【ネタ・習作】夢の欠片   作:へきれきか

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二章 洛陽
第01話 小さな一歩と大きな一歩


 後漢王朝の都洛陽。

 北に黄河を、南に洛河をひかえた交通要衝の地で、前漢の都長安と並んで都城が古くからひらかれた場所である。

 光武帝が“力強い女性達”に支えられて新を滅ぼした後、西周時代の成周城、東周王城、前漢時代の洛陽城のあったこの地に新都を建設して百五十年以上が、諸侯会議が招集されなくなり、中央が孤立し始めてからすでに五十年が経過しようとしていた。

 度重なる局地的な天災に、頻発する地方の自分勝手な勢力争い。まさに終末の退廃的な匂いが漂う中、王朝はぎりぎりの所で権威を保っている。とは言え、もちろんそれも利用されるための道具でしかなく、それさえ長くは続かないだろう。それが大方の見方だった。

 王朝の権威――大義名分が必要とされているのは、未だ国に匹敵する勢力が存在しないからであって、決してその求心力からではない。打倒漢朝を掲げて周辺勢力に袋叩きにされるよりも、敵の粗を探して国に賄賂を渡し、あるいは近隣の勢力と謀って「漢朝のために!」と叫んだほうが賢明であるというだけのことである。

 そうやって地方勢力の統合が進めば何が待っているかといえば、独立離反に内乱。少なくとも王朝側(現体制)にとっては明るい未来が待っているとは言い難い。

 すでにその萌芽も見え始めていた。例えば名職とは別に実職として渤海太守兼都尉に就いている袁紹は、周辺に影響力を強めて実質的に冀州を取りまとめつつあるし、その妹である袁術も本来の領地に加え、孫家を保護、支援するという名目で江東を手に入れている。その孫家の没落の要因となった劉表と彼女らの戦も、互いに大義を掲げての私戦という有様であった。そうした動きの中で最たるものが、陽城侯劉焉である。

 彼が国に認めさせた州牧の制度は、簡単に言うなら州を統括する長官を置くというものだった。これは結果的に勢力の統合、大規模化を進めるものであり、現に彼自身、益州牧となって一帯を支配。独立のために力を蓄えている。

 地方勢力がじわじわとその版図を拡大させていく様は、野に放たれた炎の如く。風でも吹こうものなら、一息に中原を飲み込んでしまうに違いない。

 およそ歴史には転換点というべきものが無数に存在し、後漢においては今がまさにそうした一つ。それも最後の一つであった。ゆっくりと、しかし確実に腐り落ちてきている大木。口さがない人々がそう評した政治の膠着状態は、冬の底冷えの中、来るべき春を待ち望んでいるかのように見える。

 大きな変化を起こすのに、なにも大人物である必要はない。例えるなら、弩に張られた矢が指先の動き一つで放たれるのと同じで、時と人、それに天運が加われば、たとえ凡人であろうとその役目は十分に果たせるのだといえる。彗星の如く登場した一人の男の存在は、たしかに洛陽を混乱させていた。

 この混乱がもたらすものが善いものとなるのか。それとも死に体の王朝にトドメを刺すものとなるのか。

 こればかりは蓋を開けてみないことにはわからない。ただ、何もしなければ“弩”が自壊してしまうだろうことは明らかだった。既に弦は限界まで引き絞られている。

「そうだ。変化は必要なのだ」

 誰に言い聞かせるでもなく男は言う。

 街のどこか慌ただしい雰囲気は、単に春節の準備をしているからというわけではないだろう。車窓からそうした都の町並みを眺めながら、混乱の中心にいる一人、中常侍・宋典は朝食代わりの餅を喰らっていた。

 百式はまさに彼の期待通りの働きをしている。男子復権を掲げ、自分達十常侍はもちろん董仲穎を介して大将軍の側にも通じる男。波風が立たないはずがない。

(後はこちらがそれを活かさなければ)

 恨めしげな視線を向ける孤児に通り過ぎざま、食いかけのそれを放おる。

 混乱は一時的なものだろう。孫璋、董卓達ともそういう見解で一致していた。池に投げ込まれた石は波紋を呼ぶが、それがいつまでも続くわけではない。僅かな間に都の勢力図を一新する必要があるのだ。孫璋ほどとはいかないまでも、慎重かつ大胆な行動が求められている。

 そういう意味では先の会談の成功は大きい。何しろ十常侍の一人、郭勝を味方に引き込むことに成功したのだ。皇后、大将軍と同郷の男というのは今後色々と役に立つ。

(とりあえずは、といったところか)

