回は言い訳させないようにするよ。お互いに――」

 戸の方へ目だけを向ける。

 そして部屋の外を人の気配が通り過ぎ去った後、

「必死でやろう」

 声を落として言う。

「無論、そのつもりさ」

 悪友はいつもとは違い、言葉と一致した顔でそう返すも一瞬。すぐにそれを崩し、大袈裟な動きで背もたれに寄りかかった。

「となると、あとは百式本人か~」

「そうだな」

 彼らの一連の策の要は百式であった。

(あの算術家を味方に引き入れなければどうしようもない。……それも出来るだけ迅速に。彼の門弟達がことを起こしてからでは遅い)

 しかし、百式こと田鋼は王宮の外、市井の人間である。話の内容を考えても直接会うのが好ましいが、十常侍がお供も付けず、誰にも気取られぬようにとなるとなかなかに難しい。

 

(だからこそ董仲穎たちを使って…………王宮の外?)

 

『お昼に市中で噂の拉麺を食べに行ったんだけどさ~』

 

 見ると「今、殴り飛ばしたい顔」第二位が、宋典へと向けられている。

 一位はもちろん彼らの盟主様である。

「百式の担当は僕がやるよ。本音を言えば可愛い女の子とお話しする方を希望したいんだけど」

「……前、聞きそびれたんだが、どうやって外に出ているんだ?」

 孫璋にしては珍しく、少し迷ったような素振りを見せた後、

 

「ここは宮中。皇帝陛下のお家みたいなもんだよ? 脱出のための抜け穴くらいあるに決まってるじゃない」

 

「なっ」

 

(皇帝陛下のための抜け穴を使っただと!? バレれば一発で腰斬刑だ。下手をすれば十常侍の面々も縁座するかもしれない。それを目の前の男は……)

 

 結論から言えば、それらの不満が孫璋にぶつけられることはなかった。

「前に使ったのが初めてだよ。結構調べててね。実はもう百式の顔も分かってる」

 長い付き合いの中で、一度も感じたことのない雰囲気がそれをさせなかったのだ。

「僕はそれくらい本気なんだよ」

 

 泰然自若。いつも飄々としている相棒が、焦っている。

 

 それは宋典を黙らせるのに十分すぎる理由だった。

「はっきり言って、僕達に時間はない。このままいけば奴らを排除するどころか、宮中を掌握する前に時間切れだ。……ぐずぐずしてる時間はない。最初でつまずくわけにはいかないんだ」

 そこまで言い切ったところでフッと顔を和らげ、

「ま~久々に拉麺食べたかったのも事実なんだけどさ」

 いつも余裕にあふれた相棒を、憎らしいと思っていた。けれどそれは宋典が勝手に抱いていた幻想。

 

 また、部屋の前を人が通り過ぎる。

 その気配を背中越しに追った後、

「宋中常侍」

「……なんだ?」

「初めて会ったときのことは覚えているかい?」

 向けられるは素晴らしく真面目な顔。

 

(……まずい。こいつはとんでもなく恥ずかしいことを言おうとしている)

 

 ここぞというときにクサい台詞を吐いてくる。

 本人はモテる為に修得したとか宣っていたが、寒すぎるそれは彼が苦手とする孫璋の悪癖の一つだった。

「思い出話は老化の証拠だ」

 冷たく言って突き放そうとするが、それはもちろん効果がない。

「僕は覚えてる」

 ニヤリと笑う。宋典は舌打ちしたい思いだった。

「くそ真面目で面白みの欠片もない奴だと思ったよ。……まぁ、今もそれは変わらないけど」

「……それを言うなら私だって同じようなものさ」

 背中が痒い。切り返しにもいつものキレが出てこない。

 その様子に、孫璋の口はその滑らかさを増す。長い付き合いである。どうやら分かっていてやっているらしい。

「まさか次に会うときにお互い宦官になってるとは思わなかった。それで――」

「孫中常侍」

「ははっ、いいから聞いてよ」

 己がどんな顔をしているか。孫璋の楽しそうな顔を見ていれば嫌でも分かる。

 

(この流れは駄目だ。よろしくない)

 