 餡のついた親指を舐ると、寝不足の頭に糖が染み渡る感覚を得た。

 彼は郭勝の寝返りを当然だとすら思っている。十常侍と一纏めに括られてはいるが、その力は決して横並びではない。筆頭格の張讓、趙忠の二人が生きている限り、都で喧伝されているように「何でも自由になる」わけではないし、加えて郭勝は何皇后を皇帝に薦める――つまり外戚勢力誕生の原因を作り出すという失態を演じている。冷や飯を喜んで食う人間が十常侍にいるはずがないのだ。

(夏惲が死んだのは予想外だったが……まぁ、悪いことではない)

 流れる景色から目的地が近いと判断し、宋典は思考を中断した。

 車から降りると、乾いた風が木の葉を転がして音を立てる。身体をなでつける木枯らしに思わず肩を竦めた。

「旦那様。お客様のようですよ」

 御者に言われるまでもなく、屋敷の門前に数人の男たちが白い息を吐いているのが目に入る。官服の男が一人。残りの四人は武装していた。抜膊(ばつひ)腿尾(たいび)を除いた胴だけの鎧ではあるが、各々短めの槍を携えている。

(……何かあったのか?)

 正規兵のものとは明らかに違う彼らの装備に宋典が身構えたのも無理はない。蹴落としてきた政敵に、数えきれないほどの不正の数々。そして今まさに進めている策謀。心当たりが多すぎる宋典は、足を早めて門へ向かい――来客の正体を知って少し安堵した。

「宋中常侍様」

 黄土色の官服を着た男は、洛陽北部尉の臣、田伯鉄であった。新進気鋭の算術家は白い息を吐きながら礼をして、手紙を恭しく差し出す。実に下手くそな礼と愛想笑い。どこにも仕官していなかったというのは本当なのだろう。宋典は思った。

「主、賈文和からです。穀門の周辺施設の修繕も概ね終了したので、本格的に治安回復に乗り出したいと……」

 かじかむ手で書簡を取った宋典は、

「外はお互い寒いだろう。どうぞ中へ」

 自ら門に手をかけ提案した。田伯鉄と話すのは初めてではないが、いつも賈文和を交えての会話である。一度二人で話してみたい。前からそう思っていたのだ。

「ええ、しかしあの……」

 

『百式は面白いやつだったよ』

 

 少しばかり強張った表情に見えるのは、困惑と恐れ。

 悪友が言っていたことが思い出された。自分相手にこのザマなのである。これではあの男にいいようにからかわれてしまっているに違いない。長年その被害を受けてきた彼は、田伯鉄に同情の念を禁じ得なかった。もちろん、かつての賈文和のときと同じで「助けてやろう」などとは思わないのだが。

 返事を待たぬまま入ると、仕方なくついてきた様子の大和に椅子を勧め、

「賈文和殿はお元気か?」

 自身も椅子を引きながら聞く。

 質問にさしたる意味はない。洛陽北部尉とは毎日のように顔を合わせているのだ。風邪などひいているはずがないし、涼州の女がそんなひ弱とも思えない。

「はい。北門の修繕も滞りなく。ただ……」

「ただ?」

「春節を洛陽で過ごすことにはご不満の様子です」

 彼女らしい。宋典が僅かに微笑むと、つられて笑う田伯鉄。外で見た愛想笑いとは違う、自然な表情のように思えた。

(なるほど。賈文和の話も全てが嘘というわけではない……のかもしれないな)

 彼女と彼の関係がどれほどのものか。

 孫璋が表向きに話してくるような下世話な興味からではもちろんないが、今後のことを考えるなら確かに気になるところではあった。ただの駒なのか、それとも……。それに百式の素性について、彼も思うところがないわけではない。

 田伯鉄は妹である田元皓と同じく冀州は鉅鹿(キョロク)郡の生まれというが、国の統制力の衰えもあって朝廷では司隷外の戸籍は把握しきれておらず、これは確かめようがなかった。

 学閥から交友関係を洗おうにも、どの学派にも属しておらず、師匠も兄弟弟子もいないときている。半年を遡る痕跡すら一切見つからないのだ。まさしく正体不明。本当に存在しなかったのだからこれは当たり前の話だが、当人と妹以外、そんなことは知る由もない。

 賈文和が宋典にした説明によると「田家の庶子として生まれた田伯鉄は、母親に連れられて大陸各地を流浪。その母の喪に服した後、涼州で董家に食客として数年間滞在しており、その縁で自分達とも親交があるのだ」と、いうことになっている。

 そんな「さっき思いつきました」的な内容を信じろと言うのは無理な話というものだが、

(嘘も主張し続ければ真実になり得る、か。結構なことだ)