 そんな思いをよそに、彼の悪友はさらに続ける。自己に酔ったように話す様は、もはや独擅場であった。

「あれから何年も経った。その間色々なことがあったけど……まぁ、どれも大した障害じゃあなかった」

「……私の記憶が正しければ、失脚しかけたのは一度や二度じゃなかったと思うがね」

「終わってみれば、という話さ。今回も同じだよ。『最後にはすべてが上手くいく。きっとそうなる。なんたって――』」

 聞き覚えのあるそれらはこの男の決まり文句。

 宋典はもはや諦めたように、言葉を繋いだ。

「『僕達がやるんだからね』…………まぁ正直な話、君と組んで失敗する自分は思い浮かばないよ」

 

 宋典は嫌そうに――それでいて態度と一致しない顔をして立ち上がる。

 先ほどまで感じていた空気の淀みは、いつの間にか消え去っていた。

 

「……やってやるさ」

 

 悪友はその様子に再び笑った。

 

 

 

―・―・―・―・―

 

 陽も傾きはじめた頃、最後の授業の片付けを終えた田伯鉄は、身支度を手早く済ませて市街へと出た。私用では久々の外出である。少し乾いた空気の中歩いていると、時折ひんやりとした風が肌を撫でていく。大和は寒さに襟を寄せつつ待ち合わせの相手――色白の将軍様を思い出す。

 今夜は討伐行から凱旋した彼女が一杯ご馳走してくれるという。数日前に受けた誘いの手紙によると自身の勝ち戦と算術家の就職祝いを兼ねるらしい。なかなか粋な計らいである。断る理由などないので二つ返事で了承したのだった。

 待ち合わせ場所は金市にある飯店。金市とは洛陽の西部に位置する商業地区で、主に奢侈品を売る店が多い。そんな高級店が並ぶ中、安価かつ美味い店を知っているあたりはさすが都暮らしが長いといったところだろう。

「えーと、たしかこの――」

 きょろきょろと辺りを見回すと、

「伯鉄。こっちだ」

 声のする方を見れば、片手を上げて微笑む華将軍。さすがにへそは出していないが、両肩と胸元を大胆に露出させているのは変わらず。見ている方が寒くなってくる服装である。彼女の出陣の際に見た、サラシに同じくへそ出しといった他の女将軍達の服装。彼女らにも冬服という概念があるか疑わしく思えるのも仕方がない。

「すみません。お待たせしましたか?」

「いや、気にするな。仕事があったのだろう? 構わんさ」

 以前と同じように気持ちよく笑うのに、思わず笑顔を誘われた。

(相変わらずだな。あれ? なんか雰囲気違うと思ったら……)

 よく見れば唇には薄く引いた紅が。その主張しすぎない淡い色は、白い肌にとてもよく合っている。

「ん? ああ、これか? 張遼の奴がつけていけとうるさくてな。性に合わないんだが……変じゃないか?」

 両手で顔をぺたぺたと触りながら言う。

「ははっ。いいえ、よくお似合いですよ将軍」

「むぅ……本当か? まぁ、また立ち話をしているのもあれだ。あとは……食いながらにしよう」

 前回と似た仕草で背後の店を指し、再び笑う。

 大人の顔で子どものような屈託のないその笑みが、やけに印象的であった。

 

 

「そこで私はだな、振り切ったその勢いを……おい、聞いているのか?」

「ええ、聞いてますよ。勢いを殺さずに斧を回転させて敵を真っ二つ! 大将を失った敵軍は総崩れ。ですよね?」

「? なんで先を知ってる」

「なんでって……」

(そりゃあ、もう何回も聞かされてるし)

 いつもより少しばかり豪勢な料理と、ここ二ヶ月ほどお目にかかれなかった酒の類が、カウンター型の卓の上にずらりと並んでいる。が、どれもあまり手をつけられてはいない。話が弾んだからだと言えば聞こえはいいが、

(こんなに酒癖悪かったのか……)