と宋典は茶をすすった。少なくとも百式の身元その他で手を煩わせられることはないだろう。

 気になる存在は田伯鉄のすぐ側にもいる。沈黙を守っている彼の妹・田元皓だ。そもそも百式を見出したのは彼女だったはずである。二人が兄妹だとは彼は信じていない。

(まぁ、彼女が私達のような“悪巧み”をするとも思えないが……百式に一番近い人間でありながら積極的に動いていないというのもおかしな話か)

 茶を注ぐ家人に礼を言う男を、宋典はじっと見やる。

 異母兄妹だからと言われればそれまでだが、やはり似ていない。公称している年齢もおかしい。来年で三十というが、少し若すぎる気もする。

(氣の使い手であるなら話は別だが……)

 いずれにせよ、田伯鉄の身元を保証する人物は全員が全員、彼がここ数カ月の間に"都合よく再会した"人間ということになるわけで、

『賭けに勝ったと思ったらまた綱渡りだよ~』

 という孫璋の嘆き節も楽しそうな顔を除けば理解できることだった。

「……頭が痛くなるな」

「え?」

 慌てた様子で振り返る。

「いや、こっちの話だ。それより――」

 百式が見ていた先を探ると、そこにあったのは書斎であった。美麗な調度品の中、一際目を引く汚らしい本棚は彼の感傷。多くが母親から受け継いだか、宦官になる前に手に入れたものなので、つまり、今読み直すとさらに頭が痛くなる内容ばかりが入っている。

 宋典は静かに立ち上がると、自ら部屋の戸を閉めた。

「すまない。開いていると冷えるだろう。あの部屋が何か?」

「え、ええ、私も妹も本好きなので、ちょっと気になって。すごい量ですね」

「残念ながら算術のは一冊もないがね。君が出版したら買ってあそこに入れるよ」

「ありがとうございます」

(……ふむ)

 孫璋の言う「面白い」と同じものを指しているのかどうか宋典には分からないが、彼にとってもやはり百式は奇妙な人物であった。謎の半生ももちろんだが、田伯鉄という人物それ自体にも腑に落ちない点が多い。

 人の顔色をやたらと気にし、自身の能力にも懐疑的。正直なところ宋典の個人的な印象としては凡人のそれに近い。実際、最初に顔を合わせた時に「本物が別にいるのではないか?」と、替え玉を疑ったほどである。

 しかし、賈文和の評価や期待が、他でもない“彼”に向けられていることに気が付かないほど馬鹿でもない。そしてそれが疑問を大きくする。

 悪友の孫璋には底が見えない一種の不気味さがあるが、理解できないという点では百式も彼にとって同じであった。人格と能力がちぐはぐで違和感が凄まじい。

 話し込んだが、とうとう何も掴めずに終わる。

 

 

「そうだ、折角だから何か本を貸そうか? 腐っても十常侍だ。なんだったらここにない本でもいい」

「えーと。あ、では水鏡先生の本で儒学の基礎ってありますか?」

「それなら、何冊かあるな。子供に儒学でも教えるのかね」

「いえ、からっきしなんで勉強しようと思いまして……」

「……そんな君がじきに尚方令に就けるとはね。まったく都は改革のしがいがあるようだ」

「ははは……」

 

 

 

―・―・―・―・―

 

「ってことは、え? 宋典に論語も暗唱できてないってバレちゃったわけ?」

「そこまで笑わんでも……」

「ああ、その場にいたかったわ。あのキツネ、どんな顔してたのかしら」

 くくくっと声を殺して笑うは、都で名が売れつつある洛陽北部尉、賈文和。つい二週間前にその臣となった大和は、その隣を行く。

「……やっぱりまずかったですかね」

「そんなことないわ。協力者に嘘はつくべきじゃないもの」

 よく言うよ。とは口に出して言ったつもりはないが、それでも「何?」と振り返るあたりはさすがに鋭い。

 二人が大通りを横切ったのは昼過ぎ頃であった。

 平城門から南宮へと伸びる大通り。これを挟んで東側は太尉府、司空府などが並ぶ官庁街であり、その北には貴族の邸宅が集中する永和里や歩広里がある(宋典の屋敷もここにある)。彼らが向かっているのはその反対の西側で、こちらには居住区や商業地区が広がっている。行き先はその中にある田家の屋敷近くの商店街であった。