 官軍の将軍様は酒に弱いわけではなかったが、入ると話が止まらないという悪癖の持ち主であった。よほど上機嫌なのかすでに討伐軍大勝利の講談は五度目の公演を迎えている。

「しかし、お早いご帰還でしたね」

 機を見計らって話題を変えようと試みる。いい加減千秋楽というものだろう。

「雍州も見て回るとのことだったので、もっとかかるものとばかり思ってましたよ」

「まぁ、実際大きな戦は初戦のみだったからな。お前、前に会ったときに太守様を疑ってかかっていただろう? 何のことはない、素晴らしい御人だったぞ。戦が早く済んだのもあの方のおかげだ」

 言って酒を注ぎ足していく。どんどん増えていく酒量にちょっとした危機感を覚えつつ、

「董仲穎様ですか」

 大和は呟くように返した。

 

『争うのではなく、理解し合おう』

 

 羌との小競り合いを繰り返す北方の馬家とはまさに対極的なそれは、彼女の両親が打ち出した対匈奴の基本方針である。

 言葉にすればなんとも陳腐であるが、驚くべきことに西平太守とその臣はそれを粘り強く実行し、一定の効果を得ることができた。娘である月もこの考えを継承し、積極的に融和政策を進めてきている(地方太守が国防の重大事項を決定できるあたり、この国の支配力の弱さを物語ってもいるが)。

 であるから、そもそも今回も匈奴全体としては彼女と戦う意思を持っていなかった。

 今回の不正官吏との内通も、彼女の融和政策の割を食った、又は不満を持った一部部族による独断専行。初戦で彼らが完膚なきまでに叩き潰された理由の一つに、期待していたほどの援軍が得られなかったという点は外せない。

 勝利後は部族間の調整に任せ、口出しは最低限に抑える。洛陽の官軍が雍州を回って帰還した目的は、戦ではなく――それが諸侯にどの程度の効果があるかはともかく――“来るべき長征への訓練”という軍事パフォーマンス。

 討伐行が短期間で終了したのはひとえに董仲穎の匈奴内での高い人望、即ち仁徳の賜物であった。

 

(あの娘は「自分のせいで戦が起こった」とか思ってるかもしれないけど)

 杯に口をつけ、一気にあおる。

 

『この国の人達みんなが幸せに暮らせるようにしたいです』

 

 月明かりの下、少女が語った夢。

 それは口先だけのものではない。董仲穎は実際に行動し、夢の実現へと懸命に努力しているのだ。匈奴討伐の顛末はそれを十二分に物語っていた。

「どうした? せっかくの就職祝いだというのに元気がないじゃないか。っと、それもらうぞ」

 漬物に箸を伸ばしつつ、興味があるのかないのかわからない調子で聞く。

「いや、働いてるといろいろありましてね」

「それは当然だろう。なんなら私が相談に乗ってやってもいいぞ。今日は気分もいいしな」

「え、華将軍が……ですか?」

「他に誰がいる。……おい、私では力不足と言いたいのか?」 

 否定しようと横へ顔を向けると、箸を置き、不満を隠そうともせずに見てくる銀髪美女。切れ長の瞳にはいささか険があるが、それも魅力の内に入るだろう。スラリとした肢体は全体のバランスが良く、締まるところは締り、かつ女性らしさも消えていない。少なくとも前の世界ではお近づきになれなかったであろうレベルの高さだ。酒で紅潮した顔や胸元の色っぽさに、大和は数瞬余計な思考を巡らした。

「これでも相談事では評判がいいんだぞ私は。皆『お前を見ていると悩んでいたのが馬鹿らしくなってくる』と言ってくれるし」

 自分の容姿など欠片ほどしか意識しない将軍は、さもありなんといった様子で口の端を上げる。

(それは褒められているのだろうか。けど……)

「ん?」

(この人に話を聞いてもらうのはいいのかもしれない)

 

 空になった杯に酒を注ぎつつ、田伯鉄は悩みを語りはじめる。

 

 

 

―・―・―・―・―

 

「北門の修繕の手腕、話を聞くに実に見事なものだとか」

「ボク達は都にしがらみが無いから、それで上手くいくのだと思います」

「短期的に見れば、そのやり方で正しいのでしょう」

「ええ。都に長居するつもりもありませんし」

 

 上っ面をなぞるようなやり取りに、宋典はいい加減疲れを感じてきていた。彼が客人・賈文和を屋敷に上げたのは半刻ほど前であったが、するべき話については全く進展を見せてはいない。

 互いに必要な存在であることはすでに分かっている。後はどう切り出すか。問題があるとすればそれだった。どちらかが頼み、もう一方が答える。実際には相互依存の協力関係になることが予想されるが、今後を考えるのなら出だしというものはあらゆる意味で重要である。

(都の女も大概だが、涼州もそうなのかね)

 一切手をつけられていない美酒佳肴を見て口をへの字にする。

 主導権をめぐる牽制にも見えるふざけたやり取りは、宋典にとって茶番もいいところであった。そもそも彼にとっての最良を目指す選択肢は董仲穎との協力(これ)しかない。少なくとも宋典はそう確信している。

 それなのに面倒なやり取りを挟むのは「信頼の置けない人間が大幅な譲歩を見せても警戒されるだけだろう」という賈文和への配慮からだった。

「どうしました? 宋中常侍」

「心遣いなど要らなかったなと。いえ、こちらの話です」

 酒に唇を湿らせて杯越しに見る。ニヤリという表現がぴったりな意地の悪い顔が、卓を挟んだ向こうにあった。

(……この女なら都でも生きていけるだろう)

 心の内に吐き捨てる。

 実際、彼女は優秀だった。

 洛陽で建設事業をやる際に問題となるのは何よりも金。そして金だ。かつて宮殿の修繕に関わった宋典はそれをよく知っている。"都の伝統ある手順"で修繕を依頼すると、彼らは仕事を丸投げして委託料のキックバックを受け取り、丸投げされた下請けも工賃以上の請求をして孫請けに投げる。トドメは現場の丼勘定だ。河北大和が「そういうもの」として受け入れた違和感のある文明発達は、元来の汚職と相まって都の産業を複雑化させていた。

 ところが洛陽の北の二門の一つ、穀門の修繕は、低予算かつ素晴らしい速さで進んでいる。これは都ではまずあり得ないことだった。宋典が受けた報告によると「賈文和は規定の手順は用いず、現場で働く人足を直接雇用して幾つかの組に分け、浮いた金の一部を賞金にしてお互いに競わせている」とのことで、これには彼も「実に上手いやり方だ」と素直に感心させられた。

 もちろん「そこが自分のシマでなければ……」という思いとは全くの別ものとしてである。

 

 官僚が担当役職に関わる団体とズブズブの関係になるのは、宦官の台頭以前からの都の古き良き伝統であり、彼もご多分に漏れずその伝統を受け継いでいる。仕事の斡旋の見返りに金を得るのは官僚の特権、ひいては重要な収入源である。言うなら、宋典は建設の畑の人間だった。

 今でこそ中常侍として業界から離れてはいるものの――いや、中央で出世したからこそ、旧縁を頼って彼の屋敷の門を叩く者は多い。宋典が賈文和の北門修理の補佐役を仰せつかったのも、そもそも彼が宦官として劇的な出世を遂げたのも、建設業界との人脈と彼らの金の影響抜きには語れない。そんな彼らが今回のような大口の仕事を見逃してくれるはずはないのだ。

 賈文和の英断のおかげでかなりの迷惑を被っていると言っていい。修繕の計画修正の時機を考えるとそれすら真意をはかる為のものだったのかもしれない。

「しかし滞在を楽しんでいただけているようで何よりです。もう名所旧跡も回られましたか?」

「はい、洛陽には"古い"友人もいるので」

「それは……何よりです。都には食べ物に服飾、書籍など目を引くものが沢山ありますからね。けれど、他にも見どころはあります」

「と言うと?」

 

「政治です、賈文和殿」

 

 洛陽北部尉の問いかけに宋典は口火を切る。

 もう後戻りは出来ない。

「興味はお有りで?」

「ええ、とても」

「あぁそれは良かった。私もそんな気がしていたんです」

 年頃の娘のような(実際にその通りなのだが)笑顔に宋典は苦笑した。

『柄でもない』

 それは誰に対してのものだったか。

「では、基本的なことから話しましょう。洛陽の政治勢力は大きく分けて二つあります。張譲を筆頭とする十常侍と外戚の何進達です」

「他人事みたいに言うんですね」

「そうであったら、と思わないこともないです。極稀に」

 宋典は肩をすくめてみせた。

「とにかく、この二つの対立が都の政治の基本構造になっています。けれども実際はもっと複雑です。なぜなら――」

「政治派閥とは別に、思想勢力がいる」

「まさに」

 