「そういえば、あの傘ってどうなったの?」

「かさ?」

「うん。もうすぐ出来るって言ってから大分経つじゃない」

「ああ、ジャンプ傘ですか。可動部の耐久性の問題がどうしても解決できなくて――」

 身振りを交えつつ、百式は若きパトロンに説明をする。

 ジャンプ傘の構想は私塾を開いてから少し、かなり早い段階で上がっていたのだが、未だに実現できずにいるものの一つだった。竹の傘にバネの仕掛けを組み込むだけ。仕組みとしては単純なのだが、バネの強さ、親骨と受骨の接続部の強度など、難しい点は意外と多い。特にバネは「ダメだったからもう少し弱めのお願い」と言ったところで、すぐに次が来るはずもない。現代人にありがちな“使いこなせるが仕組みをあまり知らない”という欠点も足を引っ張った。

「――で、埒が明かないってことで、外部から絡繰技師を呼ぶことに決めたんです」

「専門家に頼むってわけね」

「はい。豫州を中心に活躍した技師です。腕は確かみたいですよ」

「活躍“した”?」

「え? ああ、その……なんでも実在人物の、しかも高位の人の絡繰人形を勝手に作って売ったりしたとかで、今は干されてるらしいです」

「……大丈夫なの?」

「恐らくは」

 まだ手紙でしかやり取りはしていないが、噂にあるような問題人物とは思えない。しかし、上手く言いくるめられて契約前に設計図を送ってしまったことは黙っているべきだろう。大和は未だ眠気のとれない頭でそう判断した。

 こっぴどく説教されるのは目に見えているし、そのおかげで相手の信用を得ることが出来たのだから結果オーライ。春先には試作品を持って都へ来ることになっている。

(本当に騙されてたら……まぁ、その時にまた考えればいいさ)

 金稼ぎは二の次。今直面している課題の方が優先順位は上である。

 そうこうしている内に、目的地へと到着した。

 通い慣れたそこは最早学院のシマとも言うべき場所で、二人は行く先々で声をかけられる。賈文和はすっかり馴染みとなった店の人々に笑顔で挨拶を返していた。どうやら相当機嫌がいいらしい。

 思い当たるふしはいくつかあるが、一番の理由はやはり董中郎将の洛陽入城の日取りが決まったことだろう。と、大和は目星をつけていた。

 年明けの話ではあるが、とうとう彼女も太白から董卓へと戻る時がきたというわけである。彼としては少し寂しい気もするが、今までの状態が異常だったのだ。本来あるべき姿に戻すべきだろう。「優秀な助手だからもう少し貸して」などと目の前の眼鏡っ娘に言えるわけもない。それに賈文和の臣である田伯鉄にとっては、董仲穎もまた主なのだ。

「で、ご機嫌の理由の仲穎様の話ですが……その、軍を引き連れて来るってのは本当ですか?」

「うん、三千程ね。城の北に陣を張ることになるわ」

 鮮やかな幟の立つ店先に立ち止まり、目に止まったのであろう飾り物をいじりながら言う。寒さで赤みがかった頬が少女らしさを際立たせた。

(やっぱりご機嫌の理由は否定しないのか)

 予想通りの答えに大和は苦笑するも、すぐにそれは消える。気まずい夢のせいで董卓に会いたくない、というわけではない。第一、それが理由なら目の前の上司もそれに該当するだろう。

 

 大将軍と宦官

 董卓と洛陽

 

 予備知識と状況の部分的な一致がそうさせるのだ。

 大和は彼女の軍の洛陽入り(城の北なので正確には入城しないが)に対して漠然とした不安を抱いていた。演義にかぶれた彼が二つのキーワードで否応なく連想させられるのは、専横からの反董卓連合、長安遷都と洛陽焼失、そして董卓殺害の流れである。

 董卓はもちろん、酒の席で華雄に聞かされた呂布の人柄からも「そんな非道いことを彼女らがするはずはない」とは彼も思っている。

 けれど、「この先似たような酷い状況になるんじゃないか?」とも思うのだ。

 夏、殷、周、春秋戦国、秦、前漢、新、そして後漢。この世界の歴史は、文化史を除くと国の成立や大まかな流れなど、ほぼ大和が知るものと同じであった。大きな事件も意味内容が変わりこそすれ、同じように起こっている。例えば党錮の禁の発生理由が「清流派の追い出し」ではなく「自らの正流を疑わない女性保守派内の対立」であったように。

 単なるタイムスリップとは違うと確信しつつも、董卓が討伐対象とされる未来を彼が想像しないわけがなかった。親しく付き合ってもいるのだから当然である。

 あるいは完全なる“部外者”が関わることで、定められた流れは変わるのかもしれない。彼が知るその手の小説や漫画でも、そうなる場合が多い。が、自己が介入することで良い方向へ持っていけると確信出来るほど自惚れてもいない。

(こんなんじゃまた怒られるだろうな)

 銀髪の将軍を思い起こす。彼女なら「心配に思うのなら、そうならないように全力を尽くせばいい」などと身も蓋もない持論を述べるだろう。

 そしてそれは言い訳できないくらいに正しい。

 つまり、そう。

 結局のところ河北大和が抱いているのは心配などではなく、信念と実際対応能力に欠ける小物故の恐れなのだ。

 その事実が歯痒い。

「伯鉄」

 呼びかけに自分が顰め面をしていたと気づき、慌てて直す。

「何でしょう」

「大丈夫よ。上手くやるわ」

 先の質問の意図に気づいていたのか、少女は白い息を踊らせながら言った。

「もしかして不安なの? 先生」

 続く声、挑戦的な目つきにはあからさまなからかいが見て取れる。

(ああ、これは)

 彼女流の激励なのだと大和は理解した。

 だからこそ、いつもの様に冗談で返す。

「ええ、不安ですね。頼り甲斐のある女性にときめいちゃう程度には」

「じゃあ――」

「まぁ! 言っても贈り物を買っちゃう程じゃないかもしれません」

「さすがに同じ手じゃだめね」

 わざとらしく舌打ちをして後ろ手に持った飾りを店頭の箱へと戻すと、先ほどと同様にまた先を行く。

 その様を見て、彼女らに関してとんだ思い違いをしていたものだ、と大和は思う。董卓と賈駆。初めて出会ったときには対照的な印象を受けたが、何のことはない。どちらも優しいお節介やき。似た者同士だったといえる。

 置いてけぼりを食らうまいと足を速め、

「……俺も頑張ろう」

 彼女らの為はもちろん、何より自分の為にも。他にも理由はいくらでもある。動かなければならないし、動きたいとも思うのだ。

 ちらと振り返った顔は、笑っているように見えた。

 

 

 その日の夕刻。金市の料理屋『雒陽厨房』の一席に、田伯鉄はいた。

「ああ、遅れてごめんよ。猥談で忙しくてさ」

 そう言いながら入ってきたのは十常侍の一人、孫璋である。

 雪国の女のように色白の男だが、既に酒が入っているのか外の寒さからか、頬を火照らせている。以前この場所で会った時と同じように、大店の店主のような格好をしていた。

「……えーと、まぁどうぞ」

 迎えるように杯を手渡すと酒の匂いをまき散らせつつ、大和の左に座る。

「おいおい、本当の話なんだよ? 誰々が誰々に作らせた張形は材質がどうでとか……くだらない話のお相手するのも仕事だからさ」

 にたつきながら嘘か本当か分からない話をして、その中身を干す。そうして熱い風呂に浸かったときのような声を出すのに対し、大和は冷静に、

「で、一体何の用で呼び出しを?」

 貸切状態の店からも、重要な話なのは明白だった。

「冷たいな~。楽しく酒を飲んだ仲じゃないか」

「けど、十常侍の一人だとは知らなかった」

 非難めいた物言いにも、孫璋は腹をゆすって笑い声をひびかせるだけであった。

「ちゃんと別れ際に言ったじゃない。あの後どうだった?」

「何もないよ。家まで連れて帰って、それだけ」

「本当に? 聞いた噂と内容が違うなぁ」

「……勘弁してくれ」

 相手のペースに呑まれるまいと決意してきたものの、それもここまで。

 孫璋の言う都で囁かれている噂。気にならないはずがなかった。ここのところ外を歩いていると、ヒソヒソと陰口を叩かれる場面が多いのである。とくに若い娘が多いのだが、注目すべきはその内容だった。

『え? あんな男なの?』

『趣味悪いわね』

『どこがいいと思ったのかしら、将軍様は』

 心当たりは一つしかない。あの晩――彼が孫璋と出会った夜のことである。結局へべれけに酔った華雄に肩を貸したりおぶったりして田家の屋敷まで連れ帰ったのだが、どうもその事実が脚色されて広まっているらしい。大和としては、出来ることなら「何もなかった!」と声を大にして主張したかった。

 幼い妹と清純の化身とも呼べる少女がいる家に、酔わせた女――それも人間を唐竹割りにするような女将軍を連れ込み、いたずらする。

 それは狂気の沙汰というものだろう。

(多分、原因は文和様あたりだろうな)

 その予想は大方当たっていた。

 華雄を泊めた次の日の朝、「董卓と顔見知りである彼女が太白と鉢合わせする」という最悪の事態こそ避けられたものの、こそこそと裏口から帰したりしたのが別の意味でいけなかった。彼女は親友に“気を利かせて”報告し、それをその親友――賈文和は「売名行為に使える!」とばかりに利用したというわけである。