 都特有の女尊男卑思想

 洛陽の政治を複雑にしている最たる要因はそれだった。

 外戚と宦官、それぞれの派閥に属している女性文官達。その中でも特に選民意識の高い保守派――俗にいう『行き遅れ』の人々。男である両派閥の長に対しどれほどの忠誠心があるのかなど、聞くだけ無駄だろう。

「彼女達は協力し、或いは裏切り、利を貪りつつ決着がつかないよう巧みに政局を動かしています」

「党錮のときのように弾圧することは?」

「あれは彼女らの内輪揉めを利用したからこそ上手くいったのです。良くも悪くも女性文官の象徴的存在ですから下手は打てません。それにあれもやるべきではありませんでした。党錮の禁以来、こちら側についた者との癒着も激しく、盲目になっている者がほとんどです。これでは現状の打開など望むべくもない」

「打開……」

 少女の目が細められる。

「つまり洛陽を変えたいと?」

 言われて席を立つと背中が汗ばんでいることに気づく。危険な橋は何度も渡ってきたが、それらのときとは質の違うものが己を満たしている。そう宋典は感じた。

(ともあれここが正念場だ)

 失敗すれば全てが水泡に帰してしまうだろう。

 纏わりつく不安を感じながら、大きく息を吸う。

「信用出来ないというお気持ちはお察しします。経歴や評判を鑑みてもそれは当然でしょう。栄えある十常侍の一人にして誇るべき母の酷い失望。それが私です」

 内に渦巻くものに比して、自身でも驚くほど穏やかな声が出ていた。

「しかし、仮に私が利を貪る悪だとしても、この現状を変えたくない理由があるでしょうか? 蚊ですら死にかけの牛より健康な牛から血を吸うことを選ぶでしょう。況や人間をや」

 そして正面に賈文和を見据え、

「改革こそが私の望みなのです」

 静かに結んだ。

 自然と口をついて出た言葉は、理詰めを良しとする彼には考えられないものだった。特に最後の一節など説得と言うよりも最早懇願に近いだろう。激情に支配されたそれは宋典にとって大きな失敗。

 しかし、だからこそ人を動かすということも、ままある。

 僅かな、宋典にとっては気の遠くなるような時間の後、

 

「ここからは……私が伺います。宋中常侍様」

 

 小鳥のさえずりのように声が響く。

 正面の少女からではなくその隣、傍らに微動だにしなかった彼女の護衛からだった。

「ゆえっ!?」

 賈文和が驚いた様子で声の主を見る。

 ゆえと呼ばれた護衛は、呼応するように目深に被った兜を脱ぎ……その重さでよろけながらも立ち直り、とにかく申し訳なさそうに言った。

「ごめんね詠ちゃん……でも、やっぱり私がお話しないといけないと思うから……」

「ゆえ~~~」

 情けない声を出しながら、糸の切れた人形のように崩れ落ちる洛陽北部尉。

 ガラリと雰囲気が変わったが、宋典は気づかない。彼は信じられないといった面持ちで鎧姿の少女を見ていた。

「まさか、貴女が……」

「はい……匈奴中郎将の董仲穎です」

 少女は童女が鞠を抱えるように兜を抱きながら、おずおずと衝撃的な名乗りを上げる。

 

 

 

―・―・―・―・―

 

「ふぅ」

 杯を空けて深く深呼吸。卓に両肘をついて目を閉じれば、久方ぶりのアルコールが心地よい浮遊感を与えてくれる。外はもう大分暗くなっていた。秋冬の夜は入りが早く、そして長い。

 

 

『いいか伯鉄。私の軍には騎士が多くいる』

 