 噂好きの宦官は箸で魚を割りながら、なおもニヤついている。

「本当に何もなかったの?」

「しつこいな。妹の家に女を連れ込んでお楽しみ。なんてするわけないだろ」

「おっ、じゃあ自分の家ならするんだ」

 正体が割れても相変わらずの男の様子に、大和はうんざりしたようにため息をついた。宋典の苦労もわかるというものだ。

「揚げ足取りはやめてくれ」

「はははっ、でもそういう世界なんだよ。君が足突っ込もうとしてるとこはさ」

 これには大和も返す言葉がない。

 孫璋は切り身を口へ放り込むと、行儀悪く咀嚼音をさせながら、

「気をつけたほうがいいぜ」

「……分かったよ。覚えておく」

「違う違う。こっちだよ」

 と、酒を注ぐ大和の袖を、箸の持ち手側でつまみあげる。

「汁がつきそうだったからさ」

 大和は人を食ったようなこの男と、今朝会ってきた男が同じ十常侍だとはにわかに信じられなかった。

『君が会ったそいつは仲間の一人だよ。信じられないことにな』

 宋典のため息混じりの肯定がなければ、きっと今も疑っていたに違いない。

「用事っていうかさ、話をしておこうと思ってね」

 その男が正面を向いたまま、襟元を正しながら言った。

「話?」

「そう、話。これからのことだよ」

「どうして文和様を通さずに直接こちらに?」

「君が仲穎ちゃんの家臣だってことは知ってる。で、学院を中心とした派閥の長だってこともね」

『もちろん、君が決定権のないただの人形ならその必要も無いんだろうけど』

 口にこそ出さないが、そう続いているかのように大和は感じた。自己嫌悪からの被害妄想なのかもしれないが。

「概要は聞いてるんでしょ?」

「それはもちろん」

 都を一つにまとめて軍備を整え、周辺の争いに介入して影響力を取り戻していく。

“言うは易く行うは難し”の典型のような難題である。難しい顔をしていると、それを何かと勘違いしたのか、

「今まで何も手を打ってこなかったわけじゃないんだよ?」

 まぁ、言い訳になるけどね。孫璋は自嘲を酒とともに飲み込んだ。すでに二杯目である。

「洛陽の政治がいくらどうしようもない状態だとしても、誰も危機感を抱かなかったはずがないんだ。軍事改革の話は以前から出ててね」

「ああ、たしか騎士制の導入もその一環だと」

 大和は噂のお相手との会話を思い返した。今なら彼女が「そんなことも知らんのか?」と呆れていたのも理解できる。地方に先立って試験導入された常備軍の構想は、改革の肝の一つだったのだから。

「そう。で、問題はお金だった。八軍を組織するとなるとさすがにね。都は金があるように見えて、実はそうでもない。利権団体と賄賂。恩恵に与っておいて言うのもあれだけどさ」

 何をするにも全てに関わってくる経費の問題。それは意外な人物の出した信じられない案で解決した。

 即ち皇帝自ら考案した売官制である。

 皇帝――劉宏の商売好きは大和も噂に聞いたことがあった。お店屋さんごっこをやるのが趣味というのだが、皇帝ともなるとスケールが違う。後宮に京都の映画村よろしく市場のセットを組み立てて商品を並べ、宦官や宮女相手に遊んでいるらしい。

「評判は悪いけど信じられないほど金が入ったんだあれは。君なら分かるだろう?」

「最低価格だけ設定して、あとは競売だったんだ。男と女の取り合いとかで価格は釣り上がるし、正当性が欲しい地方勢力からも集金できる」

『いろいろな部分に目をつぶれば』という条件付きではあったが、たしかにそれは都と国の実情から考えても一番効率のいい金の集め方だったと思える。

「ホントあの商才とやる気をもっと――おっと、これ以上はまずいね」

 聞く人が聞けば首と胴がお別れしそうな話題を笑い飛ばした。その孫璋が手を叩くと、奥に引っ込んでいた店主が追加の料理を慣れた様子で運んでくる。常連なのは間違いなさそうだった。麻婆豆腐や回鍋肉といったこの時代に存在していたか疑わしい料理に舌鼓を打っていると、

「ここの料理美味いでしょ」

「たしかに」

「味以外も信頼できるからオススメだよここは。で、さっきの続きだけど――」

 孫璋の話は宋典から聞いたものとほぼ同じであった。

 いよいよ軍制の改革が本格的に始まろうかというとき、十常侍の一人郭勝が発言力の拡大を狙って后を皇帝に紹介し、后の進言で何進が王城に上がる。外戚と宦官。最初のうちは上手くいっていた両者の関係は日増しに悪化していき、何進が軍のトップに就任したとき、対立は決定的なものとなってしまった。