 大和の話を一通り聞いた後、華雄から発っせられたのは唐突な一言であった。

『あの、騎士というのは?』

『徴兵とは違って、戦うことを生業とする者たちだ。そんなことも知らんのか?』

『すみません……』

『まぁいい。彼らは何のために騎士をやってると思う?』

『ええと……国を守るため、とか』

『大義はな。……んくっ、ん、ぷはぁ……。けれど二六時中そんなことを考えてるわけでもない』

 杯から離れた唇は、どこか皮肉を湛えていた。

『大志を抱き、それだけを己の力に変える。お前が目安にしているのは大人物だよ。私だってそんなことはない』

『……華将軍はご立派ですよ』

『はははっ。お前はどうも私を英雄か何かだと勘違いしてないか?』

『そうですかね?』

『そうだとも。大志は行動するもとになる力だが、その……あれだ。全部ではない。国を守るために軍人となったなら、力をつけるのも国のため。それが望ましいのだろう? ところがだ』

 一度ずらした目線を戻して、

『私が今、力を求めているのは、かつて敗れた女を見返したいが為だったりする』

 そう言って苦笑し、酒瓶の残りを杯に空けた。

『それにだ。お前は腹が決まりきらないといっているが、それも恐らく間違いだ』

『間違いですか……』

『詳しくは知らないが、為すか為さないかで迷っているのだろう? なら私が決めてやる。止めておけばいい』

『え?』

『止めておけと言ったんだ。これで解決だろう』

『いや、でも』

『なんだ、やりたいのか? なら、やればいい』

 顔こそ酒に赤らんではいるが、表情は真剣そのもの。意図せずとも滲み出る武人の気迫に、大和は黙りこむ他なかった。

『お前は迷ってなんかいないさ。不安で、それで他人の後押しが聞きたいだけだ』

『……なるほど』

 頭を殴られた思いだった。

 やりたきゃやれ。嫌ならやめろ。責任転嫁はするな。

 乱暴だが実に核心を突いている。

『その……なんだ』

『え?』

『またキツイ言い方だった。……すまん。見てくれだけ女っぽくしてもこれではいかんな』

 ばつの悪い顔で杯を置き、はははと大きく笑う。そこに先の険しさはない。

『いえ、魅力的だと思いますよ』

『なっ……な、何を言ってるんだ馬鹿者!』

 他意はなく自然と出た言葉であったが、しかしそれに対する返礼は、背中への強烈な平手打ち。

『いっつぅ……』

『自業自得だ』

 言いながら目の前の皿に箸を伸ばす。「照れ隠しもも可愛いですよ」と軽口を叩く余裕はなかった。冗談抜きで、痛いのだ。

『でも、将軍。ありがとうございます』

『ん?』

『なんだか少しスッキリした気がします』

『……叩かれてか?』

 華雄は言いながら、店主がにやけ顔で差し出す酒瓶を乱暴に奪う。

『ははっ。違いますよ。とにかく、ありがとうございます』

 いつかの日のように背中をさすりながら、大和は礼を言った。

 

 悩みに対する華雄の答えは「色々と考えすぎだ。しっかりしろ」という酷くシンプルなもの。他の人間に同様のことを言われたなら「もっと真剣に考えてくれ」などと不満も出てきそうなものだが、華雄という人物の人となりを少しでも理解していればそれはなかった。回りくどいことが大嫌いな彼女は、常に単純明快な答えを好むのである。

(なるほど、相談事が得意というのもあながち嘘じゃないのかもしれない)

 その将軍様はというと、隣の席ですやすやと寝息を立てている。あの後、お礼を兼ねて大和が酒代を出すこととなり、流れで呑み比べとなった結果であった。先に聞いた武勇伝と繋がらない寝顔に、田伯鉄は微妙な面持ちとなる。

 彼女には今回も助けられた。そう思っていいだろう。

「しかし、ダメダメだな俺は」

 手酌した酒に映る己の顔を見て、息を吐く。酒臭い風にぐにゃりと波打ったそれは、実に情けない顔であった。(これ)をいくら飲めたところで、大人である保証にはならないのだ。

 

 何のために生きるのか。

 何がしたいのか。

 

 日々を精一杯に生きている人々を目の当たりにしていると、大和はそんな根本的なところを問われている――あるいは突きつけられている気がしてならない。

 なんとなく行かなければならない気がして大学に進学。勉強にバイトの日々。誘われるままに特に興味もなかったサークルに入った。

 