「話を進めれば軍の発言力は大きくなるからね。改革後の軍は基本的に後宮外の案件――肉屋のおっちゃんの領分さ。それが嫌なんだよお偉いさん達は」

 わざとらしく肩をすくめてみせる。

「けどそれって結局自分の首を締めることになるんじゃ……」

「案外都には未練がないのかもしれないよ。地方からすれば中央が混乱していたほうが都合がいいし」

「内通者がいると?」

 大和は箸を止めて男を見た。

「そんなにジッと見ないでよ。ついてないからってそっちの気はないから。あ~、でも紹介くらいなら……いや、分かったよ」

 孫璋は大和の無言の抗議に失笑し、傍らの空いた杯に酒を注ぎつつ、

「おかしな話でもないでしょ? 沈みかけた船をどうにかするよりも、さっさと他を探したほうがいい。そう考える人もいるのさ」

 はい。と、差し出された酒を大和は一息に飲み干した。

(わざわざ対立を煽った人間がいるだって?)

 そんな馬鹿な話があるだろうか。真摯に問題と向き合っている董卓のことを思うと、酒とともに熱の感覚が身体を駆け巡る。それは久方ぶりの怒りだった。孫璋はそこにはあえて触れず、

「そこで僕らの出番というわけさ」

 にこやかに揉み手しながら言った。

 外戚と宦官による協力体制の構築。

 その先触れの役目こそ田伯鉄に与えられた使命である。

「どうするつもりかもう一度聞いてもいいかい? できれば君の口から聞きたいんだ」

 口調は変わらないが、言外に強制力を感じ取られた。しかし、すでに宋典とは何度か会合を開いており、その内容は彼にも伝わっているはずである。今になって何を聞こうというのか。表情からは何も読みとれない。

「どうするって……」

 結果、口をついて出た言葉は想像以上に情けない響きとなって孫璋の苦笑を誘う。その様子に再び少しムッとして、

「聞いてるとおり男子復権のために動くだけだよ。それを中郎将様や――」

「別に今更変えなくたっていいでしょ」

「あんた達が利用する。そういう話だったはず」

「その通り」

 孫璋は指を鳴らした。

「核心はその男子復権ってのをどうやって実現するのか。そこさ」

 

『いい? 伯鉄。まずは男対女の構図で脅しをかける。次に、実は改革派対旧体制こそが狙いだということを示して逃げ道を作るの』

『怖がらせたあとに安心させるってやつですか』

『まぁ似たようなもんね。手綱はしっかりと握っておきなさいよ』

 

 軽い目眩とともに記憶が明滅する。普段のそれと違う点は、それが彼の知る記憶であるという点であった。

「……正面から対立するのは避けるべきだと思う。目的は男子の復権であって、女子の排斥じゃないんだ。もしかすると想像以上に味方を引き込めるかもしれない」

「味方ねぇ」

「女性保守派の中でも強硬な――俗に言う“行き遅れ”の人達は、呼び名の通り結婚もしないくらい男を嫌ってる。重要なのは彼女らが高位についてるってことなんだ」

 洛陽において二千石以上の官位はほぼ女性に独占されている。男にとっては被差別の象徴とも言える状態だが、そこにこそ突破口はあった。

「子どもがいない以上は誰か他に後を継がせるしかないし、それだけじゃない。そういう人間が上役になったとき、求められる立ち居振る舞いってのも自ずと決まってくる」

「つまり、栄達や保身のために男嫌いを騙ってる女も相当数いると。ま~あり得ない話じゃないね。地方から上がってくるのもいるし、全員が全員未婚ってわけでもない。……なにより男を捨てる男がいるんだから、女にそういうのがいても不思議はないかぁ」

 己の股間に目を落とし、皮肉たっぷりに嗤う。

「彼女らにとって大切なのは信条じゃなくて保身。それと立身出世。なら今回みたいな政界再編は、危機であり、そして好機でもある」

 ひょっとすると向こうから接近してきてくれるかもしれない。そういう期待が大和にはあった。自分達も強硬になってしまえば、そんな可能性も潰れてしまう。それはもったいなく思えたし、何より争いを激化させても得るものはない。上司の計画の方針にも反する。

「いい線いってると思うけど、それだけじゃ弱い。女の子が味方についてもいいかな~と思わせる何かがなきゃ」

「それは……そのとおりだと思う」

 それも考えないわけがなかった。男子復権を掲げている以上、どうしても女性からの風当たりは強く、そんな場所に彼女らが気軽に来れるわけもない。誰だって裏切り者呼ばわりされたくはないだろう。

「水鏡女学院に手紙と論文を出したから、その返事次第では改善されるかもしれない。少なくとも排他的というわけじゃないと世に訴えることはできる」

「荊州の才媛か。いいんじゃないかな。彼女は分別のある人間だと聞いているし」

 美人だとも聞いてる。そんな言葉が続きそうな顔を浮かべて、

「その問題に関しては僕も協力できるかもしれない」

 孫璋は懐から書簡を出しながら言った。待ってましたとばかりの態度に大和は、

「もしかしてその話のためだけにこんな長々と?」

「年寄りが若輩者によく使う手だよ。一緒になって考えていくフリをして、最終的に自分の求める答えに導く。現に、ま~、この豚の話を聞いてやってもいいかな、という気にはなってるでしょ?」

 それをわざわざ話すのもやり方なのだろう。大和は呆れと警戒の混じった目で男を見た。豚と形容するほど太ってはいないようにも思うが、まじめに指摘する気にはならなかった。

 その男が差し出した書簡を開くと目に入ってくるのは“太史令”の文字。それが官職の一つであり、算術にも深く関わるところだというくらいの認識は彼にもあった。

「君への恋文だよ」

 文面には論文さえ提出してくれれば算術家、天文家として認めること。希望があれば計算等の技能大会を開けるように協力することなど、願ってもない提案が並んでいた。しかし、すぐにおかしな点に気づく。それらには「代わりにこうして欲しい」といった条件が何一つ書かれていないのだ。

「ただってことはないと思うんだけど……」

「彼女らだって無いところから取ろうとは思わないって」

 つまり対価は彼らが支払うということなのだろう。

「内容を聞いても?」

「大したことじゃあないよ。この国は儒学ばかり贔屓されてるでしょ? こっちもお願いしますと、そういうこと」

「じゃあ、それで出来た研究機関とかに俺も入るのかな」

 国に仕える学者になれば書庫も閲覧できるかもしれない。帰還の方法を探すのも幾分楽になるだろう。しかし、そうなると学院はどうなるだろうか。大和がそんなことを考えていると、孫璋は何かを堪えたように身体を小刻みに揺らし、そしてとうとう吹き出した。

「何言ってんだい百式さん。協力と改革の象徴なんだからもっと上に行ってもらわなきゃ困る」

 その様子に大和は面食らう。「何言ってるんだっ」とは彼の台詞だった。もっと上どころか、じきに拝命することになっている尚方令ですら不安なのである。

 田伯鉄の役割がイコンだということは彼も理解している。尚方令に就かされるのもその道の先達・蔡倫を倣ってのことだと聞かされた。しかし、目の前のそれで手一杯で、さらに上など考えたこともない。そんなことになれば、

(きっとボロが出るに決まってる)

「いいかい先生。官吏の逮捕・弾劾ってのは、その身分が二千石を超える場合、皇帝陛下の許可が必要になってくる。ってことはだ」

 意地の悪い笑みを浮かべて、指を鳴らす。

「外戚と宦官で天子様の周りを固める以上、君がその身分になれば無敵ってことになる」

「だから――」

「人の話は最後まで聞くもんだよ」

 両手を使って大袈裟に遮る。

「ところが君は実務の経験に乏しく、人脈も多くない。であれば、だ。上官も属官も持たなくて、なおかつ身内の中で完結する仕事が望ましい」

 経験に乏しくとはずいぶん控えめな言い方だと大和は思った。実際は皆無に近い。だからこそ無理なのだ。

「ことが全て終わった後、疎まれて暗殺なんてのも嫌でしょう? うん、なら任期もなるだけ短く出来るのがいいね」

 最早、大和には目の前の男が何を言っているのか理解できなかった。

 二千石以上の身分です! 経験不問! 上司も部下もいない気楽なお仕事です! 短期OK!

 そんな官職があるわけがない。実家近くのコンビニで時給千円超えを探すくらい無意味に思えた。

 しかし、続いた言葉に彼は凍りつく。

「肉屋のおっちゃんが姪っ子の先生はどうだと言ってくれててね。あれなら全部の条件を達成できる」

「おい、それって……」

「太子太傅。皇太子の教導役だよ。やったね! 僕より高給取りじゃあないか!」

 肩を叩いてくるのを無視して盃を干し、改めて聞き返すが、孫璋は笑顔で見返すのみ。

「……勘弁してくれ」

 急激に酔いが覚めた頭を抱えながら、百式は呟いた。


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