(あのまま何事もなくあちらにいたとして、一体自分はどうしたんだろう)

 

『まだ先のことだ。卒業まではかなり時間がある』と自分を誤魔化してきてはいたが、大学という四年の猶予期間(モラトリアム)の間に"何か"を見つけられたとは思えない。

「はぁ……」

 光が強ければ強いほど、影の暗さは際立つ。大和にとっては董仲穎も、賈文和も、田元皓も、みんな眩しすぎた。これまでの自分が卑小な存在に思えてくるのだ。そしてそれは事実だとも思う。

 本当に、笑える。

 見つめ直すほどに中途半端で不出来な自分。元の世界ではそのことについて何の感情も抱くことはなかった。少なくとも、そう思いこむことはできた。

 路地を吹き抜ける風に、戸が音をたてる。いつしか店内は静寂に包まれていた。

 

(どうしてこうなったんだろう)

 

 前触れ無く異世界に飛ばされて、何やら大事に巻き込まれる。

 そのことではない。最早そんなことは大した問題ではないように思えた。先ほどまで心地よかった酒の余韻は、もうそこに無く、ただ情けなさと悔しさが渦巻いている。

 かつては燃えていた時期があったはずなのだ。それこそここの人々にも負けないくらいに。

 夢を掲げ、それを直向きに追い求めた。

 日々努力し、自分に足りないものが何なのか探し、鍛え上げ――これまでの人生の半分以上を夢を求めることに費やしてきた。

 そんな自分が自身に期待しなくなったのは二年前の夏。

 行き着いた先は「結局のところ足りなかったものは才能であった」というありふれた結論。

 

 河北大和は燃え尽きた花火だった。

 失敗を恐れるつまらない自尊心と、徒労を言い訳にした怠惰。

 蓋を開けてみれば何の事はない。それがここ2年間の自分の全てだったのだ。

 

『いいか、大和。技術は日々進歩するんだ。例えば今、ウリにしてるこの商品だって数年後は分からない。現状維持なんてのは停滞以外の何物でもないんだ』

 今思えばあれは普段無口な父なりの叱咤だったのではないだろうか。

(わかってるよ親父。わかってる)

 自嘲に郷愁、様々なものが溢れでてくる。どうも感情のブレーキが弱まっているらしい。きっとこれのせいだ。と、陶製の杯を捧げるようにして乾杯の形をとる。

 両親や友人たち。

 彼らと再び酒を酌み交わせる日は来るのだろうか?

 不安がなくなったわけではないが、それでも――。

「前に進むしかない、か」

 能動的な決意とは違う、多分に諦観が入った想い。それでも一歩は一歩である。

 

「ん、んうぅ……」

 目線だけ動かせば、美白を紅潮させた女将軍が悩ましげな声を上げていた。

(……これは目に毒すぎるな)

 しかし、どうしたものだろうか。大和としてはそろそろ帰らなくてはいけないが、軽く肩を叩いても彼女は起きそうになく、送ろうにも屋敷の場所が分からない。常連であるらしいし、店の主人に任せてしまうという手もある。

「さて、どうしようかね」

 

「そこは男ならさ。お持ち帰りしちゃうべきでしょ」

 

 不意にかけられたのは、からかうような声。

 

「やっぱり? こんだけ無防備だとね……ってそんあわけあるかっ! 大斧で割り殺される」

 見れば将軍と反対側にある店の入り口には、男が一人。

「あはは。ノリがいいね。あ、おじさん、僕もお酒一つね。あと適当におつまみ」

 小太りの男は席に座ると、年齢が判断しづらい顔を人懐っこい笑みにかえて、

 

「隣いいかい? ひとり酒じゃ面白くない質だからさ」

 

 箸をかちかちと鳴らしながら、そう言った。

 

 田伯鉄は西平太守の陪臣、洛陽北部尉の直臣として表舞台に姿を現す。

 彼の名が正式な文献に載るのはここから。

 

 新たな歯車が噛み合うことで、繰り返された歴史は本来の流れから大きく外れていく。

 変革の時は近い。

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